いきなり私ごとですが、今週は体調を崩しておりました。


さて、一週間以上前に受け取っていた顕正新聞8月1日号は、一応目を通してはいたのですが、論説を読んでふと、先月(7月)のご法話にはご縁が無かったことを思い出しました。


7月7日、その日私は、冷房も照明も使えない建物内で作業をしてました。今日も暑かったですが、あの日も暑かったです。そんなことをしていたので、ご縁がありませんでした。


顕正新聞の中の「法友通信」には、いつのご法話(もしくは講演)についてのお礼状かということが書かれているのですが、論説の場合はぱっと見、テーマが脈絡なく出てきているようにも見えます。


ただ、論説に書かれている内容は、親鸞会として非常に重要な内容ですから、いわゆる「ご教導」に違いありません。ここしばらくの論説は、だいたい、ご法話か二千畳講演の内容である(と推測できる)ということに、最近ようやく気付きました。 


とりあえず今回は、論説の内容をこちらに書いてみます。これを7月ご法話の内容であると推測したのは、

・私が最近聞いた記憶のない内容であったこと
・法友通信が7月ご法話の内容であったこと
・内容を読んで

からでした。


=====(顕正新聞8月1日号から引用)====== 
○弥陀は与えるためだけに

「如来の作願をたずぬれば 苦悩の有情をすてずして 廻向を首としたまいて 大悲心をば成就せり」
(正像末和讃)

"阿弥陀如来は、なぜ本願を建てられ、南無阿弥陀仏を創られたのか。よくよく案じてみるに、すべての仏から見放され苦しむ我々を見捨てることができなかったので、南無阿弥陀仏の大功徳を与えて助けたいの弥陀の大慈悲心一つが知らされる”
苦から苦の綱渡り、迷いの旅路の果てしない我々をご覧になって、十方諸仏は、何とか助けてやりたいの大慈悲心を起こされた。「仏心とは、大慈悲これなり」と言われる通りである。
しかし、我々があまりにも罪悪深重であったため、諸仏方は力及ばず、断念せざるを得なかった。
そこで十方諸仏の本師本仏でまします阿弥陀仏は、大宇宙の仏方が皆、さじを投げた者たちならばなお見捨ててはおけぬと、五劫の長期にわたって思惟なされ、「我一人、助けん」と崇高無上の大願を建てられたのである。
仏さまは皆、悲智円満のお方であるが、阿弥陀仏が十方諸仏に本師本仏と仰がれるゆえんは、智慧(助ける力)がずば抜けておられるからである。
釈迦はそれを、「阿弥陀仏の威神光明は最尊第一にして諸仏の光明の及ぶこと能わざる所なり」「諸仏の中の王なり、光明の中の極尊なり」と絶賛されている。
だが、「必ず助けてみせる」の弥陀の願心は色も形もなく、我々には認識できない。そのままではとても救うことができないから、弥陀は不可思議兆載永劫のご修行の末に、我々の認識にのる「南無阿弥陀仏」の六字の中に、ご自身の智慧と慈悲のすべてを封じ込められ、ついに無上宝珠の名号を完成してくだされたのだ。
手も足もないダルマのような我々は、ああしなさい、こうしなさいと言われても不可能。ああなって来い、こうなって来いと注文されても何一つできない極悪人である。
だから弥陀は、無条件に、ただ廻向する(与える)ことだけを考えて、六字の名号を成就してくだされた。弥陀のまことはひとえに、悪業煩悩にまみれて苦しみ、闇から闇へと突っ走る十方衆生に、無上の功徳の名号を与えて、絶対の幸福に救うためであったのである。弥陀の救いが、他力廻向と言われるゆえんだ。
だが、どんな大功徳があっても、我々がそれを頂かなかったら助からない。当然だろう。
ゆえに弥陀は、名号が完成した十劫の昔から、私たちに名号を与えて助けようと必死になっていられるのだが、深い迷いの我々は、疑って一向に受け取ろうとしないでいる。この疑情一つが、実に三世を流転してきた元凶なのである。
南無阿弥陀仏の大功徳は「聞く」一念で全領できる。
聞即信の一念に仏智満入して、「本願に疑心有ること無し」と信楽開発しなければ、弥陀の五兆の願行は水泡に帰すのだ。銘記しなければならない。

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※赤字、太字等の指示は基本的に原文ママ


私がまず、ここだけを読んで思ったのは、「善の勧めが全然出てきてないな」ということでした。
つづまるところ、「南無阿弥陀仏を受け取れよ」「南無阿弥陀仏を聞けよ」というお話だったのかな、と思いました。

もっと言うと、「私たちには何もできない」から、「ただ阿弥陀仏は与えることだけを考えて南無阿弥陀仏を創られた」というお話だったのかな、と、この論説を読む限りではそう思いました。


ちなみに、法友通信の感想(お礼)を読んでみますと、

(Bさん)
・・・前略・・・
時間、体力、多方面において全力で臨んで初めて聴聞といえるのだと思いました。
肝要である「タノム一念」は、命と命がぶつかるところであると知らされます。人生は「聴聞に極まる」ことを、自他ともに徹底したいと思います。


(Cさん)
・・・前略・・・
仏の命を懸けられて、阿弥陀仏は、私たちを救うと誓われ、善知識も常に、命懸けでご説法をしてくださっています。助けていただこうとする私こそが、「火の中かき分けて」の思いで、ど真剣に聴聞しなければならないと知らされました。



(Dさん)
「仏法には世間の隙を闕きて聞くべし、世間の隙をあけて法を聞くべき様に思う事浅ましきことなり」
・・・中略・・・
仕事を、「世間の隙」と言い切られ、仕事をやめて仏法を聞けと仰った蓮如上人のお言葉に圧倒させられます。
1億円稼ごうとしたら、並大抵の努力では到底無理です。それ以上のものを求めているのだと知らされました。


といった感じでした。
私なりにまとめてみますと、

・火の中かき分けて、仕事なんかやめて、命懸けで聞くのが仏法なのだ、と知らされました。
 
という内容と理解しました。
 

ちなみにAさんがなくて、B,C,Dさんだったのは、一人目の内容は若干違っていたからでした。

Aさんの内容は、大ざっぱに言うと

・名号を受け取ることが重要なのだと知らされました。

というものでした。 



以上をまとめると、7月7日の内容は、
 
・苦から苦の綱渡りをしている私たちを助けようと、阿弥陀仏は南無阿弥陀仏を創られた
・この南無阿弥陀仏は、阿弥陀仏が私たちに与えることだけを考えて創られた
・南無阿弥陀仏を頂かなければ、私たちは助からない。南無阿弥陀仏を聞いて、頂く。(聴聞に極まる)
・火の中かき分けて、仕事をやめて、ド真剣に聞かなければならない

というような内容だったのだろうと、勝手に想像しました。


長くなりますので、今日はこの辺で。