ようやくといいますか、しばらく続いた関西出張が一区切りつきまして、関西と関東を往復する日々からは落ち着いたあさ川です。思えば、今住んでいるところを何週間も(実質的に)離れて暮らすというのは、学生時代に免許合宿で東北地方に滞在していたとき以来かも知れません。

そういえば当ブログ恒例のシリーズもあと一週間でした。昨年はかなり前から考えていたタイトルを土壇場でひっくり返して別のタイトルを付けていたわけですが、今年はまだ何も決まっていません。


さて、以前にも話題に出したことを(久しぶりなので)しつこく話題にするのが今日の記事であるわけですが、私が社会人になって一年ほど経った時、当時の学生の後輩たちにあてた文章を(改めて)紹介します。


当時を振り返りますと、

大学院二年の夏に、未来の見通しも暗く悶々としていた頃にふと縁あって、
親鸞会に対して本尊論ブログをぶつけて、しばらくやりあって、閉鎖して、
悶々とした状態で社会人になって、でも学友部からは出してもらえず、
社会人になってほどなく弥陀の本願を喜ぶようになった、

というような経緯の中で、社会人生活も一年を過ぎようとしていた頃、当時の学友部の担当講師から「支部に移籍して引き続き元気な姿を見せてほしい」と言われて移籍することになりました。


もう十年前の話です。


弥陀の本願を喜びながら親鸞会にいた私は、後輩たちに親鸞会の活動で疲弊して南無阿弥陀仏とのご縁が離れてしまっては勿体ないという話を常々していたのですが、あまり会うことも無くなるのだろうという思いもあって、送別会に際して後輩たちにあてたのでした。


その後輩たちも、数年は元気な姿を見せてくれてはいたのですが、私が親鸞会にいる間に、ほとんどの後輩は姿を見せなくなりました。私の至らなさもあったかもしれません。
親鸞会の外ででも、南無阿弥陀仏のご縁にあってくれていれば良いが、とも思いながら居るところです。

あれから十年、早いのか長いのか分かりませんが、十年経ってしまったのだなあと思いました。
昔話というほど昔でもなかったですね。


ちなみにブログ開設して間もなく紹介した時の記事はこれです。



========(以下、当時のメール)========

2007年2月10日 午前2時42分*****************
S(講師部員) 様

あさ川です。
今日の送別会は仕事でご縁ありませんので、
とりあえず一言お送りします。

だいぶ長くなりました。
あと、若干誤解を生むかもしれないところもあるかしれません。

急ぎだったので、文章が乱雑なのはご容赦下さい。

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今日は送別会を開いてもらいましたが、仕事で参加できず申し訳ない。
いないついでに話をしておきたいことを全部書こうと思いましたがやめておきます。

学生の皆さんは、もうすぐ新入生を迎える季節ですね。
そこで、人生の目的は大切だと話をする。数年前は、目的をはっきりさせて
学生生活を充実させようなどという話をしていたこともありました。
皆さんは、目的がはっきりしていて充実した学生生活を送っているでしょうか。
いろんな人があるかしれません。

今まで見てみると、親鸞会の学生さんは、いざ就職となったときに、
もうバリバリに進路が決まっている人もあるのですが、
結局どういう仕事に就けばいいのかわからないで途方に暮れてしまう人も少なくないよう
な気がしました。
「人生の目的がハッキリする」と言う話を人にしているような人でも、
自分の「どう生きる」は、なかなか難しいのだろうとも思います。

弥陀の本願は、すべての人を相手にされています。
すべての人ということは、どんな人生を送っている人でも
弥陀の本願の目当てになるということです。

自分の命は仏法のために捧げると言って学院に入る人も、
そこまでの覚悟はないけど聴聞のために公務員になるという人も、
自分のやりたい職業で夢を追いかける人も、
なんとなくサラリーマンな人も、
弥陀の本願の対象です。

十方衆生相手の弥陀の本願ということはしつこいくらい聞いていても、
なかなか自分相手とはピンと来ないものです。

親鸞聖人は、「邪見きょう慢の悪衆生、信楽を受持すること甚だ以て難し」と言われます。
一方、蓮如上人は「こころえやすの安心」とも言われています。

私は一年生の時、

「人生の目的達成は『難中の難』とも言われるけど『易中の易』とも言われるのだ」、

という話を先輩から聞いていたのですが、しばらくその意味はさっぱり分かりませんでした。


愚禿抄には

「一難疑情 二易信心」

といわれ

「難者三業修善不真実之心なり 易者如来願力廻向之心なり」

と親鸞聖人は言われています。

弥陀の本願の側からすれば、助かるために私が何をすることもないわけですから易と言われているようです。
にも関わらず、弥陀の本願を疑って掛かって、自分で計らってしまうので難と言われているわけです。

弥陀の本願はすべての人が相手だということは、弥陀の本願に制限はないのですが、
私たちは勝手に「こうしなければ弥陀は助けてくれないだろう」「こうすれば助けてくれるかも」
と、はねつけてしまうのです。

真剣に聞けば聞くほどそうなってしまいます。
ただ、それが行き過ぎると
「自分は弥陀の本願を聞く資格がない」といって、自分で弥陀の本願の対象外と決めつけて
弥陀とのご縁を無くしてしまうとすれば、残念なことです。

自分の問題になってくると、
毎回聴聞に行かないようでは助からんとか、
御報謝は何十万としなければダメで無かろうかとか、
すべての時間を仏法に費やしてこそ求道者だとか、
友人を百人くらい二千畳に連れて行くくらいでちょうど良いとか、
うまいもんに金を使うくらいなら御報謝だとか言ったモードになったりします。

ちなみに私が学生時代というのは、まさにこういう傾向がありました。

ただ、その場合、
そういうことができる人とできない人がいます。

学生時代はともかく、仕事なんか始めた日には必ずしも日曜が空くわけではありませんので
「仕事なんか世間のヒマだ」と投げられる人はともかく、
そうでもない人は、御法座にご縁のないこともあり得るわけです。

できる人しかダメとなると、できない人は弥陀の本願の対象外になってしまいます。
こんなのを弥陀は十方衆生とは言われませんし、親鸞聖人や蓮如上人が「易」と言われるはずもありません。

誤解する人は無いと思いますが、
聴聞がどうでもいいとか、御報謝なんかせんでいいとか、
そんなことを言いたいのではありません。

弥陀はすべての人を対象にされているのに、
自分で勝手に、自分は弥陀に助けてもらえないと思ってしまうのは勿体ないということです。

できないときに、できないと言ってそこでやめてしまうのか、
開き直ってしまうのか、
次の機会に向けて前向きになるか、
それは自分で選択することです。


思い悩むことも今後あるかしれません。
一人で抱えて一人でやめるのもその人の勝手といえば勝手ですが、
愚痴でも言える人がいて、言ってすっきりするなら話をするのも一つの方法です。
その相手が私でもいいです。
・・・

まだ足りないのですが、土曜も仕事なのでこの辺にしておきます。
長くなってしまいましたが、皆さんの仏縁をお念じ申し上げます。