あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2017年02月

ここをもって、愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化に依りて、久しく万行・諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る、善本・徳本の真門に回入して、ひとえに難思往生の心を発しき。しかるにいま特に方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり、速やかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲う。果遂の誓い、良に由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。
(教行信証化土巻)


善悪のふたつ総じてもって存知せざるなり。そのゆえは、如来の御こころによしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、よきをしりたるにてもあらめ、如来のあしとおぼしめすほどにしりとおしたらばこそ、あしさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。
(歎異抄後序)



南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏



~~~~~~補足~~~~~~

改めてご説明しますと、毎年2/26には●「親鸞会」と題した記事を書いてきました。

卒「親鸞会」
超「親鸞会」
忘「親鸞会」
転「親鸞会」
今回は、 離「親鸞会」 と題しました。

いろいろ考えた結果、やはり南無阿弥陀仏だなあということで、今回はこのような形式にしました。

他のブログでは、いわゆる「聖典」の言葉に対しては現代語訳や解説などを載せる場合が多いのですが、当ブログは私の味わいを載せるだけにしております。現代語訳をご所望の方は、他の方の書かれたブログや書物等でお調べ下さい。

ようやくといいますか、しばらく続いた関西出張が一区切りつきまして、関西と関東を往復する日々からは落ち着いたあさ川です。思えば、今住んでいるところを何週間も(実質的に)離れて暮らすというのは、学生時代に免許合宿で東北地方に滞在していたとき以来かも知れません。

そういえば当ブログ恒例のシリーズもあと一週間でした。昨年はかなり前から考えていたタイトルを土壇場でひっくり返して別のタイトルを付けていたわけですが、今年はまだ何も決まっていません。


さて、以前にも話題に出したことを(久しぶりなので)しつこく話題にするのが今日の記事であるわけですが、私が社会人になって一年ほど経った時、当時の学生の後輩たちにあてた文章を(改めて)紹介します。


当時を振り返りますと、

大学院二年の夏に、未来の見通しも暗く悶々としていた頃にふと縁あって、
親鸞会に対して本尊論ブログをぶつけて、しばらくやりあって、閉鎖して、
悶々とした状態で社会人になって、でも学友部からは出してもらえず、
社会人になってほどなく弥陀の本願を喜ぶようになった、

というような経緯の中で、社会人生活も一年を過ぎようとしていた頃、当時の学友部の担当講師から「支部に移籍して引き続き元気な姿を見せてほしい」と言われて移籍することになりました。


もう十年前の話です。


弥陀の本願を喜びながら親鸞会にいた私は、後輩たちに親鸞会の活動で疲弊して南無阿弥陀仏とのご縁が離れてしまっては勿体ないという話を常々していたのですが、あまり会うことも無くなるのだろうという思いもあって、送別会に際して後輩たちにあてたのでした。


その後輩たちも、数年は元気な姿を見せてくれてはいたのですが、私が親鸞会にいる間に、ほとんどの後輩は姿を見せなくなりました。私の至らなさもあったかもしれません。
親鸞会の外ででも、南無阿弥陀仏のご縁にあってくれていれば良いが、とも思いながら居るところです。

あれから十年、早いのか長いのか分かりませんが、十年経ってしまったのだなあと思いました。
昔話というほど昔でもなかったですね。


ちなみにブログ開設して間もなく紹介した時の記事はこれです。



========(以下、当時のメール)========

2007年2月10日 午前2時42分*****************
S(講師部員) 様

あさ川です。
今日の送別会は仕事でご縁ありませんので、
とりあえず一言お送りします。

だいぶ長くなりました。
あと、若干誤解を生むかもしれないところもあるかしれません。

急ぎだったので、文章が乱雑なのはご容赦下さい。

=================================

今日は送別会を開いてもらいましたが、仕事で参加できず申し訳ない。
いないついでに話をしておきたいことを全部書こうと思いましたがやめておきます。

学生の皆さんは、もうすぐ新入生を迎える季節ですね。
そこで、人生の目的は大切だと話をする。数年前は、目的をはっきりさせて
学生生活を充実させようなどという話をしていたこともありました。
皆さんは、目的がはっきりしていて充実した学生生活を送っているでしょうか。
いろんな人があるかしれません。

今まで見てみると、親鸞会の学生さんは、いざ就職となったときに、
もうバリバリに進路が決まっている人もあるのですが、
結局どういう仕事に就けばいいのかわからないで途方に暮れてしまう人も少なくないよう
な気がしました。
「人生の目的がハッキリする」と言う話を人にしているような人でも、
自分の「どう生きる」は、なかなか難しいのだろうとも思います。

弥陀の本願は、すべての人を相手にされています。
すべての人ということは、どんな人生を送っている人でも
弥陀の本願の目当てになるということです。

自分の命は仏法のために捧げると言って学院に入る人も、
そこまでの覚悟はないけど聴聞のために公務員になるという人も、
自分のやりたい職業で夢を追いかける人も、
なんとなくサラリーマンな人も、
弥陀の本願の対象です。

十方衆生相手の弥陀の本願ということはしつこいくらい聞いていても、
なかなか自分相手とはピンと来ないものです。

親鸞聖人は、「邪見きょう慢の悪衆生、信楽を受持すること甚だ以て難し」と言われます。
一方、蓮如上人は「こころえやすの安心」とも言われています。

私は一年生の時、

「人生の目的達成は『難中の難』とも言われるけど『易中の易』とも言われるのだ」、

という話を先輩から聞いていたのですが、しばらくその意味はさっぱり分かりませんでした。


愚禿抄には

「一難疑情 二易信心」

といわれ

「難者三業修善不真実之心なり 易者如来願力廻向之心なり」

と親鸞聖人は言われています。

弥陀の本願の側からすれば、助かるために私が何をすることもないわけですから易と言われているようです。
にも関わらず、弥陀の本願を疑って掛かって、自分で計らってしまうので難と言われているわけです。

弥陀の本願はすべての人が相手だということは、弥陀の本願に制限はないのですが、
私たちは勝手に「こうしなければ弥陀は助けてくれないだろう」「こうすれば助けてくれるかも」
と、はねつけてしまうのです。

真剣に聞けば聞くほどそうなってしまいます。
ただ、それが行き過ぎると
「自分は弥陀の本願を聞く資格がない」といって、自分で弥陀の本願の対象外と決めつけて
弥陀とのご縁を無くしてしまうとすれば、残念なことです。

自分の問題になってくると、
毎回聴聞に行かないようでは助からんとか、
御報謝は何十万としなければダメで無かろうかとか、
すべての時間を仏法に費やしてこそ求道者だとか、
友人を百人くらい二千畳に連れて行くくらいでちょうど良いとか、
うまいもんに金を使うくらいなら御報謝だとか言ったモードになったりします。

ちなみに私が学生時代というのは、まさにこういう傾向がありました。

ただ、その場合、
そういうことができる人とできない人がいます。

学生時代はともかく、仕事なんか始めた日には必ずしも日曜が空くわけではありませんので
「仕事なんか世間のヒマだ」と投げられる人はともかく、
そうでもない人は、御法座にご縁のないこともあり得るわけです。

できる人しかダメとなると、できない人は弥陀の本願の対象外になってしまいます。
こんなのを弥陀は十方衆生とは言われませんし、親鸞聖人や蓮如上人が「易」と言われるはずもありません。

誤解する人は無いと思いますが、
聴聞がどうでもいいとか、御報謝なんかせんでいいとか、
そんなことを言いたいのではありません。

弥陀はすべての人を対象にされているのに、
自分で勝手に、自分は弥陀に助けてもらえないと思ってしまうのは勿体ないということです。

できないときに、できないと言ってそこでやめてしまうのか、
開き直ってしまうのか、
次の機会に向けて前向きになるか、
それは自分で選択することです。


思い悩むことも今後あるかしれません。
一人で抱えて一人でやめるのもその人の勝手といえば勝手ですが、
愚痴でも言える人がいて、言ってすっきりするなら話をするのも一つの方法です。
その相手が私でもいいです。
・・・

まだ足りないのですが、土曜も仕事なのでこの辺にしておきます。
長くなってしまいましたが、皆さんの仏縁をお念じ申し上げます。

あさ川です。
「おおきに」ってなんとなくいいなあと思う今日この頃です。


さて、すでにご本人がコメントで書かれてましたが、前回の投稿文に対してのコメントをご縁として、RCさんから投稿文をいただきましたので掲載します。


ちなみに私からコメントするとすれば、投稿文へのコメントに対して私から積極的にお返事することは(マイルールに基づき)しておりませんが、ご本人が必ずしもすぐにお返事しなければならないというルールも存在しませんので、投稿文を書いたらコメントへのお返事も必ずすぐに書かなければならないということではありません。

もっとも、せっかくいただいたコメントに対しては可能な範囲でお返事するのが良いと思いますので、私の記事に対してのコメントには、基本的に48時間を目安にお返事するように心がけてはおります。


========(以下、RCさんからの投稿文です)=======

RCです。

先日、「3月5日の埼玉恵日会のご案内」をさせて頂いた時に、勉強会の質疑応答の内容や 私の感想を述べさせて頂きましたところ、いろいろ コメントを頂きました。

それにつきまして 少し考えがまとまったので
文章にさせて頂きました。

まず、たとえ 元親鸞会会員であっても、親鸞会への思い、真宗への思いは、人 それぞれ違うと思います。

私には、私の思いがあり、私の思いに従って行動しています。
今は、埼玉恵日会に皆さんをお誘いしています。 そのことを評価される方、批判される方、無関心の方など いろんな方が、いらっしゃるのは、当然だと受け止めます。

私は、南無阿弥陀仏のお話しを、ご縁にある方と いっしょに喜びたいという気持ちで、埼玉恵日会をやっています。
真宗の教えは、素晴らしいという気持ちからです。
質疑応答の内容を紹介させて頂いたのも、「こんなお話しなら 聞いてみたい」という方がおられるかもと、思ったからです。


親鸞会との関わり方は、誰もが、難しいと感じていると思います。
私の大切な友人が 今も、親鸞会にいます。
私が親鸞会を辞め、正しい南無阿弥陀仏のお話しをお聞きしてから、その友人に 会って 話しをしました。
友人には、「自分は 親鸞会の他では、親鸞聖人の教えを聴聞することはできないって思っていたけれど、そんなことは、なくて 親鸞会以外にも、親鸞聖人の教えを聞けるところは、たくさんあるよ」と、伝えました。
でも、友人の心の中では、高森会長が 唯一の善知識なのです。ネットの情報などを見ることを勧めてもそういう方向には、進みませんでした。
また、地元の親鸞会館へ行って、会員の方に声をかけてたりしても、私の話しに耳を傾けては、もらえません。
親鸞会会員は、高森会長を信じているから、親鸞会会員でいるのです。
その信心を崩すのは、 簡単では、ありません。

以前 ある僧侶の方に、親鸞会への批判的な文章にその方のお名前を載せてもいいかどうか お聞きしましたが、その方は、
「友人の僧侶が、説法で、 親鸞会を批判したら、親鸞会から 訴えられて 裁判所から度々呼び出されてしまい 布教どころで、なくなってしまった人がいる。布教活動ができなくなるので、それはやめてほしい」と言われました。

私自身も、親鸞会に30年以上もいて、間違ったことを聞かされ、「必堕無間」に怯えて
人生の 大切な時間と、たくさんのお金を犠牲にしてきました。ですから 現親鸞会会員に、親鸞会の間違えを伝えて、正しい南無阿弥陀仏のお話しを聞いて欲しいです。
でも 難しいです。

今、あさ川さんのブログをお借りして 正しい教えの場、埼玉恵日会があることを紹介することが、今の私にできる親鸞会に対する行動だと思っています。

ある先生が
「人生とは(南無阿弥陀仏の物語の上に)
自分で 、自分の納得できる物語を作っていくこと」って おっしゃっていました。

私にとって、埼玉恵日会は、「私が 納得できる物語の一つ」です。

ですが、
埼玉恵日会のお話しや、私の言動に、納得出来ない人がおられるのも、当然だと思います。

無理に納得してくださいと、お願いしているわけではありません。

埼玉恵日会では、納得できない方は、納得できるどころでお聞きするのがいいと思います。
ご自分で納得できる勉強会をされてもいいかと思います。

南無阿弥陀仏を喜んでおられても、感じ方や考え方は、同じにならないのは 仕方ないと思います。

私が勉強会の内容をご紹介しましたのは、いいなって思われる方に参加して頂きたい気持ちだけで、読まれた方 皆さんにこの話しを納得して欲しいと、思った訳ではありません。

批判コメントをくださる方のご意見の内容はわかりましたが、だからと言って私が その方の考えと同じ考えにならないのも、仕方ないと思います。

真宗は、「自是他否」の教えではないとお聞きしました。

「私の考え」も 、そういう考えなのかと受け止めて頂けたら、と思います。

それから
私は、こういう文章を作るのに とても時間がかかってしまいます。
私へのコメントで 質問を頂いても それに、お応えしていると、日常生活が 混乱してしまいます。
ですので、申し訳ありませんが、私の投稿文へのコメントには、お返事出来ない場合もあるとご理解頂きたいと思います。

先生への質問や疑問は、
私のアドレスに、「埼玉恵日会への質問」という形で メールをください。
埼玉恵日会で 先生に、お尋ねします。

私のアドレスは
rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
アットマークは、@に変えた下さい。

よろしくお願いいたします。


南無阿弥陀仏

最近はずっと関西にいるせいか、関西のイントネーションに慣れてきたあさ川です。

さて、仕事繁忙を理由にブログを放置してしまっておりましたら、たくさんのコメントをいただいておりました。今日確認したら34件の未読コメントがありました。投稿文に対しては基本的にお返事しないというマイルールに基づき、特に個別のお返事は差し上げないかわりに、久々に少しだけ更新します。


いただいたコメントについては理解が追いついてませんので、単純に私の味わいを少しだけ書きます。


私が埼玉慧日会で話を聞いている限り、労組運動で感じるような社会運動を云々ということは特に感じませんで、皆さんの質問に基づいて南無阿弥陀仏の話、そして親鸞会の教えているところの違いなどのお話です。


さて、聖道の慈悲云々ということについて親鸞聖人は、コメントをいただいているとおり三部経千回読むというお話はよく知られているところです。その親鸞聖人ほどの方も悩まれるほどの問題だなあと思います。親鸞聖人は最終的には、やはり南無阿弥陀仏をお伝えすることだといわれました。一方でその悩みの強さは、衆生済度あるいは世の中を見渡したときに感ずる様々な苦悩を見て、なんとか助けたいという親鸞聖人の強いお気持ちの表れだろうとも味わわれます。人間の問題と言いましょうか。


あと、本願寺はじめ既成の仏教集団が親鸞会を正さなかった云々の話です。まあこれは30年以上前に、西本願寺が親鸞会の教義批判を行っていたということは周知の通りですが、あのまま親鸞会に対してもっと徹底して批判を加えていてくれていたならどうだっただろうか、という思いは私もあります。ただ、どこかのサイトで見たような記憶のある表現を用いるなら「親鸞会は自ら浄土真宗でないと宣言をしてしまって本願寺が呆れて相手をしなくなった」ということですと、この展開は分からなくもないです。

といいますのは、「仏教は無諍の法」とどこかで聞きます通り、他の宗教を大々的に批判あるいは否定をしないのが仏教だと味わっているからです。どこか小さいところはやってるかもしれませんが、たとえば某宗教のように、異教徒の国を征伐しに行ったりするという話は聞いたことがありません。そのように考えますと、浄土真宗というカテゴリで認識されていたなら「親鸞聖人の仰せ」を基準に教えをただすということはできても、「その他宗教」と認識されたら基本的には親鸞聖人の埒外だからです。もっとも、親鸞会は浄土真宗を名乗っているので、浄土真宗として既成の真宗集団がきちんと正してくれないと、ということかもしれませんし、確かにそれは私もかつておもっていたところではあります。

あと、仮に既成の真宗集団が親鸞会を正して親鸞会が無くなったとして、今南無阿弥陀仏を喜んでいらっしゃる親鸞会にご縁のあった方々皆が皆、今南無阿弥陀仏を喜ばれていたかというと、私は必ずしもそうではないだろうと思ったりもしております。少なくとも私は違ったので無いか。それは私がいつも書いていることでもありますが。


それも含めて、南無阿弥陀仏とのご縁は、親鸞聖人や歴代の善知識方、皆さんとのご縁あってのものだと味わわれたのでした。


まとまってませんが、今日はこれまでといたします。

あさ川です。

メールのやりとりをしている方があるのですが、なかなかお返事できておらず失礼しております。
(私事ですが、ここしばらく出張が続いている間に体調を崩してしまいました)


さて、次回の埼玉慧日会について、RCさんから案内の投稿文を頂きましたので掲載します。今回は、前回のお話の内容も書いて頂いています。さすがにこの頃には出張が終わっているといいなあ、と思いながら、ご縁を待ちたいと思います。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========


こんにちは。
RCです。

3月の埼玉恵日会の ご案内させて頂きます。

3月は、熊谷駅直結のティアラ21 の会議室が取れました。
今後も、なるべく ティアラでの開催を考えておりますので、是非 ご都合をつけて、参加 頂けたらと思います。


●埼玉恵日会 の勉強会

日時: 3月5日(日曜日)
14:10~17:00

場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室 2
(熊谷市男女共同参画推進センター)

講師: 阿部 信幾 先生(本願寺派補教 )

参加費:2000円(ご法礼と、会場費に遣わせて頂きます。)です。

勉強会は、今まで通り、質問形式で進めていきますので、先生に お聞きしたいことや、深く教えて頂きたいことが、ありましたら、私に メールで、送ってください。

アドレスは、
rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
アットマークは、@に変えた下さい。
です。

頂いた質問は、プリントアウトして、阿部先生に 郵送します。
質問の締め切りは、2月25日(土)までと、させていただきます。

よろしくお願いいたします。

それから
せっかくですので、
前回の勉強会での 質問と応答を2つ、紹介させて頂います。

(問い①)
親鸞会時代に、
「たとい大千世界に満てらん人をも過ぎゆきて、仏のみ名を聞く人は、ながく不退にかなうなり」
という親鸞聖人のお言葉を高森会長から聞き、 相当 無理をして 富山まで 聴聞に行っていました。
この話しで、高森会長は「仏のみ名」とは、「仏教」である と話していました。
「仏教とは、真剣に仏教を聞けということだ」
という言葉は、何か迷路に入ったような気持ちになっていました。
親鸞聖人が おっしゃった正しいみ心をお聞きしたいです。

(応え)
これは、もう 答えが出ていますね。
「 経に 聞というは 衆生、仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし。」と、教行信証の信の巻の 本願成就文釈 にあります。
無量寿経の「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」のご文です。
無量寿経は、18願が 中心という人が いますが、18願ではなく、18願成就文が 中心です。
18願成就文が、無量寿経の中心です。

阿弥陀さまが 「本願を起こしてくださったこと」が、要(カナメ)ではなく、
阿弥陀さまが 「もう本願を 成就して 阿弥陀さまが、はたらいているんですよっていうこと」を、お釈迦さまが、告げてくださったのが大無量寿経です。
だから、大無量寿経の中心は、本願成就文 です。
18願成就文には、
「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」
其の名号を聞いて、信心歓喜すること、乃至一念せん。とあります。
その成就文釈 が、教行信証に、
「経に、聞というは 衆生 仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし。これを 聞 というなり」

親鸞聖人は、「仏のみ名」を「仏教」などと 大雑把な言い方はしていません。
「名号のいわれを聞く」と おっしゃっています。
名号のいわれ とは、南無阿弥陀仏のいわれ です。
南無阿弥陀仏のいわれについて、蓮如上人は
「我らが、往生の定まりたる証拠なり」と、
おっしゃっています。
「定まりたる」は、現在完了の言い方です。
「定まった」と 言ったら 過去形。
「定まる」と 言ったら 未来形。

「定まりたる」の 現在完了形は、
「いつでも 決まっている」ということです。
「今、既に 決まっている」、何が というと、
「往生が 決まっている」。

「南無阿弥陀仏 が、我らが往生の定まりたる証拠なり」というのは、
「私を 往生せしめるはたらきが、もう はたらいている ということを、私に告げるのが 名号です。」ということです。

名号 とは、本願成就 です。
本願が 成就しなかったら、仏と名乗らないと いう誓いが、成就したから 「阿弥陀」と、名乗っているのです。
本願が成就したということは、もう 既に、阿弥陀さまは、48願の通りに はたらく 仏様に なっているということです。
48願の通りに、もう はたらいているぞ と、私に知らせるのが、南無阿弥陀仏 の六字の名号です。
私たちは、何を 聞くのかというと、南無阿弥陀仏のおいわれを聞くのです。
「ご文章」は、全部 そうなっています。

「信心獲得す というは、第18の願を心得るなり。この願を心得るというは 南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」と言われています。

18願を聞くことではなく、
「南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」
だから 18願成就の名号のいわれを聞くことです。
名号のいわれ は、難しいことではありません。
「もう、阿弥陀さまは、はたらいているんだよ」っていうことです。
「阿弥陀さまが はたらいているんだよ」と聞くから「私のはからいは、要らなかったのですね。」と なるのです。それが、疑心あることなし です。疑心は、はからいです。
だから、はからいが 取られるのです。
なぜ、はからいが取られるのかというと、阿弥陀さまが はたらいていると いうことが、信じられたからです。
「はからっている人」というのは、「目には、見えない阿弥陀さまなんて、信じられません」という人です。目に見えないと信じられないけど、「南無阿弥陀仏」となって、届いているのです。

南無阿弥陀仏を疑っているのです。
本願成就を疑っているのです。
本願成就を疑っているから はからうのです。
念仏 称えて参ろうとか、一生懸命、真剣に努力して お聴聞して、信心 頂いて参ろうとか・・・。

阿弥陀さまは、はたらいているのです。

もう、阿弥陀さまは、はたらいているのに、
今さら 聴聞して 信心頂いって・・・。
何 考えているですか?

聴聞て、何を聞くのですか?
「阿弥陀さまが はたらいていること」を聞くのです。
聴聞が、目的ではない。
聴聞は、手段です。
何の手段かというと、「阿弥陀さまが、はたらいていることを聞く手段」が、聴聞です。

聴聞が、目的になったら エライことです。

「聞く」って、「何か聞かせてもらうのですか 」ということについて、「仏教」などと、そんな いい加減なことを 親鸞聖人は、おっしゃっていません。

「聞く」は、「南無阿弥陀仏のいわれを聞く」のです。
「南無阿弥陀仏のいわれを聞く」とは
「もう 私たちの 往生が 間違いないということを聞く」ということ。
「だから、こっちのはからいは、要らなかった」となります。
それが 仏願の生起本末を聞きて 疑心(はからい)あることなし。これを 聞 というなり。

「聞 即 信 」だから、
信心ということは、何か頂くのではなく、敢えて 頂くというなら、「成仏」を頂くのです。
まだ、成仏した ということではなく、「成仏することに間違いない」ということを頂く。
反対の言い方をすれば、はからいを取られる。

何かもらうように思ったり、何か不思議な体験を得るように思っているから間違うのです。

不思議な体験は もう 我々は しているのです。
南無阿弥陀仏が ここに 届いていること自体が不思議なのです。
これ以上の不思議は ないのです。
これを 仏智の不思議と言います。

南無阿弥陀仏が聞こえている。これを以上の不思議はない。
これを不思議と思わないということが 間違っているのです。

(まだ 阿部先生のお応えは、続きましたが、ちょっと 力 尽きたので、ここまでにします。続きを聞きたい方は、私に ご連絡下さい。)


(問い②)
信後の聴聞について、お尋ねします。

仏法は、聴聞に極まる と聞き、
親鸞会では、間違った話しを長く聴聞して来ましたが、救われませんでした。

親鸞会を離れて、仏願の生起本末を教えて頂き、また、南無阿弥陀仏が 私の往生の証拠とお聞きして、安心できました。
そうなると、もう 「信心決定する」という聴聞の目的は、果たされたわけですが、やはり 聴聞すると とてもうれしい気持ちになれるので、聴聞しています。

信後の聴聞について、親鸞聖人や蓮如上人は どのように教えておられるのか、
また、阿部先生のお考えもお聞きしたいです。
よろしくお願いいたします。

(応え)
信後の聴聞に ついて、親鸞聖人は、ほとんど おっしゃっていませんが、
蓮如上人は、時々「溝さらえ」と言われているところが あります。
聴聞しないと、ゴミが溜まるから信心の溝さらえだと、おっしゃっています。
私は、ご恩報謝だと考えます。
私は、布教師ですから、法座にきて 誰も聞く人がいなかったら、説法は できません。
ですから、ご法座に来られて、お話しを聞いて有難いところになったら、「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と お念仏を称えて頂きたい。
そうすれば、ほかの人に そこが有難いところと、わかる。
自分一人が、救われたら いいっていうのでは、なく 次は、「教人信」ですが、
「自分が 救われた姿」以上の 教人信 は、ありません。
日々 お仏壇に 向かってお念仏をし、お寺で お聴聞して 「今日は有難い話しを聞かせてもらった」と 喜んでいる姿が、周りに 仏法を伝えているのです。
年をとって 、病気になっても 愚痴も言わすに
「ありがたいね。」と言っている姿を家族が見て「私も あんな風になりたいな」って 思う時に
お聴聞を勧めたらいいのです。



(勉強会に参加しての RCの感想)
阿部先生のお話しをお聞きしていると、「真宗の教え」を、生活や、社会の中の一つのもの として では なく、
真宗の教えこそが、人間の生活や社会を成り立たせるものであり、人間の心を照らし、社会を照らすものと、先生が、捉え 力強く ハッキリと教えてくださっていることに、心が、動かされます。

また、社会のおかしなことに対して、黙っているのではなく 声を上げていかなければ という、先生からの呼びかけを、私は、少し 耳の痛い思いで、受け止めました。
やがて 「無我の仏とする」とのお約束を頂いた私たちが、自分の中に閉じこもって 黙っていては、ダメだろうって いう思いが、生まれました。

阿部先生は、
「人間は、元々 自力で生きている。
自分と 相手の間に、垣根を作り 自分さえ良ければというのが、自力心。
戦争は、自力心が起こす。
自力心は自力が正しいという立場で、他人を叩く。
正義を振りかざしたら、怖い。その最たるものが、宗教」
とおっしゃっていました。
また、
「世界中で起きていることは 、業の世界から 言ったら、全て、自分もそうなる可能性が ある。
世の中の出来事は、全て 自分の延長線上のこと。そういう視点をくれるのが、業の教えであり、仏教。
そういう視点を持たないのが、自力」
と教えて下さいました。

先生の教えで下さることを、とても全部 理解出来て居ないと思いますが、
「仏様の視点の教え」でなけれ とても聞けない、深いお言葉を お聞き出来て、大変ありがたいご縁でした。

私の未熟な文章ではなくて、直接 先生からお聞きすることを、是非、オススメいたします。

ご参加 お待ちしております。

南無阿弥陀仏。

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