実は私の中で最近ちょっとというかそれなりに面白い事象がありました。といってもそう思っているのは私だけで、妻とすらそんな話はしておりません。たいした話ではないのでさっさと書きますと、丸一日このブログの存在が頭からすっぽり抜けた日があったということでした。

私はブログの更新こそサボりまくってますが、毎日往復5時間にも及ぶ通勤時間やら移動時間やらがあるおかげで、実はその中でブログのあれやこれやと思い煩う時間が、大なり小なり毎日存在していました。それが今月のある日、すぽっと丸一日以上忘れてしまっていたことがあったのでした。

ちなみに、少なくとも今月に入ってから親鸞会関係のブログはまったく確認していませんでしたので、実は浦島太郎状態です(久しぶりに少しだけ読んでたら、ほっこりしたのとひでえなあという感想が別々に出てきましたが)。一ヶ月ほど更新していないこともありまして、そろそろと久しぶりにPCを起動したところ、これまた久しぶりにメッセージをいただいていたことに気付きました。

メッセージは5日にいただいていたので、ほぼ一週間放置していたことになるわけですが、連絡先が無いのでお返事ができません。ブログにてお返事ということも考えたのですが、「頂いたメッセージ及びその他の情報を、投稿者の同意無くあさ川が第三者に見せることはありません」と書いている以上はそういうことも好ましくないかと思いますので、お返事という体裁は取らずに違うこと(雑感)を書きます。
メッセージをくださった方がもし何かやりとりを希望されるようでしたら、改めてメッセージなりコメントなりをいただければと思います。



このブログをお読みになっている方の多くは、浄土真宗親鸞会という宗教団体に何かしら関連のあった方だと思います。何かしら関連があったといっても程度の問題がありまして、私のように会員歴がある方もあれば、私の妻のように会員歴の無い方もあると思います。

そして、会員歴のある方も大きく二つあって、今現在も会員である方と、私のようにすでに会員でない方とあるでしょう。

今現在会員である方も、やはり程度がありまして、バリバリの方から今すぐにでもやめてしまいたい方、あるいはかつての私のように何らかの思惑があって会員を続けている方、様々だと思います。

で、すでに会員でない方にもいろいろあろうかと思います。


ここで、会員でない方を「浄土真宗との関わり」で考えた場合、乱暴に分けると二つに分かれるかと思います。親鸞会を離れて浄土真宗の教えを聞いている方と、浄土真宗からいったん離れている方。

交際の幅が恐ろしく狭い私の場合、元会員さんとのご縁はたいがい真宗のご縁だったりしますので、浄土真宗の教えを聞いているという方との接点が必然的に多くなるのですが、絶対数でいえばおそらく「いったん離れている方」が多いのではないかと思います。

いったん離れている方にもいろいろあることは承知の上で、あえて二つに分けるとすると、宗教自体に懲りてしまって宗教から離れた生き方をする方と、別の宗教に入信する方。


今回、メッセージをいただいた方は、おそらくこの「宗教自体に懲りてしまって宗教から離れた生き方をする」ことを選んだという方だろうと思いました。

私も学生時代以前からそういうことを志向しておりましたのでその気持ちは分かります。そういう観点で見ると、宗教的解決というのがものすごく安易に見えたり、自分とは隔絶された心境(自分とは違う世界のような話)に思えたりするものです。

そんなふうに思いますと、蓮如上人が「南無阿弥陀仏は往生定まりたる証拠」と言われたという話を聞いてももはや理解の範疇に無いというようになるでしょう。もはや浄土真宗の聖教自体がまったく権威を持ちません。

自分で確認できることでなければ信用がならないとする立場と、その反対の立場とでは話が噛み合わないのも無理ないです。


先ほど私は「いったん離れている方」と、あえて「いったん」を付けたのは、上記のことも含めてすべてご縁であると味わっているからです。今は離れていてもやがてご縁のある方もあるでしょうし、その反対の方もあるでしょうし、ずっとご縁のない方も、ずっとご縁のある方もあるでしょう。それらすべてはご縁なのだと味わっています。


親鸞会で痛い目を見て、親鸞会を否定するあまりにいろんなものを否定したくなるという方もあるようです。そうして親鸞会を否定し続けることが親鸞会の影響から離れることだと思われているのかもしれません。ただ、私が思いますに、親鸞会を強く否定すればするほど、親鸞会に強く入れ込んでいる方同様に、親鸞会の影響を強く受けているように見えます。(目的を持って意図的に批判をしているブロガーの皆さんは除きますが)

私から見れば、親鸞会を否定するために親鸞会的(に見えるよう)なあらゆるものに目くじらを立てるとすれば、いわゆる「バリ会員」と同じくらいに親鸞会的です。


そこの感じ方には個人差があるでしょうが、親鸞会なんてどうでもいいというか、忘れるまでいかなくても(忘れても)いいのですが人生の肥やしになるくらいになれば良いのではと思いました。


もっともそれは、私が「親鸞会を離れるまでの心の揺らぎ」や「親鸞会をやめた後の苦しみ」のプロセスを経ていない※が為に言えることなのかも知れません。


なお、親鸞会は人生に対してまじめな皆さんを浄土真宗から遠ざける事例があまりに多いというようには思っておりますので、親鸞会の擁護をする気はございません。


最近はどうも雑になっているきらいもありますが
なんまんだぶ




※補足

ブログには再三書いていることですが、大ざっぱに言えば「親鸞会に入った当初の目的はすでにに達せられていていたので、それから親鸞会を追い出されるまでの約7年間はどちらでも良い状態であった」ということです。