そもそも、今度一七か日報恩講のあいだにおいて、多屋内方もそのほかの人も、大略信心を決定し給えるよしきこえたり。めでたく本望これにすぐべからず。さりながら、そのままうちすて候えば、信心もうせ候うべし。細々に信心のみぞをさらえて、弥陀の法水をながせといえる事ありげに候う。

(蓮如上人御文 2-1)



一月も過ぎ去ろうとしておりますので、そろそろ自分の文章を書こうかなと思っていたところ、RCさんから埼玉恵日会のご案内をいただきました。定期的に投稿文を頂けることをありがたく思いつつ、あまりに自分の文章を書かずにいるのもどうかと思いましたので、少しだけ書きまして、後ほどRCさんの投稿文を掲載したいと思います。


冒頭挙げました蓮如上人のお言葉、学生時代の私は御文章の繰り読みをしていた頃にこの部分を読んで、ここに信心が失せると書いてあるじゃないかと一人攻撃をしていたものでした。


そういえば南無阿弥陀仏を喜ばれる方の中にも、続けて仏法とのご縁を持ち続ける方と、そうでない方があるように思います。

信心決定信心決定と、ないものを獲得するかのごとく「求めて」いたとすると、求めていたものが求まったので、もういいやとなるのかもしれません。


南無阿弥陀仏が消え失せるとかそういったことではありませんけれども、個人的にはそこで仏法とのご縁が遠ざかるというのも勿体ないように思います。蓮如上人が言われているように、信心の溝浚え、というのかはともかく、聞法のご縁なり仏法の本を読むご縁なりお同行と話をするご縁なり、月に一回でもあると、ありがたいご縁だと思います。


かくいう私は、最近仏教書を読むご縁も無く勿体ない感じですが、法話ないしは勉強会のご縁は僅かでも持ちたいなあと思っております。

そういう意味では、近い場所でご縁があるというのは大変にありがたいご縁だなと思います。
人それぞれ、近い遠いはあるかと思いますが、せっかく南無阿弥陀仏とのご縁があったとすれば、何らかの形で仏法とのご縁が続くと、これまたありがたいなと思います。


今月聞いたお話でおもしろいなと思いましたのは、「聞法が大事と言われるが、えてして我々は”聞話”になってしまっている」というものでした。ご縁があれば味わいを書きたいなと思いつつ、今日はこれまでとします。


南無阿弥陀仏