あさ川です。
そういえば最近このブログではありがたいことに投稿文の掲載が続いておりますが、裏を返せば自分の文章を書いていないなということで、いろいろありましたがようやく書き始めていたところ、RCさんから投稿文を頂きましたので掲載します。私の文章はいつできあがるか分かりませんけれども、ご縁あれば後日載せたいと思います。


ここしばらく雨が続いていることもあり、現在は盆とは思えないほど涼しい熊谷ですが、次回の埼玉恵日会の頃には暑くなっているかも知れません。ご縁のある方は熊谷までおいでください。
なお、前回ご紹介のあった、とくよしみねさんの勉強会は今度の日曜の予定とのことです。こちらもご縁のある方はお越し下さい。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========

こんにちは。
RCです。

9月の埼玉恵日会のお知らせをいたします。

日時: 9月 18日(月曜日 祝日)
14:10~17:00
場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室 2
(熊谷市男女共同参画推進センター)

講師: 阿部 信幾 先生
(本願寺派補教 )

阿部先生にお聞きしたいことが、ありましたら、私に メールで、送ってください。

rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp

アットマークは、@に変えてください。

質問の締め切りは、勉強会の一週間前の9月11日とさせていただきますます。
よろしくお願いいたします。


ところで、少し前に 阿部先生の ご法話で、お聞きしたことが、とても有り難かったので、ちょっと長文になりますが、書かせて頂きます。

仏教の知識が無い私が、ご説法のお話しを文字にしたので、読み直してみると、わかりにくい部分もあるなーて思いますが。
我慢して読んで頂けたらって思います。

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「正信偈大意を通して、正信偈を学ぶ 」ということで、善導大師の「光明名号顕因縁」のところを お聞きしました。


「光明名号顕因縁」といふは、弥陀如来の四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり、これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就してあまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。しかれば名号執持することさらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。このゆゑに光明の縁にきざされて名号の因は顕るるといふこころなり。

この文章は、光明と名号はどういう関係にあるのか 善導大師が 顕かになさったということです。

これを丁寧にいうならば、阿弥陀如来の48願の中の第12の願を 光明無量の願といいます。
48願は、全部 大切な願ですが 、ことに
17願、18願、11願、12願、13願 の五つ、五願といいますが、これが特に重要です。
どのように重要かと言いますと
第17願は、行を誓っている。
第18願は、信が誓ってある。
第11願は、証か誓ってある。
12願、13願は、真仏真土が誓われている。

行、信、証、真仏土、
「教行信証」の 教が かけているだけですね。

教行信証という書物は、48願の中の 第17願、18願、11願、12願、13願を根拠として書かれています。
浄土真宗の教義が 皆、ここに収まるということです。
17願は、行が誓ってあるということについて、学派によって解釈が、分かれます。
「行を念仏だという学派」
それに対して、
「行は名号という学派」があります。
どっちを押さえても間違えではないけれど、
その押さえ方によって 教行信証そのものの読み方が違ってくる。教行信証の取り扱いが違うから、そういう違いが出て来るとも言えます。

私が習いましたのは空華という学派でしたが
そこでは、「行は 名号」、「名号のはたらき」「南無阿弥陀仏というはたらき」を行といいます。
そして 「南無阿弥陀仏というはたらきがあるということを信ずる」、それを 信 という。
これを誓ってあるのが、第18願。
だから、17願と18願は、セットになっているのです。

18願は、信心を誓ってある。
何を信じるのかと、いうと、南無阿弥陀仏のはたらきを信じる。
「南無阿弥陀仏となってはたらく」という誓いが17願。
「南無阿弥陀仏のはたらきを 信ぜさせる」というはたらきが、18願。
両方、他力です。

「南無阿弥陀仏とはたらいて、すべての者を仏にする」、そのはたらきを行という。それを南無阿弥陀仏の名号で表わすのだというのが、
第17願を名号で、押さえるという言い方です。

その名号のはたらきを信じるのを信といいます。
第18願に信心が誓ってあるのは、このことです。
その信心が、正因となって、11願が仏果、
第11願は、必ず滅度に至らしめるという願。
滅度というのは、さとりですから。
必ずさとりに至らめるという願が、第11願。

ですから、
名号となってはたらいて、信心を与え、さとりを開かせるのが、全部 阿弥陀さまの本願のはたらきなのです。

17願と、18願と、11願のはたらきです。
そして、その元になっているのが、12願と、13願で、これは何を誓ってあるのかというと、
12願は、私は光明無量の仏になる。
「光明無量の仏になる」とは、「どのような場所にいる者の上にもはたらく仏になる 」ということです。
13願は、寿命無量を誓っています。
寿命無量は、「いつの時代に生まれた者の上にもはたらく。」ということです。
光明無量、寿命無量、だから阿弥陀と名付けるのです。
アミダ というのは 計れないという意味ですから。何が計れないのかというと、一つには、光明が計れない。もう一つは、寿命が計れない。

光明が計れない、光明が無量だというのは、
光明は私を救う仏さまの知恵のはたらきを指しますから、知恵のはたらきが どんな場所にいる者の上にも届いているということです。
正信偈の 「超日月光 」というのは、光明無量のはたらきを表しています。

13願は、寿命無量の仏になると誓っています。
寿命無量とは、どんな時代に生を受けた者の上にも はたらいているということです。

光明無量、寿命無量ということは、阿弥陀さまの救いのはたらきを表わし
いつでも、どこでもはたらく仏ということを
12願と13願で、表しているのです。

いつでもって言ったら 「今」ということ、
どこでもって言ったら、「ここ」ということです。
ですから 光明無量、寿命無量の本願は、
「あなたのいるところにいつでも 届いている」ということを表しているのです。
何が届いているですか?と言ったら、

︎この12願と13願が元 で
︎名号となってあなたの世界に届くというのが17願で、
︎その名号を信じる信心をあなたに与えるというのが18願、
︎その信心を因としてさとりを開かせるというのがはたらきが、11願。

これが 五願です。

ですから、教行信証という書物は、何を表しているのかというと、
阿弥陀さまのはたらきは、いつでもどこでもどんな者の上にもはたらいているんだということを 教 、行 、信 、証 、真仏土という書物で表してるのです。
それを書いてあるのが、お経です。
このお経は、仏説無量寿経ですから、
「教」は、仏説無量寿経が、上げられています。
仏説無量寿経には 何が説かれているのかというと、17願、18願、11願、12願、13願という「 すべての衆生を仏にする」というはたらきが説かれているのです。

仏説無量寿経は、おさとりを開いたお釈迦さまが、「すべての者を仏にするはたらきが、もうはたらいている」ということを私に告げてくださっている お説教です。
ですから、私たちは、はたらきの中に居るのだということです。
はたらきの中に居るのに、何故 私がまだ さとりを開かないでいるのか?その原因はどのにあるのか、それが問題です。
それは 「私の自力心」が、迷いの原因なのです。

自力心が、迷いの原因だと明らかにしたのが、教行信証の6巻目の 「方便化身土 巻」です。

(中略)

阿弥陀さまは、無碍光如来です。
無碍光とは、妨げるものがない。
碍とは、わたしたちの無明煩悩です。
阿弥陀さまのはたらきは、私たちの無明煩悩が邪魔にならない。
阿弥陀さまは、私たちの無明煩悩を問題にしない仏です。
それが、無碍光如来 という名前です。
ということは、私が迷っているのは、私の無明煩悩が原因では、ないのです。
せっかくそれを治す薬があるのに薬を飲まない。
阿弥陀さまの薬を、拒絶するのが、迷いの原因です。
阿弥陀さまの薬を拒絶する心を自力心 といいます。

阿弥陀さまのはたらきがあるのに、それを拒絶し続けてきたから迷っているのです。
「自力心が 私の迷いの原因である」いうことを明らかにしたのが、「教行信証の6巻目の化身土の巻」です。

阿弥陀さまのはたらきは、目に見えません。
春も、はたらきですから、見えません。
春が来たのが、わかるのは、花が咲くからです。
阿弥陀さまが はたらいているって言っても、はたらきは、見えません。
阿弥陀さまがはたらいているって何で、わかるのかというと、
一つには、お釈迦さまが、仏説無量寿経 というお経を説いたこと。これが、第17願です。
「お釈迦さまが仏説無量寿経を説いたこ」とが、「阿弥陀さまが成仏している証拠」です。

仏説無量寿経の内容は、一切全ての生きとし生けるものを仏にするはたらきがはたらいているということを私に告げているのです。

(中略)

無量寿如来というのは、見えない仏さまです。
だけど見えない仏さまのままでは、私の救いにも何にもならないので、私の上にはたらいているということを念仏で表しているのです。

「 念仏の声が聞こえている」ということは、「阿弥陀さまが はたらいて、あなたを仏にする仏がはたらいているぞ」と、私に告げてくださっているのです。

お念仏は阿弥陀さまのはたらきで
「私が、お念仏している」ってことは、「阿弥陀さまのはたらきが もう 私の中に届いて はたらいている」って言うことです。

阿弥陀さまのはたらきが届いてもう私の中ではたらいているのだから 私が お浄土に参るのは間違いない、こういう話しです。

言い方を変えれ、阿弥陀さまのはたらきにまかせるというのは、念仏を申すということです。反対の言い方をすれば、お念仏をしない人というのは、せっかく薬があっても飲まない人。せっかくお医者さまがいてもお医者さんの世話には、なりませんと治療を拒否する人です。

以上も前のことを踏まえて、正信偈大意を読むと、意味がわかると思います。

︎「光明名号顕因縁」といふは、弥陀如来の四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり、

というのは、どんな場所にいる者の上にも 私のはたらきは、届いているのだ、ということです。

︎これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。

念仏の衆生というのは、阿弥陀さまからはたらきにおまかせした者。おまかせした者が、摂取というのは阿弥陀さまの光明に収めとららて、
二度と迷いの世界に戻らない、これを摂取不捨とか、不退転、正定聚といいます。

︎かの願すでに成就して

12願が、すでに 成就して

︎あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、

どんな場所にいる私の上にも そのおはたらきが届いていたのだ。

︎衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。

私の側の煩悩悪業を 長い時間照らしてくださって、

︎さればこのひかりの縁にあふ衆生、

私たちのこと、

︎やうやく無明の昏闇うすくなりて

迷いの闇が だんだんうすくなって

︎宿善のたねきざすとき、

宿善というのは、「たまたま行信をえば、遠く宿縁を喜べ」とおっしゃったように、宿縁ともいいます。宿は、過去ということ。
過去に善、過去の縁とは、仏さまのはたらきのことです。
仏さまのはたらきが ようやく私の上にはたらいて、無明の闇が だんだんうすくなって

︎宿善のたねきざすとき、
まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。

南無阿弥陀仏の名号を聞くということは、「はたらき」によって聞くのです。
私が仏法の話しを聞こうという心を起こしたことも、こうやってお話してを聞かせていただいて、しかもそれが信じられて はからいに用事がなくなったということは、すべての 第12願の 「わがひかりきわなからん」という仏さまのはたらきが どんな者の上にも届いているということによって、起きるということです。


︎しかれば名号執持することさらに自力にあらず、

名号を 執持というは、念仏です。
念仏は、自力ではない。
阿弥陀さまのはたらきが私の上にお念仏となってはたらいてくださっている。

︎ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。このゆゑに光明の縁にきざされて

12願の光明無量のはたらきによって

︎名号の因は顕るるといふこころなり。

名号の因とは、いろいろな取り方がありますが、具体的には、お念仏を申す身にさせていただいている。ということです。

これが、光明と、名号の関係です。

私たちが、お念仏を申させていただいているということは、元を正すと、
光明無量の願のはたらきによって、私たちが、お育てをいただいて、今 ここに南無阿弥陀仏の名号が、お念仏となって現れているということなのだ
ということを 光明た名号の因縁を顕す
と 言われています。

他力の念仏ということは 顕におっしゃったということです。

ここに善導大師の手柄があります。

それ以前は、念仏は、私が称えるという一つの阿弥陀さまの条件を満たすという行ない。
私が 阿弥陀さまの条件を満たしたら、浄土が成立すると 普通は考えますね。
善導大師の時代にも、そう考えていた人がいたのです。

それまでの仏教は、「修行をして悟りを開く」という仏教だったので、念仏もその一つとして、捉えられました。
修行して悟ろういう人たちにとっては、念仏は、ただ口に 南無阿弥陀仏と仏名を称えるだけのことだから、そんなようなことで直ちに悟りを開けるような行ではない と、考えられていました。悟りが高ければ高いほど、その修行は難しいはずです。簡単な修行で手に入れるようなものは、あまり価値がないというのは、
修行して悟りを、開こうとしている人たちにとっては、常識でした。

その中で、南無阿弥陀仏のお念仏も 大した行では、ないと言われていました。
「念仏して、浄土に往生する」っていうのは、お釈迦さまが、仏縁のあまりない人に対して、それを勧めることによって仏法に引き入れる為に「方便」として説いた、念仏して 直ちに悟り獲るということはないとされていました。
念仏にあまり値打ちを見ていなかったのです。

それに対して、善導大師が
「ちがう。」と言って 光明と名号の因縁を顕かにしてくださった。
「切符を買ったら、電車に乗れる」という、念仏は、切符くらいの話しではないのです。

念仏が申されるまでには、過去に無量寿如来の
光明無量の願のはたらきによって、それが六道輪廻している者の上に、そのはたらきが、積もり積もって、その者が、ようやく「南無阿弥陀仏」た、お念仏をする者に仕立てて頂いたのだということを、善導大師が、顕かにしたことを
「光明、名号の因縁を顕す」と、おっしゃっているのです。

ですから、それまでの人が、受け止めていた念仏とは、違うのです。
善導大師以外のお坊さんは、皆 修行して悟りを開くとしか受け止めていなかったので
その修行の一つとして 南無阿弥陀仏と口に名号を称える行と、一応しておきましょう。という程度の念仏の扱いでした。
お念仏は、あまり価値のある行では、ないと受け止められていました。
だから、お念仏によって開ける悟りなど 大したものでは、ないと考えていたのです。

それを善導大師が、ひっくり返したのです。
念仏往生とは、そんな話しではなく、全部他力。
だから 人が念仏を申すようになる前には、果てしない阿弥陀さまの 「その者を助ける」というお慈悲のはたらきが、ずーっとあったから、私がここで、今 念仏を申す者にしていただいているのだ というのが、善導大師のお言葉です。

このことを明らかにしたということを

光明名号の因縁を顕す。

︎しかれば名号執持することさらに自力にあらず、

お念仏を申す者にして頂いたということも他力であれは、今ここに、こうやってお念仏を申しておるということも他力なのです。、

︎ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。

光明のはたらきによって、そうして頂いた。

たとえて言ったら、春が来たら花が咲くと同じように、
光明のはたらきによって お念仏をする者が存在するということです。
光明のはたらきが、なければお念仏を申すものがいないということです。

そのことが、
︎このゆゑに光明の縁にきざされて名号の因は顕るるといふこころなり。

ということであります。