あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2018年09月

8月はお盆だったこともありまして、先日久しぶりに阿部先生のお寺の定例に行きました。最近の私はあまりいろんなところに行かなくなって、だいたい数カ所の決まったところに行くくらいになってしまいました。

阿部先生のお寺の西福寺に行くとき、私は昼食として近くのうどん屋で食事をします。気に入って行っている店は2カ所ありますが、今回はそのうちの一カ所に行きました。

普段はそれほど混雑していない店なのですが、たまたま混雑していまして、相席してくれと言われました。そのテーブルで、久しぶりに会うお同行が座っていました。


以前も明らかに同じようなことを書いたのですが、そんなことがあったのでまた書きます。


以前に、「あう」ことについて便宜上以下のような分類をしていました。

①AはBを目当てにあいに行った。BはAに予期せずあった。
②AとBは互いに予期せずにあった。


今回の私は、うどん屋で「あう」ことについては予期していませんでしたし、おそらく彼にとってもそれは予期していなかったでしょうから、そうすると②の「あい方」と言えるでしょう。

この予期しない「あう」ということを、親鸞聖人は「遇う」といった表現でなされています。前回も引用しましたが、また引用してみます。


「遇はまうあふといふ、まうあふとまふすは、本願力を信ずるなり。」
とあり、『教行信証』の総序にも「遇い難くして今遇うことをえたり」とあり、正信念仏掲の「一生造悪値弘誓」を念仏正信偈には「遇弘誓」となっている。遇のまうあうは目上の人から目下の人に向う場合に使われる用語といわれ、しかも全く予期しないあい方である。それは自らの予想し、求めている方向にないからである。
(稲城選恵著 『他力信心の特色』)



そうすると、前回の記事を書く以前と同じ味わいということになるかもしれませんが、一つ言うなれば、私は「西福寺に行けば彼に会えるかも知れない」という期待を持っていたということでした。そういう意味では前回と同じ話になるのですが、「あった」のは寺ではなくてうどん屋でした。


AとBで並べるとわけが分からなくなるので並べませんけれども、今回も弥陀と私の話として強引に味わうならば、


・私は弥陀に(このようにすれば)「あえる」だろうという期待を持っていた。しかし、思いがけないところで「あった」
 弥陀は私が目当てであった


前回のAとBの話は、「私の立場から見た」場合に①と②は同じでした。いわば「弥陀の立場から見た」(であろう)違いを書いていまして、ついでに言えば「私」の作為も問題にしていませんでした。

そういえば、南無阿弥陀仏を喜ぶ前、というとおおむね学生時代の話になるのですが、ああすればどうかこうすればどうかという思いから離れなかったというのは、まさに自力心全開だったといえるでしょうか。ついでに言えば、弥陀の本願にあう(というより私にとっては「人生の目的達成」でしたが)ということの結果としては、また想像する結果があったものでした。

現在から見れば、確かに望んでいたとおり以前の定義に於ける「人生の目的達成」したのでしょうが、それは学生時代の想像とは全く異なることでした。結局のところ、「自らの予想し、求めている方向に」無かったからでした。



今回の話も、総体から言えば特段目新しい話でも何でも無いのでしょうが、ふとそのような味わいがありましたので、このように書いてみました。


ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽*150せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
(総序)

あさ川です。先日、掲載予定といっていた投稿文については、都合により掲載しないことになりました。

さて今日は、RCさんから埼玉恵日会のお知らせをいただきましたので掲載します。もう熊谷はすっかり涼しくなりました。もう今年は40度を超えることはおそらく無いでしょう。


========(以下、RCさんから投稿文です)========

RCです。

次回の埼玉恵日会のお知らせをさせていただきます。

日時 : 10月7日(日)14:00〜17:00
場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21
4階ハートピア 会議室
(熊谷市男女共同参画推進センター)

講師: 阿部 信幾 先生
(本願寺派補教 )

埼玉恵日会は、親鸞聖人の教え、浄土真宗を 知りたい人の為の勉強会です。
質問形式の勉強会で、真宗の理解を深めたいと思っています。
予め 質問を集めて、先生に応えて頂きますので、その場で 質問する勇気がなくても、また 匿名でも 大丈夫です。

親鸞聖人の教えについて、質問のある方は、以下のアドレスに メールで質問を送ってください。先生に 当日 お答え頂けます。

アドレスは、
rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
(アットマークは、@に変えてください)

*今年の今後の日程は、 12/2 です。

ところで。
8月の阿部先生のご自坊(群馬県 西福寺)での お盆法要の帰りに、親鸞会の埼玉熊谷会館に寄って、親鸞会会員さんとお話しした時に、「浄土真宗の信心」と、「親鸞会で教えているところの信心」のズレを実感したので、そのことを書かせていただきます。

親鸞会では、高森会長から「目の前の小さな川を渡れない者が、その先にある大きな川を渡れるはずがない。」という話しをよく聞きました。
今の人生の苦しみの解決が 出来ずに(目の前の小さな川を渡れずに)、後生の一大事の解決(先の大きな川を渡ること)が、できるはずがない。今の苦しみが解決出来たら(= 絶対の幸福になれたなら)、後生は 極楽参り間違いない身となれるのだと聞き、早く 絶対の幸福になりたいと願っていました。
現在の私の「苦しみの人生が、喜びの人生に、急に ガラッと変わること」が、親鸞会で教えられている「救い」「親鸞会の信心決定」ということだと思います。お話しした会員さんもそう理解されていたようです。
だから、 親鸞会会員さんは、今の自分の心に 何か凄い変化が 起こるのを待っているのでしょう。聴聞を重ね、親鸞会へ貢献していれば、やがて、そういう凄い変化が 自分の心に起こると信じて、頑張っておられるのだと思います。

しかし、よく考えれば、苦しみが、喜びに変わるって、変ではないですか?
例えば、多くの人は、周りの人と 仲良くできて、やり甲斐のある仕事をして、家族円満に、健康に暮らして行けたら、いいなーって、思っていると思いますが・・・。
もし、周り中から嫌われて、仕事も無く、家庭内暴力で 一家離散して、重い病になったとしても、「絶対の幸福」に 救われてさえいれば、幸せで 喜びいっぱいで生きていられるって わけでしようか???
「絶対の幸福」という言葉は、本当は 空っぽで 実体のない、妄想の言葉でしかないのではないでしょうか?
そんな幼稚な妄想の言葉に 迷わされて、大切な人生を終わって欲しくないです。
私も、30年以上も、絶対の幸福を目指して 聴聞し、お布施もし、活動もしましたが、心の変化などありませんでした。
そんな虚しい教えで、どうやって 十方衆生を助けることができるでしょう?
今、私を救わない教えが、真実の教えですか?

早く 間違いのない真実の言葉「南無阿弥陀仏」を聞いていただきたいです。
「南無阿弥陀仏」は、私の往生の証拠です。
阿弥陀仏の本願成就が、南無阿弥陀仏となって 今 ここに 届いてくださっているのです。
「南無阿弥陀仏」は、阿弥陀さまが 私を救うとおっしゃっているお言葉であり、私を救う 阿弥陀さまのお姿が、南無阿弥陀仏です。
南無阿弥陀仏という 私の往生の証拠が、届いていることをお聞きすれば、 私の自力など 全く用事がなかった、私のはからいは 要らなかったと、はからいは 廃ります。
阿弥陀さまに おまかせして、「安心」して生きていけます。
苦しみは、苦しみとしてありますが、南無阿弥陀仏が 支えてくださっている人生だから、安心して生きていける、そして 安心して死んでいけます。

阿弥陀さまのご恩を喜んで、そして お念仏となってはたらいてくださっている阿弥陀さまにおまかせして(=お念仏して)、生きて行くのが 真宗門徒だと思います。
早く、本当の浄土真宗の教えを聞いていただきたいです。

大宇宙が火の海になっても、聞かなければならないのが 仏法ですが。
親鸞会では、必死になって 聞きに行っても、そこで また、「必死に聞かなければならないのが仏法」ということを聞かされるだけした。
聞くのことの中身を 教えていないのです。
大宇宙が火の海になっても 聞かなけらば ならないことは、「南無阿弥陀仏」の おいわれです。「仏願の生起本末」です。「南無阿弥陀仏が 私の往生の証拠だということ」です。
私の代わりに阿弥陀さまが 命かげで、ご修行してくださり、南無阿弥陀仏になってくださり、南無阿弥陀仏と 喚んでくださり、南無阿弥陀仏と おはたらきくださって、全部、阿弥陀さまが仕上げてくださっているので 、私は そのことを 喜んで 南無阿弥陀仏と お念仏させていただくだけです。
こんなに 有り難いご法義なのに、違う話しを聞かされている親鸞会会員さん。
早く 南無阿弥陀仏のおいわれを 聞いていただきたいです。

南無阿弥陀仏

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