あさ川です。

メールのやりとりをしている方があるのですが、なかなかお返事できておらず失礼しております。
(私事ですが、ここしばらく出張が続いている間に体調を崩してしまいました)


さて、次回の埼玉慧日会について、RCさんから案内の投稿文を頂きましたので掲載します。今回は、前回のお話の内容も書いて頂いています。さすがにこの頃には出張が終わっているといいなあ、と思いながら、ご縁を待ちたいと思います。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========


こんにちは。
RCです。

3月の埼玉恵日会の ご案内させて頂きます。

3月は、熊谷駅直結のティアラ21 の会議室が取れました。
今後も、なるべく ティアラでの開催を考えておりますので、是非 ご都合をつけて、参加 頂けたらと思います。


●埼玉恵日会 の勉強会

日時: 3月5日(日曜日)
14:10~17:00

場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室 2
(熊谷市男女共同参画推進センター)

講師: 阿部 信幾 先生(本願寺派補教 )

参加費:2000円(ご法礼と、会場費に遣わせて頂きます。)です。

勉強会は、今まで通り、質問形式で進めていきますので、先生に お聞きしたいことや、深く教えて頂きたいことが、ありましたら、私に メールで、送ってください。

アドレスは、
rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
アットマークは、@に変えた下さい。
です。

頂いた質問は、プリントアウトして、阿部先生に 郵送します。
質問の締め切りは、2月25日(土)までと、させていただきます。

よろしくお願いいたします。

それから
せっかくですので、
前回の勉強会での 質問と応答を2つ、紹介させて頂います。

(問い①)
親鸞会時代に、
「たとい大千世界に満てらん人をも過ぎゆきて、仏のみ名を聞く人は、ながく不退にかなうなり」
という親鸞聖人のお言葉を高森会長から聞き、 相当 無理をして 富山まで 聴聞に行っていました。
この話しで、高森会長は「仏のみ名」とは、「仏教」である と話していました。
「仏教とは、真剣に仏教を聞けということだ」
という言葉は、何か迷路に入ったような気持ちになっていました。
親鸞聖人が おっしゃった正しいみ心をお聞きしたいです。

(応え)
これは、もう 答えが出ていますね。
「 経に 聞というは 衆生、仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし。」と、教行信証の信の巻の 本願成就文釈 にあります。
無量寿経の「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」のご文です。
無量寿経は、18願が 中心という人が いますが、18願ではなく、18願成就文が 中心です。
18願成就文が、無量寿経の中心です。

阿弥陀さまが 「本願を起こしてくださったこと」が、要(カナメ)ではなく、
阿弥陀さまが 「もう本願を 成就して 阿弥陀さまが、はたらいているんですよっていうこと」を、お釈迦さまが、告げてくださったのが大無量寿経です。
だから、大無量寿経の中心は、本願成就文 です。
18願成就文には、
「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」
其の名号を聞いて、信心歓喜すること、乃至一念せん。とあります。
その成就文釈 が、教行信証に、
「経に、聞というは 衆生 仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし。これを 聞 というなり」

親鸞聖人は、「仏のみ名」を「仏教」などと 大雑把な言い方はしていません。
「名号のいわれを聞く」と おっしゃっています。
名号のいわれ とは、南無阿弥陀仏のいわれ です。
南無阿弥陀仏のいわれについて、蓮如上人は
「我らが、往生の定まりたる証拠なり」と、
おっしゃっています。
「定まりたる」は、現在完了の言い方です。
「定まった」と 言ったら 過去形。
「定まる」と 言ったら 未来形。

「定まりたる」の 現在完了形は、
「いつでも 決まっている」ということです。
「今、既に 決まっている」、何が というと、
「往生が 決まっている」。

「南無阿弥陀仏 が、我らが往生の定まりたる証拠なり」というのは、
「私を 往生せしめるはたらきが、もう はたらいている ということを、私に告げるのが 名号です。」ということです。

名号 とは、本願成就 です。
本願が 成就しなかったら、仏と名乗らないと いう誓いが、成就したから 「阿弥陀」と、名乗っているのです。
本願が成就したということは、もう 既に、阿弥陀さまは、48願の通りに はたらく 仏様に なっているということです。
48願の通りに、もう はたらいているぞ と、私に知らせるのが、南無阿弥陀仏 の六字の名号です。
私たちは、何を 聞くのかというと、南無阿弥陀仏のおいわれを聞くのです。
「ご文章」は、全部 そうなっています。

「信心獲得す というは、第18の願を心得るなり。この願を心得るというは 南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」と言われています。

18願を聞くことではなく、
「南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」
だから 18願成就の名号のいわれを聞くことです。
名号のいわれ は、難しいことではありません。
「もう、阿弥陀さまは、はたらいているんだよ」っていうことです。
「阿弥陀さまが はたらいているんだよ」と聞くから「私のはからいは、要らなかったのですね。」と なるのです。それが、疑心あることなし です。疑心は、はからいです。
だから、はからいが 取られるのです。
なぜ、はからいが取られるのかというと、阿弥陀さまが はたらいていると いうことが、信じられたからです。
「はからっている人」というのは、「目には、見えない阿弥陀さまなんて、信じられません」という人です。目に見えないと信じられないけど、「南無阿弥陀仏」となって、届いているのです。

南無阿弥陀仏を疑っているのです。
本願成就を疑っているのです。
本願成就を疑っているから はからうのです。
念仏 称えて参ろうとか、一生懸命、真剣に努力して お聴聞して、信心 頂いて参ろうとか・・・。

阿弥陀さまは、はたらいているのです。

もう、阿弥陀さまは、はたらいているのに、
今さら 聴聞して 信心頂いって・・・。
何 考えているですか?

聴聞て、何を聞くのですか?
「阿弥陀さまが はたらいていること」を聞くのです。
聴聞が、目的ではない。
聴聞は、手段です。
何の手段かというと、「阿弥陀さまが、はたらいていることを聞く手段」が、聴聞です。

聴聞が、目的になったら エライことです。

「聞く」って、「何か聞かせてもらうのですか 」ということについて、「仏教」などと、そんな いい加減なことを 親鸞聖人は、おっしゃっていません。

「聞く」は、「南無阿弥陀仏のいわれを聞く」のです。
「南無阿弥陀仏のいわれを聞く」とは
「もう 私たちの 往生が 間違いないということを聞く」ということ。
「だから、こっちのはからいは、要らなかった」となります。
それが 仏願の生起本末を聞きて 疑心(はからい)あることなし。これを 聞 というなり。

「聞 即 信 」だから、
信心ということは、何か頂くのではなく、敢えて 頂くというなら、「成仏」を頂くのです。
まだ、成仏した ということではなく、「成仏することに間違いない」ということを頂く。
反対の言い方をすれば、はからいを取られる。

何かもらうように思ったり、何か不思議な体験を得るように思っているから間違うのです。

不思議な体験は もう 我々は しているのです。
南無阿弥陀仏が ここに 届いていること自体が不思議なのです。
これ以上の不思議は ないのです。
これを 仏智の不思議と言います。

南無阿弥陀仏が聞こえている。これを以上の不思議はない。
これを不思議と思わないということが 間違っているのです。

(まだ 阿部先生のお応えは、続きましたが、ちょっと 力 尽きたので、ここまでにします。続きを聞きたい方は、私に ご連絡下さい。)


(問い②)
信後の聴聞について、お尋ねします。

仏法は、聴聞に極まる と聞き、
親鸞会では、間違った話しを長く聴聞して来ましたが、救われませんでした。

親鸞会を離れて、仏願の生起本末を教えて頂き、また、南無阿弥陀仏が 私の往生の証拠とお聞きして、安心できました。
そうなると、もう 「信心決定する」という聴聞の目的は、果たされたわけですが、やはり 聴聞すると とてもうれしい気持ちになれるので、聴聞しています。

信後の聴聞について、親鸞聖人や蓮如上人は どのように教えておられるのか、
また、阿部先生のお考えもお聞きしたいです。
よろしくお願いいたします。

(応え)
信後の聴聞に ついて、親鸞聖人は、ほとんど おっしゃっていませんが、
蓮如上人は、時々「溝さらえ」と言われているところが あります。
聴聞しないと、ゴミが溜まるから信心の溝さらえだと、おっしゃっています。
私は、ご恩報謝だと考えます。
私は、布教師ですから、法座にきて 誰も聞く人がいなかったら、説法は できません。
ですから、ご法座に来られて、お話しを聞いて有難いところになったら、「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と お念仏を称えて頂きたい。
そうすれば、ほかの人に そこが有難いところと、わかる。
自分一人が、救われたら いいっていうのでは、なく 次は、「教人信」ですが、
「自分が 救われた姿」以上の 教人信 は、ありません。
日々 お仏壇に 向かってお念仏をし、お寺で お聴聞して 「今日は有難い話しを聞かせてもらった」と 喜んでいる姿が、周りに 仏法を伝えているのです。
年をとって 、病気になっても 愚痴も言わすに
「ありがたいね。」と言っている姿を家族が見て「私も あんな風になりたいな」って 思う時に
お聴聞を勧めたらいいのです。



(勉強会に参加しての RCの感想)
阿部先生のお話しをお聞きしていると、「真宗の教え」を、生活や、社会の中の一つのもの として では なく、
真宗の教えこそが、人間の生活や社会を成り立たせるものであり、人間の心を照らし、社会を照らすものと、先生が、捉え 力強く ハッキリと教えてくださっていることに、心が、動かされます。

また、社会のおかしなことに対して、黙っているのではなく 声を上げていかなければ という、先生からの呼びかけを、私は、少し 耳の痛い思いで、受け止めました。
やがて 「無我の仏とする」とのお約束を頂いた私たちが、自分の中に閉じこもって 黙っていては、ダメだろうって いう思いが、生まれました。

阿部先生は、
「人間は、元々 自力で生きている。
自分と 相手の間に、垣根を作り 自分さえ良ければというのが、自力心。
戦争は、自力心が起こす。
自力心は自力が正しいという立場で、他人を叩く。
正義を振りかざしたら、怖い。その最たるものが、宗教」
とおっしゃっていました。
また、
「世界中で起きていることは 、業の世界から 言ったら、全て、自分もそうなる可能性が ある。
世の中の出来事は、全て 自分の延長線上のこと。そういう視点をくれるのが、業の教えであり、仏教。
そういう視点を持たないのが、自力」
と教えて下さいました。

先生の教えで下さることを、とても全部 理解出来て居ないと思いますが、
「仏様の視点の教え」でなけれ とても聞けない、深いお言葉を お聞き出来て、大変ありがたいご縁でした。

私の未熟な文章ではなくて、直接 先生からお聞きすることを、是非、オススメいたします。

ご参加 お待ちしております。

南無阿弥陀仏。