RCさんから投稿文をいただきました。タイトルにもありますが、ドキュメンタリー映画を見て思うところがあったとのことです。映画や書物など、いろいろなものを通して味わわれることもあろうかと思います。RCさんに限らず、難しい話でなくても、そういった投稿文もいただければありがたいと思う次第です。

========(以下、RCさんから投稿文です)========

RCです。



先日、真宗のある集りで、オウム真理教のドキュメンタリー映画 『A』を 観て、いろんなことを感じ、考えました。



ご覧になられた方も いらっしゃるかもしれませんが。映画は、地下鉄サリン事件の後、マスコミや世間の猛烈なバッシングの中の 教団、主に 広報部長という立場にいた 「荒木 」という青年を 追った映画でした。

彼は、オウム真理教という教団に属し、出家していても、恐らく教団の起こした恐ろしい事件については、ほとんど部外者だったのだと思います。

ですが、彼の信じた教団は、希に見る凶悪事件を起こして、それでも 彼は、麻原を尊師と呼び、オウム真理教への信仰は、変わりませんでした。



その姿は、何年か前までの 私と重なって、胸が痛かったです。



「溺れる者は藁をも掴む・・・。」

藁じゃないものと、出遇えていたなら、藁など掴まなかった。

溺れていたから、悪いのか。

藁と出遇ったから、悪いのか。

そんな気持ちが、込み上げました。



気がつくと 「私」は、存在していたけれど。

なぜ生きているのかも わからないまま、やがて死ぬ命を生きなければならない「私」という存在自体が、疑問でした。

だから、そこに 「これが、答えだ」というものが 現れたら、それを答えとして、生きてしまわざるを得ない、危うい、頼りない、そういう者が自分なのだと、感じています。



親鸞会では、後生の一大事の解決を、何よりも優先しなければ ならないと教えられ、私も そう思っていました。



高森会長の説法を聞きに行く為の交通費や、会へのお布施に出すお金が 無いのなら、嘘をついて 親に出させることも、「善」と 勧められました。真実の為にお金を出させるわけだから、親にとっても 良いことなのだと。

「悪のように見えることも、信仰から見たら、善なのだ」という点は、親鸞会も、オウム真理教も 同じだと思います。



親鸞会と出会った当時、何がなんでも 高森会長の話しを、聴聞しなければならないと言い張る私に、きっと両親は、胸が潰れるような思いで、眠れぬ夜を幾晩も 過ごしたのだと思います。親不孝をしました。



けれど、あの時の私は、高森会長の法話を聞く以外に、生きる道がないと 固く信じてしまっていて、その気持ちを変えることが 出来ませんでした。

「死者の為」と思っていた仏教という教えが、実は 生きている者を救う教えだったということを私に教えてくれたのは、高森会長だけだったから。

因果の道理、仏教の宇宙観 、無碍の一道という世界、初めて聞いた仏教という教えは、暗闇で生きていた私にとって、たった一つの 灯だったのです。



そうして長く親鸞会にいた私は、両親や周りに 迷惑をかけ、心配させてしまったけれど、オウム信者のような犯罪は犯さずに、今、親鸞会から離れることが出来ました。

けれど、私が親鸞会の教えを信じていた気持ちと、オウム信者が オウム真理教を信じていた気持ちは、同じだったと思います。

何かが、ちょっと違っていたら、私が 犯罪者と呼ばれ、刑を受ける立場になっていたかもしれません。



何が正しいのか、どうしたらいいのか、知恵を持たない悲しい自分です。



でも、不思議なことに、今、ここに 届いてくださっている 南無阿弥陀仏の六字を、称える身にお育ていただきました。

「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を喜べ」の 親鸞聖人のお言葉を噛み締めさせていただいております。



私の愚かさは、南無阿弥陀仏の尊さでした。



南無阿弥陀仏