あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2017年06月

前回の更新から10日あまり経ちました。どうも最近の感覚からすると10日どころではなく経ったような気もしていましたが、RCさんから投稿文を頂きました。


前回の投稿文にありましたとおり、前回は「唯識」のお話もあったようです。残念ながら私は直接ご縁がありませんでしたのでどのようなお話があったのか分かりませんでしたが、ありがたいことにRCさんから投稿文の形で頂きましたので掲載します。


唯識についてあまり知識が無いので新鮮な感じがしました。そういえば親鸞会では十二縁起の話とか聞いたことなかったですね。

========(以下、RCさんからの投稿文です)========

前回、6月4日の埼玉恵日会で、

◉「唯識」とは、どのように理解したらいいのでしょうか
と、質問がありました。

以下、その時の先生のお応えをだいたいまとめたものです。
(言葉で、お聞きしたので、もしかしたら、私が当てた漢字に 誤りが あるかもしれません。
お気づきの点が、ありましたあら、教えて頂けると、助かります。)


◉大乗仏教の中で、中心の学問は、1つには、「中観(ちゅうがん)」と 、もう1つに「唯識」が、あります。
「中観」とは、お釈迦さまが亡くなって、700年間後 、龍樹菩薩という方がインドに出ました。龍樹菩薩が中論という書物を書いて
「空」というかとを明らかにしてくださいました。
「空」とは、簡単にいうと あらゆる現象、私が目にしている物や、体験していること、私自身も含めて、私が認識している全ての存在は、「そのもの のみ」によっては、成立はしていない 。お互いが、お互いを成り立たせている。そういう関係で全てのものは存在している。

Aが存在しているのは、Bによって Aが存在している。BはAによって存在している。
自らのなかに、自らを成り立たしめているものは存在しない。

「自らの中に自らを 成り立たしめているもの」を「自性」と言います。
「自性 」とは、「私が 私である」ということが「私の中に私たらしめている自性が存在する」ということです。
これを否定した言葉が「無自性」と言います。

龍樹菩薩 が、いろいろな例えで示してくださっていますが、一番わかりやすいのが親子の例えです。
例えば、3歳の子どもを抱えた母親がいる。その時 「3歳に子どもと この母親との 歳の差は、幾つ?」というと、私たちは、頭の中で そのお母さん年齢が、24歳とすれば、24から3を引きます。これは、誤りです。なぜなら「このお母さん」との 歳の差だからです。
「お母さんは、子どもがいることによって お母さんになっている」のです。子どもがいない時は、お母さんではないのです。だから、「子どもの歳が お母さんの歳」なのです。
子どもが、出来た時に、母になる。
子どもによっては、母が成り立っている。
お母さん 自らの中に、お母さんたらしめるものは存在しないのです。
全てのものが、そういう関係に、よって お互いが、お互いを成立させている、成立している。
これを「無自性」といいます。
このことを 「空 」と言っています。
「空」ということは、「縁起 」ということと同じことです。
「縁起 」というのは、これがあるからこっちがある、こっちがあるからこっちがある、つまり
それぞれが、それぞれを成立せしめている関係。これを「縁起」といい、また「 空」 といい、「無自性」 とも言うのです。
こういうことを、龍樹菩薩が、中論という書物でおっしゃったのです。

こういう 空 をさとる知恵を、仏様の悟りの知恵と言います。
仏様は何を悟ったのかというと 「縁起を 悟ったのです」という言い方もするのです。
お釈迦様がなくった後に、大乗仏教という経典がいろいろ出来たのですが、
その経典の内容が、仏説であるということを論証したのが 中論という書物ということになりますが、中観の説明は、このくらいにします。

「空」いうものが言われましたが、
今度は 「十二支縁起」というのがあります。
「十二支縁起」というのは、「我々になぜ 老病死という現実があるのか?」。
お釈迦様が 悟りの知恵で原因を訪ねていかれた。原因を訪ねていられて 一番の原因は、「無明 」という、知恵がないこと、そういうことが 「老病死の原因」だということが、わかった。

「無明」によって 「行」が起こる、「行」によって 「識」が 起こる。

「無明」「行」「識」「名色」「六入」「触」「受」「愛」「取」「有」「生」「老死」
で 十二。「十二支縁起」といいます。
普通は、「無明」からスタートして、最後「老死」とするのが、「順観」といい、
逆に 「死」の原因を訪ねて
「老死」から始まって、「生」「有」・・・「無明」に辿り着く見方を、「逆観」といい、
「順観」「逆観 」という見方をしていたのですが。

龍樹菩薩の「 空 」の 縁起と、いうことが、明らかになると、十二支縁起のそれぞれが、それぞれを成立させている、川の流れのように 「無明」から出発して、「老病死」となって行った縁起が、そうではなくて、「十二が、 十二それぞれが、それぞれを成り立たしめているという関係だ」ということになっている。
全ての存在は、お互いをお互いによって 成り立たせ合っているというのが 「空 」ですから。

そうすると、十二の関係が、もっと立体的な、
ーお互いがお互いを成立させているーという縁起論になっていく。

その中で 我々が、呼んでいる「世界」というものですが、どこにおいて世界が、存在しているのかというと、「識」によって存在している。
認識の「識」です。

認識の「識 」ということは、受け止めておる者がおるから、世界は存在しているんだ。
受け止めているということを「識」でおさえるのです。
そうすると、我々が「世界」」と呼んでいるのいるものは、何によって世界が存在するかといいますと、我々が受け止めている 識 。
仏教では、「六識」といいます。
六識とは、
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識
「眼」は、「眼根」眼根とは、眼球 のことです。眼球が無いと ものが見られないが 眼球は、レンズで、あって、眼球を通して、脳で見ている。この脳を「眼識」といいます。
眼根が、あって、眼識かあって、我々は、見えていると認識しているのです。
耳も、そうで、耳根 というのは、鼓膜も含めた三半規管です。音を感知するセンサーです。実際に聞いているのは 脳の中の音を感知する部分で、これを耳識 。香も鼻は、センサーで、認識しているのは、脳。味も、舌は、センサーで、美味しいとか 不味いと言っているのは 脳です。
身体とそう、硬いとか、柔らかいとか触れて、受け止めているのは、脳です。
それを全部受け止めているが、意識。
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の
六識によって、我々は、物事を認識している。
科学は、ここまでです。

だから、科学者は、人間が死んだらなにも残らないといいます。なぜなら 心は、脳だということだから。
「 心は、脳であり、心といっても肉体に過ぎない」というのが、「唯物論」です。科学は、だいたいこういう考えです。
「死んだらおしまい」という考え方です。

「唯識で」は、もっと深いところに違う意識があるといいます。これを阿頼耶識(アラヤシキ)といいます。
「アラヤ」とは、「蔵」という意味です。
「蔵識」ともいいます。

「阿頼耶識というのが 一番深いところに存在している。」

なぜそういうことがわかったのかというと「ヨウガ」に よって発見されました。ヨウガというのは、禅定です。
仏教のがヨウガを瑜伽業(ユガギョウ)と言い、瑜伽業によって発見された唯識ですから、「瑜伽業唯識学派」といいます。

科学とは、違います。
科学は、思考によってこういうものを発見した。物が見えるとは、眼球があってそのことを受け止めていると脳の部分があって、物を見ている。ということは思考によってわかります。 科学は、ここまでは知っていますが、これから先は、知らないのです。これから先は、禅定によって発見された真実です。
何を発見したのかというと阿頼耶識です。

身の行い、言葉、心の行い、これをカルマと言います。カルマは、漢字で「業」と言います。
我々は、全てのものを見て、認識して、聞いて、嗅いで 、味わって、触れて、心で受け止めて 何事かのことをそこで思い、そこで 何事かを喋り、何事かを行う。
これを 「身口意の三業」と言います。
そのやった行いの結果が、この「阿頼耶識の蔵」に「薫習し」ていきます。お香を作っている人の身体にお香の匂いが染み付くようなことを「薫習」といいます。
心で思っていること、身体で行っていること、口で喋っていること、全てが、阿頼耶識に薫習していくのです。薫習したものを種子(しゅうじ)と言って、縁に触れることによって、現行(現れてると)する。これが今 我々が生きている現実である。こう説明するのが唯識です。

世界というのは、世界があってそこに私がいるのではなくて、自分が作った行いが、この世界を作っている、これが唯識です。
ですから、今 我々が、享受している世界は、我々の心が作ったものをです。
自分が作った世界を自分が受けている、これを「自業自得」といいます。

唯識とは、どのように理解したらいいかというと。
私の生きている世界は、私の心から生まれ出ている、という言葉です。

そこに南無阿弥陀仏が届いているのです。どんな世界にいる者の上にも南無阿弥陀仏の名号となって届いて救うということです。

我至成仏道  がしじょうぶつどう
名声超十方  みょうしょうちょうじっぽう
究竟靡所聞  くきょうみしょもん
誓不成正覚  せいふじょうしょうがく

我もし仏道成るに至て
名号が 声となって十方世界に聞こえる。
聞こえない世界が、あるならば、私は覚りは開きません。

逆の言い方をすれば、
「南無阿弥陀仏が私の世界に届いている」ということは、「もう法蔵菩薩は、覚りを開いて、阿弥陀となって私を救いにかかっているんだ」ということです。
阿弥陀さまが、救いにかかっているわけですから、こちらのはからいは要らないということです。

これが、自力の心を捨てて、一心に弥陀をタノムということです。
これが、ご文章の中心です。
タノム一念の時は、往生一定。
タノム一念というのは、
阿弥陀さまが、はたらいているのだったら、私のはからいは要りませんでしたと、自力が廃った一念を「タノム一念」と言います。
あくまでも、他力と出遇ったから、阿弥陀さまがはたらいていると信じられたから、自力が廃るのです。

唯識とは、なぜ我々が こういう現実を生きているのかを説明したものです。
神さまが 作ったのでも、仏さまが、作ったのでもなく、私自身が 作った世界を、私が 生きている、自業自得の世界を、唯識ということで説明したのです。

六識があり、六識のやった行いが、阿頼耶識という第八識に薫習して、それが出てくる。
やった行いが消えてしまうなどということは、ありえません。死んだら終わりでは、ないのです。

死んだら、どうなるのか?
薫習したものが、次に出てくるのです。

そして、この第八識(阿頼耶識)を自我だと、
錯覚する識が、あるのです。
これが、第七識の「末那識」と言います。
元の言語は、マナス と言って、迷妄とか 迷い という意味です。
末那識は、阿頼耶識は実体が無いのに、これが自我だと錯覚します。
これが、迷いの根源なのです。

これで 全部で、八識です。
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の 六識と、六識の結果を蔵のように溜め込む阿頼耶識と、阿頼耶識を自我だと錯覚する 末那識の
八つの識で、この現実世界を説明するのを
唯識というのです。

私たちは、唯識で、悟るわけでは、ないので、このくらいの理解でいいのでは、ないでしょうか。
浄土真宗が、唯識と どう関係するのかというと
唯識を大成したのが、天親菩薩だということです。
法相唯識のご開山は、世親(天親菩薩)です。
同じ、世親菩薩が、我々にとっては、七高僧のひとりです。
世親(天親菩薩)は、お兄さん(無著菩薩)の唯識の教えを受けて完成させたのです。

末那識というものは、無著菩薩は、いっておられるず、天親菩薩が発見されました。
天親菩薩が 末那識を発見したことで唯識の体系が完成したのです。

六識によって 我々は、身口意の三業を起こして
起こした業が 皆 阿頼耶識に薫習して 薫習して種子となり、ありとあらゆる種子が、現実のありとあらゆる縁と出合うことによって、この世界が生まれてくる。
我々が今 感知している世界は、阿頼耶識の現成した世界ということです。

実態として何かあるわけではなく、私たちの行いが生み出した世界です。

そして
浄土教では「その世界に、阿弥陀さまのはたらきというものが、私の業の上にはたらいている」といい、それを 「お育て」とか、「宿縁(たまたま 行信を獲ば、遠く宿縁を喜べ のお言葉の宿縁)」と言われます。

宿縁とは、宿は、過去、縁は、仏縁。
私の上に、仏縁が常にはたらき続けて、今 私がこうやって お念仏のおいわれを聞くご縁に遇わせて頂いている、これは、如来さまの仏縁に依るのです。

これは 私の自業自得では ありません。
我々の「自業自得の業」は 「迷いの三悪道に輪廻させる業」であって、
「三悪道から救い出すはたらき」は、「阿弥陀如来の大願業力」によるのです。

『 私の身口意の三業は「迷い」しか生み出さない。そうして、六道を、ある時は、地獄に生まれ、ある時は天に生まれ、ある時は人間に生まれ、ありとあらゆる世界を 六道輪廻してそこから出ることができない私で、あります。』と
善導大師の二種深信の中で
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなきにと信ず。」とおっしゃっています。

これは阿弥陀さまが、見抜いた私の姿なのです。どうやっても迷いの世界から出られない者と、阿弥陀さまが、ご覧になったので、そこに慈悲の心を起こしてくださって、その迷いの世界から、救い出してやろうと、願いを起こしてくださって、そこから救い出せないうちは、
私は仏と名乗りません。とお誓いくださって、ご修行に入られ、そして 今を去ること 十劫の昔に阿弥陀仏となって もうすでに、私を覚りの世界に生まれさせようと、はたらいてくださる。

我々は、その 阿弥陀さまのはたらきの中に居るので 自力を捨てて、他力をタノメと、
こう お勧めくださっているのが、浄土真宗。

これをやったら救われるという教えは、浄土真宗ではない。これをやったら救われるというのは自力の教えです。
そうではなくて、他力がはたらいているのだから、これをやることは、要りませんでしたね、
と、これがタノム一念です。

唯識とは、このように理解してもらえたらいいと思います。

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と、唯識について教えて、頂きました。

それから、
「念仏者に生き方」についても、お聞きしたのですが、それも やっぱり、ご紹介したいと 思います。

また、投稿させていただきます(o^^o)


南無阿弥陀仏

あさ川です。RCさんから、次回の埼玉恵日会の案内文を頂きました。前回は6月でしたが、次回は7月2日とのことです。夏は暑い熊谷ですが、ここ最近の朝はなかなか涼しくて、半袖では寒いくらいです。


さて実は、前回の埼玉恵日会に私は家の都合によりご縁がありませんでした。前回も新しいご縁の方がお見えになったと聞いておりますが、ご縁無く残念でした。あさ川を目当てにいらしたということではないと思いますが、いずれご縁あればと思います。


先日の土日は久々にご法話のご縁に触れた土日でしたが、やはり法話を頂くご縁というのはありがたいものだなと思いました。


埼玉恵日会はご法話という形ではありませんが、南無阿弥陀仏のお話を聞くご縁ですので、ご縁ある方は熊谷までおいでください。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========

RCです。

次回の埼玉恵日会の開催のお知らせです。

埼玉恵日会は 2ヶ月に一度くらいのペースで 開催したいと思っていますが、いろいろな都合で、だいぶ間が 空いてしまったり、詰まってしまったりしています。
前回が、6月4日でしたので 、次回の7月2日は 比較的 近い日程での 開催となりました。

いずれにしても 「南無阿弥陀仏」の教えをお聞きするご縁を頂けることは、本当にうれしいことです。

6月4日の埼玉恵日会で、「唯識」についての質問があり、阿部先生に 噛み砕いて、丁寧に教えて頂きました。
皆さんに、お伝えしたく、少し文章にまとめ始めたのですが、なかなか進まず 、今回、ここでのご紹介は、断念します。(;_;)

でも せっかく ですので、なるべく近いうちに、「唯識」について、お聞きしたことを ご紹介したいと 思っています。

ふと、
親鸞会で、高森会長が 「大学で唯識の勉強をしていた」って 話していたことを思い出しました。
でも、親鸞会で 高森会長から、「唯識」について、キチンと聞いたことは、なかったなって、思いました。
(もしかしたら、どこかで説いていたのかもしれませんが。私の記憶には、なかったです。)

仏教は、「 教え 」ですが
ずっと 存在している「真実」というか、「事実」というか 、そういうものを、私たちに わかる形にしてくださったのが、「仏教」という「教え」であり、「仏教」の内容を示す「言葉」なのだと思います。
「教え」も「言葉」も「真実や事実 」そのものではないけれど、「真実や事実」を知る手がかりとして、とっても大切なものだと感じています。

「月を指す ゆび」の例えで、
私たちが、月を見るときには、月を指してくださる誰かの「ゆび」が、とても大切です。
「月」は、「真実」とか、「事実」とか、「救い 」とか、「ほんとう」とか、そういうもの。「月を指しているゆび」が、仏教という教えであり その言葉なのだと思います。

ただ(ただという 言葉が 適切なのか わかりませんが)
私の心に、「月を見たい」という気持ちが、何故あったのか?
月があることも 知らない私、
月を見たことのなかった私、
月と縁のなかった私の心に
どうして 「月を見たい」っていう気持ちがあったのか、とても不思議です。

「月を見たい」という気持ちは、「月があること」が前提です。

月を見たこともなく、月を 知らないはず なのに。・・・なぜか 私の心にあった「月を見たい」っていう気持ち。
この気持ちは、阿弥陀さまが私に寄り添ってくださっている姿なのかなって、ふと 思ったりしました。

私たちは、自分でアレコレ考えて、自分で何かを決めて生きているように思って いますが
そこには、ただ 南無阿弥陀仏のおはたらきが
はたらいていてくださるばかりなのでは、と思う 今日この頃です。

では、
次回の埼玉恵日会のご案内です。
(「真宗の法話案内」に掲載している内容とおなじです。)

7月2日開催の埼玉恵日会のご案内

○親鸞聖人の教え、浄土真宗を 知りたい人の為の勉強会です。
質問形式の勉強会で、真宗の理解を深めたいと思っています。
予め 質問を集めて、先生に応えて頂きますので、その場で 質問する勇気がなくても、また 匿名でも 大丈夫です。

親鸞聖人の教えについて、質問のある方は、以下のアドレスに メールで質問を送ってください。
先生に 当日 お応え頂けます。
アドレスは、 rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
(アットマークは、@に変えてください。)

勉強会は、
日時: 7月 2日(日曜日)
14:10〜17:00
場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室 2
(熊谷市男女共同参画推進センター)

講師: 阿部 信幾 先生
(本願寺派補教 )

振り返ると、今年も、もうすぐ半分が過ぎようとしています。
埼玉恵日会も 7月2日、9月18日、12月3日の
3回で、今年のご縁は終わります。

不思議なご縁が揃って、今まで、埼玉恵日会を開催することができましたが、私たちが感じているよりも、ずっとずっとずっと、南無阿弥陀仏のお話しをお聞きするご縁は、きっと「有り難く」、もしかしたら「あり得ない」というレベルのことなのかもしれません。

親鸞聖人が
「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」
とおっしゃってくださっています。

私に 南無阿弥陀仏に遇えるような善ができたから 南無阿弥陀仏に出遇えたわけではなく、
最初から最後まで、南無阿弥陀仏のおはたらきで、南無阿弥陀仏に出遇えたのだと教えていただきました。

本当に 「 不思議 」としか言えない聴聞のご縁。
お互い、一回、一回 のご縁を 大切に 聞かせて頂きたいですね。

では、
蓮生房、熊谷次郎直実の故郷 、
「あついぞ!熊谷」の地で、
あなたの ご参加を お待ちしております。
(会場は、冷房か効いて快適です!)
٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

南無阿弥陀仏

私のところにはほとんど情報が入ってきませんから最近の親鸞会のことはよく分かりませんけれども、私が居た時でさえ(大)学生は相当に少なくなっていたので、新たに親鸞会に入るという方も少なくなっているように思います。ただ、以前に聞いた話でSNSでの勧誘も活発化?しているという話も聞きますから、以前のように大学入学時に勧誘されて、夏合宿の頃に入会という流れ(私は入りませんでしたが)は変わってきているのでしょう。


そういえばそもそも親鸞会に入るメリットってなんだろう、とふと思いましたので、今回はその関係の話を書こうと思いました。以前に何本か、「ご家族の方向け(仮)」の記事を書いていたのですが、一応その流れで、どちらかと言えば会員の経験がおありでない方向けの記事です。


まあ、結論から言えば「メリットは無いこともない」という平凡なものですし、批判的な皆さんにおいては「入会なんて検討の余地すら無い」のではないかと思うのですが、あえてそれをこれからダラダラ書きます。




漠然と「親鸞会のメリット」を考えてみたところで、そもそも人によって感じるメリットは違うであろうと思いましたので、そもそも親鸞会に何を求めていたかを考えますと、私の場合、

「人生の目的をさっさと達成するためのもの」

でした。人によって程度は異なるかも知れませんが、親鸞会が「なぜ生きるの答え」をアピールして勧誘していることを考えますと、だいたい他の方もその辺のことを(少なくとも入会当時は)求めていらしたのだろうと思います。「金儲け」や「出世のための勉強」はお門違いでしょうから。


私の学生時代を思い出しますと、周りのだいたいの学生は、親鸞会の入会案内を受けたらすぐに入会してしまっていました。私は宗教団体のメンバーになるのが嫌で何度か断っていたので、すぐに入会するような心理状態が(正直なところ)よく理解できないのですが、やむなく入会に至った心持ちを思い出しますと、もはやメリットデメリットを検討しての結果ではなく「手詰まり感を覚えたから」でしたので、ひょっとしたらすぐに入会した多くの皆さんもそんな感じだったのかなあと思いました。


ちなみに、こういう思考に至らしめる過程をマインドコントロールというそうですが、それはまた機会があったら書きます。


だいたい、通常しないような選択をする場合は、あまり理屈っぽく考えられないのですが、目の前に親鸞会の入会のようなイベントがちらついている場合には、入会するにしてもきちんと考えた方が良いかと思います。


とりあえず(是非は置いといて)考えられそうな「メリット」を挙げてみます。
(厳密に言うと包含関係と見られるものもありますが)


・信心決定(=「人生の目的達成」)の近道になる
・仏教を深く学べる
・「高森先生のご法話のご縁」が増える
・友人が増え、生きがいが得られる
・御名号本尊を頂ける



そして、親鸞会に入会したらこうなる、ということも挙げてみます。


・入会金や会費等が発生する
・誓約書を書かされる
・様々なお布施の案内が来るようになる
・先輩会員が入会前ほど親切に構ってくれなくなる


親鸞会経験者の皆さんからの「こういうこともあるよ」の情報等頂ければまた有り難いのですが、いったんは上記挙げた内容を少し詳しく見ていきたいと思います。



<「メリット」の内容>

●信心決定の近道になる、について


まずもって、親鸞会の入会が直接「信心決定の近道」になることはありません。この点については、入会勧誘レベルで先輩会員や講師部員の人が言うケースはあるかもしれませんが、少なくとも現在は親鸞会でも公式には言っていないはずです。


いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。ただ、仏法は、聴聞にきわまることなりと云々
(蓮如上人御一代記聞書 193)


ここをもって『大経』に言わく、諸有衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せんと、と。

(中略)

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。
(教行信証信巻)



親鸞会で話を聞いているとよく出てくるこれらのご文にありますように、信心決定は自分で頑張った結果得られるものではなく「お慈悲によって」でありますから、親鸞会に入るとか入らないとか、お金をいっぱい遣うとか遣わないとか、そういったことによって左右されるものではありません。なおかつ仏願の生起本末は、親鸞会の会員にならないと聞けないという性質のものでもありませんから、「信心決定の近道」という点は「親鸞会入会のメリット」とはならないかと思います。



●仏教を深く学べる

親鸞会には「教学聖典」なるものがありまして、ご文の引用が「?」と思える部分もありますがお聖教のご文を覚えるきっかけにはなるかと思います。

ただ、(最近そんなこと言う人はいないでしょうが)「これ(教学聖典)を覚えれば、本願寺の学者よりも教学力が身につく」などと本気で思ったら大恥かきますので注意した方がよろしいかと思います。

仏教を深く学ぶ、という観点だけで言えば、大きな書店に色々な本も売られていますし、本が高いということであればネットでも詳しい方がいろいろいらっしゃいますから、そこで学ぶことも出来ます。

どうしても教学聖典が良いということでしたら、別に親鸞会の会員でなくても購入できたはずですので、親鸞会館に行った際に購入すればよく、必ずしも親鸞会に入会しなければ学べないというわけではありません。



●「高森先生のご法話のご縁」が増える

私が学生時代には、会員の中でも教学聖典の丸暗記に成功した人だけが受講できる「教学講義」なるご縁がありました。しかしながら、数年前に無くなってしまいました。

会員さんの中でも特定の条件を満たした人だけが参加できる「ご縁」は、「ご法話」に限らず存在しますが、出来たり消えたりしているので最近はあるのかどうなのか、私には分かりません。なお、講師部員対象の講師部会議などは、聞くところによると昔から今に至るまであるようです。


そういう意味で言いますと、親鸞会に入会することで「高森先生との(ご法話に限らない)ご縁」が増えるのは間違いないですが、ただ会員かそうでないかの違いだけで差が生じることはあまり無いです。限定された「ご縁」にあうためには、たとえば先に述べたような「教学聖典の丸暗記に成功」だとか、「●●円以上のお布施」といった条件が別途必要なことが多いように思います。


「高森先生のご法話のご縁」に拘る場合、別途条件が追加で必要だとしても「親鸞会に入会するメリット」は感じられると思います。ただ、蓮如上人は次のように言われています。


帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おおきなるあやまりなりとこころうべきものなり。
(御文2-11)




●友人が増える

「親鸞会会員の」を頭に付ければこれはその通りだと思います。ただ、親鸞会は人の入れ替わりがそれなりに激しいために、増えた友人全てが何十年の友人となるかといえば、まず望み薄だと思います。


だいたい友人になったら、会をやめたとか続けているだとか、そんなことはあまり関係無いようにも思うのですが、こと親鸞会に関して言えば、離れる際に人間関係も切れてしまうことが少なくないです。

と言いますのは、経験上、親鸞会を離れる時に円満に離れられるケースが殆ど見られないからです。ふつう、会というのは入るのもやめるのも自由で、親鸞会も一応そのようになっているはずなのですが、やめようとする際に強く説得されるだとか、人(引き留める側の会員さん)によっては自宅突撃などトラブルになりかねないほどのことが行われるために、勢いやめる側も

・徹底的に争う
・徹底的に無視する
・トラブルを未然に防ぐために気付かれないようフェードアウト 等

といった対処を迫られるがゆえに、親鸞会の中と外に分かれた時に人間関係が終焉を迎えることが少なくないように思います。
もちろん例外もありますし、最近は若干ましになったかもしれませんが、劇的に改善しているという話は聞かれません。


ですので、友人を増やすことを第一義に親鸞会の入会を検討することは、まったくお勧めできません。



●御名号本尊が

私が学生時代、先輩がやたら入会を勧めてきた内容として「親鸞聖人御真筆の御名号が頂ける」ということがありました。これは、当時においては正しかったのですが現在は状況が変わっています。


あの御名号本尊は親鸞聖人の筆跡の通りだろうとは思いますが、唯一現存している六字名号の写真と見比べるとスッキリしすぎています。ネット上では「貼り合わせ」と指摘されている代物ですが、今回その部分は考えません。


当時(私が大学生の頃)、「御下付」と言っていた通り「頂けるもの」という認識だったのですが、しばらくしてからなぜか「貸与」に変わって、退会等のときには返却するという誓約書を書くことになりました。


そういうわけで、親鸞会に居る間は御名号本尊が手元にあるわけですが、あくまで貸与ということであって、いつまた話が変わるか知れたものではありません。


御名号本尊が貸与されることを目当てに親鸞会の入会を検討される方はまず無いでしょうが、御本尊に関して言えばお寺に行けば求めることは出来ます。私の家の仏壇にある、親鸞会の携帯用御本尊と同じくらいの大きさの十字名号は、1万3000円でした。(脇掛という扱いですが)
お仏壇屋でも求めることは出来ると思います。



<入会した後>

私が知っている時代の話で言いますと、入会金は5万円(学生なら2万円)です。会費はいくつか種類がありまして、毎月3千円(学生は2千円)から100万円までの種類があります。

参考
※10年ほど前の記事ですが、私が親鸞会から追い出された3年程前も変わってませんでした。


月に10万円以上の会費を出しますと、普通の会員バッジではなく丸い会員バッジにグレードアップします。しかし、会費が少なくなると返却する羽目になります


会費以外にも、法話等のご縁の時にはお布施が募られます。親鸞会館での法話の場合、受付で一万円札を出すと、何も言わなければ5千円戻って来ました。もちろん、お布施は本人の志次第ですので、5千円である必要はありません。「お気持ちで」と言って千円札一枚を出そうが百円玉であろうが構わないと言えば構わないでしょう。

全く出さない(受付に行かない)人も、私が居た当時はありましたが、そういう方は名札で分かるようになっていました。最近はまたシステムが変わっているという話も聞きますので、現在どうなっているか、詳細は分かりませんが。


あと、先ほど御名号本尊のところで述べた通り、「退会した時には御本尊を返却します」という趣旨の誓約書を書きます。なぜか入会後一回では無く、思い出したように不定期に書くようにいわれます。


あと、親鸞会で顕著なのは、様々なお布施です。「ご著書」が出版されるたび、各地の会館が建てられるたび、同朋の里の建物が増えるたび、その他親鸞会に大きな設備(アニメバスとか)が入るたび、お布施の機会が訪れます。各お布施で大金を出しますと、表彰されたり懇親の機会が得られたりしますが、懇親の際もお金が掛かったりすることがあるのはご愛敬です。


先に紹介したサイトにお金の話が出ていますが、ある程度熱心な会員さんの場合、年間に100万円以上お布施に費やしたりします。


あと、これは私がなんとなく感じていたことでもあり、また、退会された年配のとある元会員さんが仰っていたことでもありますが、入会前は色々親切にもしてくれ、熱心に話しもしてくれていた先輩会員さんが、入会してある程度安定して親鸞会館に参詣したりすると、安心したかのように放っておかれるようになります。個人差があるのかもしれませんが、釣った魚にえさはやらないを地で行くような扱いを受けるという話は、ままあったように思います。(個人の感想)



さて、親鸞会の入会を検討される場合にメリットを検討してみると、メリットが全くないこともないですけれども、親鸞会に入会しなければ得られないような大きなメリットがあるかと言われると、微妙だなあということになるかと思います。ここで、そのようなメリット等を考えるまでもなく、親鸞会に入会しなければ魂が救われないように思われている方があるとしますと、まさにマインドコントロールの中にある可能性がありますので、それはそれでよく検討された方が良いかと思います。


親鸞会に入会して、やめていかれた方の中で少なくない方が大変な後悔をされていますが、一方で、必要な縁だったとあじわっていられる方もあります。どちらに転んだにしてもそれは結果論ですから、どうしても親鸞会に入会したいと思われる方を私は止めませんけれども、強いて親鸞会の入会を勧めようとは思わないのでありました。


いずれにせよ、南無阿弥陀仏とのご縁にあわれれば、有り難いご縁だなと思う次第です。


南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

日付が変わってしまいましたので今日なのですが、今日6/4は埼玉慧日会です。ご縁のある方は熊谷までおいでください。


さてこのブログも気がつけば解説から丸5年が過ぎました。このブログでは毎年恒例のシリーズがある一方、例年の開設日には特段の注意を払っておりません。とは言いながらもせっかく5周年ということもありますので、開設日は若干過ぎておりますが「5周年」のタイトルを付けました。


私が親鸞会を離れてからは特に更新頻度も(当初のもくろみ通り)低くなり、5年を経過して記事は400本に満たない状態(頂いた投稿文を含めなければ350本程度)ですので、あまり多くはありませんけれども、投稿文しか無い月があったにせよ、除名騒動で意図的に休止していた2014年3月を除けば毎月何かしら更新できているのも、読んで下さる方、ご意見下さる方、投稿文を下さる方、皆さんのおかげであります。ありがとうございます。


もともと何を思ってブログを始めたかということについては、「さよなら」に出した投稿文や、一周年のこれも含めて過去に何度か触れていますし、抽象的にはPC版の表書きの


宗教というのは、少なくとも人を幸せにするために存在するものだ、と思っています。
ところが、親鸞会と関わった少なくない人が、苦しみながらフェードアウトする姿も見てきました。
親鸞会はともかく、弥陀の本願とのご縁まで遠ざけてしまうのは、個人的にもったいないことだと思います。

私自身は追い出されるまでやめないということにしていましたが、そんな私自身の経験も含めて書くことで、宗教によって苦しんでしまった人に対して、なにかしらのご縁にでもなればと思います。


にある通りです。


まあ、それはそれでその通りですし、そういう思いを持っていたためにこのようなブログになったわけですが、直接的に「どうしてブログを始めたのか」というのはまた別の話です。

せっかく5周年ということで、最初は私と親鸞会の出会いについて書こうと思ったのですが、ブログの内容に直接はまったく関係無いことを承知の上で変更してその話をします。
(いつものエクスキューズです)


・・・

前段の話として、20代のときに私は起業家セミナーに出入りしていて、数ヶ月に一度は話を聞いていた、ということがありました。そこで聞いた話の中で、とある健康食品会社の経営者の話として「●歳の時に△△をする」という人生計画表のような書いたらそのようになった」という趣旨のことを聞きました。眉唾物だと思われる方が大方だろうと思いますが、私も特段熱心に信用していたわけでも無く、さりとて「書くだけなら大して損もしないし」ということでうち捨てるわけでも無く20代も終わりを迎えようとしていました。


確か2010年の暮れだったと思いますが、俗に言う「1000円高速」が実施されていた折、ふと私は思い立って「人生計画表」を書いてみることにしました。しかも、ただ家で書いても仕方ないので行ったことも無いところへ行って書こう、ということで自動車を走らせ北へ向かったのでした。当時行ったことのあった北限が山形県酒田市、少なくとも酒田よりは北へ行って翌日昼には浦和に行かなければならないという微妙なスケジュールで、雪の中をどうにか岩手県まで進み、ホテルの中で思いつきの「計画表」を書きました。「表」は30歳から始めました。


そのように書いた背景までは説明しませんけれども、「表」の30歳の欄には「居場所を失った人の居場所となるWEBサイトを作る」という趣旨のことを書いていました。しかしながら、ただ書いただけのことですでに記憶の片隅にしまわれたこと、思い出して具体的に何をするわけでもなく30歳最後の日を迎えようとしていました。そんなタイミングで「表」に書いたことを思い出しました。


「表」に書いたこととはずいぶん違ったのですが、若干美化して言えば「思いを込めた結果」として、露骨に言えば「苦しんだ結果の産物」として、開設したのがこのブログでした。


「表」は単なるきっかけといえばきっかけであって、そもそも持っていた思いの表現ではありましたけれども、由来が微妙なゆえにスタンスがまた微妙になってしまったのかもしれません。とは言いながら、批判も多かった中、ごく初期から応援してくださったナイスミドルの方を始め様々な方に支えられ、様々なご縁を頂いて今日を迎えたということに深い感慨を覚えます。


いつつの不思議をとくなかに  仏法不思議にしくぞなき
 仏法不思議ということは  弥陀の弘誓になづけたり (高僧和讃)



南無阿弥陀仏

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