あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2017年07月

あさ川です。

ここ一週間ほど落ち着かない日々が続いておりまして(言い訳)、頂いたメールも読めていなくてコメントの未読も溜まってしまっておりました。そのことについて書くご縁があるかどうかは分かりませんけれども、書くご縁がありましたら書きたいと思います。

一つ私の最近の味わいを述べますと、弥陀を人の親にもしたとえるならば、腹の中から外に出てくるまでずっと願いを掛けて誕生を待ち望み、腹の中から外に出てからもずっと南無阿弥陀仏との縁を結ばせようと願いを掛け待ち望み通しの親であって、しかし因縁の世界のことで子が必ずしも願い通りに生まれ、あるいはご縁を結べないということもあるとすれば、願いを掛けるのも喜ぶのも悲しむのも、一人一人に対しての弥陀のお仕事なのだろうと、そのような心持ちの今日この頃です。


さて、月曜にとくよしみねさんから投稿文を頂いておりました(ありがとうございます)が、気付くのが遅くなり掲載が遅れまして失礼しました。愛知で山も山さんの勉強会のご縁だそうです。ご縁ある方は愛知までおいでください。


========(以下、とくよしみねさんから投稿文です)========


皆様へ、とくよしみねからのお知らせです。今回は山も山さん(宮田さん)の勉強会を開催します。
場所はいつもの愛知県です。
日にちは 8月 20 日 ( 日 ) です。
時間は 午前10時30分から午後5時までの予定です。
演題は「正信偈」についてです。
ご縁があれば是非ご参加ください。
詳細についてお知りになりたい方は、aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jpにメールしてください。
( アットマーク ) は” @ ”に変更してください。
折り返しお知らせいたします。
私にメールをくださる場合、少しプロフィールも書いていただけると有り難いです。
個人情報を漏らすようなことはいたしません。
また私のブログの URL は以下の通りです。
お暇なら見てください。よろしくお願いします。
http://tokuyoshimine.hatenablog.com/

あさ川です。

先の日曜日に、7月の埼玉恵日会がありました。なかなか最近文章を書けていませんが、味わいなどご縁があればまた書きたいなあと思ったりしております。


さて、RCさんからの前回の投稿文で、「念仏者の生き方」についての予告がありましたが、今回そちらの投稿文を頂きましたので掲載します。なお、先回お話しした通り、私は前回ご縁がありませんでした。ですのでこのようにまとめて頂けるのはありがたいなと思います。


RCさんに限らず、聞いたお話の内容でも、日頃のご自身の思いでも、自分でブログを作るまでいかないけど何か発表したい、というようなことがございましたら、お寄せ頂くのもありがたいかなと思います。


ちなみに、率直に言いますと「念仏者の生き方」のフレーズだけ見た時に私は少し引っかかってしまっていたのですが、最後を読んで「なーるほど」と思ったのでした。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========
RCです。

前回の投稿文の「唯識」の お話しのおしまいに、「念仏者の生き方」のお話しも 投稿しますと書きましたが、仕上がりました!

親鸞会で、「破邪顕正せよ」の話しの時に 「すごーく美味しい蕎麦屋を見つけたら、人に教えずにおれないでしょ?」と言われて「なるほど」って、思いました。

親鸞会の教義は、??? ですが、「美味しい蕎麦屋を見つけたら人に教えてたくなる」っていう話しには、頷けます。

「 美味しい蕎麦屋を教えたい気持ち」と同じ気持ちで、私は 「埼玉恵日会」のご縁のお手伝いをしたり、投稿文を書いたりしています。

では、念仏者の生き方について、阿部先生からお聞きしたことを 書きます。

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「念仏者の生き方」とは、一言で言ったら
「ご恩報謝」です。

「阿弥陀さまと出遇った」ということは、そこに 「ご恩」があるわけです。
今まで、阿弥陀さまが いない生活をしていた人が、「私を仏にしてくださる阿弥陀という仏がいらっしゃって、この私を仏にしようとしてくださっている」ということに 出遇ったということは、そこに「ありがたいなー。」というご恩が 生まれます。
そのご恩に報いるという生活をご恩報謝といいます。
「お念仏を申さないで 来た私」と、「この教えに出遇った私」の 一番大きな違いは 「おかげさまで、ありがとう。」という ご恩の世界が開かれたか、ご恩のない世界に生きているかです。

「ご恩」いうのは 何かというと、今まで、自分を成り立たせていたものを、当たり前だと思っていたのを、そうではなくても 有難いと頂く世界です。
今 私が、生きているということは、実は、他のものの命をいただいている。
他のものの命をいただいて、生きているのですから、これは、「生きている」というより、「生かされている」のですね。

食前に、「いただきます」というのは、食事をいただくというよりも、命をいただく。
「あなたの命をいただくことによって、私の今日の命が恵まれました。」という「いただきます」です。
そして、食後に
「尊いお恵みを美味しくいただき、ますます ご恩報謝に努めます。」というのは、 頂いた命をどう使って行くかということが、問題で、それは「ご恩報謝と使わせて頂きましょう」ということです。

ご恩報謝と使わせていただくということはー

仕事は、普通は、給料をもらうために仕事をしていますが、「ご恩」という世界は、「他の人の働きによって、自分自身が今 ここに こうして生かされている。」ーーこれは、仏教の縁起論です。
自分が、成り立っているのは、他のありとあらゆるものによって成り立たしめられている、成立させられている。
ということは、私が 今 ここにこうして あるのは、あらゆる 多くの命と、みなさまのお陰なのです。みなさまのお陰 というのが、大事です。
「 みなさまのお陰に よって、今 こうやって命を恵まれて ここに 私かおるんだ」と気づかされたら、みなさまのお陰に どう報いて行くかということが、ご恩報謝です。

具体的には、
お米を作っている人が、魚を捕っている人に、「あなたのお陰で」とお礼を言い、
魚を捕っている人が お米を作っている人に「いやー、あなたのお陰で」と言って、
「お互いが、お互いの姿に感謝し合う世界」
それが、ご恩報謝の世界です。

「浄土真宗の生き方」というのは、こういうことです。
浄土真宗が広まると、世の中は、どうなるかというと、
給料を稼ぐために仕事をしているんじゃなくて、他の多くの方々のお陰によって 自分の生活が、成り立っていると、気づかされたら、多くの方々にお陰に、報いて行くような生き方をしたいとなります。これが ご恩報謝です。

そうすると、お米を作っている人は、相変わらず、お米を作っているわけですが、お米をつくる目的が、違います。
「お金を儲けるためにお米を作っている」のではなくて、「他の方々のご恩に 報いるためにお米を作っている。」そうすると、お米作りが、「少しでも美味しいお米を食べて頂きたい」となります。
「少しでも美味しいお米の食べて頂きたい」という、ご恩報謝の日暮らしが 始まると、そのお米を食べた人が 「このお米は、本当に美味しいなー。有難いなー。」と 衣食住が来るのです。

「 衣食住を求めてお米を作っている人」と、
「ご恩報謝で お米を作っている人」とでは、お米を作っている姿は、同じでも、内容が違う。

内容が違うことを 「転」といいます。
「転ぜられる」のです。
転ぜられるというのは、内容が変わるのです。
仕事をしている姿は同じです。

浄土真宗の盛んな地域でも、浄土真宗がない場所でも、皆 仕事をして暮らしています。
浄土真宗の盛んな地域であれば、仕事をしている人に、「よう 仕事なさいますなー」と言うと「それは 皆さんのお陰ですからね。」と
ご恩報謝の応えが、返って来ます。
浄土真宗がほとんどない地域では 「よう 仕事しますね。」というと、「だって仕事しなけりゃ食べられないじゃないですか」と、なります。

今 、我々は、どっちに暮らしているかということです。
「仕事しなけりゃ、食えないじゃないですか」という世界に暮らしては、いませんか?

これは、仏法でも、なんでもないです。

皆さん、子どもを どのように育てていますかね?
子どもに「勉強しなさい。勉強しなさい。」と勉強させるでしょ。それで どう言っていますか?いい学校を出なさいって言っているでしょ。
自分の子どもの尻を叩いて、ちょっとでもいい学校に入りなさいって言っているのは、ちょっとでもいい就職をさせたいのです。ちょっとでもいい就職が出来れば いい給料が貰えるからです。
そういう風に、子育てしていませんか。
競争になるのは、当たり前です。

「学校に、入りました」っていうことは、誰かが落ちたのです。
人気のある企業に就職出来たということは、だいぶ落ちた人がいるっていうことです。

私か入ったってことは、誰が落ちたということです。

そして、皆が 「勝ち組」とか「負け組」とか、言っている、それが今 我々か生きている世の中では、ないですか。

お説教で、
「いいんですよ。そうやって自分の理想の生活を追求して暮らして行ったって。
そうやっていつか死ぬんだけど、死んでもお浄土だから」
こういうお説教が、今、多いのではないですか。

こういうお説教を聞いていると
浄土真宗に出遇おうが、出遇わまいが
生きている姿は、変わらないっていうことになってしまいます。

これでは、おかしいでしょ。

「浄土真宗に出遇った」というとことは、
「今まで存在がなかった阿弥陀如来という存在が、私の生活に 存在として、出て来た」というとことです。

それまで、阿弥陀さまのいない生活をしていた。具体的に言ったら 仏壇のない日暮らし、念仏しない日暮らしをしていたのです。 その人が、念仏する日暮らしになって 、お仏壇を買い求めて、そこにご本尊をかけて お給仕して、正信偈をあげたり、お念仏したりする生活にチェンジするのです。

何かどうチェンジしたのかというと、阿弥陀さまが、いない生活から、阿弥陀さまのいる生活に変わったのでしょう?
ということは、そこに当然「ご恩」 というものが、出てくる。そうすと 「ご恩に報いる日暮らし」というものが出てくる。
ご恩に報いる日暮らしをもっと拡大していくと
「今まで、当たり前だと思っていたこと」が、「当たり前ではなかった 」と気づかされ、「今までの当たり前」が、「おかげさまで」 と、喜べる。
その代表的なものが、命じゃないですか。

仕事して、お金払ってご飯食べているのだから、食べるのが、当たり前だと思っていたでしょ。
違いますよね。
だって この命は、お金では、買えません。
命は、頂くものです。

だから、「いただきます」と、
今日も一日、命を頂いて生かされて生きている、ありがたいなーと、このことに、気づかされていく。
そこには、お米を作ってくれる人のおかげが あり、魚を捕ってくれる人のおかげが あり、
「多くの命と、みなさまのお陰によりこの命を頂いて、深くご恩を喜び 、有り難く いただきます。」と言って 「頂いたその日々の命」を どうやって使って行くかといったら、
「尊いお恵みを美味しく頂き、ますますご恩報謝に努めます」と、
私の生きることによって、周りのご恩報謝に報いて行く。

「利他」とは、違います。
利他とは、そんなに簡単なものではないのです。
私たちが出来るのは、ご恩報謝なのです。

浄土真宗の門徒の生き方は、「菩薩行の利他行」では、なく「ご恩報謝の日暮らし」なのです。

「信心頂いたら、利他が 出来る」と間違っている人が多いですが、
私たちに、利他は、出来ません。
利他は、 我々が、還相回向の位になった時にやるのです。

お浄土に参らない限り、 我々は、利他はできない。自我が、あるうちは、利他はできない。
生涯 我々は、「自我のとらわれ」から離れることはできない。
自我のとらわれから離れられたら凡夫ではないですから。
やっぱり自分が、優先して行くのです。
だから、他を利する、利他行はできない。

念仏者の生き方は、ご恩報謝です。
みなさまのお陰によりと、そのお陰に 報いて行く生き方をさせていただく。
お米を作る人は、お米を作っている姿は変わらないが 、お金のためにお米を作っているのでは、なくて、ご恩に報いるためにお米をつくる。少しでも美味しいお米を食べて頂いたたいと、日々努力をする。ご恩報謝には、「努力」があるのです。昨日よりも、もっといい仕事をしよう、少しでもいい仕事をして 周りの人に喜んで、頂こうとか。
ご恩報謝で作った美味しいお米を食べた漁師さんが、「あなたのお米は、美味しい。おかげさまで、ありがとう。」と 言ったら 、お米を作っている人は「いや~、あなたが、新鮮なお魚を捕って来てくれるから、私も お米が、美味しく食べられる。こちらこそ、ありがとうございます」と、「お互いが お互いに手を合わせあう世界」が、 浄土真宗の社会では、ないですか。
そういう風に、仏さまがしてくださる。

「当たり前だ」と思っていたことが、「当たり前でない」と気づかされる世界が、浄土真宗の世界です。
気づいたところから、変わって行くのが 浄土真宗の生き方です。
だからこのように生きて行きなさいとか、あのように生きて行きなさいとかはないです。
生き方というのは示されていない というのは、ご恩が、知れたら自ずと、そこに生き方が 変わって行くはずです。

おかげさまってことが わからないから、
おかげさまが、当たり前になっているから
ご恩報謝も出てこない。

多くの命を頂き、みなさまのお陰を頂きながら、自分の思い描いた未来の実現のために生きている。
今、そういう生き方の方が多いのでは、ないでしようか。

「お陰」が ないのです。

他の命を頂いて、他の人の労力を利用して、自分の幸せを実現しようとしているのです。

そうやって生きて行って、最後死んでもお浄土だから大丈夫という説教が 多いのでは、ないですか?
生きる時は、金の力を利用して、自分が太る事ばかり考えて、ひたすらそれを追及して、
挙げ句の果てに、命おわったら お浄土だから大丈夫だって。

とこに仏法があるのですか?
そんなの仏法では、ないです。

仏法っていうのは、「おかげさま」です。

「浄土真宗に出遇う」ということは、「我々の現実生活が 変わる」のです。

「生き方」というのは、「ご恩」というものが、スタートです。
こう生きるべきとか、ああ生きるべきとか、
浄土真宗の念仏者は、こう生きなければいけませんという話しは、どこにもない。

いけませんという話しはなく、「おかげさまでしよ 」という話しがあるのです。

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以上、念仏者の生き方 のお話しでした。


南無阿弥陀仏


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