日曜日は学生大会ということで、演題は前日の夜に発表されたらしいのですが、「長者窮子の譬」でした。

まだ前回の二千畳テレビ講演の内容について書いてないのですが、大まかに学生大会の話の概要を書いておきます。

午前中はたとえ話に入らず、その前の話が続きました。
たとえ話をされたのは何を教えるためか、というところでは、

「(正しい)信心を教えるために」
「南無阿弥陀仏の名号を受け取るにはどうしたら良いか、受け取ったらどうなるか」
「どうすれば、この広大な阿弥陀仏の御心を分かってもらえるか」

と、(同じことを言われたかったのでしょうが)表現が何度か変わっていたようなのが印象的でした。


いつも通り、私のメモによる記録です。

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長者窮子の譬は、お釈迦さまが作られた一つのたとえ話。
たとえ話を聞く時に、心得ていなければならないことが二つある。

・伝えんとすることは何か
・合わないところがある


聖人一流章にあるとおり、親鸞聖人は信心一つを教えていかれた。
長者窮子の譬も、信心を表すため。

信心といっても、神や仏を信ずるだけでが信心ではない。何かを信じなければ生きていけない。
信じることは生きることの代名詞。

お釈迦様は正しい信心を明らかにするために教えられた。 


「この信心をばまことの心とよむうえは凡夫の迷心にあらず、またく仏心なり
 この仏心を凡夫にさづけたまうとき、信心といわるるなり」(最要抄)

お釈迦様、親鸞聖人、蓮如上人らの教えられる信心=まことの心=凡夫の迷心ではない=仏(阿弥陀仏)心

この阿弥陀仏の心をもらった時、私のものになる。このとき私の信心になる。

阿弥陀仏の心、仏心は大慈悲心ともいわれる。

慈=苦しみを無くして下さる
悲=無上の幸せを与えて下さる
大=変わらない 


苦しみを無くしたいと思っても、素手では助けられない。薬が必要。
目に見えない阿弥陀仏の心(私たちを絶対の幸福にしてやりたい)が目に見える姿になったものが南無阿弥陀仏の六字名号。

(名号→信心、の図)
 
名号(=仏心)が与えられる前は阿弥陀仏のもの。与えられると私にものになる。これが信心。 


お釈迦様がたとえを作って明らかにされた信心は、人間の迷った心(凡夫自力の迷心)ではない。
自力の迷心=迷った心、不実の心、お釈迦様のお言葉で言うと”心口各異言念無実”

親鸞聖人は、「煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は~」と仰った。
煩悩具足の凡夫=心口各異の人間 が、 火宅無常の世界=まことのない世界 にいる。
だから、世の中の人の信心は例外なく真実あることなし。


真実の信心は誰も知らない。その信心を教えるためにお釈迦様が作られた話。
 

阿弥陀仏の仏心、南無阿弥陀仏のこもった大慈悲心を戴いた時、信心となる。
南無阿弥陀仏の名号を受け取るにはどうしたら良いか、受け取ったらどうなるか、
これを教えたのが長者窮子の譬。

受け取るために、皆さんは二千畳に来ている。


(午前終わり、午後しばらくは午前の繰り返し)


南無阿弥陀仏=功徳の大宝海=大宇宙で最高の宝(御文章5-13) 

南無阿弥陀仏は、私たちに与えるために十劫の昔にできあがっている。
どのような御心か、分かれば受け取るが分からないから受け取れない。

どうすれば、この広大な阿弥陀仏の御心を分かってもらえるか、ということで作られたたとえ話。


(ここから、たとえ話のあらまし)

・莫大な財産をもつ、長者と子供
・子供は小さい時、人さらいにあって行方不明になった
・方々手を尽くして探したが、40年あまり子供は見つからなかった
・長者は病気となり、全財産を子供に与えたいと願っていた
・長者は最後の手段として、都会に巨大なデパートを作って子供を見つけようとした
・子供は人さらいによって売り飛ばされ、乞食(窮子)になっていた
・窮子は乞食仲間によってデパートの存在を知らされ、デパートを覗き見した
・窮子がデパート覗いた時、長者はそれを見逃さず、屈強な男達に連れてこさせようとした
・男達に追いかけられた窮子は必死に命乞いをし、見るに見かねた長者は子供を解放させた
・長者は、窮子を無理矢理連れてこさせようとしたことを反省し、別の手段を考えた
・長者は、掃除夫に、「何を言ってもいいから言葉であの乞食に、このデパートで働くよう説得せよ」と言った
・掃除夫は必死に窮子を説得し、窮子はデパートで掃除夫として働き始めた
・しばらくして、長者は窮子に「よくやっているから給料倍にしてやる」と言って昇格させた
・本当はすぐにでも親子名乗りをしたいのをこらえ、ついには窮子をデパートの支配人にした
・それでも窮子は、雇われの身と雇い主という心の溝を克服できずにおり、長者は心を痛めていた
・長者もとうとう最期が近くなり、国王らを呼んでついに親子名乗りを果たし、全財産を子供に与えた
・窮子は長者(親)の心を知らされ、長者は亡くなった

(たとえ話終わり)

このたとえ話では、
長者=阿弥陀仏 
長者の財産=南無阿弥陀仏

「これは私の子供です」の一声で、南無阿弥陀仏の全財産が私のものとなる。これが信心。


お釈迦様は長者窮子の譬で、阿弥陀仏が私たちを助けるためにどのようなご苦労をされているのかを教えられた。

だんだんと給料を上げて掃除夫から売り子、と出世をさせる。そんなことを阿弥陀仏は望まれていない。
すぐにでも全財産を与えたかったが、無理矢理与えようとしても目的を果たせない、と我慢された。


「釈迦弥陀は慈悲の父母 種種に善巧方便し われらが無上の信心を 発起せしめたまいけり」

種種の善巧方便が無ければ、信心を阿弥陀仏からいただくということも無かった。



この譬は何のために作られたか。
→阿弥陀仏が私たちを助けるためにどんなご苦労、善巧方便をされているか

合わないところはどこか
→いろいろあるが、阿弥陀仏が亡くなるということはない