日をまたいでしまったので日曜日が「おととい」になってしまいました。一昨日はRCさん主催の嶋田さんを囲んでの勉強会、昨日はまた別の信心沙汰の集まりに行ってきました。そのときに、お花を頂きました。ありがとうございました。ご縁のあった皆さん、ありがとうございました。


嶋田さんの勉強会はまた後日に別途あるかと思いますが、私の味わいを少し。

最初に「おとりつぎ」の話がありました。ちょうど先日、似た内容のコメントを頂いていたこともありまして、感慨深く味わわれました。「教える」でなく「お伝えする」、そして共に南無阿弥陀仏をいただく、ということでした。



話は変わりますが、前回の記事を載せた後、妻が記事を見て「そんな非常識だと思っている団体なのに、なぜ離れなかったのかが不思議で仕方ない」と言いました。言われてみれば確かに、その当時「やめる」という選択肢は頭に無かったと記憶しています。ただ、そのことがあって今があるのだと、改めて味わわれたのでした。



さて、くだらない思い出話をしばらく披露しておりましたが、今日はふと思ったことを書きます。「またくだらない話を」と思われるだろうと予想しまして、その通りですとあらかじめお断りしておきます。


愚愚流さんから頂いたコメントのお返事をしているときに、ふと思い出したことがありました。


自分中心、弥陀中心というところで、、、、。

善の実践(雑毒の善)をするならば、知らされるのは、「雑毒の善はできる」ということでしょう。臨終までやれば、人間は雑毒の善なら死ぬまでやり抜ける、とわかるのでしょう。だからと言って真実の善には何の関係もないので真実の善の実践をしなければ、真実の善ができるか否かはわからないのではないでしょうか。



この内容と直接関係無いのですが、「自分は善ができない者だと知らされるには、どうすれば良いのか」と考えていた学生時代を思い出しました。


私は学生時代に、10万円出して「福徳会員」になったことがありました。だいぶ前に(福徳会員)バッジの話をしたような記憶がありますが、そのときのことです。

「前に行けば行くほど、お金を使えば使うほど、真剣に聞こうという心になる」と、どこかの講師部員やら先輩やらが言っていたこともあり、また、最後のご奉公だという気持ちで一ヶ月だけ福徳会員になりました。

で、確かに一番前の島で、壇上の顔もよく見える位置で聞けたのですが、結局雑念やら眠気やらとの格闘で、「自分は金を積んでも真剣に聞けない」ということが分かりました。


こういうことを思い出しながら、「善が出来ない自分と知らされる」とはどういうことかと考えたのでした。


さっきの私の話で言えば、分かったことは「10万円使っても真剣にはなれませんでした」ということです。

ここで、「だったら、100万円使えば真剣になれるのではないか」と考えたら、おそらく無限ループに嵌まります。100万円の次は、200万円か1000万円か分かりませんが、上へ上へと目が向く限りは際限が無くなるからです。実際には先に財力の壁にぶち当たる気がしますが。

だからといって、「(10万円で駄目だったので、)自分はいくらお金を積んでも真剣にはなれません」と結論づけたとして、果たしてその通りなのか、違うならばいくらだったらそう言えるのか、という問題があります。


そんなことを考えながら、よく分からないお返事をしました。


善の実践の話としましては、そうですね。人間のやる善が雑毒の善だと言われている中でやる善は、当然に「雑毒の善」になろうかと思います。そこで「真実の善ができない自分が知らされ」ることは、真実の善の定義をした上での実践できるかどうかという話になると思いますが、「人間のやる善は皆、雑毒の善といわれるのだ」とかいう話を聞いた記憶があります。こうなると、知識レベルにおいて「真実の善は出来ない」と認識した上でなおかつそれ以上の確認を要すると考えるのはナンセンスだという考えもあるのではないかと思いますね。



私の記憶なのであまりアテにはできませんが、かつて親鸞会の中で「人間のやる善は皆、雑毒の善といわれるもので、真実の善は一つもない」という趣旨の話があったような気がします。

仮に無かったとしても、親鸞聖人のこのお言葉は教学聖典に「人間は、真実の善のできないもの」として紹介されています。ご存じの方もあるかと思います。


一切凡小一切時の中に、貪愛の心常に能く善心を汚し、瞋憎の心常に能く法財を焼く。急作・急修して頭燃を灸うが如くすれども、衆て「雑毒・雑修の善」と名け、また「虚仮・諂偽の行」と名く。「真実の業」と名けざるなり。この虚仮・雑毒の善を以て、無量光明土に生ぜんと欲す、これ必ず不可なり。(教行信証信巻)


ということは、「教学」をやっていれば「人間は、真実の善のできないもの」という知識が存在しているはずです。


"知った分かったは観念の遊戯だ、実地に体験しなければ本当に出来るか出来ないか分からないではないか”と言われる方があるか知れません。

観念の遊戯と言われるのは勝手ですが、その方は、「出来ないことはほとんど明らか」と思えることであっても全部「実地に体験しなければ」と言って果たしてやるのでしょうか。


たとえば、時速100kmで走るダンプカーを、道具も使わずに片手で止められるか。

私はやったことも計算したこともありませんが、潰されるか跳ね飛ばされるかして「出来ないであろう」と想像します。だからこんなことは端からやる気はありません。出来る人もあるか知れませんが、私は「出来無いであろうと想像するからやらない」です。


“そんな極端で無意味な例は戯論だ” と言うなら言うでも構いませんが、「極端で無意味」と「妥当性があり意味がある」の線引きはどこでするのでしょうか。


お釈迦さまの、ハトとワシの話(両方を生かすために自らを犠牲にされた話)のように、自分を抛つことができるのであれば素晴らしい善だと思います。果たしてどれだけの方がそれを出来るでしょうか。あるいはそもそもやろうとされるでしょうか。


お返事をしながら、ふとそのようなことを考えていたのでした。


一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。すなわちこれ利他の真心を彰す。かるがゆえに、疑蓋雑わることなし。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
(教行信証信巻)



そもそも、「私」が浄土往生できるような種まきが出来ないので「如来」がすべて用意されて「私」に与えて下さるのだ、と言われています。至徳の尊号、南無阿弥陀仏は全部弥陀の一人働き、私が頑張って善をすることも、善が間にあわないと泣くことも求められてはいません。



「阿弥陀には へだつる心は なけれども 蓋ある水に 月は宿らじ」


と聞いたことがありますけれども、南無阿弥陀仏の月を宿らせないのは弥陀の問題では無く自分の問題だといわれます。善が出来ない自分と知らされるまで善をしよう、という心もまた、水に蓋する心ではなかろうかと味わうのでありました。