一週間近く寝かせてしまいました。明日は二千畳講演です。演題は同じく「五重の義」だろうと思います。


大導師以上座談会を詳しく振り返ろうかとも思ったのですが、すでに一週間近く経ってしまったので、取り急ぎは大ざっぱに振り返ることにします。


質問:
「親鸞聖人は、本願成就文の教えを仏教の至極と仰っています。仏教の至極といわれる本願成就文に教えられている弥陀の救いとは、どのようなものなのでしょうか。お聞きしたく思います」


・「至極」=これ以上大切なことはない、ということ

・本願成就文=お釈迦さまの教え。漢字40字。
         阿弥陀仏の本願(阿弥陀仏という仏が約束されたこと)を教えられたもの。 

・阿弥陀仏とお釈迦様の関係
 先生と生徒(あさ川註:他、太陽と月のような関係、というお話も出ました) 

・阿弥陀仏の約束に48願ある。すべての人を相手に約束されたのは、18,19,20願。摂生の願という。
 阿弥陀仏の本願と言えば、この摂生の三願のこと。

・このうち18願が阿弥陀仏の本心を約束されたもの。王本願。真実の願といわれる。
 18願だけが真実の願。あとは方便の願といわれる。
 方便がなければ真実は分からない。方便は真実を知るのに必要不可欠。

・親鸞聖人の教えの全てが書かれた教行信証の冒頭に、
 「難思の弘誓(阿弥陀仏の18願)は難度海を度する大船・・・・」とある。
→しばらく難度海の話

・親鸞聖人は、阿弥陀仏の18願のことを「難度海を明るく楽しく渡す大船だから、早く乗りなさい」と仰った。

・18願のお約束の内容=
 「十方衆生は極悪人。無条件で絶対の幸福に救う」
 すべての人を、手も足もない極悪人と見られた。
 大宇宙の諸仏にも見捨てられたような者だから、阿弥陀仏が無条件で助けると約束されている。

・ところが、私たちは自惚れて、この阿弥陀仏の18願を疑っている。=本願疑惑心、自力の心

・どうすれば阿弥陀仏の本願のとおりに従う(難度海を度する大船に乗る)ことが出来るのか、
 阿弥陀仏が五劫の思惟をされて建てられたのが19,20願。
 親鸞聖人は、摂生の願、三願によって救われたと仰っている。→三願転入のご文
 
・では、19願のお約束はどんなものか=
 「力一杯善をせよ。必ず助けましょう」

・なぜ、18願で無条件に助けると仰っているのに19願で「力一杯善をせよ」とおっしゃるのか。
 すべての人は自惚れていて、自分を善人だと思っているから、やらせるより他にない。
 自惚れ心がある間は分からない、聞けない。心からまかせられない。
 やってみて、できない自分だったと知らされたらまかせるより他にない。それを助けるのが18願。
 善に向かうほど自分の本当の姿が知らされる。これが19願を建てられた目的。

・後生の一大事が自分の力で解決できないと知らされると、念仏に目が向く。
 20願の内容=
 「一心に念仏称えなさい。目的を果たさせます」
 目的を果たさせます=18願に入れてあげます

・一心に念仏称えるようになる。この一心が20願の特徴。

・定散心の念仏の説明
 →このような心で称える念仏を、自力の念仏という

・19願から20願、20願から18願の世界へと、一念で転入する。
 阿弥陀仏はこの摂生の三願によってすべての人を18願の世界に出させようとしている

・ここまでの話は本願成就文に説かれている。

・(私たちが)三願を読んでも、三願の御心は分からない。
 大船に乗るにはどうすれば良いか、(弥陀の18願)36字を読んでも分からない。

・阿弥陀仏の御心を知るには、同じ仏であるお釈迦様に聞くよりない。
 それで、本願成就文以上に真実の教えはない、だからこの本願成就文の教えを聞きなさい
 と、親鸞聖人や覚如上人は教えられている。
(「横超とはすなわち・・・
 「それについて三経の安心あり・・・
 「かの心行を獲得せんこと・・・・)

・では、成就文では、大船にどうすれば乗れると教えられているか=
 聞其名号、聞く一つ。
 
 「聞というは、衆生仏願の生起本末を聞きて疑心あることなし・・・」
 衆生=十方衆生、すべての人
 仏願=阿弥陀仏の本願、18願、真実の願
 生起=どんな者のために建てられたか、どんな相手と約束されているか
 本= 18願
 末= 19願、20願・・・18願の本から出てきたから、従真垂化。19,20願は18願に収まる。
 疑心=私は極悪人ではないと言う心、19願20願に対する疑い、本願に対する疑い

・親鸞聖人は、この疑い晴れた時のことを
 「誠なるかなや摂取不捨の真言、超世希有の正法・・・」
 一念の時に、19願20願に対する疑いも晴れる。摂生の願すべてまことだったと知らされる。
 真仮ともに疑い晴れる。片方だけということは絶対ない。

・阿弥陀仏の御心は、仏であるお釈迦様にお聞きするよりないから、至極といわれる。
 親鸞聖人の教えを聞く=成就文の教えを聞く、ということ

(以上)


内容をかなり端折ってますが、大意はこのような内容だと理解しています。
(違ってたらお知らせ下さい)

今回は、ご文も端折ってます。すいません。(ここをご覧になる方は、およそご存じと思われるご文のため)
なお、今回は出てきた根拠全てをここに書いているわけではありません。時間等の都合により相当割愛してあります。

いつもながら、「私はこう聞いた」というメモであることをご承知おき下さい。