先日(2/26)の記事は、毎年恒例のシリーズだったのですが、今年は趣を変えてというか必然的にというか、自分の言葉を載せるのをやめました。途中まで文章を作っていたのですが、結局それを出すのはやめました。別の日にこっそり出すかも知れません。

あと、今年の文字が「離」となった上にその件に関して何も説明をしていないので、あさ川の味わいが変わったかと思われる方があるかも知れないなあと思ったのですが、特に何も無さそうでしたので、取り急ぎ「例年と特に変わっていません」とだけ申しておきます。


ところで明日は埼玉慧日会の予定です。だいたい私が法座のご縁とか仏法絡みのご縁に行くとなると、近くても約40km離れた大宮ですので、東京のご縁となると高崎線で一時間以上掛けて行くことになります。

通勤で毎日片道二時間程度のバスの旅をしている私にとって、一、二時間の鉄道の旅が格別苦痛だとか遠いだとかいうわけでもありませんが、それでも半日のご縁が一日がかりになったりしますので、近場で行われるご縁というのはありがたいものです。探せば他にも近場のご縁もあるのでしょうが、それも含めてご縁なのだろうと思う次第です。



さて、先日の淳心房さんのブログの記事に、


さて、話の中で『帖外御文』にあるという、

「信心という二字をば、まことの心と読めるなり、まことの心と読む上は、凡夫自力の迷心に非ず。全く仏心なり」

という文章を出して話があったそうです。ただ、この文章は調べても親鸞会関係のサイトでしかヒットしませんでした。

ただ、『御文章』1帖目15通には、

信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり。

とあり、覚如上人の書かれた最要鈔には、

この信心をば、まことのこゝろとよむうえは、凡夫の迷心にあらず、またくの仏心なり。

という御文がありますので、蓮如上人がそのような文章を書かれていたとしても不思議ではありません。が、ちょっとモヤモヤしますので、もしご存じの方は前後の文章を含めて教えて頂きたく思います。



ということがありました。すでに林遊さんがお調べになったようでしたが、私もせっかく学生時代に買った『御文全篇』が手元にありましたので、流し読みして探してみることにしました。


『御文全篇』は、「蓮如真筆ならびに真偽未決を収録し、年記を尊重して配列し、その後に無年記、真偽未決分の順に配列した」ということで、真偽が未決のものも含めて掲載してあるそうです。500ページ近くあるので、それなりの分量でした。同じような御文も分けて掲載されています。


結論を言いますと、私も見つけることは出来ませんでした。


似てるとは言いがたいかしれませんが、せっかく流し読みしましたので、私がしおりを挟んだ二カ所を紹介します。いずれも「真偽未決」のところにありました。


そもそも当流に沙汰するところの信心といふ二字をば、まことのこころとよむなり、また安心とかきては、やすきこころとよむなり。これによりて不審あり。信心の二字をばまことのこころとよむは、弥陀如来の他力のまことの御こころときこえたり。(後略) p427


(前略)されば当流の安心とまふすは、一念にも多念にもあらず、唯念佛往生と深く信ずるをもて、宗の正義とす。すなはち、真の知識にあひたてまつり、念佛往生の本願をきき開て、佛願にまかせ、一念発起するところをさして、信心決定とはいふなり。この信心と申すは、凡夫自力の迷心にあらず如来清浄の願心なり。願心はまことのねがひとよめり。(後略) p443


こうやって見ますと、淳心房さんが紹介された最要鈔のお言葉が一番近いように思いました。


ちなみに、学生時代に私が『御文全篇』を買ったのは、

後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。


が、本当に帖外御文にあるのか、ということを調べるためでした。
これについては探すのに時間が掛かりましたが、p406にありました。


後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。


よく見たら「おつ」ではなくて「をつ」でした。

親鸞聖人の、

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。
(教行信証)


のお言葉と同じようなことを言われているのかなあと思いました。


特にオチもありませんが、今日はこのくらいにします。