しばらくぶりの更新です。私事としては、たいしたことはありませんでしたが少し体調を崩していました。食べたいものが食べられないというのは、やはり残念でした。もっとも、更新していなかった理由は体調のことだけではなく、「アクセス数が落ちてきたら更新しよう」と思っていたところがなかなか落ちなかった、ということもあります。実際、今もアクセス数は落ちきってはいませんが、さすがに一ヶ月経ちますので更新です。


さて、投稿文をいただいておよそ1ヶ月経過しますが、全体のページビュー数では初めて1万を超えました。「ブログポータル・ナビ」での合計は2000を超えたところですが、それ以外の経路からもご覧いただいているようです。


実際のところ、私は会員の時に嶋田さんとのご縁はありませんでした。「私の白道」の存在は当初から知っていましたが、直接どういう方かということを存じ上げてはいませんでした。ただ、会の中では当時、頻繁に悪口を言われていたように思いますので、その印象はありました。RCさんが先回の投稿で紹介されていた勉強会で初めてお会いしましたが、親鸞会で悪口言われていたような印象は受けませんでした。


悪口と聞いて、ふとぶるうの氏のことを思い出したのでした。ぶるうの氏も除名になった際、特に私の大学は出身大学だったということもあってか、講師部員(主にK玉さん)があることないこと後輩に言いまくっていたことが印象に残っています。私は当時すでに直接やりとりをしていましたし、よく知ってもいましたから良かったのですが、それほどでもない後輩達はどう思っただろうかと。講師部員が言われるからと、真に受けてしまっていたんじゃないかと思い返したのでした。



話はそれましたが、従って今回投稿文を書いていただくというご縁も、そのままではあり得ませんでした。そこにはやはり、4回も投稿文を書いていただいたRCさんを通じてのご縁があったわけです。

思えば、RCさんと投稿文とのご縁も不思議なものでした。


RCさんとは、私が会員時代に同じ支部ではありましたが、特段親しくさせていただいていたわけではありませんでした。私が5年ほど前に熊谷に引っ越してきてからは、家が近いということもあって多少ご縁はありましたが、特に連絡先を交換していたわけでもありませんでした。

ですので、昨年暮れにRCさんから突然のお電話をいただいた際も、番号を登録していなかったのでRCさんとは分からなかったのです。留守電が入っていなければ、折り返しお電話することさえ無かったかもしれません。

RCさんも、ふと私が会の集まりに顔を出さなくなったことを疑問に思われて別の会員さんに聞かれたようですが、そのようなことでも無ければ、電話をいただくことも無かったかもしれないなと思います。

電話いただいて、思いの縁を、1時間ずつくらい何回も話をいただきました。その思いを「(ブログで)伝えてもらいたい」とRCさんが言われなかったら、私も文章を書いてほしいと思わなかったはずです。

とすれば、今回も含めて、投稿文をいただくということも無かったでしょう。


私の手元にはアクセス数という情報しかありませんが、一連の投稿文を通じてRCさんや嶋田さんに対して、何件もの反響があったと伺っています。ちなみに詳細について私は存じ上げていませんのでご安心ください。


直接思いを綴っていただけた、ということにおいて、総じて、投稿文を書いていただいて良かったなと思っております。





一連の投稿文を通じて、ふと私は、親鸞聖人が唯信抄文意に書かれている末尾のお言葉が味わわれたのでした。


やすくこころえさせんとて、おなじことを、たびたびとりかえしとりかえし、かきつけたり。こころあらんひとは、おかしくおもうべし。あざけりをなすべし。しかれども、おおかたのそしりをかえりみず、ひとすじに、おろかなるものを、こころえやすからんとて、しるせるなり。


ちょっとというか、だいぶ違うのかもしれませんが、「同じことを、たびたびとりかえしとりかえし」の部分が、まさにこのネットの情報ではなかろうか、と思ったのです。



私が初めて2ちゃんねるの存在を知ったのは20歳の時ですから、13年前の話です。私は大学2年の時に、すでに親鸞会に対してネガティブなネットの情報(要するに批判)に触れていました。

大学2年から3年まで見ていて、その後少し中断しましたが、ネットの情報すべてを否定することはできないなと思っていました。そして、ぶるうの氏が退会してからまたネットの親鸞会情報を見だしたのです。大学院時代は、まだぶるうの氏がやめて間もなくのことで、軒並み親鸞会の嫌がらせによってブログ等のサイトが淘汰されかけていたため、主に2ちゃんねると自分で調べた内容が情報源でした。学生時代にこっそり本尊論ブログを書いて除名になりかけていたことは、以前に書いたとおりです。

それから考えても10年、ほぼずっと親鸞会に対する批判的な情報に触れ続けていた私は、おそらく読者の皆さんからしたらだいぶずれた感覚を持ってしまっていたように思います。

それは、「親鸞会に対するネットの情報は、皆承知しているものだ」ということでした。
皆、というのは、もちろんバリバリの会員さん含め、です。


思えば、10年以上もそのような情報に触れ続けて、あるいは当事者にもなりながら会員を続けていた私が特殊であったのですが、どうも感覚がだいぶ感覚がずれておりました。


私が昨年暮れにRCさんから電話をいただいて話をしたときに、意外に思ったことは2つありました。
熱心な会員だったRCさんがやめた、ということと、RCさんがネットの情報をきっかけにやめようと思われた、ということの2つです。

後者を私が意外に思ったことを不審に思われる方もあるでしょうが、私は10年あまりの蓄積によって「(特に熱心な会員さんにおいては)ネット上の批判の内容を承知で会員を続けている」という思考に偏ってしまっていたからでした。



もちろん、親鸞会に対して何の不審も抱いていない状態で、あるいはガチガチに信じている状態で、批判的な情報を読んだところでまったく頭に入らないでしょう。ですから、ネット上の情報が頭に入ってくる、同意できるという縁があってのことだと思います。


私のように10数年、あるいはそれ以上長いことネット上の親鸞会情報に触れているようなかたですと、おそらく目新しい情報は(特に最近は)あまり無いと思います。それでも今回のことを考えますと、出し尽くされた内容だと思っていても、時を経て「新しい情報」として出会う方もあるのだと思うのです。

人によっては「今更」と感じる内容でも、別の人には「新鮮」と映る。


親鸞聖人が、唯信抄文意で「とりかえしとりかえし」といわれたこととはずれているかも知れませんが、同じような内容でも「繰り返し繰り返し」世に出すことで、その時々のご縁で出会う方もあるでしょう。

それは、「以前に読んだけどピンと来なかった」という方もあれば、「読むこと無く埋もれていた」という方もあると思います。

そのようなことでも良い、そのようなご縁を通じて、RCさんのようにまた一人、弥陀の本願を喜ばれる方が現れればありがたいことです。


今回の投稿文に対しての反響やそれまでのことを思い出して、そのようなことを思ったのでした。