前回の更新から10日あまり経ちました。どうも最近の感覚からすると10日どころではなく経ったような気もしていましたが、RCさんから投稿文を頂きました。


前回の投稿文にありましたとおり、前回は「唯識」のお話もあったようです。残念ながら私は直接ご縁がありませんでしたのでどのようなお話があったのか分かりませんでしたが、ありがたいことにRCさんから投稿文の形で頂きましたので掲載します。


唯識についてあまり知識が無いので新鮮な感じがしました。そういえば親鸞会では十二縁起の話とか聞いたことなかったですね。

========(以下、RCさんからの投稿文です)========

前回、6月4日の埼玉恵日会で、

◉「唯識」とは、どのように理解したらいいのでしょうか
と、質問がありました。

以下、その時の先生のお応えをだいたいまとめたものです。
(言葉で、お聞きしたので、もしかしたら、私が当てた漢字に 誤りが あるかもしれません。
お気づきの点が、ありましたあら、教えて頂けると、助かります。)


◉大乗仏教の中で、中心の学問は、1つには、「中観(ちゅうがん)」と 、もう1つに「唯識」が、あります。
「中観」とは、お釈迦さまが亡くなって、700年間後 、龍樹菩薩という方がインドに出ました。龍樹菩薩が中論という書物を書いて
「空」というかとを明らかにしてくださいました。
「空」とは、簡単にいうと あらゆる現象、私が目にしている物や、体験していること、私自身も含めて、私が認識している全ての存在は、「そのもの のみ」によっては、成立はしていない 。お互いが、お互いを成り立たせている。そういう関係で全てのものは存在している。

Aが存在しているのは、Bによって Aが存在している。BはAによって存在している。
自らのなかに、自らを成り立たしめているものは存在しない。

「自らの中に自らを 成り立たしめているもの」を「自性」と言います。
「自性 」とは、「私が 私である」ということが「私の中に私たらしめている自性が存在する」ということです。
これを否定した言葉が「無自性」と言います。

龍樹菩薩 が、いろいろな例えで示してくださっていますが、一番わかりやすいのが親子の例えです。
例えば、3歳の子どもを抱えた母親がいる。その時 「3歳に子どもと この母親との 歳の差は、幾つ?」というと、私たちは、頭の中で そのお母さん年齢が、24歳とすれば、24から3を引きます。これは、誤りです。なぜなら「このお母さん」との 歳の差だからです。
「お母さんは、子どもがいることによって お母さんになっている」のです。子どもがいない時は、お母さんではないのです。だから、「子どもの歳が お母さんの歳」なのです。
子どもが、出来た時に、母になる。
子どもによっては、母が成り立っている。
お母さん 自らの中に、お母さんたらしめるものは存在しないのです。
全てのものが、そういう関係に、よって お互いが、お互いを成立させている、成立している。
これを「無自性」といいます。
このことを 「空 」と言っています。
「空」ということは、「縁起 」ということと同じことです。
「縁起 」というのは、これがあるからこっちがある、こっちがあるからこっちがある、つまり
それぞれが、それぞれを成立せしめている関係。これを「縁起」といい、また「 空」 といい、「無自性」 とも言うのです。
こういうことを、龍樹菩薩が、中論という書物でおっしゃったのです。

こういう 空 をさとる知恵を、仏様の悟りの知恵と言います。
仏様は何を悟ったのかというと 「縁起を 悟ったのです」という言い方もするのです。
お釈迦様がなくった後に、大乗仏教という経典がいろいろ出来たのですが、
その経典の内容が、仏説であるということを論証したのが 中論という書物ということになりますが、中観の説明は、このくらいにします。

「空」いうものが言われましたが、
今度は 「十二支縁起」というのがあります。
「十二支縁起」というのは、「我々になぜ 老病死という現実があるのか?」。
お釈迦様が 悟りの知恵で原因を訪ねていかれた。原因を訪ねていられて 一番の原因は、「無明 」という、知恵がないこと、そういうことが 「老病死の原因」だということが、わかった。

「無明」によって 「行」が起こる、「行」によって 「識」が 起こる。

「無明」「行」「識」「名色」「六入」「触」「受」「愛」「取」「有」「生」「老死」
で 十二。「十二支縁起」といいます。
普通は、「無明」からスタートして、最後「老死」とするのが、「順観」といい、
逆に 「死」の原因を訪ねて
「老死」から始まって、「生」「有」・・・「無明」に辿り着く見方を、「逆観」といい、
「順観」「逆観 」という見方をしていたのですが。

龍樹菩薩の「 空 」の 縁起と、いうことが、明らかになると、十二支縁起のそれぞれが、それぞれを成立させている、川の流れのように 「無明」から出発して、「老病死」となって行った縁起が、そうではなくて、「十二が、 十二それぞれが、それぞれを成り立たしめているという関係だ」ということになっている。
全ての存在は、お互いをお互いによって 成り立たせ合っているというのが 「空 」ですから。

そうすると、十二の関係が、もっと立体的な、
ーお互いがお互いを成立させているーという縁起論になっていく。

その中で 我々が、呼んでいる「世界」というものですが、どこにおいて世界が、存在しているのかというと、「識」によって存在している。
認識の「識」です。

認識の「識 」ということは、受け止めておる者がおるから、世界は存在しているんだ。
受け止めているということを「識」でおさえるのです。
そうすると、我々が「世界」」と呼んでいるのいるものは、何によって世界が存在するかといいますと、我々が受け止めている 識 。
仏教では、「六識」といいます。
六識とは、
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識
「眼」は、「眼根」眼根とは、眼球 のことです。眼球が無いと ものが見られないが 眼球は、レンズで、あって、眼球を通して、脳で見ている。この脳を「眼識」といいます。
眼根が、あって、眼識かあって、我々は、見えていると認識しているのです。
耳も、そうで、耳根 というのは、鼓膜も含めた三半規管です。音を感知するセンサーです。実際に聞いているのは 脳の中の音を感知する部分で、これを耳識 。香も鼻は、センサーで、認識しているのは、脳。味も、舌は、センサーで、美味しいとか 不味いと言っているのは 脳です。
身体とそう、硬いとか、柔らかいとか触れて、受け止めているのは、脳です。
それを全部受け止めているが、意識。
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の
六識によって、我々は、物事を認識している。
科学は、ここまでです。

だから、科学者は、人間が死んだらなにも残らないといいます。なぜなら 心は、脳だということだから。
「 心は、脳であり、心といっても肉体に過ぎない」というのが、「唯物論」です。科学は、だいたいこういう考えです。
「死んだらおしまい」という考え方です。

「唯識で」は、もっと深いところに違う意識があるといいます。これを阿頼耶識(アラヤシキ)といいます。
「アラヤ」とは、「蔵」という意味です。
「蔵識」ともいいます。

「阿頼耶識というのが 一番深いところに存在している。」

なぜそういうことがわかったのかというと「ヨウガ」に よって発見されました。ヨウガというのは、禅定です。
仏教のがヨウガを瑜伽業(ユガギョウ)と言い、瑜伽業によって発見された唯識ですから、「瑜伽業唯識学派」といいます。

科学とは、違います。
科学は、思考によってこういうものを発見した。物が見えるとは、眼球があってそのことを受け止めていると脳の部分があって、物を見ている。ということは思考によってわかります。 科学は、ここまでは知っていますが、これから先は、知らないのです。これから先は、禅定によって発見された真実です。
何を発見したのかというと阿頼耶識です。

身の行い、言葉、心の行い、これをカルマと言います。カルマは、漢字で「業」と言います。
我々は、全てのものを見て、認識して、聞いて、嗅いで 、味わって、触れて、心で受け止めて 何事かのことをそこで思い、そこで 何事かを喋り、何事かを行う。
これを 「身口意の三業」と言います。
そのやった行いの結果が、この「阿頼耶識の蔵」に「薫習し」ていきます。お香を作っている人の身体にお香の匂いが染み付くようなことを「薫習」といいます。
心で思っていること、身体で行っていること、口で喋っていること、全てが、阿頼耶識に薫習していくのです。薫習したものを種子(しゅうじ)と言って、縁に触れることによって、現行(現れてると)する。これが今 我々が生きている現実である。こう説明するのが唯識です。

世界というのは、世界があってそこに私がいるのではなくて、自分が作った行いが、この世界を作っている、これが唯識です。
ですから、今 我々が、享受している世界は、我々の心が作ったものをです。
自分が作った世界を自分が受けている、これを「自業自得」といいます。

唯識とは、どのように理解したらいいかというと。
私の生きている世界は、私の心から生まれ出ている、という言葉です。

そこに南無阿弥陀仏が届いているのです。どんな世界にいる者の上にも南無阿弥陀仏の名号となって届いて救うということです。

我至成仏道  がしじょうぶつどう
名声超十方  みょうしょうちょうじっぽう
究竟靡所聞  くきょうみしょもん
誓不成正覚  せいふじょうしょうがく

我もし仏道成るに至て
名号が 声となって十方世界に聞こえる。
聞こえない世界が、あるならば、私は覚りは開きません。

逆の言い方をすれば、
「南無阿弥陀仏が私の世界に届いている」ということは、「もう法蔵菩薩は、覚りを開いて、阿弥陀となって私を救いにかかっているんだ」ということです。
阿弥陀さまが、救いにかかっているわけですから、こちらのはからいは要らないということです。

これが、自力の心を捨てて、一心に弥陀をタノムということです。
これが、ご文章の中心です。
タノム一念の時は、往生一定。
タノム一念というのは、
阿弥陀さまが、はたらいているのだったら、私のはからいは要りませんでしたと、自力が廃った一念を「タノム一念」と言います。
あくまでも、他力と出遇ったから、阿弥陀さまがはたらいていると信じられたから、自力が廃るのです。

唯識とは、なぜ我々が こういう現実を生きているのかを説明したものです。
神さまが 作ったのでも、仏さまが、作ったのでもなく、私自身が 作った世界を、私が 生きている、自業自得の世界を、唯識ということで説明したのです。

六識があり、六識のやった行いが、阿頼耶識という第八識に薫習して、それが出てくる。
やった行いが消えてしまうなどということは、ありえません。死んだら終わりでは、ないのです。

死んだら、どうなるのか?
薫習したものが、次に出てくるのです。

そして、この第八識(阿頼耶識)を自我だと、
錯覚する識が、あるのです。
これが、第七識の「末那識」と言います。
元の言語は、マナス と言って、迷妄とか 迷い という意味です。
末那識は、阿頼耶識は実体が無いのに、これが自我だと錯覚します。
これが、迷いの根源なのです。

これで 全部で、八識です。
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の 六識と、六識の結果を蔵のように溜め込む阿頼耶識と、阿頼耶識を自我だと錯覚する 末那識の
八つの識で、この現実世界を説明するのを
唯識というのです。

私たちは、唯識で、悟るわけでは、ないので、このくらいの理解でいいのでは、ないでしょうか。
浄土真宗が、唯識と どう関係するのかというと
唯識を大成したのが、天親菩薩だということです。
法相唯識のご開山は、世親(天親菩薩)です。
同じ、世親菩薩が、我々にとっては、七高僧のひとりです。
世親(天親菩薩)は、お兄さん(無著菩薩)の唯識の教えを受けて完成させたのです。

末那識というものは、無著菩薩は、いっておられるず、天親菩薩が発見されました。
天親菩薩が 末那識を発見したことで唯識の体系が完成したのです。

六識によって 我々は、身口意の三業を起こして
起こした業が 皆 阿頼耶識に薫習して 薫習して種子となり、ありとあらゆる種子が、現実のありとあらゆる縁と出合うことによって、この世界が生まれてくる。
我々が今 感知している世界は、阿頼耶識の現成した世界ということです。

実態として何かあるわけではなく、私たちの行いが生み出した世界です。

そして
浄土教では「その世界に、阿弥陀さまのはたらきというものが、私の業の上にはたらいている」といい、それを 「お育て」とか、「宿縁(たまたま 行信を獲ば、遠く宿縁を喜べ のお言葉の宿縁)」と言われます。

宿縁とは、宿は、過去、縁は、仏縁。
私の上に、仏縁が常にはたらき続けて、今 私がこうやって お念仏のおいわれを聞くご縁に遇わせて頂いている、これは、如来さまの仏縁に依るのです。

これは 私の自業自得では ありません。
我々の「自業自得の業」は 「迷いの三悪道に輪廻させる業」であって、
「三悪道から救い出すはたらき」は、「阿弥陀如来の大願業力」によるのです。

『 私の身口意の三業は「迷い」しか生み出さない。そうして、六道を、ある時は、地獄に生まれ、ある時は天に生まれ、ある時は人間に生まれ、ありとあらゆる世界を 六道輪廻してそこから出ることができない私で、あります。』と
善導大師の二種深信の中で
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなきにと信ず。」とおっしゃっています。

これは阿弥陀さまが、見抜いた私の姿なのです。どうやっても迷いの世界から出られない者と、阿弥陀さまが、ご覧になったので、そこに慈悲の心を起こしてくださって、その迷いの世界から、救い出してやろうと、願いを起こしてくださって、そこから救い出せないうちは、
私は仏と名乗りません。とお誓いくださって、ご修行に入られ、そして 今を去ること 十劫の昔に阿弥陀仏となって もうすでに、私を覚りの世界に生まれさせようと、はたらいてくださる。

我々は、その 阿弥陀さまのはたらきの中に居るので 自力を捨てて、他力をタノメと、
こう お勧めくださっているのが、浄土真宗。

これをやったら救われるという教えは、浄土真宗ではない。これをやったら救われるというのは自力の教えです。
そうではなくて、他力がはたらいているのだから、これをやることは、要りませんでしたね、
と、これがタノム一念です。

唯識とは、このように理解してもらえたらいいと思います。

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と、唯識について教えて、頂きました。

それから、
「念仏者に生き方」についても、お聞きしたのですが、それも やっぱり、ご紹介したいと 思います。

また、投稿させていただきます(o^^o)


南無阿弥陀仏