前回の記事に関連しまして、あたたかいコメントあるいは個別のメール、メッセージなど何人かの方から頂きました。ありがとうございます。

ちなみにR1000さんからのコメントについてお返事ができていなかったのは、先日書いたお返事にある通りで、しばらくブログも見ておらずPCも起動していなかったからでした。すいません。


なお、今更ではありますが、以前RCさんと一緒に投稿文を頂いていた嶋田さんが「あなたの白道」を書かれていますのでご紹介します。嶋田さんの現状はご本人が書かれているのでここでは触れませんけれども、様々な方が関わって作られたブログであると伺っております。

「あなたの白道」


せっかくですので、当ブログに頂いた投稿文のうち、もっとも反響のあった第4回のリンクも貼ります。

第4回



さて、まったく話は変わりますが、前回の記事に関連してこのような言葉を頂きました。(ありがとうございました)


仏教の言葉はこういうとき厳しいです。
とにかく心と体に気を付けてください。奥さんを大事にしてください。



確かにそうだなあ、と思いながらお返事しました。仏教の言葉を癒しだとか活力源だとかいうように捉える方もあるかしれませんが、本来仏教の言葉というのはまともに受け取ったらとても厳しくて聞けたものではなかろうか、と思ったのでした。


親鸞会の顕正新聞やら弁論大会やら体験発表やらで、身内の「ご不幸」が縁となって仏法とのご縁を持たれた方のお話はよく聞きました。別段親鸞会に限らず、私が行く寺にもそのような方がいらっしゃいます。ちなみにここで言う「ご不幸」は一般的な意味合いとご理解下さい。

弁論大会やら体験発表やらでそのような方のお話を聞きます中に、身内の「ご不幸」を「弥陀のご方便」というような表現がしばしば見られた事を思い出します。そのような方を見て、ご縁のある方だなあという思いもありましたが、自分だったらそのようには思えないなあという思いも、当時はありました。

ちなみに今もそのような思いはあまり変わらず、娘が亡くなったことについて「ご方便」という味わいが皆無というわけでもありませんが、「仏縁ということだったら娘を殺さないでくれ」という思いの方が強かったりします。


娘を火葬場で見送る際、私がよく行く寺の副住職が来てくれました。実は友人の坊さんを呼ぼうかという思いも頭をかすめたのですが、忙しい中滋賀から呼びつけるのも申し訳ないなという思いもありまして、結局当人には未だに直接話が出来ないまま日が経ってしまいました。来月に行った時にでも話をしようかと思いますが。

それで、その際に寺からリーフレットやらなにやら色々もらったのですが、その中に法語カレンダーのようなものもありました。これは、初七日から七七日まで一週間単位でめくっていくもので、法語や妙好人の言葉などが並んでいたものです。そのカレンダーを仏壇に飾っていたのですが、それについて妻が

「責められているようでつらい」

と頻りに言っていました。私も実際は「そう思うだろうな」と思いながらもご縁だからと飾っていたのですが、つらい時に仏教の言葉を正面から受け取ると、尚更厳しく感じるのだろうと思ったのでした。このとき私は、妻が仏法を聞く気を無くしてしまうのではないかと少し心配になったのですが、仏法を聞く気については以前と変わらなそうだったので安心しました。

ちなみに私が妻ほどに感じなかったのは、私の他人事気質の性質によるものだと思います。それがいいとは思いませんし、「衆生苦悩我苦悩」の如来のこころとはまったくかけ離れているようにも思いますが、結果的にはこのような状態で今に至りました。


仏縁は様々なご縁によって結ばれます。その中でも「身内の不幸」は、いわゆるまったくの他人の死よりも身近に感じる分、自分により近い問題として捉えられ、それによってご縁を結ばれる方も少なくないでしょう。


いっぽう、仏教の言葉は遠慮がない分、厳しく感じられるものだと思います。そしてそれゆえに仏法を撥ね付けてしまうこともあるのではなかろうか、今回私はそのように思いました。


私の場合は幸いにと言いますか、娘の死と前後して仏法を聞く気に特段大きな変化は今のところありませんでした。無常を縁として聞法心なり御恩報謝の心なりが強まればご方便ともなったのかもしれませんが、それが私の性根なのだろうとも思います。とりあえずは逆側に触れなかっただけありがたいと思う私については、いろいろ思われる方もあろうかと思いますが、


ただ一つ言えることは、厳しい仏教の言葉を正面から受けられないような、そんな私が助かるのだとしたら、性根にも根性にも求道心も、一切条件を付けない南無阿弥陀仏より無いのだろうということでした。

もし南無阿弥陀仏の救いを求めてなお救いにあえないと思われている方があるとすれば、私が書いたところで説得力はありませんけれども、南無阿弥陀仏だから心配いりません。もっとも、素直にそのように思えれば苦労しないといわれるのかもしれませんけれど、それはまた機会があれば書くかも知れませんし、書かないかも知れません。



ところで先ほど、「仏縁ということだったら娘を殺さないでくれ」と書いておいてこういうのも変ですが、一方で亡き娘の姿が南無阿弥陀仏とも味わわれる今日この頃です。


南無阿弥陀仏