気がついたら一ヶ月ほど更新していませんでした。最近は終バス率が高くなっていたからという言い訳もできるのですが、何か書こうとすると以前に書いた話と同じような話になってしまいそうで、いわゆる「筆が進まない」状態だったというのが適切かも知れません。と言いながら書かないでいると本当に書かなくなってしまいそうですので、どこかで書いたような話になるかもしれないと思いながら書くことにします。


先月、とある中華の7インチタブレット(Android)を9千円くらいで購入しました。自称ガラケー派の私はスマホを持たないことにしていたのでスマホは持ってません。ガラケー派のくせにLTE対応のタブレットを買ったという点について突っ込みどころがあるような気がしますが、今日はそのタブレットに(少しだけ)関係する話です。


最初にお断りしておきますと、今回の話は「話題が分からない人にはまったく分からない」度合いがいつも以上に高いかと思います。


私は学生時代と比べて、PC等でのゲームをほとんどやらなくなったのですが、たまたまタブレットに必要なアプリを入れている最中に見つけた「ファイヤーエムブレム(FE)」をとりあえず入れてみたのでした。アプリ自体は無料だったので。


FEと言えば、古くは小学生時代の友人が、わざわざ私の家に遊びに来て、(友人が)自分で持ってきた
FEを何時間も遊んで帰って行ったというシュールな思い出がありました。その後SFCでようやく、自分が「紋章の謎」「聖戦の系譜」を遊んで、こういうものかということが分かったのでした。


それから20年近くは経っておりまして、久方ぶりに出逢ったFEは大きく変化していました。この内容についても語ることもできますが、今回の本筋とは異なりますのでやめておきます。
もっとも、据え置き型ゲーム機でやるSRPGと、携帯端末でやるSRPGが同じゲームシステムで成立するわけがありません(ゲームとして作ることは出来ても、プレイスタイルに合わない)ので、当然の成り行きだろうと思いました。


さて、今回のFEには、最近の「スマホゲーム」同様に「アプリ内課金」がありました。課金対象は、キャラクタの召喚で使用する「オーブ」です。18歳以上で購入可能なオーブの値段を見ていましたら、個数によっては数千円という値段が付いておりました。ものすごく端折ってざっくりした言い方をすれば、オーブを大量に使いさえすればキャラクタを強くすることができます。よって、手っ取り早くキャラクタを強くしたければ、金さえ掛ければ強くなれる、ということが言えます。



このような「インストールは無料、アプリ内で課金」というゲームの場合、ユーザは「無課金で遊ぶユーザ」と「課金して遊ぶユーザ」とに分かれます。無課金でもそれなりに遊ぶことはできますが、課金で遊ぶユーザと比較すると、当然ながらゲーム進行においては随分不都合があります。例えば、大金を使ったユーザと同じレベルに上げようとしたら、お金を遣う代わりに多くの時間や労力を費やす必要がある、などです。(むしろ、それに極まるようにも思いますが)


そんなことを考えてふと、私の学生時代のことを思い出したのでした。(今回は久々に導入が長めでした)


端的に言えば、私が学生時代に親鸞会で話を聞いていた結果としての行動は、アプリ内課金でせっせと大金を使うゲーマーのようなものだった、という感慨です。


私は、入学手続きをした日に「人生の目的とは」という、宗教臭い香り漂う勧誘を受けて話を聞き始めました。他の大学の部室に行くための交通費は掛かりましたが、この時点で会費のようなものは取られませんでした。つまり、「最初は無料」でした。


その後、「人生の目的を達成するために」様々なあれこれが出てきました。まずは新歓合宿(親鸞会的には新勧合宿)。そして夏合宿、そして親鸞会への入会勧誘。


以前に何度か書きましたが、夏の時点での入会勧誘は断りました。その年の夏合宿で勧誘を断ったのは、関東近辺では私以外にもう一人居ただけだったようです。その時には、「入会しなくても(=金を遣わなくても)続けていけるだろう」とのもくろみがありました。


しかし数ヶ月経って、まったく「人生の目的が達成できる」気もせず、金銭的に若干の余裕が出てきた頃にまた「新しい人に対しての入会勧誘」があり、そこでも最後まで粘ったものの入会しました。つまり、金を出しました。入会しさえすれば「人生の目的」とやらが達成できるのだろうという、今振り返れば壮大な勘違いがありました。


会員になったら、いよいよお金を遣う場面は増えました。ここの読者の方でしたらご存じの方も多いかと思いますが、一応例を挙げてます。


・募財(当時は「御報謝」)。色々な建物を建てたり、出版物の広告を出したり、といった費用。
・会費。学生の場合、最初は毎月2000円からでした。実は色々な種別がありました。
・法話の参詣費用。私が大学二年の夏までは地方で法話がありました。夏以降は富山だけになりました。


まだまだいろいろあるかと思いますが、これくらいにしておきます。

私はしばらく会費二千円でしたが、会費を増やすと法話の時に前へ行けるということがあって、毎月一万円にしたり、三万円にしたり、大学院二年のときには十万円にしたりしたこともありました。

そのほか、正本堂等の募財がありました。私が出したのはそれなりでしたが、人によっては百万円単位のお金を出したりした人もあったようです。

なんだかんだ金を遣ったのも、使わないよりは使った方が「人生の目的達成に近づける」という漠然とした思いがあってのことだったのかな、と思いました。



アプリ内課金のスマホゲームも、ゲームによっては際限なく金を掛けられるため、たまに課金の請求がすごいことになったというニュースが流れていたりすることもあります。ゲームの場合は、キャラクタが成長したり、レアアイテムが入手できたり、一応はゲーム内での「成果」が分かります。
ただし、その成果はあくまでゲーム内の話であって、実世界においてハッキリした「成果」の果実を得ることは難しいかも知れません。リアルまたはネットの世界で自慢の種にすることはできるかもしれませんが、例えばお金や財物あるいは国家資格といったようなものが手に入るわけではありません。もっとも、少なくともゲームの目的に対しては近づきこそすれ遠ざかるといったことはないでしょうが。


親鸞会の場合も一応お金を掛けないことはできますが、大概お金が掛かります。そして、たまにものすごい金額を遣う方があります。そうやって金を掛けた「成果」としては何があるでしょう。たとえば、会員種別が上がったり、法話で前の席に行けたり、銘板に自分の名前が刻まれたり、功労者として名前を呼ばれたり、といったことはあるでしょう。ただしこれもゲームと似たようなもので、いずれの「成果」も親鸞会に留まるものです。そして、そもそも親鸞会にいる理由、すなわち目的に役立つのかという点においてもおぼつかないです。

親鸞会で言うところの「人生の目的達成」とは、つまるところ「信心決定」ですが、信心決定はお金を掛けなければできない、などということは言われません。信心決定という言葉をよく御文で使われた蓮如上人は、たとえばこう言われています。


その信心というはいかようなることぞといえば、なにのわずらいもなく、弥陀如来を一心にたのみたてまつりて、その余の仏菩薩等にもこころをかけずして、一向にふたごころなく弥陀を信ずるばかりなり。これをもって信心決定とはもうすものなり。
(御文1-15)



親鸞会なり、何かの宗教なり、その他夢中になっていることが、夢中になる正当性を自分の中に持っていたとしても、ひょっとしたら課金ゲームにひたすら課金し続けてゲーム内の成果に満足しているようなことと似たような状態になっている、ということがあるかもしれません。後から振り返って、あるいは離れた立場から見れば、その入れ込み方に違和感を覚えるのでしょうが、夢中になっている当人は、当人なりの正当性を持っているために違和感を感じない。そこにギャップがあるのだろうと思ったのでした。