あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2017年03月

熊谷に引っ越してきて7年半くらい経ちました。妻が引っ越してきてから数えても三年あまり経ちました。結婚前からずっと同じ家に住んでいますので、主立った家電は、妻が来た時に妻が持ってきた冷蔵庫に変わった以外はほとんど変わっていません。


以前に2回くらい書いたような気がしますが、熊谷にはビデオ法話をやるために引っ越してきたようなもので、ほとんど自分で使っていなかった42インチのモニタやエアコンなども、いわば「客人用」にと引っ越し時に設置したものでした。もっともエアコンについては、結婚してからは冬と夏はほぼ毎日使用するようになりましたが。


そんなわけで、結婚前はほとんどエアコンを使用していませんでした。どれくらいの使用頻度だったかと言いますと、1シーズン全く使用しなかったこともあるくらいで、多くても1シーズンで5日程度でした。だからなのか分かりませんが、取説もどこにやってしまったのか分からなくなっていました。


ところで最近ふと、家のエアコンにフィルタ清掃と内部洗浄機能があることに気がつきました。そういえばリモコンには「フィルタ清掃」と「内部洗浄」のボタンがあったのですが、全く気にしていませんでした。遠い過去にそんなボタンを押したことがあったかもしれませんが、7年半も経ってようやく気付いたのでした。


きっかけは些細なものでした。

1~2週間に一度、掃除機でエアコンのフィルタの埃を吸っていて、たまたまフィルタの取り付けが甘かったのか、普段点灯しない表示が点滅していたのでした。それで何とはなしにリモコンを見て、見つけたという次第です。


もともとこのエアコンは、とりあえず自分で頻繁に使うことも想定していなかったため、池袋のヤマダ電機で「安い機種」として選んだに過ぎないものでした。そういうものに、フィルタ清掃機能が付いているという発想はありませんでした。


「盲点」という言い方をする場合がありますが、まさに見ているけど見えていない、思い込みなどによって気付いていない、といったことがあるものです。


・・・

大聖易往とときたまう  浄土をうたがう衆生をば 無眼人とぞなづけたる  無耳人とぞのべたまう
(弥陀和讃)



南無阿弥陀仏のお話を、発想とか気付きとかで語るのもおかしなように思いますけれども、もし南無阿弥陀仏のお話を聞いて南無阿弥陀仏のお助けを求めていられて、なお南無阿弥陀仏にあえないと思われる方があるとすれば、何かの思い込みによって「聞いているけど聞こえていない」といったことがあるのかもしれません。


蓮如上人は、

「雑行をすてて、後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」

といわれていますが、


・雑行を捨てなければ・・・
・雑念を振り捨てて真剣に求めなければ・・・
・法話に欠かさず参詣しなければ・・・
・自分のようなものは救われないのではないか・・・
・因果の道理が徹底されなければ・・・
・必堕無間と知らされなければ・・・


などといった思い込みを挟むと、


阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、衆生仏にならずはわれも正覚ならじとちかいましますとき、その正覚すでに成じたまいしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりと、こころうべし。これすなわちわれらが往生のさだまりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すというも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
(御文4-8)



このように往生の証拠と言われている南無阿弥陀仏を聞いても、「それはただの必要条件であって、南無阿弥陀仏を聞くために何かが必要」と勝手にハードルを付けてしまうことにもなりかねません。


淳心房さんが紹介されている「お天道様を見たら傘は要らない」という表現を借りますならば、傘を持っているから雨が降るわけでもなければ、傘をしまったからお天道様が出てくるわけでもありません。言うなれば、自分の行為によって「お助け」が決まるわけではないといえましょう。


私の場合、「安い機種だからフィルタ清掃機能など付いていないだろう」と勝手に決めつけてしまっていましたが、自分の思い込みなど関係無く付いているものは付いていたのでした。


「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり」
(蓮如上人御一代記聞書)



が今回もまた味わわれたのでした。

先日(2/26)の記事は、毎年恒例のシリーズだったのですが、今年は趣を変えてというか必然的にというか、自分の言葉を載せるのをやめました。途中まで文章を作っていたのですが、結局それを出すのはやめました。別の日にこっそり出すかも知れません。

あと、今年の文字が「離」となった上にその件に関して何も説明をしていないので、あさ川の味わいが変わったかと思われる方があるかも知れないなあと思ったのですが、特に何も無さそうでしたので、取り急ぎ「例年と特に変わっていません」とだけ申しておきます。


ところで明日は埼玉慧日会の予定です。だいたい私が法座のご縁とか仏法絡みのご縁に行くとなると、近くても約40km離れた大宮ですので、東京のご縁となると高崎線で一時間以上掛けて行くことになります。

通勤で毎日片道二時間程度のバスの旅をしている私にとって、一、二時間の鉄道の旅が格別苦痛だとか遠いだとかいうわけでもありませんが、それでも半日のご縁が一日がかりになったりしますので、近場で行われるご縁というのはありがたいものです。探せば他にも近場のご縁もあるのでしょうが、それも含めてご縁なのだろうと思う次第です。



さて、先日の淳心房さんのブログの記事に、


さて、話の中で『帖外御文』にあるという、

「信心という二字をば、まことの心と読めるなり、まことの心と読む上は、凡夫自力の迷心に非ず。全く仏心なり」

という文章を出して話があったそうです。ただ、この文章は調べても親鸞会関係のサイトでしかヒットしませんでした。

ただ、『御文章』1帖目15通には、

信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり。

とあり、覚如上人の書かれた最要鈔には、

この信心をば、まことのこゝろとよむうえは、凡夫の迷心にあらず、またくの仏心なり。

という御文がありますので、蓮如上人がそのような文章を書かれていたとしても不思議ではありません。が、ちょっとモヤモヤしますので、もしご存じの方は前後の文章を含めて教えて頂きたく思います。



ということがありました。すでに林遊さんがお調べになったようでしたが、私もせっかく学生時代に買った『御文全篇』が手元にありましたので、流し読みして探してみることにしました。


『御文全篇』は、「蓮如真筆ならびに真偽未決を収録し、年記を尊重して配列し、その後に無年記、真偽未決分の順に配列した」ということで、真偽が未決のものも含めて掲載してあるそうです。500ページ近くあるので、それなりの分量でした。同じような御文も分けて掲載されています。


結論を言いますと、私も見つけることは出来ませんでした。


似てるとは言いがたいかしれませんが、せっかく流し読みしましたので、私がしおりを挟んだ二カ所を紹介します。いずれも「真偽未決」のところにありました。


そもそも当流に沙汰するところの信心といふ二字をば、まことのこころとよむなり、また安心とかきては、やすきこころとよむなり。これによりて不審あり。信心の二字をばまことのこころとよむは、弥陀如来の他力のまことの御こころときこえたり。(後略) p427


(前略)されば当流の安心とまふすは、一念にも多念にもあらず、唯念佛往生と深く信ずるをもて、宗の正義とす。すなはち、真の知識にあひたてまつり、念佛往生の本願をきき開て、佛願にまかせ、一念発起するところをさして、信心決定とはいふなり。この信心と申すは、凡夫自力の迷心にあらず如来清浄の願心なり。願心はまことのねがひとよめり。(後略) p443


こうやって見ますと、淳心房さんが紹介された最要鈔のお言葉が一番近いように思いました。


ちなみに、学生時代に私が『御文全篇』を買ったのは、

後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。


が、本当に帖外御文にあるのか、ということを調べるためでした。
これについては探すのに時間が掛かりましたが、p406にありました。


後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。


よく見たら「おつ」ではなくて「をつ」でした。

親鸞聖人の、

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。
(教行信証)


のお言葉と同じようなことを言われているのかなあと思いました。


特にオチもありませんが、今日はこのくらいにします。

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