現在、会員のみなさんでがんばって全国各地に親鸞会の会館ができています。今年は並行して新聞広告にも力を入れていて、全国紙だったり地方紙だったりと、一万年堂出版の広告が掲載されています。


思い返してみると、私が親鸞会と縁があってから十数年が経ちますが、この間だけでも様々なものが増えました。


・全国の会館
・ウエルカム
・同胞の里の遊歩道
・あんしん弁当
・同胞の里のF館
・法輪閣
・同胞の里
・サンキュー
・地下道
・正本堂関係
・赤1駐車場
・一万年堂出版と「ご著書」
・・・・


なんでこんなことを思い出したのか。

ブログの読者の方とやりとりをしている中で、東本願寺が作ったキャラクタの話が出たからです。



二年余り前、所用で夜行バスでで京都に行った私は、到着が早朝だったために手持ち無沙汰になりました。そこで、京都駅の周りを歩いているなかで東本願寺の前を通りかかった時に見つけたのが、この「鸞恩くん」というキャラクタでした。


それを見て、ああ、東は随分とぶっ飛んでいるのだな、と思ったものでした。
 

親鸞会では、あまり東西本願寺を明確に分けずに一緒くたに話をされることも少なくなく、かつ西本願寺側を特に強く批判している(ように見える)ため、あまり露骨な東本願寺批判というのは聞かれないように思います。

そんな親鸞会が、このキャラクタを見たらどういう反応をするのかな、と思ったのでした。




先ほど、 「親鸞会で増えたもの」を思いつくままに列挙しました。
これらは、「親鸞聖人のみ教えを弘めるために必要だから」ということで作られたものだったと思います。 


正本堂などの聞法道場は分かりやすいのですが、サンキューなどの物販、 弁当屋などは首を傾げる方も割合にいらした記憶があります。F館が稼働している今はすっかり忘れ去られた感のある法輪閣(物流会社の保養所だった)というものもありました。


そういえば話は脱線しますが、法輪閣を入手して間もなく、中を見せてもらったことがありました。それまで、会館での宿泊と言ったら講堂に布団を敷いての雑魚寝くらいしか経験の無かった親鸞会において、初めて見るまともな宿泊所だったかと思います。上の方にひときわ大きく立派な部屋がありました。大きなベッドに豪華な作り、後で分かったのですが、いわゆる「スイートルーム」でした。

ところが、私たちが見学した直後、実は入ってはいけなかったらしく、立ち入り禁止になってました。私は撮影しなかったのですが、豪華な部屋だったので写真を撮っている人も居ました。実は撮影禁止だったということも、後で知りました。 その後、法輪閣も宿泊所として使われたのですが、あのスイートルームがどうなったのかは分かりません。全然話題に出ないので、無かったことになっているのかも知れませんが、一般開放されても扱いが難しいかなと思ったりもしてます。


話を戻します。


親鸞会の中で増えたもの、それはいずれも「親鸞聖人のみ教えを弘めるために必要なもの」ということでした。
また、「私たちの後生の一大事の解決のために必要なもの」とも説明されていたと思います。



では「鸞恩くん」はというと、東本願寺のHPによれば、「子どもたちが宗祖親鸞聖人の教えにふれる機縁となるよう」という趣旨があるそうです。


そういう意味で言いますと、片や箱物、片やキャラクタの違いはあるにしても、いずれも「親鸞聖人の教えにあうご縁として」作られたもの、という言い方ができると思います。



地下道だとか物販店だとか、直接は仏法に関係なさそうなものでも、「必要なもの」と説明されてきました。視点や考え方によっては、余程外れたものでなければいくらでも理由が付けられるので、そのこと自体私は問題にしなかったのですが、一方でその基準が不思議で不思議でなりませんでした。

これは実現しなかったように思いますが、一時、クリーニング屋も検討していた節がありました。


一方で、ほかの宗教団体がやってそうな「芸能人」だとか「学校」だとか「集客施設」だとか、そういったものは殆ど話題すら聞いた記憶がありません。(個人的にメジャーデビューしそうだった方の話なんかは聞いてますが)

 
「鸞恩くん」絡みで言いますと、親鸞会でも顕正新聞やとどろき、Bヤングなどにキャラクタはいっぱい出てきますが、着ぐるみがご法話会場を闊歩している姿はかつて見たことがありません。



別に、親鸞会もキャラクタを作ってくれ、ということではありません(当たり前ですが)。親鸞会には親鸞会の事情や考え方があり、本願寺には本願寺の事情や考え方がありますから。ただ、「必要なものだから」ということで次から次へと話が出ても、理由が付けば「必要なもの」にきりがありませんし、十分に使われず忘れ去られたりしたら勿体ないことです。


私が「鸞恩くん」を見て、「親鸞会はどう思うだろうか」と思ったのは、「親鸞会だったら馬鹿にするのではないか」という色眼鏡で見てしまっていたからでした。そんな色眼鏡がくっついたのは、相応の経緯があったわけですが、実際のところはどうなのだろう、と思います。

そして、今後も「必要なもの」は現れ続けるのでしょうが、その基準はどこにあるのだろうか、とも思います。 
 

かつては、館内で殆ど物販がなかったのに、今は物販だらけですから、「必要なもの」もどんどん変わっていくのかも知れません。