最近はずっと関西にいるせいか、関西のイントネーションに慣れてきたあさ川です。

さて、仕事繁忙を理由にブログを放置してしまっておりましたら、たくさんのコメントをいただいておりました。今日確認したら34件の未読コメントがありました。投稿文に対しては基本的にお返事しないというマイルールに基づき、特に個別のお返事は差し上げないかわりに、久々に少しだけ更新します。


いただいたコメントについては理解が追いついてませんので、単純に私の味わいを少しだけ書きます。


私が埼玉慧日会で話を聞いている限り、労組運動で感じるような社会運動を云々ということは特に感じませんで、皆さんの質問に基づいて南無阿弥陀仏の話、そして親鸞会の教えているところの違いなどのお話です。


さて、聖道の慈悲云々ということについて親鸞聖人は、コメントをいただいているとおり三部経千回読むというお話はよく知られているところです。その親鸞聖人ほどの方も悩まれるほどの問題だなあと思います。親鸞聖人は最終的には、やはり南無阿弥陀仏をお伝えすることだといわれました。一方でその悩みの強さは、衆生済度あるいは世の中を見渡したときに感ずる様々な苦悩を見て、なんとか助けたいという親鸞聖人の強いお気持ちの表れだろうとも味わわれます。人間の問題と言いましょうか。


あと、本願寺はじめ既成の仏教集団が親鸞会を正さなかった云々の話です。まあこれは30年以上前に、西本願寺が親鸞会の教義批判を行っていたということは周知の通りですが、あのまま親鸞会に対してもっと徹底して批判を加えていてくれていたならどうだっただろうか、という思いは私もあります。ただ、どこかのサイトで見たような記憶のある表現を用いるなら「親鸞会は自ら浄土真宗でないと宣言をしてしまって本願寺が呆れて相手をしなくなった」ということですと、この展開は分からなくもないです。

といいますのは、「仏教は無諍の法」とどこかで聞きます通り、他の宗教を大々的に批判あるいは否定をしないのが仏教だと味わっているからです。どこか小さいところはやってるかもしれませんが、たとえば某宗教のように、異教徒の国を征伐しに行ったりするという話は聞いたことがありません。そのように考えますと、浄土真宗というカテゴリで認識されていたなら「親鸞聖人の仰せ」を基準に教えをただすということはできても、「その他宗教」と認識されたら基本的には親鸞聖人の埒外だからです。もっとも、親鸞会は浄土真宗を名乗っているので、浄土真宗として既成の真宗集団がきちんと正してくれないと、ということかもしれませんし、確かにそれは私もかつておもっていたところではあります。

あと、仮に既成の真宗集団が親鸞会を正して親鸞会が無くなったとして、今南無阿弥陀仏を喜んでいらっしゃる親鸞会にご縁のあった方々皆が皆、今南無阿弥陀仏を喜ばれていたかというと、私は必ずしもそうではないだろうと思ったりもしております。少なくとも私は違ったので無いか。それは私がいつも書いていることでもありますが。


それも含めて、南無阿弥陀仏とのご縁は、親鸞聖人や歴代の善知識方、皆さんとのご縁あってのものだと味わわれたのでした。


まとまってませんが、今日はこれまでといたします。