もうすぐ開設から一年経つということで、先回の記事では「親鸞会ブログポータル・ナビ」でのPV数基準で並べてみましたが、今回は私の思い入れのある記事を10本選んでみました。正確に言いますと、選んでみたらたまたま10本だったというのが本音でした。それなりに思い入れがある記事は他にもあるのですが、選んでみたら意外に少なかったです。
学生諸君へ (12/07/11)
「一向専念高森先生」では、どんなに頑張っても助からない (12/11/06)
親鸞会元会員さんへ (12/12/13)
年頭(平成25年)に寄せて 「弥陀の真似でも」 (13/01/01)
卒「親鸞会」 (13/02/26)
「後輩」の君へ (13/03/26)
「高森先生の代わりにはならない」 (13/03/31)
「信用」の基準 (13/04/17)
「高森顕徹」という名の幻影 (13/04/26)
生きてさえいてくれていれば (13/05/16)
それぞれについて、少しコメントします。
●学生諸君へ
もう6年以上前のことですけれども、 読み返して頂ければお分かりの通り、じつは私が言ってることは殆ど変わっていたいのだなと改めて思います。そういう意味では原点と言えるかも知れません。
●「一向専念高森先生」では、どんなに頑張っても助からない
100回目記念でした。実はいくつか内容の候補はあったような記憶があったのですが、忘れてしまいました。
実はそれまで、「ご法話の内容」を書きながら弥陀の本願を味わえるようにと思いながらいたわけですけれども、ちょうどこの付近で、あの「五重の義」の話が始まりました。それでこの話になりました。
●親鸞会元会員さんへ
よくコメントをくださる、コテの”親鸞会元会員”さんとのやりとりの中で、コメント欄に書ききれないと思ったので記事にしたものです。というのは表向きのものでした。記事内では「”親鸞会元会員”さん」と表記しながらタイトルには「親鸞会元会員さん」とだけ表示したのは、おそらく他にも同じように思われている方が少なく無いのではないかと思ったからでした。そのようなわけで、タイトルにはダブルコーテーションを付けませんでした。
●年頭(平成25年)に寄せて 「弥陀の真似でも」
「与えることだけ考えよ」という言葉からの話ですが、弥陀の本願を味わうほどに、つくづくありがたさが偲ばれます。「弥陀に救われるために善をする」というのはまったく弥陀に対して勿体ない話ですから、そこはもちろん否定しています。
●卒「親鸞会」
機会を見てずっと書こうと思っていた内容でした。親鸞会という宗教団体があって、だいたい読まれている方の多くは親鸞会という団体がきっかけであろうと思いますから、親鸞会が話題になるのは当然としても、弥陀の本願を語る上においては親鸞会などという小さな枠に収めるには勿体ないと思うからです。ちなみに書いたタイミングは個人的な理由によるものです。
●「後輩」の君へ
いろいろと思うところをひとまとめにしました。実はちょうど後輩を亡くしてしばらくしたタイミングということで、その後輩が念頭にありました。というのは半分だけ本当で、念頭にあったのは今どこで何をしているかも分からない(元気らしいのですが)元彼女でした。
●「高森先生の代わりにはならない」
実に思い出深いフレーズで、これが無かったら結局「第二の高森先生」を探すことに汲々していたかも知れないと思います。
●「信用」の基準
当たり屋情報はタイミング良くたまたま出てきただけで、内容としてはずっと前から頭にありました。ただ、内容が発散してあまり頭の中が整理できてなかったので、じゅうぶんに伝わらなかったという話もありましたが。
●「高森顕徹」という名の幻影
先の「高森先生の代わりにはならない」と、おそらく言っていることは同じだと思います。語弊のある言い方をすれば、私にとっては「親鸞会」がどうとかこうとか、「高森先生」がどうとかこうたかは特に問題ではない(どうでもいい)のですが、親鸞会という団体の性質上致し方ないのか、強い拘りをお持ちの方もあるように思いましたので書きました。
●生きてさえいてくれていれば
これはタイトルが後付けだったのですが、中身よりタイトルの方が思い入れがあります。後で考えて「生きていてくれてさえいれば」のほうが良かったかなと思ったりもしましたが。やはり目の前から去られるというのは、寂しく感じるのも事実ですので。
ということで、今日一日で3本という反則技を使って、「2日に1本」の182本(ちょっと足りませんが)として1年目を締めたいと思います。
学生諸君へ (12/07/11)
「一向専念高森先生」では、どんなに頑張っても助からない (12/11/06)
親鸞会元会員さんへ (12/12/13)
年頭(平成25年)に寄せて 「弥陀の真似でも」 (13/01/01)
卒「親鸞会」 (13/02/26)
「後輩」の君へ (13/03/26)
「高森先生の代わりにはならない」 (13/03/31)
「信用」の基準 (13/04/17)
「高森顕徹」という名の幻影 (13/04/26)
生きてさえいてくれていれば (13/05/16)
それぞれについて、少しコメントします。
●学生諸君へ
もう6年以上前のことですけれども、 読み返して頂ければお分かりの通り、じつは私が言ってることは殆ど変わっていたいのだなと改めて思います。そういう意味では原点と言えるかも知れません。
●「一向専念高森先生」では、どんなに頑張っても助からない
100回目記念でした。実はいくつか内容の候補はあったような記憶があったのですが、忘れてしまいました。
実はそれまで、「ご法話の内容」を書きながら弥陀の本願を味わえるようにと思いながらいたわけですけれども、ちょうどこの付近で、あの「五重の義」の話が始まりました。それでこの話になりました。
●親鸞会元会員さんへ
よくコメントをくださる、コテの”親鸞会元会員”さんとのやりとりの中で、コメント欄に書ききれないと思ったので記事にしたものです。というのは表向きのものでした。記事内では「”親鸞会元会員”さん」と表記しながらタイトルには「親鸞会元会員さん」とだけ表示したのは、おそらく他にも同じように思われている方が少なく無いのではないかと思ったからでした。そのようなわけで、タイトルにはダブルコーテーションを付けませんでした。
●年頭(平成25年)に寄せて 「弥陀の真似でも」
「与えることだけ考えよ」という言葉からの話ですが、弥陀の本願を味わうほどに、つくづくありがたさが偲ばれます。「弥陀に救われるために善をする」というのはまったく弥陀に対して勿体ない話ですから、そこはもちろん否定しています。
●卒「親鸞会」
機会を見てずっと書こうと思っていた内容でした。親鸞会という宗教団体があって、だいたい読まれている方の多くは親鸞会という団体がきっかけであろうと思いますから、親鸞会が話題になるのは当然としても、弥陀の本願を語る上においては親鸞会などという小さな枠に収めるには勿体ないと思うからです。ちなみに書いたタイミングは個人的な理由によるものです。
●「後輩」の君へ
いろいろと思うところをひとまとめにしました。実はちょうど後輩を亡くしてしばらくしたタイミングということで、その後輩が念頭にありました。というのは半分だけ本当で、念頭にあったのは今どこで何をしているかも分からない(元気らしいのですが)元彼女でした。
●「高森先生の代わりにはならない」
実に思い出深いフレーズで、これが無かったら結局「第二の高森先生」を探すことに汲々していたかも知れないと思います。
●「信用」の基準
当たり屋情報はタイミング良くたまたま出てきただけで、内容としてはずっと前から頭にありました。ただ、内容が発散してあまり頭の中が整理できてなかったので、じゅうぶんに伝わらなかったという話もありましたが。
●「高森顕徹」という名の幻影
先の「高森先生の代わりにはならない」と、おそらく言っていることは同じだと思います。語弊のある言い方をすれば、私にとっては「親鸞会」がどうとかこうとか、「高森先生」がどうとかこうたかは特に問題ではない(どうでもいい)のですが、親鸞会という団体の性質上致し方ないのか、強い拘りをお持ちの方もあるように思いましたので書きました。
●生きてさえいてくれていれば
これはタイトルが後付けだったのですが、中身よりタイトルの方が思い入れがあります。後で考えて「生きていてくれてさえいれば」のほうが良かったかなと思ったりもしましたが。やはり目の前から去られるというのは、寂しく感じるのも事実ですので。
ということで、今日一日で3本という反則技を使って、「2日に1本」の182本(ちょっと足りませんが)として1年目を締めたいと思います。
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