8月はお盆だったこともありまして、先日久しぶりに阿部先生のお寺の定例に行きました。最近の私はあまりいろんなところに行かなくなって、だいたい数カ所の決まったところに行くくらいになってしまいました。

阿部先生のお寺の西福寺に行くとき、私は昼食として近くのうどん屋で食事をします。気に入って行っている店は2カ所ありますが、今回はそのうちの一カ所に行きました。

普段はそれほど混雑していない店なのですが、たまたま混雑していまして、相席してくれと言われました。そのテーブルで、久しぶりに会うお同行が座っていました。


以前も明らかに同じようなことを書いたのですが、そんなことがあったのでまた書きます。


以前に、「あう」ことについて便宜上以下のような分類をしていました。

①AはBを目当てにあいに行った。BはAに予期せずあった。
②AとBは互いに予期せずにあった。


今回の私は、うどん屋で「あう」ことについては予期していませんでしたし、おそらく彼にとってもそれは予期していなかったでしょうから、そうすると②の「あい方」と言えるでしょう。

この予期しない「あう」ということを、親鸞聖人は「遇う」といった表現でなされています。前回も引用しましたが、また引用してみます。


「遇はまうあふといふ、まうあふとまふすは、本願力を信ずるなり。」
とあり、『教行信証』の総序にも「遇い難くして今遇うことをえたり」とあり、正信念仏掲の「一生造悪値弘誓」を念仏正信偈には「遇弘誓」となっている。遇のまうあうは目上の人から目下の人に向う場合に使われる用語といわれ、しかも全く予期しないあい方である。それは自らの予想し、求めている方向にないからである。
(稲城選恵著 『他力信心の特色』)



そうすると、前回の記事を書く以前と同じ味わいということになるかもしれませんが、一つ言うなれば、私は「西福寺に行けば彼に会えるかも知れない」という期待を持っていたということでした。そういう意味では前回と同じ話になるのですが、「あった」のは寺ではなくてうどん屋でした。


AとBで並べるとわけが分からなくなるので並べませんけれども、今回も弥陀と私の話として強引に味わうならば、


・私は弥陀に(このようにすれば)「あえる」だろうという期待を持っていた。しかし、思いがけないところで「あった」
 弥陀は私が目当てであった


前回のAとBの話は、「私の立場から見た」場合に①と②は同じでした。いわば「弥陀の立場から見た」(であろう)違いを書いていまして、ついでに言えば「私」の作為も問題にしていませんでした。

そういえば、南無阿弥陀仏を喜ぶ前、というとおおむね学生時代の話になるのですが、ああすればどうかこうすればどうかという思いから離れなかったというのは、まさに自力心全開だったといえるでしょうか。ついでに言えば、弥陀の本願にあう(というより私にとっては「人生の目的達成」でしたが)ということの結果としては、また想像する結果があったものでした。

現在から見れば、確かに望んでいたとおり以前の定義に於ける「人生の目的達成」したのでしょうが、それは学生時代の想像とは全く異なることでした。結局のところ、「自らの予想し、求めている方向に」無かったからでした。



今回の話も、総体から言えば特段目新しい話でも何でも無いのでしょうが、ふとそのような味わいがありましたので、このように書いてみました。


ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽*150せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。
(総序)