あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2018年11月

遅ればせながら、親鸞会の親会員の会費が5000円になったらしいということを知りました。そして、例の映画(血染めの恩徳讃のリメイクとおぼしきもの)の、ブルーレイとDVDが15000円以上で販売(どうもお布施の記念品扱いのようですが)されたらしいということも知りました。

思い出すのは、親鸞聖人アニメのDVDが出ようとしてた時のことです。

後輩の一人が、「ビデオじゃなくてDVDなら買いたい」と言っていました。なぜかと聞けば、「ビデオは1本15000円で高いけど、DVDなら安いから」とのことでした。確かに一般で売られているDVDは3000円くらいでした。当時、DVDの価格がいくらになるかは分かっていませんでしたが、私は「DVDだからといって安くなるとは限らない」と話をしました。親鸞会なら、間違いなくDVDだから安くするなどということはしないだろうと思っていたからでした。

果たして、親鸞会経験者の皆さんならご存じの通り、DVDもVHS版と変わらない値段で販売されました。

一般的な感覚ですと、ブルーレイとDVDの抱き合わせとは言え15000円は高いのですが、親鸞聖人アニメ時代を思うと、親鸞会も幾分良心的になったなあと思ってしまった私は、随分毒されているような気がしました。


前回の記事は、本文中にある通りメッセージをいただいたことから出発していたのですが、肝心のメッセージ内容をお出しすることができなかったので、いつも以上に脈絡の無い文章になってしまったなあと思いながら更新してしまいました。

そういいながら今日も脈絡の無い文章を書きますが(いつものことですが)、タイトルを「雑感」と付けたのは、いくらかの言い訳であるとお捉え下さい。


さてもう一つ、埼玉県といいますか熊谷近辺だけの現象なのか、全国的な現象なのか分かりませんが、ここ一年くらい、駅の入り口でチラシを配っている宗教団体の皆さんが見られます。

親鸞会とは比較にならないくらいの規模の団体ですので、運動員の皆さんも多かろうと思うのですが、数日にいっぺんは見かけます。

見かけた当初、彼らは特段名乗るわけでも無くチラシを配っていましたが、新聞を配っていた時期は、「安倍政権のことが書かれています」とか「もりかけ問題のことが書かれています」などと言っていました。

私は見かけた当初、宗教団体だと推測しつつ(どの宗教団体かまでは分かりませんでしたが)チラシをもらいまして、「やはりなかなか宗教団体を名乗るというのは抵抗があるのかなあ」と思ったものでした。(その後、新聞ももらったりしたのですが、宗教嫌いの妻に注意されたので、それ以降もらうのはやめました)

ところが、もりかけ問題が盛り上がらなくなった頃から、彼らは自分たちの宗教団体を大声で名乗るようになりました。みんなで「堂々と名乗るべきだ」と思ったのかどうか分かりませんけれども、とにかく名乗るようになりました。

もっとも、ごく最初の頃は手に取る人もあったチラシですが、さすがにずっと見かけるからか、手に取る人は見なくなりました。


私は親鸞会からは無関係の人扱いされているらしいので、無関係で良いのですが、彼らを見るたびに親鸞会の、特に学生会員を思い出します。

親鸞会であることを隠して勧誘することについては批判が多いです。一時は早めに名乗った時期もありましたが、ちらし配りやら声かけやらで親鸞会を名乗ることはまずありませんでした。今はどうなのでしょうか。

私は学生時代、自分の大学では声かけやちらし配りなどを全くやりませんでしたが、他大学へ行ってせっせと声かけしていました。その時ももちろん、親鸞会などとはいいませんでした。仏教です、くらいのことは場合により言っていましたが。

時代によっては名乗っていたこともあったかもしれません。ただ、ここ20年ほどは少なくとも勧誘時に名乗っていないと思います。

どんな思いだったでしょうか。

相手の仏縁を念じてでしょうか。

私の場合は単純な話、「名乗るのが恥ずかし」かったからです。残念ながら、宗教団体に入ることイコール人生を投げ捨てることだという人生観で大学生になっていた私にとって、親鸞会との付き合いは人生を投げ捨てる営みであったので、その心持ちは大学を出るまでありました。ついでに言うと、本願寺シリーズの文章に始まるメンタリティも、私の感覚では随分恥ずかしいものでした。ある意味、南無阿弥陀仏とのご縁を喜んでからは抵抗感が薄らぎましたが、学生時代は「一緒にしないでくれ」とさえ思っていたものでした。

あと付け加えるとすれば、相手が親鸞会に入会する必要は無いと思っていた、ということもありました。仏法とのご縁があるなら、親鸞会でなくてもよいと思っていたのでした。


そういう御託を並べても詮無いことですが、宗教団体であることを駅前で声を張り上げて名乗るご婦人たちの姿を見て、親鸞会であることに誇りがあるならば、堂々とすれば良かったのだよなと思ったものでした。

なお、先に述べた通り、私は親鸞会に誇りなど持ち合わせては居ませんでした。現役の会員さんからしたら、随分みっともない奴だなあと思われるでしょうが、それゆえに今の状態があるのかもしれません。
現在の私は親鸞会からは無関係の人ということになっているようですが、そんな立場で「誇りがあるならば堂々とすれば良いのに」と申してみました。他人事であることは否定しません。

ただ、誇りを持てるものがあれば、それは有り難いことだと思います。

実は私の中で最近ちょっとというかそれなりに面白い事象がありました。といってもそう思っているのは私だけで、妻とすらそんな話はしておりません。たいした話ではないのでさっさと書きますと、丸一日このブログの存在が頭からすっぽり抜けた日があったということでした。

私はブログの更新こそサボりまくってますが、毎日往復5時間にも及ぶ通勤時間やら移動時間やらがあるおかげで、実はその中でブログのあれやこれやと思い煩う時間が、大なり小なり毎日存在していました。それが今月のある日、すぽっと丸一日以上忘れてしまっていたことがあったのでした。

ちなみに、少なくとも今月に入ってから親鸞会関係のブログはまったく確認していませんでしたので、実は浦島太郎状態です(久しぶりに少しだけ読んでたら、ほっこりしたのとひでえなあという感想が別々に出てきましたが)。一ヶ月ほど更新していないこともありまして、そろそろと久しぶりにPCを起動したところ、これまた久しぶりにメッセージをいただいていたことに気付きました。

メッセージは5日にいただいていたので、ほぼ一週間放置していたことになるわけですが、連絡先が無いのでお返事ができません。ブログにてお返事ということも考えたのですが、「頂いたメッセージ及びその他の情報を、投稿者の同意無くあさ川が第三者に見せることはありません」と書いている以上はそういうことも好ましくないかと思いますので、お返事という体裁は取らずに違うこと(雑感)を書きます。
メッセージをくださった方がもし何かやりとりを希望されるようでしたら、改めてメッセージなりコメントなりをいただければと思います。



このブログをお読みになっている方の多くは、浄土真宗親鸞会という宗教団体に何かしら関連のあった方だと思います。何かしら関連があったといっても程度の問題がありまして、私のように会員歴がある方もあれば、私の妻のように会員歴の無い方もあると思います。

そして、会員歴のある方も大きく二つあって、今現在も会員である方と、私のようにすでに会員でない方とあるでしょう。

今現在会員である方も、やはり程度がありまして、バリバリの方から今すぐにでもやめてしまいたい方、あるいはかつての私のように何らかの思惑があって会員を続けている方、様々だと思います。

で、すでに会員でない方にもいろいろあろうかと思います。


ここで、会員でない方を「浄土真宗との関わり」で考えた場合、乱暴に分けると二つに分かれるかと思います。親鸞会を離れて浄土真宗の教えを聞いている方と、浄土真宗からいったん離れている方。

交際の幅が恐ろしく狭い私の場合、元会員さんとのご縁はたいがい真宗のご縁だったりしますので、浄土真宗の教えを聞いているという方との接点が必然的に多くなるのですが、絶対数でいえばおそらく「いったん離れている方」が多いのではないかと思います。

いったん離れている方にもいろいろあることは承知の上で、あえて二つに分けるとすると、宗教自体に懲りてしまって宗教から離れた生き方をする方と、別の宗教に入信する方。


今回、メッセージをいただいた方は、おそらくこの「宗教自体に懲りてしまって宗教から離れた生き方をする」ことを選んだという方だろうと思いました。

私も学生時代以前からそういうことを志向しておりましたのでその気持ちは分かります。そういう観点で見ると、宗教的解決というのがものすごく安易に見えたり、自分とは隔絶された心境(自分とは違う世界のような話)に思えたりするものです。

そんなふうに思いますと、蓮如上人が「南無阿弥陀仏は往生定まりたる証拠」と言われたという話を聞いてももはや理解の範疇に無いというようになるでしょう。もはや浄土真宗の聖教自体がまったく権威を持ちません。

自分で確認できることでなければ信用がならないとする立場と、その反対の立場とでは話が噛み合わないのも無理ないです。


先ほど私は「いったん離れている方」と、あえて「いったん」を付けたのは、上記のことも含めてすべてご縁であると味わっているからです。今は離れていてもやがてご縁のある方もあるでしょうし、その反対の方もあるでしょうし、ずっとご縁のない方も、ずっとご縁のある方もあるでしょう。それらすべてはご縁なのだと味わっています。


親鸞会で痛い目を見て、親鸞会を否定するあまりにいろんなものを否定したくなるという方もあるようです。そうして親鸞会を否定し続けることが親鸞会の影響から離れることだと思われているのかもしれません。ただ、私が思いますに、親鸞会を強く否定すればするほど、親鸞会に強く入れ込んでいる方同様に、親鸞会の影響を強く受けているように見えます。(目的を持って意図的に批判をしているブロガーの皆さんは除きますが)

私から見れば、親鸞会を否定するために親鸞会的(に見えるよう)なあらゆるものに目くじらを立てるとすれば、いわゆる「バリ会員」と同じくらいに親鸞会的です。


そこの感じ方には個人差があるでしょうが、親鸞会なんてどうでもいいというか、忘れるまでいかなくても(忘れても)いいのですが人生の肥やしになるくらいになれば良いのではと思いました。


もっともそれは、私が「親鸞会を離れるまでの心の揺らぎ」や「親鸞会をやめた後の苦しみ」のプロセスを経ていない※が為に言えることなのかも知れません。


なお、親鸞会は人生に対してまじめな皆さんを浄土真宗から遠ざける事例があまりに多いというようには思っておりますので、親鸞会の擁護をする気はございません。


最近はどうも雑になっているきらいもありますが
なんまんだぶ




※補足

ブログには再三書いていることですが、大ざっぱに言えば「親鸞会に入った当初の目的はすでにに達せられていていたので、それから親鸞会を追い出されるまでの約7年間はどちらでも良い状態であった」ということです。

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