あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

2019年03月

あさ川です。

数日来PCを起動していなかったところ、メッセージをいただいておりました。気づくのが遅くなりまして失礼しました。連絡先は頂戴しておりますので、今しばらくお待ちいただくことになりますが後日お返事をしたく思います。


さて、RCさんからの埼玉恵日会のご案内をいただきましたので掲載します。今回は駅直結の施設ではなく、熊谷駅南口側にあるホテルが会場とのことです。
途中で「オオバク宗」とあるのは、おそらく黄檗宗のことだろうと思います。


なお、昨年末から決まっていたことではありますが、今回私は残念ながらこれのためにご縁がありません。私はご縁ありませんけれども、ご縁のある方は熊谷にお越しください。

=======(以下、RCさんからの投稿文です)=======

RCです。

いろんなことが ありますが、いつの間にか、 春になりました。

前回の 埼玉恵日会は、2月でしたので、まだ

冬の真っ只中でしたが。次回は 4月21日ですので、 春 真っ只中の開催となります。

5月には、新しい年号となりますので、次回が、「平成 」最後の埼玉恵日会です。

「平成」って、「平生業成」を知っている人が 考えた年号だったのでしょうか。

もし、そうだったとしたら、嬉しいですね。

そうであっても、なくても、「平成」いう年号の時に、私たちは、平成業成のご法義に 出遇えたんですね。

なもあみだぶつ



では、次回の埼玉恵日会のご案内をさせていただきます。



勉強会は、

日時 : 4月 21日 (日)14:00〜17:00

場所: 熊谷ロイヤルホテルすずき

(JR熊谷駅南口 徒歩2分)



講師: 阿部 信幾 先生

(本願寺派補教 )



*今年の今後の日程は、 6月2日、8月4日、10月20日、12月1日です。



埼玉恵日会で ご質問をされたい方は、私に

メールで 質問を送ってください。

よろしくお願いします。

私のアドレスは、

rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp

アットマークは、@にしてください。





ところで、埼玉恵日会での阿部先生のお答えについて、Jさまが ブログに記事を書かれて、いろんな方から、様々なコメントがあり ました。私も 「念仏往生」ということにつきまして、少し 勉強させていただきました。



それで、埼玉恵日会での やり取りにつきまして、少し補足しておきたいことが、ありますので、ここで 述べさせていただきます。



昨年の夏頃の埼玉恵日会で、Jさまが「阿部先生は、阿弥陀さまは、念仏称えよとは、おっしゃっていないと、言いましたが、私は、念仏称えよと言っていると思います。」という事で、いろいろ根拠を上げて、阿部先生に質問されました。

阿部先生は、「私の言い方が極端でしたからねー。この方のおっしゃるように、確かに、阿弥陀さまは、念仏称えよと、言っていますよ。」と言われた上で、

「私が、阿弥陀さまは、念仏称えよとは言っていないと言ったのは、親鸞聖人が、ご主著の教行信証の六字釈で、南無阿弥陀仏を、まかせよ、救う としているところを おさえて、阿弥陀さまは、まかせよ、救う とおっしゃているのであって、念仏称えよと、おっしゃっているのではないと、言ったのです。」と 説明されました。

補足は、以上です。



それから、先日、埼玉のあるお寺のご法話で、阿部先生から 正信偈の法然聖人のところをお聞きしました。とてもわかりやすいお話しでしたので、併せて そのお話しも、読んでいただけたら、と思い 文字起こししましたので、お読みいただけたらと思います。

ちょっと、長くなりましたが、ぜひぜひ、最後まで お目に通しいただきたいです!





 本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 
真宗教證興片州 選択本願弘悪世

 「本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 」といふは、日本には 念仏の祖師、その数、これおほししといへども、法然聖人のごとく一天にあまねく仰がれたまふひとはなきなり。これすなはち仏教にあきらかなりしゆえなり。されば弥陀の化身といひ、また 勢至の来現といひ、また 善導の再誕ともいへり。かかる明師にて ましますがゆえに、我ら善悪の凡夫人をあはれみたまひて浄土にすすめ入れしめたまひけるものなり。

「念仏の祖師 、その数 これおほし」ということは、まあ 私はあまり 数は知りませんけれど、法然聖人より前に、源信和尚という方が出てますね。これは、親鸞聖人も 七高僧として、仏教が 中国から 日本に伝わって、日本の 七高僧は二人いますが、二人のうちの一人が 源信和尚、もう一人が法然聖人です。
源信和尚、源信僧都とも言いますけど、源信和尚という方が、念仏の祖師なんですよね。
だけども、敢えて 法然聖人の如く、一点にあまねく仰がれたもう人はない。
法然聖人が なぜ特別かといいますと、今まで 念仏っていうのがないわけじゃなかったんですよ。
たとえば、真言宗でも 念仏っていうのは称えていますよね。なんまんだぶつ って念仏称えるし、天台宗も念仏します。
だけど、念仏だけを 独立させたというか 、念仏して仏になるという宗旨は、法然聖人が始まりなんです。
源信和尚という方は、往生要集というのを書かれましたね。往生要集っていうのを書かれましたが、要するに、阿弥陀さまの浄土に生まれて行くには、二つ道がある。一つは 観法といって
観法というのは、座禅を組んでお浄土や 仏さまを心に思い浮かべる行です。これは 定まった、一定の場所に腰を据えてする行だから、定まった善と書いて、定善 というんです。ですから、座禅を組んだまんまで、心の中にお浄土と、仏さまを思い浮かべるんですね。
これが、要は、観無量寿経に説かれております定善というのが、これです。
定善13観と言いますから、13通りのお浄土を思い浮かべる方法が書いてあるんです。
13通りっていうのは、順番に観て行く、やって行くわけですね。
最初に西の方を向いて、夕日が西に沈んでいくことを観てですね、そしてそれを目をつぶっても、目を開けても 西に日が沈んでいく想いをなす、これが一番最初です。日想観というんです。次が 今度は 大地を観るといいましてね。水の表面を観るけれども、それを水晶の大地の如くに観なさいという。それが お浄土の大地であります、というような方法で、お浄土を観るという観察ですね。こういうことが、13 出てくるんです。その後で 今度は、定善とは 別個に、散るという字を書いて、善と書いて、散善という話しが 観無量寿経には出てくるんです。これは、どういうことかと言ったら、散善は、定善以外の仏道修行の善をみんな散善というんです。たとえば、戒律を守るとか、布施をするとか、そういう様々な良い、善根功徳ですね。それを散るという字を書くのは、要するに、一定のところに定まってやる善ではないから、散善というんです。
で、その定善と、散善が説かれていて、散善の中が、九つに分かれているんです。大きく分けたら、上、中、下。
ややこしいから、書きますね。
こういうことは、別に覚えなくてもいいし、知らんでも構わんことですけど、まあ、知っとけば、それなりのお経の見方っていうのが変わってきますからね。まあ、ちょっと言っておきます。
上品、中品、下品 というのがあります。
上品 の中を 上、中、下生、中品も上、中、下生、下品も上、中、下生と、みんな足すと九品になります。
(中略)

難しい行から、だんだんと易しい行になっていく。
ここまで(中品中生)が、仏道修行の行で、これ(中品下生)が、世間の善なんです。
世間の善というのは、仏さまが とりわけ説いた行じゃなくて、たとえば、親孝行をしなさいとか、年上の者は大切にせよとかという世間的な善ですね。
ここ(下品)は、もう、悪人なんです。
で、悪人は善ができませんから、何を与えてるかというと、念仏なんです。
念仏っていうのは、仏を思うってことです。
ところが、この下品下生になると、この念仏も口称、口でなんまんだぶつ と 称える称名、口称の念仏になるんです。
だから 悪人の行はみんな念仏なんです。
こういうのを九品というんです。

で、要するに 観無量寿経っていう経典を読むと定善をやって往生しよう、定善ができない者は散善をやって往生しようというお釈迦さまのお説教のように聞こえるわけです。
当時の善導大師以外の 中国のお坊さんは、みんなそう読んだんです。その中でも、天台大師という方、天台大師というのは、天台山という山におられた智顗(チギ)という方なんです。
で、実は日本の天台宗っていうのは、最澄さんが、天台山まで行って、天台宗の教えを日本に持って来たんです。
で、比叡山を本山と定めて、そこで天台の教えを始めんです。だから、あそこは、最初は 天台宗のご本山だったんです。ところが、2代目の円仁さんという方だっか、その方が中国に行って、念仏を持ってきた。それから、その後が、たぶん 元三大師だったと思うけど、真言の教えを取り入れたんです。あと、超 有名な回峰行っていうのがあるでしょ。千日回峰行っていうのは、アレ 修験道ですから。日本に仏教が伝わるより以前にあった 山岳信仰なんです。日本人ていうのは、ありとあらゆる自然を神様と拝んでて、特に山は いろんな恵を我々にもたらしたりするから、山を信仰してたんだね。で、その山の中にこもって、一定期間修行して 山の力を、山で修行することによって、特別な力を手に入れるという、そういうのが、仏教以前からあったんです。
で、その仏教以前からあった山岳信仰と、仏教が合体したのが、山伏とか ああいう人がやっている修験道というものですね。
元々は 単純な山岳信仰だったんです。それが仏教的な教義の色付けが着いて、それが ある種 完成体になったのが、千日回峰行なんですかね。
だから、天台の教えがあり、念仏の教えがあり、密教があり、回峰行があるっていうのが
当時の比叡山なんです。
元々は、天台の教えなんですよね。
天台大師という方は、善導大師と同じ時代なんだけど。同じって言っても ちょっと後ですけど。でも ほぼ時代的には同じなんですけど。
智顗は 観無量寿経をどう読んだかって言ったら、こっち(定善)が、主だ、瞑想が。
やっぱり、仏教っていうのは、お釈迦さまが 菩提樹の木の下で 座禅を組んで悟ったっていうことがありますんでね。だから、いろいろな修行の中で 瞑想修行っていうのが 一番、上位に置かれるんですよね。だから、観無量寿経で 十三観っていうのが出てるけど、こっちが中心で、これ(定善)が、できない者が、これ(散善)をやるという話しなんだ、と天台大師が 読んだ。
だから、摩訶止観という、摩訶止観というのは法華経の註釈書です。天台摩訶止観という天台宗の行のなんです。
止観というのは、座禅をして、真実を観察するという、それが止観なんです。一種の座禅です、天台的な。
それが、やっぱり 中心の教えですからね。観無量寿経を読んでも、定善が中心で、それができない者は こういう順序になって、何も善ができない者は、念仏しかないと。言わば、念仏は劣った者のための教えであって、優れた者は、座禅を組んお浄土へ参るんだという、そういう体系なんです。
ところが、善導大師は それをひっくり返した。
観無量寿経は、そういう説教じゃない。定善をやって行くんじゃない。散善をやって行くんじゃない。念仏を申して、浄土に往生せよという、それがお釈迦さまの思し召しなんだ。
じゃ、なんで 定善と散善を説いたのかって言ったら、これ、捨てさせるために説いたんです。
捨てさせるために説いたって、変な言い方でしょ。わかり易く言ったら、最初っから、「お念仏ですよ」って言っても、人は信用しないんです。
だって、それまで 悟りを開くには、様々な修行が必要なんだと、ずーっと 、まあ これ聖道門て言うんですけど、聖なる道を説いて来たわけだ。仏になるね。
ところが、イダイケという王舎城の王妃がね、自分の夫を息子に殺されて、そして お釈迦さまにお救いください、というところから、この観無量寿経のお説教が始まるんだ。
で、今までね、修行して悟りを開くという教えを聞いていた人を前にしているわけですよ、お説教がね。
そこで、いきなり「念仏だー」ってなこと言ったって、これ全然通用しない。だから、座禅、定善で お浄土に参る、って。
定善でお浄土に参ろうとする者は、これは定善で 阿弥陀さまのお浄土を観察するって、並大抵な人間ではできないんです。だから、できない者は、とても定善は間に合いません、となる。じゃあ、定善が間に合わなかったら、なんですか?って言ったら、じゃあ こっち(散善)があるぞ。ってことになる。
これは、悪をやめて、善を修するという、廃悪修善という行なんです。
ところが、問題は何かと言うとね、悪をやめて善を修する、それは まあ仏教なんだけども、ただ それだけでは 仏教にならないのですよ。
善を修した、善を修めたという心も捨てなさいと、それが仏教だというんです。
だから、悪いことをやめる、良い事をやる、しかし 良い事をやったという心さえも捨てろと。
これが仏教だと。
これが 難しいんですよ。だから、積極的に良い事をやるっていうのは、まあ、難しいって言えば難しいけど、良い事を実行するのは、さほど難しいことじゃありません。
電車で、席を譲るとかね、困っている人をボランティアで助けるとか、いろいろある。
だけど、やった心を捨てるっていうのはこれは難しい。「やった」っていう思いがある人は、やっぱり、 どうしても 「オレはやったんだ」という心でもって、生きていきますから。それが実は 仏教では 、悪なんです。
だから、悪いことをやめて善いことをやるっていうのも難しい、となって、定善でもダメ、散善でもダメとなった者に、初めて、一切の善が 間に合わない者は、阿弥陀さまが ただ 称名念仏の一行くを選んで、そういう者に与えてくださったんだ。だから、定善もダメ、いずれの行も及び難き身なればという歎異抄のお言葉は、これなんですよ。
いずれの行も及び難き身なれば、地獄は一定すみかぞかしっていうのは このことを言っているんです。
座禅を組んでお浄土へ参る道もない、悪をやめて善を修めてお浄土へ参る道もない、要するに いずれの行も及び難き身、なんですよ。
それを救わんがために、阿弥陀さまが 念仏を 選択、選び取って、そして念仏する者を浄土へ往生させようと 誓ってくださった。だから、それを信じて 念仏申す者は 皆 浄土へ往生するんだぞ、というお説教が、これが、善導大師の観無量寿経、観なんです。
それを昔から、「古今楷定」 。
「楷」というのは物差しを作る木です。日本にないそうですけど、なんか一本だけ、聞いた話しによると 宗方神社にあるっていうんです。中国から持って来たものが。
楷は、定規を作る木なんです。なんで定規を作る木が 特別に必要かというと、夏になったらね、水分を含んで膨らんで、冬になったら カラカラになって縮んだら 定規にならんわけ。
だから、夏でも、冬でも、縮んだり、延びたりしない木なんです。日本にはないから、日本は何を定規にしたかっていったら、竹を定規にしたんです。
中国は 楷という木を定規に使った。
だから、「古今楷定」っていうのは、「観無量寿経は、これを定規として読むんだ」という、観経四帖疏という解説本を作ったんです。善導大師っていうのはすごいというかねえ、観経四帖疏を 一回 仏さまに供えている。「これが もし、間違えてたら、教えてください」って言って お供えして、仏さまから間違いないという証明をいただいて、どうしたかと言ったら、これ(観経四帖疏)は、もうお経のように扱えって、一言一句加減すべからず、と。
一言も削ってはいけません。一言も付け加えてはいけません。これを読むに経の如くせよ。お経のように読めって言ってね、自分で書いているんですよ。これが 観経四帖疏 です。
その観経四帖疏の結論は、お釈迦さまは 定善は 捨てさせるために説いた、散善も捨てさせるために説いた。捨てさせるためっていうのは、やりなさい。で、やってもできない。できないから、こりゃ 間に合わん。ということを知らせるために説いた。で、最後は それで間に合わん者に、いずれの行も及び難き者に、何を与えたかと言ったら、念仏を与えた。これが 阿弥陀さまの本意なんだ。だから、阿弥陀さまは 定善をやって参って来いではない、散善をやって参って来いではない、念仏を申して参って来いという仏さまなんだというお説教が、観無量寿経なんだっていうことを 善導大師が 観経四帖疏という書物を書いて、明らかにしてくださった。
これを 古今楷定っていうんです。
善導大師は、そういう風にお読みになった。

源信和上という方は、天台のお坊さんですからね。だから、天台大師のいうことを、ペケするわけにいかんのよ。
で、どいう方法を取ったかと言ったら、定善でもいけるし、散善でもいけるけど、私のような愚かな者は 念仏でいくんだって言っているんです。こういう言い方をしています。
でも、一応、往生要集っていう書物によると、定善でもいけるように書いてあるんです。どっちかというと、定善の部分が、やたら長い。で、座禅を組んでお浄土を思い浮かべていく道もある。それ以外の様々な修行をして、その修行の功徳を回向して浄土に往生していく道もある。だけど、私のような愚か者は、念仏でお浄土に参らせていただきますということが、一番最初に書いてあるんです。
そういう、言い方をしているんです。
私にとったら、この道しかない。
だけど、一応、天台大師の教えでは、どっちかとというと 定善が中心のお経なんです、観無量寿経はね。
だから、そういう天台宗の中にいて、お念仏を喜んだのが、源信和上なんです。
天台宗の宗派の中に、お念仏のコーナーがあったわけよ。念仏のコーナーっていうと ちょっとおかしいかもわからんけど。
いろんなコーナーが あるわけだ。
真言のコーナーもあれば、念仏もあれば、最初っからの天台もあれば、修験の千日回峰行っていうのもあるわけ。だから、今の比叡山の修行って みんな バラバラに分かれています。だから、千日回峰行をやる人、常行三昧をやる人とか。常行三昧は 念仏ですから。
もっと正確に言うと、実は 常行三昧っていうのほ、浄土経の行じゃないんです。
あれは、四種三昧という法華経の中に説かれて行なんです。だから、法華経に説かれる行が 常行三昧だったいうのが正確な言い方なんです。
だから、そういう行をやる人もいる。かとおもえは、念仏、横川に 、横川っていうのは源信和上が、往生された場所ですけどね。そこで、ホウジヨウインというのがあって、そこで念仏の修行がされている。まあ、そういう総合大学的な 意味合いです。
その中に 念仏があったんです。だから天台の中にも 念仏があったし、真言の中にも念仏があったし、してた。
それを、今度は 法然聖人は 山を降りちゃったわけです。
源信和上という方は、生涯 天台のお坊さんのまんまで、お浄土に参った人です。
ところが、法然聖人て方は、山を降りてしまった。で、どうしたかというと、吉水に草庵を結んで、まあ、お寺を作ったわけですよね。
そこで、「よき人にも、悪しき人にも」って書いてあります。恵信尼さまっていう奥様のお手紙には、「よき人にも 悪しき人にも 同じきように、生死出ずべき道を説いた」。
仏教は、これ、「生死出ずべき道」なんです。
我々のいる世界は、生死の世界です。だから、親鸞聖人は、「生死の苦界、ほとりなし、久しく沈める我らをば、弥陀弘誓の船のみぞ、乗せて必ず渡しける」という和讃をよんでらっしゃる。
「生死の苦界ほとりなし」っていうのは。
「生死」は、もうちょっと丁寧に言ったら、「生老病死」です。
命あるものにとって、避けられないのが、「生老病死」です。動物といえども、植物といえども、人間といえども、命あるものは、絶対、「生老病死」は、避けられない。誕生したらば、必ず老いて行く。老いて行けば、必ず病んで行く。病んで行けば、必ず命終わって、終わりじゃないですよ。
生と、死が、紙の裏表になってますからね。生のないところに、死はないんですよ。というのは、あのロウソクに火をつけなければ、消えない。間違いないでしょ。生きてるっていうのほ、火がついてるってことです。燃えてるってことですから。
燃えてなければ、火は 消えないじゃないですか。
だから、生 と 死というものは、別もんじゃないわけね。
要するに、紙の両面です。生きてるっていうのを、紙の表としたら、死ぬっていうのは裏です。だから生きてるところに、死がくっついているわけ。
だから、死んだってことは、また 生まれるってことなんです。
なんでもそうですけど、物事が終わるってことは、何かが始まるってことです。なんでもそうです。
昨日が、終わった。昨日が終わったのは、きのの12時でしょ。12時に今日が、始まったんです。昨日が終わって、1分経ってから、今日が始まりました、そんなことはない。
昨日が、終わったってことが、今日の始まりだからね。
ってことは、私たちが生まれたってことは、何かが死んだんでしょ。ね。
死んだから、生まれたんです。で、また死ぬ。
で、また生まれる。それが、ずーっと、繰り返えされる。これが、「生死の苦界、ほとりなし」。流転輪廻という言い方もする。
なんで流転輪廻って言い方をするかっていうとね、この生死っていうのが いつから始まったかということです。
たとえば、何かが死んだから、生まれたんですよね。この度生まれたでしょ。
生まれる前、何か死んだわけですよね。死んだってことは、生まれたわけでしょ。と言って、過去にずーっと、遡って行って、その生の始まりが何だって言ったら、始まりがないんですよ。始まりがない。それを無始という。善導大師がいう「無始よりこのかた」というのは、このことを言う。始まりが ないってことは、どういうことか。これが この度死んだら、生まれる。また、年とって 病気になって死ぬ。また、生まれる。これ いつ終わるんですかと言ったら、終わりがない。終わりないのは、無終。
さっき言った善導大師は、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、「曠劫よりこのかた」っていうは、他のところでは、「無始よりこのかた」と書いています。劫っていうのは、時間ですから。カルバというインドの時間なんです。だけど、これを他のところで 無始よりこのかたと、言ってるから同じ意味ですから、始まりがない。「曠劫よりこのかた、つねに没しつねに流転して、出離の縁あることなきに。」
私たちが。ここから出られないんだって言うんです。
始まりがなくて、終わりがないものっていうのは何だって言ったら、これ(輪)なんです。
始まりがなくて、終わりもない。
「今」って、ここ。押さえたところが今。で、いつ「生まれて、死んで、が始まったんでしょうねー?」と、過去にどんどん、どんどん遡って行っても 始まりがない。「これがいつ終わるんでしょうねー?」未来に 行っても 終わりがない。だから、始まりがなくて、終わりがない。
これをやっている。
これを 「生死の苦界」っていうんです。
現代人は、死んだらおしまいだって言ってますけど、おしまいにならない証拠が、この度生まれてきたってことですよ。ここへ。
そういう事実を、事実の通りに 仏さまは説いているんです。死んだらおしまい、無になるってあり得ない。
形が変わるだけす。
よく、お骨になるっていう言いますけど、お骨にはなりゃしませんよ。お骨が残るだけ。お骨も 火葬にすると、後は土になっちゃう。
火葬にしない骨は、化石になるんです。

「唯識」だったか、こういう、面白いたとえがある。
ある村人が 旅をしていて、非常に 風光明媚ないい場所を見つけた。それで、ああここで、生活したいなぁと思って、どうしたかと言ったら、木を切って柱を作り、そして、土をこねて、壁を作り、そして また、木を切って、床をひいて、草を編んで 畳を作りして、そこで生活し始めた。で、その作った人間が 亡くなりました。そしたら、誰も住む人が居なくなって、また元の野原に還ったと。
そこに、作ったものという実体もなければ、作られた家という実体もないんだと言うんです。ただ、物事は全て形を変えて、変わって行くことに過ぎない。その中に私らが、いるんです。
そうすると、私たちは、どのように形が変わって行くのかと言ったら、それは行いによるんだと説いたのが、お釈迦さまなんです。

インドっていうのは、カースト制度っていうのがある。カースト制度っていうのは、バラモンが一番上で、その下に クシャトリアという階級、クシャトリアっていうのは王族なんです。その下にバリシャという一般庶民がいて、一番下が、スートラ、スートラは奴隷って訳されていますけれど、上の三つの階級に奉仕する階級なんです。こういう、カースト制度っていうのが、インドにはあって、現在では、法律的にはないと言っているけど、インド社会の中には、根強くあります。
それで、そのカーストにも入れてもらっていない人もいます。アウトカーストという。この人らは、もう 人間扱いされていないです。
これが、お釈迦さま当時から、現在まで続く インドのカースト制度です。
そのバラモンの青年たちが お釈迦さまに質問するという経典の内容なんです。
「人は、生まれによって、バラモンになるのでしょうか?行いによって、バラモンになるのでしょうか?」と聞いたら、お釈迦さまの答えは、「人は、生まれによって、バラモンではない。行いによって、バラモンである。」もっと
わかり易く言ったら、尊い 、卑しいということは、行いによるんだ。だから、行いによってに人間は、卑しくもなれば、尊くもなるんだと、いうことを説くんです。

私が次にどのような形に変わって行くかということは、実は 私たちが今まで、どう生きてきたかっていうことが、次を決めて行くんです。
そうやって、生まれ死に、生まれ死に、生まれ死に、生まれ死に、と ありとあらゆる境界を巡ってきたんだって言うんです。
ありとあらゆる境界を大きく分けると六つの世界になって、それは、悪い方は地獄であり、餓鬼であり、畜生であるけれども、いい方は、人天の世界。阿修羅っていうのは、地獄におったり、餓鬼道にもおったり、天にもおるんです。
天に収めた時には、五道になるんですね。だから、五道と言っても、六道と言ってもいいけれど、要するに 阿修羅は、争いの世界です。
悪い世界は、地獄と餓鬼と畜生の世界。人天ていうのは、割合いい世界。良い行いの結果 生まれ変わる世界が人天なんです。悪い行いの結果生まれ変わって行く世界が、地獄、餓鬼、畜生なんです。
そうやって、行いによって、ありとあらゆる境界を、生まれ死に、生まれ死に、生まれ死に、しておるのが 私の姿であるよと、仏さまが教えてくれている。
これが生死の世界です。
ここから出るということが、「生死 出ずべき道」なんです。
だから、天国っていうのは まだ 迷いの世界なんです。良い行いの結果、生まる世界ですから。天国は。
地獄は悪い行いの結果、生まれる世界です。
だけど、「浄土」というのは これを出た世界です。
生死 出ずべき道、生死を越えた世界。だから、その生死を越えた世界に生まれていく、生死を越えた世界、お浄土へ生まれていく道というのを説かれたわけです。
だから、それが 法然聖人の教えで 言うならば、それは「念仏一つ」なんです。
念仏一つで、みんな、生死を出て、そして、この度 人間の命が終わったら、仏の世界に生まれ変わって、そして証を開く。
だから、念仏して 証を開く。「念仏成仏」、というお念仏だけを独立させた お宗旨を 吉水という場所で、始めたわけですよ。
これが法然聖人。
そうしたら 人が どんどんどんどん集まって来るわけです。そりゃあそうですよね。だって、仏になるなんていうのは 自分に縁のないことだと、だいだいの人は思っているわけです。もっと言ったら、親鸞聖人のお得度された9歳の時は 、2年間 飢饉が続いて4万2千人の人が死んでいるんですよ。
で、あと 源平の戦乱が あったでしょ。飢饉とか、天災もあるんです。方丈記って言って 鴨長明が書いた方丈記を読むと、まず 京都に地震が起きているんです。塔という塔が 全部 、崩れたって書いてある。それから、火事が起きた。飢饉が起きた。戦争が起きた。いわば 大変な時代なんですね。
その時代に 生きてる人たちっていうのは、これは綺麗事じゃないわけですよ。
法然聖人のご教化に遇った耳四郎っていうは、これ盗賊ですからね。
法然聖人のお寺に 人が集まるっていうんで、盗もうと、盗みに入った。盗みに入ったんだけど、法然聖人のお説教を聞いたら、悪人が仏になれるという声が聞こえてきた。耳四郎は 当然自分の事は 悪人だと思ってますから、「俺か仏になる。そんなの聞いたことない」ということで、みんなが帰るまで床下に潜んでいて、みんなが帰ったら 出てきて 法然聖人に聞いたんやね。「今日は あなたは、悪人が仏になれる教えだと言ったけど、実は 私は 耳四郎っていうあなたも知らないはずのない、京都で 私の名前を知らん者はない 大悪党です。私のような者でも、仏になれるのか?」と聞いた。
そしたら、法然聖人の答えが 凄いんですよ。
「なれるとも、なれるとも。このワシのような悪人が参れるのだから、耳四郎殿、あなたが参れないはずはない」と言っているんです。だから、法然聖人がどこで教えを説いておられたかって言ったら、極悪最下、ご自分のこと極悪最下って言っているんです。極悪最下って、一番下ってことですよ。
極悪最下の法然でさえ、お浄土に参れるのであるから、耳四郎殿、あなたが参れないはずはないと、こういうことを言っているんです。だから、鼻からもう、親鸞聖人のお師匠さん、法然聖人から 私は地獄行きの者なんですと、いうそういう方です。
だから、地獄行きがよそに居るんじゃない、この私が そうありました。だけど、この私のために、阿弥陀さまが、念仏を選び取って、この念仏を申す者を 浄土に迎え取るとお誓いくださった。そのお誓いが 第一八願である。だから、一八願を信じて 念仏申さんと思いたつ心が 起きた時に、お浄土参りが決まるんだ、という言い方ですね。どっかで聞いたでしょうけれども、これ、歎異抄なんです。だから、歎異抄は「 だだ念仏して弥陀に助けられまいらすべしと、よき人の仰せを被りて 信ずるより他に 別の子細なきなり。」念仏して浄土に生まれて仏になるんだという教えを説いた。これが、実は 法然聖人の当時のご教化というか、お姿です。
だから、日本には 念仏の祖師その数多しといえども、法然聖人の如く一点に遍く仰がれたもう人はなきなり。これ 即ち 仏教に明らかなりし、故なり。

これは、一つ言っておかなければならないのはね。
どんどん、どんどん法然聖人のところに人が集まって来るでしょ。で 皆んなで なんまんだぶ、なんまんだぶって念仏しているわけですよ。
「どうも、アレ おかしい。アレは 本当に仏教なんだろうか。」口に なんまんだぶつ って言うだけで 仏に成れる、そんなことは・・・?。だったら、ある意味 比叡山で大変な修行をしているとか、高野山で 大変な修行しているとか、奈良の興福寺で大変な学問をしているとか、興福寺って学問寺だから、で、悟を開こうとしている我々の仏道は 何なんだ?ってことになってくるわけですよ。ある意味、意味ない。念仏で仏になれるんだったら。
で、親鸞聖人は、それを法然聖人から、教わったもんだから、天台は捨てたんですよ。で、念仏に帰依した。
だけど、そんなお坊さんは、希で、他の天台のお坊さんからして見れば、アレは何なんだ?あんなことが、仏教なのか?っていうことが問題になって来るわけですよ。
そりゃあ、普通 思いますよね。なんまんだぶつ 、なんまんだぶつ 、って口に念仏さえしたら、仏さまになれるんだよ、って、聞いたら。

「口に念仏さえしたら 仏さまになれるんだよ」という言い方ではないですよ、法然聖人の言い方は、「阿弥陀さまの誓いを信じ」なんです。
まず、誓いを信じるってことがなきゃいけない。誓いとは何かといったら、「念仏 申す者を、浄土に迎え取るというお誓い」。それを信じて念仏申す者は、浄土に往生するんだから、あくまで 信心 て ものがないと、ただ口に なんまんだぶつ 、なんまんだぶつ 、と言うとったんじゃダメ、信心とは、何か と言ったら、法然聖人の信心は、一八願を信ずるという信心なんですよ。一八願には、至心、信楽、欲生という三心が誓われていますが、あれは真ん中の信楽が 重要なんです。その後に、乃至十念の念仏が出てる。だから、「信」と、「念仏の行」と、2つ出てる。だから、信 がなかったら、ただ口に なんまんだぶつ とばかり言っとても、ダメなんだね。何度も言いますけど、その信 とは何かと言ったら、一八願の、阿弥陀さまが 念仏 申す者を迎え取るという一八願を信じて、そして 念仏申さんと思いたつ心が起きた、その時に、もうお浄土参りが決まるんだという言い方です。あくまでも、一八願を信じて、念仏して浄土に往生して行くんですよ。という教えなんです。
それを 法然聖人の者の元へ、どんどんどんどん人が集まって、みんなで お念仏して、喜んでいる、それが どうもアレはおかしいんじゃないかと、ということになって、大原というところで問答があったんです。
比叡山のお坊さんとか、東大寺のお坊さんとか、高僧方がみんな、法然聖人を呼んで、「いったい、あなたの教えは、どういう教えなのか」と聞いたんです。何日間か 京都の大原で 、大原問答という有名問答があるんです。
有名なエピソードで、おもしろいんだけど、熊谷直実という武士が、壇ノ浦で平敦盛という自分の息子と同い年の敵将の首を落として、それがキッカケで、武士がイヤになって、法然聖人の弟子になったんです。これが 熊谷蓮生房。
この熊谷直実が、法然聖人が 三千院で問答するということを聞いて、どうしたかっていったら、懐にナタを忍ばせて行ったって言う。
ひょっとすると、呼びつけて、法然聖人が殺されるんじゃないかと、そういう緊迫感があったんです。だから、密かに 懐にナタを忍ばせて 一緒にくっついて行ったんです。
それで、いざ 問答が始まって、何日間か経ったらどうしたかと言ったら、全員、お念仏の人になってしまったと。
法然聖人のお説教を聞いて。
それで、帰りがけに 蓮生房が これはもう 用事がなくなったと言って、ナタを捨てた薮が あるそうです、三千院に。
そういうエピソードがある。

そのことを、これ即ち 仏教に明らかなりしゆえなり、と言って、言うなれば、どんな人が問いかけて来ても、キチンと答えて、みんな法然聖人と出遇った人は、お念仏の人になってしまったっていうんですよ。
で、それを 皆んな褒め称えて、これはひょっとすると、仏さまの化身じゃないのか。
で 阿弥陀さまには、智慧を司る大勢至と 慈悲を司る観世音がおるけど、正に 智慧 第一の法然房と言われた人ですから、これは、勢至菩薩の生まれ変わりじゃないか、また、善導大師のように、念仏一つの教えを勧めてるから、善導大師か生まれ変わったんじゃないか、と言う風に言われたっていうんです。
かかる明師にて ましますゆえに、われら善悪の凡夫人をあはれみたまひて 浄土にすすめ入れしめたまいけるものなり。
と言って、善人、悪人を分け隔てなく 憐れんで、念仏の教えを授けて、みんなを教化した。

これが、本師源空明仏教 憐愍善悪凡夫人 という言葉の意味だということですね。

次の 真宗教證興片州 選択本願弘悪世 というところを お話し申し上げますが。

「真宗教證興片州 選択本願弘悪世」といふは、かの聖人(源空)わが朝にはじめて浄土宗をたてたまひて、また、「選択集」というふみをつくりましまして、悪世にあまねくひろめしめたまへり。

先程言いましたように、お念仏というのは、各宗派、まあ、各宗派とはいえども、禅宗で 念仏をするようになるのは、もっと後です。
オオバク宗という宗派が、あんまり知られていませんけれど。群馬県に一つオオバク宗のお寺が作ってある。ダルマで有名な少林山て、あれ、おおぼくしゅうのお寺なんです。高崎のダルマの。
で、オオバク宗では 座禅を組みながら、念仏するんですよ。
だそうです。私は直接やったことはないけれど。だから、精神統一の1つのやり方として、なんまんだぶつ 、なんまんだぶつ 、と 座禅を組みながら、念仏するっていうのは、ある。だけど、それ以外は、禅宗は念仏はしませんね。
日蓮宗っていうのは、もうちょっと 後から出た宗派です。だいたい 親鸞聖人が 84歳の時に、日蓮上人が、鎌倉で いろいろお説教した。だから、その後、親鸞聖人は、日蓮上人に会っていませんしね。日蓮宗という宗派が出来たのは、親鸞聖人が亡くなった後です。
で、そこでも 念仏はしません。
それ以外のところは、みんな 天台でも、念仏するんですよ。真言でもするし。だけども それは寓宗て、言って、寓って言うのは仮住まいってことです。
ホントは、天台は、天台魔訶止観という修行が中心なんです。それの なんというか補助的なものとして 念仏があるんです。
私は、天台宗の住職のお葬式って、一回呼ばれて行ったんですけど、うちの町のね。
そしたら、最後に 阿弥陀経を読んで念仏するんです、みんなで。
あー、天台宗も念仏するだなぁと、思ったら、どういう念仏かと思ったら、結局は、天台宗は、次に生まれ変わるのに、出来たら、阿弥陀さまのお浄土に生まれ変わって、そこで 修行をしようというっていう。
だいたい、浄土真宗以外は、なぜ阿弥陀さまのお浄土に生まれたいのかと言えば、それは、仏さまがいて、修行がするのに 最高の環境だからっていう理由で、お浄土に生まれるっていうことを願うんです。
それを親鸞聖人だけが、お浄土に生まれたってことが 悟だって言ったの、親鸞聖人だけです。
法然聖人も、やっぱり お浄土に生まれたら、正定聚と言って、仏になるに間違いない身に定まるんだ。だからそこで阿弥陀さまに出遇い、修行することで、悟りを開く。こういうお考えのようなんですよ。
で、天台宗でも どうせ生まれ変わるんだったら阿弥陀さまの世界に、生まれ変わって、そこで修行をしよう、という意図で、どうも最期に阿弥陀経を読んで、念仏してるらしい。
そこから考えるとね、親鸞聖人が29歳の時に、六角堂に100日こもったっていう。
奥様の手紙に「後世をいのらせたまひけるに、」という言葉があるんですよ。天台のお坊さんが 後世をいのるっていうことは、浄土往生を願うってこと以外は無いんですね。
だから、六角堂に100日こもったのは、何かって言ったら、私が 、もう29歳っていうのは、当時の平均寿命は 23歳くらいだった らしいです、鎌倉時代は。だから、今の我々には考えられないけれど、晩年なんですよ、29歳って。だから、もうボチボチ、さよならしなきゃならない時が迫って来たから、だから、阿弥陀さまの浄土に生まれ変わる道を聞いたんです。それを、後世をいのらせたまいけるに。どういう答えがあったかというと、それは、法然聖人のところへ行けという 夢告を受けて、その足で もう法然聖人のところに行って、で 百日間通って、そして法然聖人と、問答したんでしょうね。で
最後は、比叡山には戻らずに、そのまま、法然聖人のお念仏の教えに入ったんです。
だから、言わば、寓宗、仮に住まいとしてのお念仏は、各宗派にあったけれど、法然聖人は、それだけを独立させた。だから、浄土宗という宗旨を作ったんですよ。
今までなかったのに。浄土宗は。
浄土宗の教えっていうのは 何ですか、と言ってたら、「念仏して弥陀に助けられまいらすべし」ですからね。だから、18願を信じて、念仏申して お浄土に参る、これが浄土宗だ、これが 浄土宗の教えだっていうんで、浄土宗の、真宗教證興片州 の 「教」は、教えですね。
真宗ってことはねぇ、これはいろいろな深い意味が あるんだけども、結論的なことを言ってしまったらねぇ、「一切、仏のはたらき以外のは、混ぜない」ってことです。それが 真宗。真ていうことは、真実。混ざりものがないってことなんですよ。
前、よく こういう話しで 申し上げたんだけれども。
これ(法衣)はねぇ、皆さん、これ見て なんだかわかりますか? これ、あんまり言いたくないんだけれど、ナイロンなんです。
こういう衣には、三種類あるんです。真絹と、混ざり物と、偽物と。で ナイロンは偽物なんです。だいたい、ナイロンていうのは、絹の偽物ですからね。
真絹ていうのは、全部、100% シルクなんです。で、ちょっとでもねぇ、そこに、ナイロンが、混じってたら、真絹の値札付けたら、ペケでしょ。ってことは、真 てことはねぇ、混ぜ物が 一切入ってないってことなんです。ってことは、どういうことかと言ったら、自力が一切入らん。100%他力。全部、仏の力。それによって、仏に成る宗旨。それを真宗っていうんです。
だから、真宗っていうのは、真実、真実ってことは、一切 混ざり物がない。その真宗の教えとは、何かって言ったら、法然聖人の上では、48願中の、第18願なんですよ。
念仏を申す者は、皆 浄土へ迎え取るという阿弥陀さまのご本願、これを選択本願という。選択は、あくまでも選び取るということです。何を選び取ったかと言ったら、選択本願念仏 ですから。ありとあらゆる行の中から 念仏を選び取ったってことです。
普通は、何で念仏くらいで、仏に成れるんだって、思うんですよ。
仏さまに成るっていうのは、とても ハードルが 高い。ハードルが高い目標を達成するには、とてつもない努力が要る。普通考えますよね。とんでもない努力があって、初めて 悟りを開くのに、なんまんだぶつ と、お念仏さえすれば 皆 浄土に 生まれて仏に成れる、そんなバカな話しあるわけないと、普通 考えます。
法然聖人も 最初は そう考えたんです。
何で、なんまんだぶつ と念仏するだけでねぇ、仏の世界に生まれ変われるのかって、悩んだんですよ。なんで なんまんだぶつ って念仏で 浄土に生まれ変われるのかって、その答えが、「念仏は、阿弥陀さまが ありとあらゆる行から 選び取った、ただ、たった1つの行だから。」っていうことです。ありとあらゆる行っていうのは、例えば、お寺を作るとか、塔を建てるとか、お金をたくさん寄付するとか、そういうものを 浄土に迎え取るという行と定めたら、今度は、お金持ちしか 生まれられない。例えば、戒律を守るっていうことを 浄土往生の行と定めたら戒律が 守れない者は 往生できない。と言って、これではダメ、これではダメと、これではダメと、ありとあらゆる行を 選んでは捨て、選んでは捨て、選んでは捨て、最後に 選択、選んだのが、口になもあみだぶつというお念仏を称えると、称名念仏の一行を選択したっていうんですよ。なんで 称名念仏の一行かって言ったら、3歳の子どもでも、お念仏できる。子どもでもできる、年寄りでもできる。善人でもできる、悪人でもできる。だから、なもあみだぶつの口称念仏を 浄土往生の行と、選択し、18願に、念仏を申す者を浄土に迎え取るとお誓くださった。だから、なんまんだぶつ と、口に称名する、それで、浄土に生まれ、仏に成れるんだ、念仏往生なんだ という教えです。
これが、真宗の教えは、そういう教えで、証は 浄土に往生し、証を開くという、これが 証。
片州というのは、これはねぇ、まあ、ちょっと卑下した言い方で、中国の隣に くっついている、まあ、僻地っていう意味なんです。片州っていうのは。大陸から見たら、中国の横に、ピタッとくっついているちっちゃい島国ですから。粟の国という言い方もある。粟。粟粒を散らしたような国だっていうんで、粟の国という言い方もあります。片州っていうのは、そういう言い方。大陸の横にくっついている場所ですよ。そこに、選択本願、悪世に広め。

私、つくづく最近思うんですけとねぇ。
皆さん、今の日本の世の中の有り様っていうのは、どういう風に思っているか、分からんけど。
私は、完全に、なんか みんな「 競争して、幸せになるんだ、みたいな考え」に、洗脳されているように、見える。どうですかねぇ。
うちはねぇ、保育園やっていて、この間、子供園に、変えたんです。
で、保育園も子供園も、何を教えているかって言ったら、「皆んな仲良く」、なんです。ケンカしないでね、皆んなで仲良く暮らそうね。
特にうちは、父親が、作った保育園で、聖徳太子の名前を取って、太子保育園て言うんです。
その、太子保育園の 園訓って言うんですか、園訓というか、スローガンが、「和をもって 貴しとなす」。平和が最も 貴い。ということを看板に掲げている保育園なんです。
だから、皆んなで、仲良く暮らすんだよ、って育てるんです。
小学校に入った途端に、点数つけられて、競争させられる。で、親はその点数を見て、何やってんのよ、アンタもっと、しっかり勉強しないとと、尻叩くでしょ。
皆んな競争させてるじゃないですか。
なんで競争させてんの?
だって、いい学校、入らないと、いい会社に入らないと、いい給料もらえないと、幸せになれないと、思いこまされているんじゃないですか。
で、皆さん 幸せになれましたか?
どうですか?
私は、全国を回っているから、一昨日も、山口の下関、新山口から車で一時間半の、日本海側に近い、山口に行きましたが。
完全な過疎ですよ。若い人は皆んな出しちゃった。出ちゃったじゃなくて、出しちゃった。出しちゃったでしょ。
なんでかって言ったら、いい学校行け、いい学校行け、っていうから、子供達は、いい学校に行ける人は、皆んなこっちに来ちゃったわけですよ。
そうやって、競争させられて、一生終わるんですか。
それが、人生なんですか。
人よりもいい家に住んだからって、それがなんなの。結局 歳をとって死ぬじゃないですか。
その人生った何なんですかねぇ。

というよりも、むしろ、人間に生まれたこと自体が幸せだって、仏教は言っているわけですよ。
幸せな世界に、生まれて来たのに、何で幸せになる為に、競争しなきゃなんないですか。
幸せな世界に生まれて来たってことに、気がつかない人が、幸せになろうと、努力するんでしょ。
自分が、生まれて来た世界が 幸せな世界だと気がついた人は、幸せを喜ぶけれども、幸せになろうと 努力はしませんよ。
ってことは、お金が手に入らなかったら、幸せになれないと、いつの間にか、刷り込まれて、洗脳されているじゃないですか。
よーく考えてくださいよ、皆さん。
お金は、食べられませんよ。
お金、いくら持っていたって、食べ物がなかったら、何の意味もないです。
食べ物が大事ですよ。
日本は、どれくらいの自給率があるんですか。
なんか 考え違いしているね。
やっぱり、これだけ、山が あり、海があり、ふんだんな自然、豊かな自然の中で、食べる物に困らない国にありながら、なんで よそから、魚を輸入して 食べなきゃなんないですか。馬鹿げていると思いませんか。
目の前、海なのに。

こういうことに気づかせてくれるのが仏教なんです。特に 浄土真宗は。
浄土真宗は、努力したら、幸せになれるという教えじゃないんですよ。
もう、既に届いている幸せに遇わせていただくという教えなんです。
既に 届いている幸せとは、何か と言ったら、南無阿弥陀仏 ですよ。
今 法然聖人の教えの真っ最中ですけども、法然聖人の教えと親鸞聖人の教えの 決定的な違いは、何かと言うと。
法然聖人の教えっていうのは、あくまでも、阿弥陀さまの18願に、念仏を申す者を浄土に迎え取るとお誓くださっているから、そのお誓を信じて、念仏して 浄土に生まれて行きましょうと、言う教えなんです。
親鸞聖人は、「南無阿弥陀仏の名号を聞いて浄土に往生していく、聞名の宗教」 なんですよ。
「聞名」と、「称名」の違いなんです。
これはねぇ、三代目の門主の 覚如上人のご長男に存覚という方がある。その存覚という方が 日本で、初めて教行信証の解説書を書いた。
その六要鈔という書物を読んでいくと、人間をこう分けている。
長命の機、と短命の機。
一生涯 念仏を申せる者は長命、長生きなんです。上尽一形っていうのは、一生涯ってこと。
一形っていうのは ロウソクの例えでいうように、人間の寿命を一形、ロウソクの一本の形に例えているんです。だから、一生涯、お念仏ができる人っていうのは、長生きなんです。
上尽一形、上は一形を尽くす、だから、ロウソクが燃え尽きるが如くに、ずっと生涯お念仏申しておる人、これは長生きなんです。

次に長生きの人は、十念、念仏。十声の念仏が出来る人が 次に長生きの人なんです。
十回念仏出来る、これ 、まだ 長生きなんです。

それから、一念、一声の念仏が出来る人、この人も まだ、長命なんです。長生きなんです。
なむあみだぶつと 一声 念仏する時間がある人は。

短命の機は、何かっていうと、「聞名の機」って書いてある。何かっていうと、聞くだけ。
称えるんじゃないんですよ。南無阿弥陀仏を聞いて往く。聞く、聞く人。これが短命なんです。
これが、最も命が短い人。
浄土真宗の教えって、ここ(短命の機)、なんです。
「一番、命 短い者の救い」なんです。
ってことはね、南無阿弥陀仏と出遇って、救われるという教えなんです。
称えてじゃなくね。
南無阿弥陀仏と出遇うってこと。
南無阿弥陀仏と出遇うってことは、もう、既に、私を仏にする仏さまがいる、それと出遇うってことです。
それが、南無阿弥陀仏なんです。名号なんです。
何度も、私 言っているけど、仏さまって、見えませんからね。見えない。
何で、見えないかって。見える物は壊れるからですよ。
見えてる物は、いつかなくなるでしょ。
いつかなくなる物は、仏さまじゃないんですよ。
だから、無量寿ってことは、命限りなき仏でしょ。命限りなきってことは、見えないんです。しかも、光明遍照 十方世界と言って、阿弥陀さまの届いていないところはないっていうんだから。っていうことは、ここにおられるってことです。
もっと言ったら、私の身と心に もう、おるってことです。ここに 届いているってことです。
そういうことなんですよ、仏さま見えませんて、ことと、仏さまはどこにでもいらっしゃるってことは、もう 私のところに、身と心に、満ち満ちておってくださるっていう、仏さまが。
そのことを 私に 知らせなければ、コイツにとっては、何の意味もない。
私を仏にする仏がね、もう 既に、はたらいているんだってことを コイツに知らせないと救いにならんでしょ。
それを知らせるのが、名号なんです。南無阿弥陀仏の。
なんで 南無阿弥陀仏が、それを知らせるということになるかって言ったら、元は 四十八願ですよ。四十八願は、まあ 縮めて言ったら、「コイツを仏にするっていう願い」なんですよ。その願いが、願いで終らずに、成就した。成就したってことは、「コイツを仏にする仏さまが、もうはたらいているという」 それが、本願成就なんです。それが、阿弥陀仏 というお名前の意味なんです。
阿弥陀仏という名前は、「四十八願が、成就しなければ、私は仏とは名乗りませんと、言った法蔵菩薩が、もう 阿弥陀と名乗っている」ということでしょ。
阿弥陀と 名乗っているってことは、四十八願が、成就したって姿なんです。
阿弥陀仏という名前、そのものが、もう 四十八願成就を 私に告げてくれているわけなんです。
で、しかも、その 上に、南無の二文字がついているのは、だから、「まかせよ、たのめ」が、それに付け加えてられているわけです。
だから、「もう お前を仏にする仏は、はたらいておるのだから、安心せよ、まかせよ」、が、「南無阿弥陀仏 」なんです。
この「南無阿弥陀仏を聞いて、往生する」っていうのが、親鸞聖人の教えなんです。
聞いて往生だから、それを 信 というんです。
「信」。
「信ずる」じゃないですよ。
「信ずる」じゃなくて、「出遇う」ってことなんですよ。信ということは。
「他力の信」とは、「出遇う」ということであり、「他力の信」とは、「聞く」ということなんですよ。
例えば、「神様は見えないから、神様はいると信ずればいいんだ」という、そんな信じゃない。
もう、既に 南無阿弥陀仏と届いてくださっている。南無阿弥陀仏とは、何かと言ったら、四十八願が、ことごとく成就して、私を仏にする仏が もう はたらいているということを 私に告げてくださる、それが南無阿弥陀仏の六字の名号だと聞いたらね、もう、そこに 私の救いがあるじゃないですか。
だから、「称えて往生」って、話しじゃないんです。
ここが違うんです。
「法然聖人の教え」は、あくまでも、「念仏して 弥陀に助けられまいらすべし」なんです。
ただ念仏して。ただってことは、唯 なんです。
唯ってことは、他の修行はダメですよ、ってことです。
他の修行は、ダメってことは、念仏以外の修行は、要りません。ただ念仏して、弥陀に助けられまいらすべしと、よき人の仰せをこうむりて、信ずるよりほかに、別の仔細なきなり。

で、言っときますとね、この違い目を 誰が明らかにしたかと、言ったら、実は、親鸞聖人じゃないんですよ。
親鸞聖人の後なんです。
それは、三代目の門主の覚如上人であり、存覚上人であり、蓮如上人なんですよ。
どっから、それを明らかにしたかと言ったら、親鸞聖人が、遺してくださった教行信証なんです。
教行信証の内容が、正に、念仏して弥陀に助けられまいらすべしじゃないんです。
まあ、そう言ってもいいんだけど。
「聞名」なんです。
聞其名号 信心歓喜 乃至一念 という 本願成就文のお言葉を 信の巻に引いて、「私たちの浄土往生がいつ定まるのか」と言ったら、「名号のいわれを聞くところに、往生が定まるんだ、聞名の救いだ」ということを明らかにしたのが、親鸞聖人の教行信証なんです。
これを信心正因 と言うんです。
その「信心」とは、何かと言ったら、「名号を信ずる心」なんですよ。
名号を信ずるってことは、もう 阿弥陀さまがはたらいているってことを信ずるんです。
阿弥陀さまがはたらいておったら、こっちのはからいは要らんでしょ。こっちのはからいが要らなかったら、今 臨終でも間に合ってるでしょ。
こっちのはからいが必要だったっていうんだったら、一生涯 念仏を申せる者長命の者、十声の念仏が出来る長命の人、 一声 念仏する時間がある人でないとないと救われないんです。
もう、命ギリギリの 断崖絶壁にいる者には、間に合わんのよ。念仏して助けられろと言ったって。
念仏して助かるのは、長生きの人ですから。
一番の短命と言ったら、もう 念仏する間もないんです。これが どこで助かるのか、南無阿弥陀仏の名号と出遇って助かるんです。
だから、南無阿弥陀仏というのが、私の往生の証拠なんだと。
こういう風に 蓮如さんはお示しになっているわけですよ。
南無阿弥陀仏が 往生の証拠なんだ、だから、このご本尊も、南無阿弥陀仏ですから。
これは往生の証拠なんです。
浄土真宗のお寺は、「お浄土参りの証拠」をご本尊にしているんですよ。
そこが、浄土宗のご本尊と違うんです。浄土宗のご本尊は、あくまでも、お浄土の阿弥陀さまをご本尊にしているんですよ。
だから、座っているでょ。座っている阿弥陀さまは、お浄土の阿弥陀さまですからね。
なんでかって言ったらね、座っている姿は、悟りを表すんですよ。だから、阿弥陀さまのお悟りの世界が お浄土だっていうことを表すのが
お浄土の阿弥陀さまで、お浄土の阿弥陀さまは、蓮の葉の上に、座禅を組んで座っているんですよ。
奈良の當麻寺にある観無量寿経の経典をマンダラにした観経マンダラの真ん中は、お浄土の絵になっています。それを見ると、真ん中の阿弥陀さまは座っていますから。
それは、阿弥陀さまの悟りの世界が、お浄土だってことを表しているわけです。そこに向かって、なむあみだぶつ、なむあみだぶつとお念仏をするのは、助けてくださいという念仏なんです。
これが浄土宗の念仏。
タスケタマエ という念仏なんです。
そのタスケタマエという言葉を、蓮如上人が使って、浄土宗と浄土真宗の教えの違いを明らかにしたんです。

どういう風に違うかと言ったら。
私がタスケタマエと言ったら、初めて動き出す阿弥陀さま、これ浄土宗の阿弥陀さま。

浄土真宗の阿弥陀さまは 私がタスケタマエとお願いするより先に、阿弥陀さま 動いてる。ここに届いているわけ。なんて、届いているか、南無阿弥陀仏の名号となって届いている。その南無阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて、タスケタマエということは、おまかせします以外ないんだというんです。
だから、阿弥陀さまが 先に動いて、私が後。

私が動いたら、阿弥陀さまが、動く、私が念仏したら、阿弥陀さまが動く、これが浄土宗の阿弥陀さま。

浄土真宗の阿弥陀さまは、阿弥陀さまが動いて、南無阿弥陀仏となってここに、届いている。その南無阿弥陀仏のいわれを聞いて、タスケタマエと言うのは、これはおまかせしますという以外の意味はないと言って、タスケタマエという、同じ言葉を使って、浄土宗の教えと、浄土真宗の教えの水際を、ピシッと立てた。
これがご文章です。
今の浄土宗は、法然聖人の教えじゃないですからね。

法然聖人は、全部他力だと言っているのに、今の浄土宗では、称えるところまでは、自力だとはっきり言っている。
だから、なんまんだぶつ とお念仏するところまでは、自力で、そこから先は他力だって言うんです。
助けてくれ というところまでは、私の自力なんだ。そこから先が阿弥陀さまの他力だと言って 共同作業になってる、浄土往生が。
だけど、法然聖人は、自力の念仏はお浄土には参らん。他力の念仏が参るんだと、言って、全部他力の念仏を、念仏って言ってますから、ここの部分が、 もうおかしい。
聖光房という方の 解釈から、始まっているのが、今の浄土宗なんです。
だから、親鸞聖人の受け止めの 法然聖人が、本当の法然聖人なのか、聖光房さんや、ほかの西山派の証空上人の受け止めの法然聖人が、本当の法然聖人なのか、という部分ですよね。
浄土宗って、名前だけ見て、アレ、法然聖人の教えでしょっていうと、違うんです。浄土宗の中の鎮西派も、西山派も、浄土真宗も、いわば、弟子の宗派だからね。我々、親鸞聖人という、法然聖人の弟子の宗派なんです。
だから、そこで、法然聖人をどういただいているかっていうことが、三人とも違う。ご安心が違うから。
親鸞聖人のご安心は、正に それを明らかにしたのが もう南無阿弥陀仏が、届いているでしょ。これを本願成就というんだ。本願成就ということは 誰一人として、仏になれない者は いなくなりました。ということを私に告げているんです。だから、これを 一気に闇が晴れたっていうことで、お天道様にたとえて、恵日というんです。無碍の光明は、無明の闇を破する恵日なりってことは、誰一人として、仏になれない者は居なくなりましたよ。と、いうことを 私に告げているのが、南無阿弥陀仏、なんです。
だから、お天道様です。
真っ暗闇に、お天道様が上ったらね、闇、晴れるでしょ。
だけど、まあ 例えはねぇ、ちょっとキツイ例えだけど、目の無い人、耳の無い人は、それを聞くことができない、遇うことができない。無眼人、無耳人て、書いてある。
これ、例えですよ。あくまでも。
お天道様が上っても、目が無かったら見られんじゃないか。耳が無かったら 聞こえんじゃないか。
それを 信がないっていう例えにしてるんです。
信とは、何かと言ったら お天道様を見るということですよ。
信とは、何かと言ったら、名号を聞くということです。
だけど、それはあくまでも、如来さまから 与えられる信心なんだって言っているのが、浄土真宗なんです。
だから、私が信じなきゃいけない、私がこう思わなきゃいけないっていうのが、一切ない。
なんでかって言ったら、これ(短命の機)が、相手だから。
こっちのはからいが、要らないという法が、もう 届いているわけです。それが 名号です。
蓮如上人は、それを、ずーっとご本尊として、日本中に 建てていったというか。
まあ自分の息子さんから、始めていって。
息子いっぱいいますから。蓮如さんは。
だから、息子に、そのお寺の住職をさせて、全国に 作って行って、で、ご文章は、何かって言ったら、「もう証拠が、届いているんだから、こちらのはからいは、要らん」というのが、ご文章になっているんです。
で、南無阿弥陀仏の名号と、ご文章をセットにして、親鸞聖人の教えを全国に広めて行ったんです。
これが浄土真宗なんですよ。
だから、浄土真宗は、あくまでも、名号を聞いて、信心歓喜 乃至一念 。
聞其名号 信心歓喜 乃至一念。
この乃至一念は、タノム一念て、言って、タノム一念というのは、はからいがない一念です。
はからいがないっていうのは、要するに、これをやってお浄土に参ろうとか、これをやって仏に成ろうとか。
もっと言ったら、死んでいくっていう問題ですよ。
この解決なんだ。
後生が 助かるというのは、この後生っていうのは、人間の命の次でしょ。
これが助かるってことは、要するに、臨終の時に、仏になるっていうことですよ。
これを、後生が 助かるっていうんですよ。
だから、これを聞いたら、死んて行くいう問題が起きても、そこに対して アレやコレやと、逃げ回る必要がない。死にたかないですけども。
死にたかないけれども、死が受け入れていけるわけですよ。逃げ回ることは要らん。
はからいがない。
これ 自然て言うんですよ。
自然、はからいのない世界を自然と言う。
これをいただいくんですよ。
それが浄土真宗なんです。
あくまでも、南無阿弥陀仏の六字の名号を聞く、聞名なんです。
聞名の教え。
これが信心 正因の教え。
だから、名号を聞くということを、遇うというんです。
「本願力に遇いぬれば」ってこういうことなんです。
本願力に遇うってことは、南無阿弥陀仏の名号のいわれを聞いて、もう 阿弥陀さまははたらいているという事実に遇うということ。
名号が届いているってことが、阿弥陀さまがはたらいているってことなんです、既にね。
南無阿弥陀仏の名号を聞いているってことが、もう阿弥陀さまがはたらいているってことなんです。
なんまんだぶつ という声が、もうこの世界に、響き渡っているってことが、もう、阿弥陀さまが はたらいているってことなんです。
それによって、阿弥陀さまが はたらいていることを知る。

丁度 今時は、春でね。
この例えが、ピッタリ来ますけども。
私たちは、春の真っ最中の中に、いますよね。
もう 春ですよ。
私 今日 家から ここに来る途中で、あ、もう春だなあと思ったんです。つくづく、思った。梅が もう全部咲いている。
梅が咲いています。ってことは、私たちは、春 真っ最中の中にいるわけでしょ。
それと、同じように、なんまんだぶつ の声が聞こえているってことは、正に、如来のはたらきの中におるということなんです。

よそにおるんじゃないんだよ。

如来さまのはたらきの中におるわけですから、こちらのはからいは、要りませんよ。というところに、聞其名号 信心歓喜、タノム一念。はからいが取られた。はからいが取られたのを自然というんです。
反対に言ったら、はからいの世界は、自然じゃないんです。
みなさん、今 日本人のほとんどが、どういう世界に暮らしてますか。
はからいですよ。
幸せになろうう、なろうと、みんなはからいの中で暮らしているんです。
幸せは もう 届いている。南無阿弥陀仏という。
その はたらきが、届いているのに、それをこっちに置いて、勉強して いい会社に入って、たくさんのお金を手に入れたら幸せになれると、なんか 誰かに教わって…。
私は、完全に、東京文化だと思います。
まあ、ああいう オリンピックをやるのもそうなんでしょうね。
ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、ガンバレ、一番になれ、一番になれ、負けるなよ、負けるなよ、こればっかりやん。
みんな踊らされている。

そうじゃないの、ここは。
阿弥陀さまの世界なんだよ。
阿弥陀さまの世界なんですよ、我々が居るのは。
それを 私に教えてくれたのが、お釈迦さまなんです。
アンタは、阿弥陀さまの世界の中に、おるんだよ。
阿弥陀さま って言ったて、見えんじゃないですか。
だから、なんまんだぶつ の声となって、ここに 届いておるだろう。
その 南無阿弥陀仏のおいわれをお釈迦さまが、お説教なさったのを、仏説無量寿経という。
無量寿経から、親鸞聖人の教えが出ている。
無量寿経の真実に、いきなり遇えない者のために 説いた教えが、観無量寿経なんです。
だから、それを 親鸞聖人は、方便と言っている。方便は、つまらん じゃないんですよ。方便によって、大無量寿経の真実に転入させるんです。引き込む。引き込むための説教だと言っているんです、観経は。
大経は 名号のいわれを説いた説教です。
それは、どういう話しかと言ったら、もう 我々は、阿弥陀さまのはたらきの中におるんだー!という説教ですから。
阿弥陀さまのはたらきの中におるんだったら、これから 私が、何か付け加えなきゃならんものは、何に1つありませんよ。
じゃ、何にもしなくてといいんですかって。
お礼くらいしましょう。それが 念仏です。
この上の、この上ってことは、もう 阿弥陀さまが はたらいていると、聞かせていただ上の称名は、ご恩報謝と 存知、喜び申し候、ですから、ありがとうございます、以外のお念仏は ありません、ということです。

その ありがとうございますのお念仏も、また聞く側に回るならば、それは、私の声となって、阿弥陀さまが、安心せよと、呼んでくださる仏の呼び声でありましたと、また、聞かせていただく。
それを

われとなえわれ聞くなれど なむあみだ
 つれてゆくぞの弥陀のよび声

と 熊本の原口針水という和上さんが 詠んだんです。
これが 浄土真宗の親鸞聖人の念仏なんです。
だから、私の上にはたらいているんです、如来さまが。
お念仏となって、はたらいてくださっている阿弥陀さまってことです。
それを聞く。
聞く ということも、耳で聞くということもあるし、目で、聞くということもあるんです。
これ(ご本尊が見ていること)聞いているんです。目で。
目で見る というけどね、向こうから来たものを受け止めるのを、聞くって言うんです。
お香をやっている人は おわかりですけど。
香を嗅ぐっていうのは、こうやって嗅ぐんです。
香を聞くっていうのは、向こうから来た香りを受け止めるのを、聞くって言うんです。
だから、香炉をやっている人で、こんな鼻を近づけて嗅ぐ人は、いませんよ。品がよくない。
それは、匂いを嗅ぐんです。
だけど、香を焚いたものを、「ああ来ました、これは何てお香ですか。」と、やるんです。
聞くっていうのは、向こうから来たものと
遇うってことです。
そしたら この(ご本尊の)姿を聞く、目で聞く
んです。これは 南無阿弥陀仏、往生の証拠だから。
また、南無阿弥陀仏の名号を耳で聞く。それはそのまま、信 ということなんですよ。
聞くということは。
だから、信 ということは、出遇うっていうことです。
阿弥陀さまが はたらいている事実と 出遇う。
それを 名号を聞くということだと。

この(法然聖人と親鸞聖人の教えの)違いが、なんで出たかと言ったら、やっぱり、法然聖人のような大無量寿経の真実を腹に収めて、観無量寿経のお説教をなさってくださった方が 出たので、親鸞聖人も 法然聖人と出遇うことによって、この大無量寿経の真実の教えに転入できたわけです。
そういう役割を 法然聖人がなさった。
これの先駆者が 善導大師です。
善導大師も やっぱり 観無量寿経のお説教をなさった。それは あくまでも、法然聖人と同じで 今まで、浄土教がない世界に、浄土教を説くためには、やはり 行 に 対しての 行を持って来ないと話しが通じないから、それまでの行に対して、念仏という行を説いて、そして他力の教えに転入させるという、これが観経のお説教なんです。
そういうことをなさったというところに、法然聖人の ご教化があったということで、これを「選択本願」というふうに、 親鸞聖人は、お読みになった ということですね。

先日、あるお同行から「築地ワイバス」という集まりに誘っていただきまして、初めて顔を出しました。ご法話を二座頂戴して、そのあと記念撮影と祝賀会でありました。どなたに誘われたかは、おおよそ見当が付く方もおいでかと思います。


築地ワイバス自体は、以前からその存在を知っていましたが、なかなかご縁なく過ぎ去ってしまい、今回のご縁と相成りました。


思い出すことおよそ5年前、このご縁で隣に座っていらした方が、実はこの築地ワイバスの中心となって続けられていた方で、このときにその方の本と、築地ワイバスの案内をいただきました。

もっともこのときは、「ワイバス」という単語を口頭で聞いたのみであったので、当時家に帰ってから検索してもよく分からずにいて、後日検索で見つかったものの日程が合わず、その後に阿部先生のお寺を見つけて定例のご法話に足を運ぶようになると、たまに思い出しはするものの築地本願寺まで行こうという気もなく月日が経っていたのでした。


そんなわけで、築地では初めての阿部先生とのご縁でしたが、今回も自力他力のお話と御恩報謝についてのお話を頂戴しました。定例でもお話のある内容でしたので、ある意味安心感がありました。

そしてもうお一人、大阪の方からもご法話を頂戴しました。久々に初めての方からお話を頂戴したというのは新鮮なことでありました。


その後の祝賀会では、正面に座っていらした方が二時間ほど熱心にお話を続けられましたので、あっという間に時間が過ぎました。生活の中の真宗ということについて非常に問題意識を持たれているなあという印象を受けました。


まとまってませんが、久しぶりに初めてのご縁ということで、これまた有り難いご縁でした。



南無阿弥陀仏

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