あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

カテゴリ : 投稿文

あさ川です。毎年この時期は花粉アレルギーがひどくなる私です。薬が効いているのか効いていないのかよく分かりませんが、多少は効いているのだろうと思うことにしております。


そういえば、私が何度かご縁のあった大阪八尾の光蓮寺の仏教文化講座は、どうも今年も4/3~5あたりと聞いております(正確なところをお分かりの方はお知らせ頂ければ有り難いです)。年度替わりの平日だとなかなかご縁が難しいなと残念に思っておりますが、ご縁ある方は、お寺に確認の上お越し下さい。


さて、RCさんから投稿文をいただきましたので掲載します。埼玉恵日会でのお話の内容紹介と次回日程も合わせてご案内いただいております。

========(以下、RCさんから投稿文です)========

RCです。

歎異抄の教えの「念仏往生」と、親鸞聖人の教えの「平生業成」につきまして、以前 埼玉恵日会で 阿部先生から、お聞きしたことをまとめましたので、ご紹介いたします。

その前に、次回の埼玉恵日会のお知らせをさせていただきます。

◎埼玉恵日会

日時: 4月 22日(日曜日)
14:00~17:00
場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室
(熊谷市男女共同参画推進センター)
講師: 阿部 信幾 先生
(本願寺派補教 )

○親鸞聖人の教え、浄土真宗を 知りたい人の為の勉強会です。
質問形式の勉強会で、真宗の理解を深めたいと思っています。
予め 質問を集めて、先生に応えて頂きますので、その場で 質問する勇気がなくても、また 匿名でも 大丈夫です。

親鸞聖人の教えについて、質問のある方は、以下のアドレスに メールで質問を送ってください。
先生に 当日 お応え頂けます。
アドレスは、 rokujinotsudoi@yahoo.co.jp

☆今回は いつもディアラ21の会議室が取れました。
尚、ディアラの会議室は、改装されて とても広くなったそうです。
たくさんの方が押し寄せても、大丈夫です!

ご参加、心より お待ちしております。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
︎では 往生は、
『念仏申さんと思い立つ心が起こる時』に決まるのか?
『名号のいわれを聞いて自力のはからいを離れた時』に決まるのか?

以下、埼玉恵日会で 阿部先生のお話しです。
(お話しの途中からの文章なので、わかりにくかったら、ごめんなさい。)

「歎異鈔の救い」とは、
阿弥陀さまが、18願を立てて、念仏申さん者を迎え取ると お誓いくださった。その誓いを信じて、「念仏を申さんと思い立つ心の起こるとき」救われる。
だから、「18願を信じた時に、往生が定まる。」歎異鈔は、こういう言い方です。
歎異抄では、「いつ往生が 定まるのか?」と言っら「18願を信じた時」です。
18願は「称える者を迎え取る」という約束だから、「念仏申さんと思い立つ心の起こるとき」というのは、「称える者を助けるという阿弥陀さまのお誓いが 信じられた時」ということです。
「『称える者を助けるのが18願』だ。じゃ、称えて助かろう。」と、念仏申さんと思い立つ心が 起きる時に、摂取不捨 の救いにあずかる、こういう話です。
歎異鈔に 説かれている救いとは何か というと、「阿弥陀さまが 18願を 誓われた。その18願は、念仏申す者を皆、お浄土へ迎え取るという誓い。だから、その誓いを信じて、念仏申さんと思い立つ心の起こる時、摂取不捨の利益にあずかる」これが 歎異鈔です。
これを 、念仏して浄土に応じてして成仏する から「念仏往生」とも、「念仏成仏」ともいうのです。
これが歎異鈔です。

もうひとつは、
「本願が成就した。」ということは、「南無阿弥陀仏の名号が成就した。」ということです。「南無阿弥陀仏の名号が成就した。」ということは、「本願がはたらいている。」ということでしょ。「本願が はたらいている。」ということは、「私のはからいは 要らん。」という事でしょ。だからそれを「たのむ一念。」というのです。

これが 同じですか?

違いますね。
「名号を聞いて、信心歓喜乃至一念」と言っている一念と、
「念仏申さんと思い立つ心の起こる時」は、違うでしょ?
言っていること、わかります?

何で 違うのか?
同じ阿弥陀さまの救いなのに。
「何でだ?」と思います?この違いは。

「念仏して浄土に往生する」って誰が言い始めたのか?。
善導大師です。
善導大師は、何の本を書いたのですか?
「観経疏 」です。

親鸞聖人は、何を 教行信証に現されたのですか?
「大無量寿経」です。

だから、「大無量寿経」と、「観無量寿経」の違いです。

「観無量寿経」は、「念仏して 阿弥陀さまの浄土に往生せよ」という お釈迦さまのお説教です。
観無量寿経の最後に 阿難に「 念仏せよ。」と 出ています。
観無量寿経のお説教の結論は、阿難に対して
念仏せよです。「念仏して、浄土に往生せよ。」なのです。

「大無量寿経」は、「本願が成就して名号と なってこの世界に届いている。だから阿弥陀さまは 成仏されている、その証拠は、南無阿弥陀仏の名号が 今 お前の世界に届いている」と 名号のいわれを説いたのが、大無量寿経でしょ。
だから、「大無量寿経のお説教は、教行信証」で、「観無量寿経のお説教が、観経疏で、選択本願念仏集で、法然上人の教え」なのです。
その違いです。

だから親鸞聖人は、法然上人の「観無量寿経の法門」を聞いて、そして、「大無量寿経の法門」に転入した。
親鸞聖人は、念仏往生と信じて、念仏申して浄土に往生するという法門に 転入し、その念仏して浄土に往生するというところから、18願の絶対他力の法門に 転入した。それは 本願のはたらきです。

親鸞聖人は、観無量寿経の法門から、大無量寿経の法門に行ったのです。

法然上人は、大無量寿経の法門を 腹に納めて、観無量寿経のお説教をなさった。
お釈迦さまの方便は、それです。
お釈迦さまの 方便は、あくまでも 大無量寿経のお説教を 内容として、お説教のすがたは、観無量寿経の念仏往生を説いているのです。
何故かというと、「修行して悟る」という人間に 合わせて説いた。
「修行して悟る」という人間に合わせて説いたから、「念仏して往生せよ」と 説かれたのです。
これを方便と言うのです。相手に合わせるのを。
だから 観無量寿経というのは、あくまでも 聖道門の「修行をして悟るんだ」というお坊さんを対象として、「修行して悟るのですよ。その修行は何かというと、念仏です。念仏くらいのことで、何で仏に成れるのか?っていうと、阿弥陀さまのお誓いが、そうなっている。
だから、「南無阿弥陀仏」と お念仏する者は、皆、浄土に往生して仏となるのです。
それは 阿弥陀さまの本願が そうなっているからだ。」と。
これが、観無量寿経のお説教です。
だから、修行して悟る、修行して悟るという人間に、念仏往生、念仏往生だと合わせているのです。これを方便と言うのです。

それに対して、「本願成就」のところで、「もう私の往生は、決定しているのだ。」と、「南無阿弥陀仏のいわれを聞くところに、自力の心を離れて、他力に帰する。ここに往生が決定するのだ。」これが、「大無量寿経」です。
これをそのまま受け継いで行ったのが、「ご文章」です。
だから 「タノム一念の時、往生一定、御助け治定、この上の称名は ご恩報謝。」と こうなります。
その「大無量寿経の法門」と、「観無量経の法門」の違いが、「平生業成」と 「念仏往生」の違いになる、と言うことです。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

また、いっしょに お話しをお聞きしましょう。

南無阿弥陀仏

あさ川です。
先日のRCさんに続きまして、わいるどひっぷさんから投稿文を頂きました。わいるどひっぷさんは以前にも投稿文を頂いてます。今回は嶋田さんへのお礼ということで頂きました。


改めて思いますに、やはり熱量なのだろうと思います。私は会員時代に特にご縁はありませんでしたが、勉強会のご縁を頂いて、お話されている途中で南無阿弥陀仏のご縁を喜ばれながら涙を流されていたことを思い出します。


========(以下、わいるどひっぷさんから投稿文です)========


わいるどひっぷです。
嶋田さんがご往生されたこと、RCさんからうかがいました。改めて、私に六字の心を届けて下さったこと、御礼申し上げます。

RCさんが、埼玉で勉強会を開いてくださったこと。
嶋田さんが、講師としていらっしゃったこと。
当時失業中で、なんとなく芯が抜けたような思いで過ごしていたこと。
父が危篤との知らせを受け、当然のように当たり前と思っていたことが、当たり前でないと、はっとさせられたこと。

など。

わたしが、こうしてこうなろうとか人生設計のように予定を立てているところではなく、想定外のところで、全く思いもかけないところから、南無阿弥陀仏をいただきました。

30年前に、故郷の福井で会にご縁があったこと。3年足らずで辞めてしまったこと。嶋田さんのことはその時に存じ上げていました。青年部と学生部とで、特段親しい間柄ではなかったのですが、24年ぶりに埼玉でお会いした時も、私のことは覚えていて下さっていました。

(わたくしの人となりにつきましては、以前の投稿があります。よろしければご参照ください。http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/49231003.html )

東京に出てきてから10年ばかり、独力でお聖教の読解を試みたりしてきましたが、(平成初期の当時は今のように数々のブログはまだ無く)とても飛雲さんのように、あざやかに読み解くことはできませんでした。会についてゆけず、学業もつとまらず、なら一人ででもやるしかない、と思い詰めて、哲学科に入りなおしてそのように過ごしていたのですが、要するに、ただこのままだったら世間的にあまりにもかっこ悪くて、見栄で恰好つけていただけだったように思います。
(また、とくよしみねさんもブログでおっしゃっていましたが、どうしても、会で刷り込まれた先入観で読んでしまい、文面をその通りに受け取ることができなかったです、思い返してみれば。)
会を辞めて東京へ再受験するまで、大学を卒業できないことが恥ずかしくて実家にも帰れず、かといって下宿は学生部の部室兼用なのでそこへも帰れず、あてもなく3カ月ほどぶらぶら過ごしていたころ(よくお金がもったものです)、もうそれもそうしていられなくて、実家に帰ろうと一旦下宿に戻りました。担当の講師は、わたしにご縁のあった谷川秀大講師から別の方に変わっていました。
「どうしていたんだ」「仏法、辞めてはいけないだろう」「後生の一大事がかかっているんだ」一見、励まし、や、仏法の重さを説諭していながらも、受け止めるこちら側としては、それは脅迫です。とりあえずその場から離れるためだけに「はい」とだけ返事して「これからはきちんと求めるよな」と念を押されてその場を離れ、以後二度と会の方々と会うことはありませんでした。
「ここにだけ真実が説かれている」その優越感、裏返しに、ついて行けないものの敗北感、後生の解決がありながらそれを為さないままでいることの閉塞感…要はマインドコントロールの残滓が残っているのでしょうが、辞めたら辞めたで、独りぼっちの感覚でつらいことは変わりませんでした。
10年経ったその後は、仏法のことは「なかったこと」にすることにしました。思い返さないように、見ないようにして過ごしてきました。
それから数年経って、「私の白道」他いろいろなブログを通して、教義の誤りがようやく分かりました。まるで呪縛が解かれたように、ほっとしました。
「私の白道」は、掲載が始まったころから、見ていました。当初は匿名であったのですが、話される地理感覚や、にじみ出るお人柄から、もしかして、と思っていましたが、やはり、嶋田さんでした。ほかのブログと相まって誤りを誤りと知らせ、南無阿弥陀仏をいわれを説かれ、現実に他力はあるのだということ、それを説かれる方はいらっしゃるのだ、ということを、教えて下さいました。また同時に、なんとまっすぐな方なんだろう、と感動もいたしました。

それからまた数年、間違いは間違いであると分かっても、他力の世界があると分かっても、説かれる方がいらっしゃる、と分かっても、相変わらずブログの読者でいるだけ、という状態が続いていました。

そこへ、勤めていた大手受験予備校の、わたしが属する部門が規模縮小となり、そのあおりで人員整理となってしまいました。組織の末端ではありますがその立場なりに築き上げてきたつもりの時空間が、市場の競争原理とはいえあっけなく無くなってしまったこと、自分の居場所がなくなってしまったことが、何と言いようもなく空しく思えました。時を同じくして父危篤の知らせを受け(1カ月ほどなくしてあっという間に亡くなりました)、まわりの出来事が、明日も同じように当然にあると過ごしていたら、そうではなかった。そうやって出来事と年月だけが過ぎて行って、ただ年だけ取った自分がぽつんとあるような、まるで浦島太郎状態のようにに思えました。

RCさんが埼玉で勉強会を開いていらっしゃること。
私の知っているあの嶋田さんが、「私の白道」のあの嶋田さんが、講師でいらっしゃること。

「参加したいのですが」スマホをポチッとしてみました。するかしないかの、ほんのわずかの動作ですが、何年も眺めていただけの自分と、実際にメールするのとでは、気持ちにとても隔たりがありました。どうやら背中を押されたようです。

ほんとうに、ご縁というものは、分からないです。過去の知人や友人など、これまでに知り合った記憶のうっすらとある中で、まさか、20年以上も前の、あの嶋田さんが、私に南無阿弥陀仏を伝えて下さる方だったとは。思いも寄らないご縁でした。学生当時の私が知る嶋田さんも、こちらが襟を正されるような思いがしたものですが「私の白道」の情熱も、実際にお会いしてお話し下さるお人柄も、印象は全然変わりませんでした。

2年前の今ごろ、埼玉の勉強会でR1000さんが六字を喜ばれているのを見て、前年末にいらっしゃったばかりなのに、なんでまた急に? と思っていたら、ほどなく私もお任せの身になりました。翌3月の埼玉勉強会で嶋田さんに「いただけました。ありがとうございました。」と報告できました。「そうか、よかったね。」とおっしゃって下さったのが、思えば、今生最後の機会でした。

南無阿弥陀仏は、わたしから求めて得られたんじゃない、向こうから一方的に、わたしのほうへやって来た。そう思えてなりません。
どうしてわたしが、六字を喜ぶ身でいられるのだろう。不思議といえばありきたりの表現かもしれませんが、そうとしか言えません。
とうに故郷を離れて仏法も見ないようにして暮らしていたところに、その福井から、嶋田さんのほうから、わざわざ六字を届けに来て下さり、お任せの心、いただけましたこと、御礼申し上げます。

お体がすぐれないとは、うすうす存じ上げてはいましたが、わたくしに六字を届けて下さり、届けて下さったと思ったら程なく、往生されました。
二度ほど福井に帰省する機会もあり、道すがら伺いに行くこともできたはずなのに、思いつかずに過ぎやってしまいました。まさか、六字を喜んでいる旨、お伝えしたのが、最後になろうとは、思っていませんでした。

改めて、御礼申し上げます。

南無阿弥陀仏

あさ川です。
先の記事に書きました通り、RCさんから埼玉恵日会のご案内をいただきましたので掲載します。


暑くて寒いと言われる熊谷ですが、今年はさいたま市ほど寒くはないようです。ご縁ある方は熊谷においでください。ともに南無阿弥陀仏を喜ぶご縁になればと思います。

今回の会場は南口を出たところですが、埼玉恵日会の前後に、北口にある熊谷直実像もついでにご覧になるのもよろしいかと思います。


南無阿弥陀仏

========(以下、RCさんから投稿文です)========

RCです。

平成30年、最初の「埼玉恵日会」のお知らせをさせていただきます。

日時 : 2月18日(日) 14:00〜17:00

場所 : 熊谷駅南口 徒歩2分
「熊谷ロイヤルホテルすずき」 (会議室)
埼玉県熊谷市宮前町2-51

*今回は、熊谷駅直結のティアラの会議室ではありません。お間違えないようにお願いいたします。m(_ _)m

講師 : 阿部 信幾 先生

勉強会は、質問形式で進めています。ご質問がある方は、私のアドレスに 質問を送信してください。

私のアドレスは、
rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
アットマークは、@変えてください。

今年の冬は、厳しい寒波や、インフルエンザの大流行で、春が 待ち遠しいです。

火宅無常の世界と 教えて頂いても、「 今年も当然 春を迎えられる。」と思っているところが、邪見なのでしょうね。
それでも、我が身に、南無阿弥陀仏を聞かせていただけるご縁がありますこと、有り難いです。

「 無明長夜の灯炬なり 
智眼くらしとかなしむな
生死大海の船筏なり 
罪障おもしとなげかざれ 」

どうでもいいことで、くよくよしたり、人を踏みつけるような気持ちが ムクムク湧いてきたりして、「 がっかり 」の 時は、このご和讃に励ましていただいています。

阿弥陀さまに、かがり火を灯していただいて、
お念仏を 称えさせていただいて、
どうにもなれない私のまま、安心させていただいて 有り難いです。

ぜひぜひ、
埼玉恵日会で、いっしょに 阿弥陀さまのお話しを お聞きしましょう!

お待ちしています。

あさ川です。

私も当日にRCさんから嶋田さんの件は伺っておりましたが、改めてRCさんから投稿文を頂きましたので掲載します。(ご家族に了解を頂いているとのことです)

嶋田さんと私とのご縁はRCさんを通じてのもので、親鸞会を離れてしばらくしてからのことでしたが、結果的に浅からざるご縁となりました。いずこでかまたご縁があるのだろうと味わわれます。

南無阿弥陀仏

========(以下、RCさんから投稿文です)========

RCです。

親鸞会元講師の嶋田久義さんが、平成30年 1月9日の午前中に、お浄土へ旅立たれました。

嶋田さんとのご縁を 振り返り、文章を書かせていただきました。

嶋田さんのブログ 「 −あなたの白道 − 」に、書いてありましたが、嶋田さんは 一昨年の11月に 「 突発性間質性肺炎 」になり、その後、入退院を繰り返して、おられました。
そして、昨年の8月10日の夜中に、救急車で 病院に緊急搬送されて、4度目の入院となりました。約5ヶ月間 闘病されましたが、回復されず、1 月9日に お浄土へ旅立たれました。

「 ブログ –あなたの白道− 」の[ はじめに・目次 ]には、次のように書いてあります。

『 今回の 4度目の 入院で 臨終が 近いと 分ります。
 退院はもう無理で 今回の 入院で 最後を迎えるでしょう。
もう迫っています。
      
そこで 最後の力を ふりしぼり「 あなたの 白道  」を 書きました。
 今回 入院して 25日目で やっと パソ コンを 開くことが出来ました 。
嬉しくて 涙が出ました。また 書ける、最後まで書けると。
 ベッドの上で パソコンを 開き 打っては 横になり 打っては 横になり 書いているので中々 進みません 。
「 命の ある間に 書き上げたい 。」
この思いだけでした 。 』
と。

嶋田さんは、病院のベットの上で、ただ ただ
皆さんに、南無阿弥陀仏を 伝えたい、わかっていただきたいとの 思いで、命を削って 文章を遺してくださいました。
嶋田さんの言葉に触れると、嶋田さんの 思いが伝わって、胸が一杯になります。

振り返れば、3年半前の平成26年の夏。
私は、親鸞会への不信や不満がMAXになったのがキッカケで、親鸞会批判サイト の存在を知り、その中で、嶋田さんの「 私の白道 」と出遇いました。

ずっと、「この世界で、 真実の仏教を 説いておられるのは高森会長だけ、正しい真宗の教えを広めているのは親鸞会しかない」と、心底信じていた私にとって「 私の白道 」に書かれていたことは、にわかには 信じられませんでした。
ですが「 私の白道 」の文章の一言、一言には 否定できない誠実さがありました。
2〜3ヶ月間、心は、揺れ動きましたが、やがて退会を 決心しました。
その経緯は
http://blog.livedoor.jp/skai_as/archives/41221991.html
に 書いてありますので、ご覧下さい。

親鸞会の退会を決め、自分よりも 数年早く 親鸞会を退会されていた友人に 電話をかけたところ「『私の白道』を書いた人の 連絡先、知っているよ!」と、彼女から 嶋田さんの電話番号を教えて もらいました。
私は 携帯電話を「かけ放題プラン」に変えてから、その番号に電話をしました。
嶋田さんは、初めて 電話をかけてきた私に、いきなり、「 南無阿弥陀仏のみ心 」を話し始め、2時間くらい熱心に、話してくださいました。その後、すぐに 仏法の書籍や、法話のDVDを 私の自宅に 送ってくださいました。
おかげで 私は 「 ずっと信じていたことに裏切られたショック 」を 感じる暇もなく、「 お念仏の教えを 聞きたい!」という気持ちになっていました。

私は 親鸞会を辞める時に、自分を含めて 5人いっしょに辞めました。その時 「親鸞会の間違いが、はっきりわからないままでは、前に進めない」と思い、5人で 嶋田さんから 親鸞会の間違いを キチンと お聞きしたいと思いました。
本来なら、こちらから 嶋田さんを訪ねるべきと思いましたが、旅費などを 考えれば、嶋田さんに来ていただけたら 有り難いと思って、嶋田さんに お願いしたところ、嶋田さんは、私の申し出を 快諾されて、すぐに 福井から埼玉に来て 勉強会をして下さいました。
その時も、「皆さんに、読んで欲しい」と、本を何冊も持って来てくださいました。

嶋田さんは、喜びと熱意 いっぱいで 、南無阿弥陀仏を伝えてくださいました。

当初は、勉強会を続けてやって行こうとか、広く皆さんをお誘いしようとか 、特に 考えていたわけでは なかったのですが、「 では次回は、」「また次回は、」と 続けることになり、さらに、あさ川さんのブログで、皆さんに お声かけもして、多くの方々に 参加していただくことになりました。

勉強会では、嶋田さんは、いろいろな本を コピーして紹介して下さったり、仏教、真宗の教えをわかりやすくレジュメにして下さったり、妙好人の言葉をプリントして、いっしょに 味わったりと、本当に 本当に、力を注いで下さいました。

でも 最初の勉強会に来てくださった時に、嶋田さんの心臓の冠動脈には 10本ものステントが、入っていると お聞きして、驚きました。
親鸞会講師での 膨大な量のアニメ頒布や、 会員勧誘などの 激しい活動は、身体に 大きな負担となって、糖尿病を引き起こし、嶋田さんの全身の血管は 大きなダメージを受けていたのでしょう。
でも、定期的に心臓の検査を受けておられたので、治療を受けながら、まだまだ 元気で おられて、やがて僧侶として ご活躍されると思っていました。

一昨年、嶋田さんから 「 突発性間質性肺炎 」になったとお聞きし、お宅にお見舞いに伺った時、勉強会では 大きな声で 元気にお話ししておられた 嶋田さんは、「酸素ポンプ」に チューブで繋がれていて、少しお話ししただけでも、咳き込んでおられました。
嶋田さんの姿は、老 病 死 を、忘れていても、老 病 死 を離れた人生などないのだと、教えて下さいました。
でも、その時、嶋田さんは まだ 外出もできて、近くのお寺で いっしょに 聴聞させて頂きました。
嶋田さんや 、お同行の皆さんと、南無阿弥陀仏のおはなしを聴聞できて、本当に 有り難いご縁でした。

こうして 今、私が 嶋田さんとの出遇いを振り返っていることが、つくづく、不思議です。

気づかないうちに、 不思議な何かに、押されて、引っ張られて、気づけば、私の口から 南無阿弥陀仏が 出てくださり、南無阿弥陀仏を称える身に お育ていただいたことに 驚くばかりです。

嶋田さんが、「 私の白道 」を 書かれたのも、
余命を告げられた病床で、「 あなたの白道 」を書き上げられたのも、南無阿弥陀仏のおはたらきが 嶋田さんを通して 現れてくださったのだと思います。

南無阿弥陀仏は、自分が 南無阿弥陀仏を喜べただけでは 、済まさない。いっしょに 喜びたい、称えたい、それが南無阿弥陀仏のおはたらきなのでしょう。

嶋田さん。
嶋田さんが、親鸞会講師という厳しい世界に 飛び込み 20年の間 大変な活動の末、講師の肩書きを捨て 親鸞会を去る、という決断をされたのは、ずっと 後生の一大事に 向き合っておられたからですね。
それは 南無阿弥陀仏が、はたらき詰めに はたらいていてくださったからですね。
そして、
遇い難い南無阿弥陀仏と出遇われ、南無阿弥陀仏を 喜び、お伝えしてくださった「 嶋田さんの人生」に、今 、合掌し 念仏させていただきます。

きっと 多くの皆さんが、同じ思いで お念仏されています。
不思議で、嬉しく 有り難いことです。

嶋田さんは、これからは、還相のおはたらきを 思いのままに されるのですね。

嶋田さん。
ありがとうございました。

ふと、大峯 顕先生の「 さよならはない世界」という本に書いてあったことを思い出しました。
「南無阿弥陀仏と出遇った人は、『さよならはない世界』に 生きている」と 書いてありました。

みんな 南無阿弥陀仏のおはたらきの中の出来事で、ずっと 南無阿弥陀仏のおはたらきの中にいるのですね。

嶋田さん、また お話しできますね。

それから、この文章を読んでくださった皆さんが、嶋田さんの「あなたの白道のブログ」そして、「 あなたの白道の本 」を読んで くださったら 嶋田さんも、喜ばれると思います。

嶋田さんのブログ 「 あなたの白道 」は、
http://www.shinrankai.biz/blog.php?id=54
です。

「 あなたの白道の本 」の入手方法は、ブログに書いてあります。

「 主人はこの世にはおりませんが、この本が主人の分身となって活躍してくれる事を信じています。 」
〜嶋田さんの 奥様の お言葉です〜

南無阿弥陀仏

あさ川です。

先の記事で書きましたとおり、RCさんからの投稿文を頂いておりますので掲載します。今年もRCさんにはたくさんの投稿文を頂いてブログをつないでいただきましてありがたいことでした。
また、ご縁ありました皆さんのおかげをもちましてこのブログも続いておりますので、こちらもありがたいことです。

来年もご縁ありましたらよろしくお願いします。


=======(以下、RCさんの投稿文です)=======

RCです。

年末年始の休みで、普段なかなか出来ない片付けをしていました。

そして、埼玉恵日会の参加名簿を まとめたりしていたのですが、今まで 埼玉恵日会ご参加くださった方は、累計 128人でした。
開催数は、10回でした。
皆さま、ありがとうございました。

阿弥陀さまと、ご参加される皆さまのお陰で、続けられています。

2018年も、どうぞよろしくお願いしたします。

親鸞会に30年以上も いた私が、本当に不思議なおはたらきに 動かされて、こんな尊いご縁を頂けて、有り難いばかりです。

真宗の繁盛は 人が 多く集まることでは、ありませんが、でも ひとりでも 多くの お同行の皆さんと、南無阿弥陀仏をお聞きして、いっしょに、喜べたら、もう 極楽浄土にいるような幸せです。

何ができるわけでもありませんが、南無阿弥陀仏のおはたらきを いっしょにお聞きして、いっしょに喜んで、喜びの輪が広がって 、お同行の皆さんと、「よかったね!」って、喜び合えたら うれしいです。

あさ川さま、いつも お世話になり ありがとうございます。

2018年も、皆さんと 阿弥陀さまのお話しをお聞きできると 思うと、うれしいです。

(次の 埼玉恵日会は、
2018年 2月18日 14時〜17時
熊谷駅南口 徒歩2分、埼玉ロイヤルホテルすずき の会議室です。
質問は、
rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
アットマークは、@に変えてください。
に お願いいたします。)

南無阿弥陀仏

あさ川です。ここ2~3週間で、滋賀に行ってみたり埼玉恵日会にご縁があったりと、それはそれでいろいろ味わうところもあるのですが、記事を出すまでには至っていません。そんな折に、RCさんから投稿文を頂きました。


RCさんと私も、不思議のご縁と言えば不思議のご縁ですが、同じ支部に居たものの、同じ支部に居た時はあまりご縁がありませんでした。たまたま私の携帯電話の番号を登録されていたことが、今のこのようなご縁に繋がっています。

阿部先生とのご縁はあまり深くはないのですが、大阪八尾の光蓮寺の仏教文化講座にて最初にお話を聞いたのが、阿部先生のお話でした。またお話を聞いてみたいなと思いながらご縁が無かったところに、ふとご自坊が大間々であることを見つけて足を運び、それとは全く別のところで埼玉恵日会というご縁を頂いて今に至ると。

埼玉の勉強会と言えば、嶋田さんとのご縁ですが、嶋田さんと私とのご縁も勉強会を通じてのことでした。会員時代はまったく面識がありませんでした。


ほかにも、様々な有り難いご縁を頂いて今に至っておるということを、改めて最近味わっております。仏法とのご縁が薄くなると、どうしても日々の生活に埋もれてしまうのでありました。


さて、前置きが長くなりましたが、来年の埼玉恵日会のご案内や先日のお話の内容も含めて投稿文を頂いておりますので、掲載します。


========(以下、RCさんから投稿文です)========

こんにちは。
RCです。

12月3日(日)に、あさ川様にも ご出席いただき、今年最後の埼玉恵日会が 無事に終了しました。
今回の埼玉恵日会には、初めてご参加の方が、4名もお越し下さり、私も 本年最後の埼玉恵日会を 本当に有り難い気持ちで、締めくくることが出来ました。

埼玉恵日会に ご参加くださる皆様、支えてくださる皆様、見守ってくださる皆様のおかげさまです。
心から、感謝しております。
ありがとうございます。

( 皆さま、南無阿弥陀仏 から 現れてくださっているご縁の方々だと思います(o^^o))

*さて、来年の埼玉恵日会の予定が 決まりましたので、ご案内させていただきます。

【2018年 埼玉恵日会 年間予定】

2月18日(日)14時〜17時
4月22日(日)14時〜17時
6月23日(土)14時〜17時
8月5日(日)14時〜17時
10月7日(日)14時〜17時
12月2日(日)14時〜17時

︎2月18日(日)埼玉恵日会の場所は、
『熊谷ロイヤルホテルすずき』の会議室 です。
(熊谷ロイヤルホテルすずきは、JR熊谷駅 南口 徒歩2分の場所です)
いつも開催している熊谷ティアラ21の会議ではないので、ご注意願います️

日にちが近づいたら、再度 お知らせいたします。

4月以降の開催場所は 未定ですが、
出来たら 熊谷ティアラ21 の 会議室で開催したいと 考えております。

○それから講師をしてくださっている阿部先生から
*「この集まりは、お聖教のお言葉に添って、親鸞聖人のお言葉を確認し、理解を深める会ですから、お聖教をお持ちください。」とのお話しが ありました。
次回からは、お手持ちのお聖教をご持参くださいますよう お願いいたします。

親鸞会で使っていたものでも、本願寺出版のものでも、大谷派のものでも いいかと思います。

よろしくお願い いたします。

それから、
◉12月3日の埼玉恵日会のお話しの中の一部を
書かせて頂きます。
そう言えば、以前に 「 自力、他力」という言葉について、たくさんコメントを 頂きましたが、もしかしたら、今度も文章を読んで、疑問を持たれる方が いらっしゃるかもしれません。
そういうことも、また ご縁だと思うので、疑問や 質問や ご意見が、ありましたら、埼玉恵日会へお寄せください。
遠方で 参加が難しい方も、質問文を頂ければ、私が 会で 質問し、お答えの内容を お伝えいたします。
よろしくお願い いたします。

私のアドレスは、
rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
です。
アットマークは、@に変えてください。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
【埼玉恵日会でのお話し】

︎(自力の宗教のお話し)
自力の宗教の 特色は、自分ひとりでだけが 気持ちよくなっているということです。
それは、お酒を飲んで酔っ払って 気持ちがいいのと同じです。
自力の宗教では、皆 救われていますが、それはお酒で酔っ払って、現実逃避しているのと同じです。宗教によって 現実から逃避しているだけです。
現実を生きているわけではありません。

自力心は 人間の心です。
他力心は 如来の心です。
自力は、どこまで行っても、私のはからい であり、人間の心です。
人間は いろんなものを生み出しますが、一番多いのは 妄想です。
人間の心は、妄想を生み出す。その妄想を 自分が信じて、人に教えている者がいる。
これが大方の宗教です。
これは 現実逃避です。本人は 現実を生きているつもりでも、朝から 酒を飲んで 酔っ払っている人と同じです。
自力心が見せる妄想に、自分が毒されて、自分も 妄想を信じ込んで 人にも説いて信じ込ませている。そうやって 集団で 妄想している。
お金を集める宗教は、大方 皆そうです。

︎(本願成就のお話し)
「本願が成就した」ということは、「どんな世界にいる者のところにも、南無阿弥陀仏の名号となって届きますよとういう本願が成就した」ということです。
だから、その本願が 成就したおかげによって、私たちは 南無阿弥陀仏の名号を聞いているのです。
逆の言い方をしたら、「南無阿弥陀仏の名号」が聞こえている」ということは、「本願が成就した」ということだから、その 本願成就に、これから 私が付け加えなければならないものは、一つもありません。という話しが 浄土真宗です。

︎(南無阿弥陀仏のおはたらきのお話し)
「阿弥陀さまのはたらきが、はたらいているいる」「南無阿弥陀仏の六字の名号が聞こえている」って いうことは、「誰一人として、極楽に生まれられない者がいなくなった。」ということです。もっと ハッキリ言ってしまえば、「誰も地獄に堕ちない時代がきた」ということです。
本願が成就して、南無阿弥陀仏が ここに聞こえている、南無阿弥陀仏のおはたらきがあるっていうことは、誰も地獄に堕ちない時代がきたということではないですか?
その時代の幕開けが、「南無阿弥陀仏」の六字の名号では ないですか?
「南無阿弥陀仏」の六字の名号が聞こえたということは、その時代が始まったということでしょ。阿弥陀さまは、はたらいているのですから。
なのに、お浄土に生まれない人がいる原因は、そのおはたらきを跳ねつけているからです。
はねつけるというのは、具体的には、
「私が何かすることで、助かろうとすること」です。 それと、もう一つは、「お念仏をしないこと」です。
阿弥陀さまのはたらきは、念仏となってはたらくのです。
「阿弥陀さまのはたらきにおまかせをする」ということは、「お念仏をしなかった人が、お念仏を申す者に なった」ということです。
これが、阿弥陀さまのはたらきにまかせている姿です。
そういうはたらきが あるのに、念仏しないということは、そのはたらきを跳ねつけているのです。
だから、「念仏しない人は、お浄土に参りませんよ」と法然上人は、おっしゃっているのです。
それは 「 念仏を交換条件 」として言っているのでは なく、「あなたは、阿弥陀さまにまかせてないでしょ?」ということです。
念仏しない人は、阿弥陀さまに まかせていない人です。
阿弥陀さまのはたらきの中にいるのに、お浄土に参らない人の原因は、・念仏をしないということであり、・自力のはからい(私が、何事かすることで、お浄土に参ろうとしていること)で、 浄土に往生しようとすることです。
どちらも はからい であり、自力の心 です。

大無量寿経のお説教では、
もう 私たちは、阿弥陀さまのはたらきの中にいるのだから、地獄に堕ちる人は、一人もいませんよ。と、お釈迦さまが お話しされたのです。

だから、大無量寿経のお説教を聞いた人が、みんな喜んで 帰ったのです。
「 阿弥陀さまがはたらいてくださっているという本願成就」、「南無阿弥陀仏のいわれ」を聞いて、「有り難いお話しを聞かせて頂いてよかった、よかった」と 喜び、それ以降は、ご恩報謝の日暮しをするようになった。

これが浄土真宗です。

浄土真宗の日暮しは、ご恩報謝しかありません。
「ご恩報謝」というのは 「 他のご恩によって生かされている」というところから出ています。
「 ご恩報謝 」とは、他のご恩に気づくということです。
「どうやって生きていったらいいのですか?」と聞く人がいますが、
「どうやって生きていったらいいのか?」よりも、「どういう風に生かされているか」を まず 聞いたらいいです。
どういう風に生かされているか と言ったら、大いに生かされていますね。
お米を食べるのも、お米を作ってくれる人がいなければ食べられません。
電車で帰るのも、運転してくれる人がいなけ帰れません。
こういう おかげさまで、私の生活が成り立っています。そのご恩にどうやって報いていくかというのはことです。
それが、自分の職業ではないですか。
「働く」を「はたを、楽にする」と言った妙好人がいます。それが、ご恩報謝です。
皆さんのおかげで、楽をさせていただいているのですから、私もはたを、楽にする。これがご恩報謝です。
これが浄土真宗の日暮しです。

「あなた、一生懸命、よく仕事をするね。」と言われて
「だって、おかげさまですものね。」という人の中に暮らしたいか?
「だって、仕事しなければ、喰えないじゃないですか」という人の中で暮らしたいのか?
どっちで暮らしたいですか。

「だって おかげさまですものね。」という人の中で、暮らしたいなら、自分が一番最初に、そのことに気がつかないといけないでしょう。
そして、「 おかげさまです。」と暮らしいる姿が、「教人信」なのです。
仏教を喜んでいる姿が、そのまま 「教人信」なのです。
「自信」が、そのまま 「教人信」です。
「自信」というのは、おかげさまに気づくことです。

今まで、考えもしなかった、「南無阿弥陀仏のいわれ」を聞いたら、「ああ、おかげさまでした。もう 仏さまのはたらきが 届いていたのですね。そういうことでしたか。有り難いなー」と気づいたら、届いているものは もっと他にも あったのです。
日々の日暮しは、私が努力して 生きてきたのではなく、周りの努力によって、生かされてきたのではないですか。
これに気づいて、そのご恩に報いていく生活をさせていただきましょう という、お互いが、お互いのはたらく姿に手を合わせながら、感謝し合いながら、「ありがとうね。」と言いながら、暮らす世の中に暮らしたいのなら、まず、自分 自らが そういう生活を始めなかったら、そういう世の中は来ないのではないですか。

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

お話しされた言葉を、文章にしたので、わかりにくいところもあるかと 思いますが。
お聞きしたことを、お伝え出来たらと、思って 文章にしました。

南無阿弥陀仏のおはたらきに、すっぽり包まれている私なのだと 思います。
本当は、ずっと、そうだったのに、教えて頂いて、やっとそのことに気づけました。
南無阿弥陀仏の教えに出遇えたことで、今も、過去も、未来も、全部 丸ごと 救われるのですね。

南無阿弥陀仏

あさ川です。昨日の昼頃に久々に記事を出しましたが、夜に若干修正というか追記をしました。


さて、RCさんから埼玉慧日会のご案内を頂きましたので掲載します。日程としては再来月ですが、だいたいあと一ヶ月くらいです。ご縁ありましたら、熊谷までお越し下さい。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========

RCです。

夏も秋も 天候不順と思っているうちに、いつの間にか、今年も 終わりが近づいています。
毎年、毎年、年末を迎え、お正月を迎え、おんなじことの繰り返しのように、感じてしまいますが、本当は 一度も同じ年末も、お正月もないのですね。そして 今回が、人生最後の年末や、お正月かもしれません。

南無阿弥陀仏のお話しを 聴聞をさせていただくと、今 、私が、ここにいることは、あたり前ではなく、本当に 奇跡的なことだと感じます。奇跡的な私の、奇跡的な 今を、大切に生きていきたいと思います。
私にとっての「 世界 」は、「 私の世界 」しかないのですから、私が 今を 大切に 生きなかったら、世界を無駄にしてしまうことに なると思います。
南無阿弥陀仏に 出遇えて、ようやく、ちゃんと 生きている実感を感じられるようになりました。

そして、埼玉恵日会との ご縁も、とても有り難いです。
たぶん、私は ほんの100年位前は、三悪道で、のたうち回って 苦しんでいたのでしょうし、ほんの3年ちょっと前は、親鸞会の活動に追い立てられていました。大変でした。
そんな私が、南無阿弥陀仏のご縁の お手伝いが出来るなんて、不思議です。

「 南無阿弥陀仏 」は 宝の山、と蓮如上人は、おっしゃっています。ある先生は「濡れ手に泡」って おっしゃっていました。

自力を振り絞って、自力が廃ってから、他力を聞くのでは ありません。
他力を聞くから、自力が廃るのです。

どうぞ、他力を聞きに、埼玉恵日会に お越し下さいませ。(╹◡╹)


◎埼玉恵日会

日時: 12月 3日(日曜日)
14:00~17:00
場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室 2
(熊谷市男女共同参画推進センター)

講師: 阿部 信幾 先生
(本願寺派補教 )

○親鸞聖人の教え、浄土真宗を 知りたい人の為の勉強会です。
質問形式の勉強会で、真宗の理解を深めたいと思っています。
予め 質問を集めて、先生に応えて頂きますので、その場で 質問する勇気がなくても、また 匿名でも 大丈夫です。

親鸞聖人の教えについて、質問のある方は、以下のアドレスに メールで質問を送ってください。
先生に 当日 お応え頂けます。
アドレスは、 rokujinotsudoi@yahoo.co.jp


それから、元親鸞会講師の嶋田さんが、「 あなたの白道 」という ブログを立ち上げて、親鸞会会員さんや、講師の方々に 呼びかけておられます。
私は、嶋田さんには、親鸞会退会時から 大変お世話になり、勉強会もしていただき 、心から感謝しています。
それで、10月の中旬に、福井に 嶋田さんのお見舞いに伺いました。最初は、11月の中旬と思っていましたが、奥様の「それまで、命があれば」というお返事に 驚いて 日程を早めました。

病室に入った時に、嶋田さんはパソコンで 、DVD聴聞をされていて いました。

嶋田さんと、いろんなお話しをさせていただきました。ベッドの上で 酸素チューブをつける身になっても、嶋田さんは 「南無阿弥陀仏を お伝えしたい思い」いっぱいでした。尊い方だなってつくづく感じました。

「 あなたの白道 」ぜひ、読んでいただきたいです。

http://www.shinrankai.biz/blog.php?id=54


嶋田さんが 以前が書かれた「 わたしの白道 」は 多くの元親鸞会会員さんに、親鸞会の間違いを気づかせてくださったと思います。
そして、「 あなたの白道 」は、未だ、間違いに気づいていない会員さんや、講師の皆さんの心を 揺り動かし、やがて目覚めさせる と思います。

今回、 病に伏しても、熱いお気持ちの嶋田さんとお話しできて、本当に 有り難いご縁でした。

それから、以下は、翌日に嶋田さんから 頂いたお礼のメールです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

昨日は 遠い所を 見舞いに来て頂き有難うございました
久しぶりに 顔を見て 大変 嬉しく 元気をもらいました

信が一味なら まだ騙されている人への思いも同じで 話は 尽きませんね
2時間が アッという間でした

今日は 6章2が 発表でした
6章は3で終わりですね
自分の書いたものだけど これを 講師部が読んだら、どう思うか、ショックだろうと思います
会長は とんでもないものを 書いてくれた
読ませてはならん と思っていると思います

読んだ回数を見ると 講師部 会員さんは
まだまだ 少ないと思います

しかし 反論できない ジレンマに陥ります
これが 目が覚める きっかけになるでしょう

数年以上かかって じわじわ 浸透していく内容だなーと読みながら思いました

講師部員の 我執は 強いと思います
一人 また一人という感じと思います

これも 熊谷での 勉強会の経験 資料のまとめの基礎があったからだと思います
中央仏教学院の勉強も大事でした
  
あらゆるものが 「あなたの白道」を書く ために活きてきました

あとは 阿弥陀様のお育てにお任せです
余命は分りませんが 聴聞 拝読ですごします

本当に RCさん と ご縁があってよかったです

私の白道 以来 休んでいた心に 、話しする、書く思い、に火がついたからです
有りがたいと いつも思っています

これから 忙しくなってくると思いますが
健康に気をつけて下さい お願いします

それでは 喚び声に 導かれて 往生を待たせて 頂きます

南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏 南無阿弥陀仏
   
     嶋田久義
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

南無阿弥陀仏のおはたらきが、そのまま 嶋田さんの「 あなたの白道 」に、言葉になって 現れたのだと思います。

私も 「 あなたの白道 」に 文章を書かせていただきましたが、有り難いご縁でした。

南無阿弥陀仏

あさ川です。
そういえば最近このブログではありがたいことに投稿文の掲載が続いておりますが、裏を返せば自分の文章を書いていないなということで、いろいろありましたがようやく書き始めていたところ、RCさんから投稿文を頂きましたので掲載します。私の文章はいつできあがるか分かりませんけれども、ご縁あれば後日載せたいと思います。


ここしばらく雨が続いていることもあり、現在は盆とは思えないほど涼しい熊谷ですが、次回の埼玉恵日会の頃には暑くなっているかも知れません。ご縁のある方は熊谷までおいでください。
なお、前回ご紹介のあった、とくよしみねさんの勉強会は今度の日曜の予定とのことです。こちらもご縁のある方はお越し下さい。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========

こんにちは。
RCです。

9月の埼玉恵日会のお知らせをいたします。

日時: 9月 18日(月曜日 祝日)
14:10~17:00
場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室 2
(熊谷市男女共同参画推進センター)

講師: 阿部 信幾 先生
(本願寺派補教 )

阿部先生にお聞きしたいことが、ありましたら、私に メールで、送ってください。

rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp

アットマークは、@に変えてください。

質問の締め切りは、勉強会の一週間前の9月11日とさせていただきますます。
よろしくお願いいたします。


ところで、少し前に 阿部先生の ご法話で、お聞きしたことが、とても有り難かったので、ちょっと長文になりますが、書かせて頂きます。

仏教の知識が無い私が、ご説法のお話しを文字にしたので、読み直してみると、わかりにくい部分もあるなーて思いますが。
我慢して読んで頂けたらって思います。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「正信偈大意を通して、正信偈を学ぶ 」ということで、善導大師の「光明名号顕因縁」のところを お聞きしました。


「光明名号顕因縁」といふは、弥陀如来の四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり、これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就してあまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。しかれば名号執持することさらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。このゆゑに光明の縁にきざされて名号の因は顕るるといふこころなり。

この文章は、光明と名号はどういう関係にあるのか 善導大師が 顕かになさったということです。

これを丁寧にいうならば、阿弥陀如来の48願の中の第12の願を 光明無量の願といいます。
48願は、全部 大切な願ですが 、ことに
17願、18願、11願、12願、13願 の五つ、五願といいますが、これが特に重要です。
どのように重要かと言いますと
第17願は、行を誓っている。
第18願は、信が誓ってある。
第11願は、証か誓ってある。
12願、13願は、真仏真土が誓われている。

行、信、証、真仏土、
「教行信証」の 教が かけているだけですね。

教行信証という書物は、48願の中の 第17願、18願、11願、12願、13願を根拠として書かれています。
浄土真宗の教義が 皆、ここに収まるということです。
17願は、行が誓ってあるということについて、学派によって解釈が、分かれます。
「行を念仏だという学派」
それに対して、
「行は名号という学派」があります。
どっちを押さえても間違えではないけれど、
その押さえ方によって 教行信証そのものの読み方が違ってくる。教行信証の取り扱いが違うから、そういう違いが出て来るとも言えます。

私が習いましたのは空華という学派でしたが
そこでは、「行は 名号」、「名号のはたらき」「南無阿弥陀仏というはたらき」を行といいます。
そして 「南無阿弥陀仏というはたらきがあるということを信ずる」、それを 信 という。
これを誓ってあるのが、第18願。
だから、17願と18願は、セットになっているのです。

18願は、信心を誓ってある。
何を信じるのかと、いうと、南無阿弥陀仏のはたらきを信じる。
「南無阿弥陀仏となってはたらく」という誓いが17願。
「南無阿弥陀仏のはたらきを 信ぜさせる」というはたらきが、18願。
両方、他力です。

「南無阿弥陀仏とはたらいて、すべての者を仏にする」、そのはたらきを行という。それを南無阿弥陀仏の名号で表わすのだというのが、
第17願を名号で、押さえるという言い方です。

その名号のはたらきを信じるのを信といいます。
第18願に信心が誓ってあるのは、このことです。
その信心が、正因となって、11願が仏果、
第11願は、必ず滅度に至らしめるという願。
滅度というのは、さとりですから。
必ずさとりに至らめるという願が、第11願。

ですから、
名号となってはたらいて、信心を与え、さとりを開かせるのが、全部 阿弥陀さまの本願のはたらきなのです。

17願と、18願と、11願のはたらきです。
そして、その元になっているのが、12願と、13願で、これは何を誓ってあるのかというと、
12願は、私は光明無量の仏になる。
「光明無量の仏になる」とは、「どのような場所にいる者の上にもはたらく仏になる 」ということです。
13願は、寿命無量を誓っています。
寿命無量は、「いつの時代に生まれた者の上にもはたらく。」ということです。
光明無量、寿命無量、だから阿弥陀と名付けるのです。
アミダ というのは 計れないという意味ですから。何が計れないのかというと、一つには、光明が計れない。もう一つは、寿命が計れない。

光明が計れない、光明が無量だというのは、
光明は私を救う仏さまの知恵のはたらきを指しますから、知恵のはたらきが どんな場所にいる者の上にも届いているということです。
正信偈の 「超日月光 」というのは、光明無量のはたらきを表しています。

13願は、寿命無量の仏になると誓っています。
寿命無量とは、どんな時代に生を受けた者の上にも はたらいているということです。

光明無量、寿命無量ということは、阿弥陀さまの救いのはたらきを表わし
いつでも、どこでもはたらく仏ということを
12願と13願で、表しているのです。

いつでもって言ったら 「今」ということ、
どこでもって言ったら、「ここ」ということです。
ですから 光明無量、寿命無量の本願は、
「あなたのいるところにいつでも 届いている」ということを表しているのです。
何が届いているですか?と言ったら、

︎この12願と13願が元 で
︎名号となってあなたの世界に届くというのが17願で、
︎その名号を信じる信心をあなたに与えるというのが18願、
︎その信心を因としてさとりを開かせるというのがはたらきが、11願。

これが 五願です。

ですから、教行信証という書物は、何を表しているのかというと、
阿弥陀さまのはたらきは、いつでもどこでもどんな者の上にもはたらいているんだということを 教 、行 、信 、証 、真仏土という書物で表してるのです。
それを書いてあるのが、お経です。
このお経は、仏説無量寿経ですから、
「教」は、仏説無量寿経が、上げられています。
仏説無量寿経には 何が説かれているのかというと、17願、18願、11願、12願、13願という「 すべての衆生を仏にする」というはたらきが説かれているのです。

仏説無量寿経は、おさとりを開いたお釈迦さまが、「すべての者を仏にするはたらきが、もうはたらいている」ということを私に告げてくださっている お説教です。
ですから、私たちは、はたらきの中に居るのだということです。
はたらきの中に居るのに、何故 私がまだ さとりを開かないでいるのか?その原因はどのにあるのか、それが問題です。
それは 「私の自力心」が、迷いの原因なのです。

自力心が、迷いの原因だと明らかにしたのが、教行信証の6巻目の 「方便化身土 巻」です。

(中略)

阿弥陀さまは、無碍光如来です。
無碍光とは、妨げるものがない。
碍とは、わたしたちの無明煩悩です。
阿弥陀さまのはたらきは、私たちの無明煩悩が邪魔にならない。
阿弥陀さまは、私たちの無明煩悩を問題にしない仏です。
それが、無碍光如来 という名前です。
ということは、私が迷っているのは、私の無明煩悩が原因では、ないのです。
せっかくそれを治す薬があるのに薬を飲まない。
阿弥陀さまの薬を、拒絶するのが、迷いの原因です。
阿弥陀さまの薬を拒絶する心を自力心 といいます。

阿弥陀さまのはたらきがあるのに、それを拒絶し続けてきたから迷っているのです。
「自力心が 私の迷いの原因である」いうことを明らかにしたのが、「教行信証の6巻目の化身土の巻」です。

阿弥陀さまのはたらきは、目に見えません。
春も、はたらきですから、見えません。
春が来たのが、わかるのは、花が咲くからです。
阿弥陀さまが はたらいているって言っても、はたらきは、見えません。
阿弥陀さまがはたらいているって何で、わかるのかというと、
一つには、お釈迦さまが、仏説無量寿経 というお経を説いたこと。これが、第17願です。
「お釈迦さまが仏説無量寿経を説いたこ」とが、「阿弥陀さまが成仏している証拠」です。

仏説無量寿経の内容は、一切全ての生きとし生けるものを仏にするはたらきがはたらいているということを私に告げているのです。

(中略)

無量寿如来というのは、見えない仏さまです。
だけど見えない仏さまのままでは、私の救いにも何にもならないので、私の上にはたらいているということを念仏で表しているのです。

「 念仏の声が聞こえている」ということは、「阿弥陀さまが はたらいて、あなたを仏にする仏がはたらいているぞ」と、私に告げてくださっているのです。

お念仏は阿弥陀さまのはたらきで
「私が、お念仏している」ってことは、「阿弥陀さまのはたらきが もう 私の中に届いて はたらいている」って言うことです。

阿弥陀さまのはたらきが届いてもう私の中ではたらいているのだから 私が お浄土に参るのは間違いない、こういう話しです。

言い方を変えれ、阿弥陀さまのはたらきにまかせるというのは、念仏を申すということです。反対の言い方をすれば、お念仏をしない人というのは、せっかく薬があっても飲まない人。せっかくお医者さまがいてもお医者さんの世話には、なりませんと治療を拒否する人です。

以上も前のことを踏まえて、正信偈大意を読むと、意味がわかると思います。

︎「光明名号顕因縁」といふは、弥陀如来の四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり、

というのは、どんな場所にいる者の上にも 私のはたらきは、届いているのだ、ということです。

︎これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。

念仏の衆生というのは、阿弥陀さまからはたらきにおまかせした者。おまかせした者が、摂取というのは阿弥陀さまの光明に収めとららて、
二度と迷いの世界に戻らない、これを摂取不捨とか、不退転、正定聚といいます。

︎かの願すでに成就して

12願が、すでに 成就して

︎あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、

どんな場所にいる私の上にも そのおはたらきが届いていたのだ。

︎衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。

私の側の煩悩悪業を 長い時間照らしてくださって、

︎さればこのひかりの縁にあふ衆生、

私たちのこと、

︎やうやく無明の昏闇うすくなりて

迷いの闇が だんだんうすくなって

︎宿善のたねきざすとき、

宿善というのは、「たまたま行信をえば、遠く宿縁を喜べ」とおっしゃったように、宿縁ともいいます。宿は、過去ということ。
過去に善、過去の縁とは、仏さまのはたらきのことです。
仏さまのはたらきが ようやく私の上にはたらいて、無明の闇が だんだんうすくなって

︎宿善のたねきざすとき、
まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。

南無阿弥陀仏の名号を聞くということは、「はたらき」によって聞くのです。
私が仏法の話しを聞こうという心を起こしたことも、こうやってお話してを聞かせていただいて、しかもそれが信じられて はからいに用事がなくなったということは、すべての 第12願の 「わがひかりきわなからん」という仏さまのはたらきが どんな者の上にも届いているということによって、起きるということです。


︎しかれば名号執持することさらに自力にあらず、

名号を 執持というは、念仏です。
念仏は、自力ではない。
阿弥陀さまのはたらきが私の上にお念仏となってはたらいてくださっている。

︎ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。このゆゑに光明の縁にきざされて

12願の光明無量のはたらきによって

︎名号の因は顕るるといふこころなり。

名号の因とは、いろいろな取り方がありますが、具体的には、お念仏を申す身にさせていただいている。ということです。

これが、光明と、名号の関係です。

私たちが、お念仏を申させていただいているということは、元を正すと、
光明無量の願のはたらきによって、私たちが、お育てをいただいて、今 ここに南無阿弥陀仏の名号が、お念仏となって現れているということなのだ
ということを 光明た名号の因縁を顕す
と 言われています。

他力の念仏ということは 顕におっしゃったということです。

ここに善導大師の手柄があります。

それ以前は、念仏は、私が称えるという一つの阿弥陀さまの条件を満たすという行ない。
私が 阿弥陀さまの条件を満たしたら、浄土が成立すると 普通は考えますね。
善導大師の時代にも、そう考えていた人がいたのです。

それまでの仏教は、「修行をして悟りを開く」という仏教だったので、念仏もその一つとして、捉えられました。
修行して悟ろういう人たちにとっては、念仏は、ただ口に 南無阿弥陀仏と仏名を称えるだけのことだから、そんなようなことで直ちに悟りを開けるような行ではない と、考えられていました。悟りが高ければ高いほど、その修行は難しいはずです。簡単な修行で手に入れるようなものは、あまり価値がないというのは、
修行して悟りを、開こうとしている人たちにとっては、常識でした。

その中で、南無阿弥陀仏のお念仏も 大した行では、ないと言われていました。
「念仏して、浄土に往生する」っていうのは、お釈迦さまが、仏縁のあまりない人に対して、それを勧めることによって仏法に引き入れる為に「方便」として説いた、念仏して 直ちに悟り獲るということはないとされていました。
念仏にあまり値打ちを見ていなかったのです。

それに対して、善導大師が
「ちがう。」と言って 光明と名号の因縁を顕かにしてくださった。
「切符を買ったら、電車に乗れる」という、念仏は、切符くらいの話しではないのです。

念仏が申されるまでには、過去に無量寿如来の
光明無量の願のはたらきによって、それが六道輪廻している者の上に、そのはたらきが、積もり積もって、その者が、ようやく「南無阿弥陀仏」た、お念仏をする者に仕立てて頂いたのだということを、善導大師が、顕かにしたことを
「光明、名号の因縁を顕す」と、おっしゃっているのです。

ですから、それまでの人が、受け止めていた念仏とは、違うのです。
善導大師以外のお坊さんは、皆 修行して悟りを開くとしか受け止めていなかったので
その修行の一つとして 南無阿弥陀仏と口に名号を称える行と、一応しておきましょう。という程度の念仏の扱いでした。
お念仏は、あまり価値のある行では、ないと受け止められていました。
だから、お念仏によって開ける悟りなど 大したものでは、ないと考えていたのです。

それを善導大師が、ひっくり返したのです。
念仏往生とは、そんな話しではなく、全部他力。
だから 人が念仏を申すようになる前には、果てしない阿弥陀さまの 「その者を助ける」というお慈悲のはたらきが、ずーっとあったから、私がここで、今 念仏を申す者にしていただいているのだ というのが、善導大師のお言葉です。

このことを明らかにしたということを

光明名号の因縁を顕す。

︎しかれば名号執持することさらに自力にあらず、

お念仏を申す者にして頂いたということも他力であれは、今ここに、こうやってお念仏を申しておるということも他力なのです。、

︎ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。

光明のはたらきによって、そうして頂いた。

たとえて言ったら、春が来たら花が咲くと同じように、
光明のはたらきによって お念仏をする者が存在するということです。
光明のはたらきが、なければお念仏を申すものがいないということです。

そのことが、
︎このゆゑに光明の縁にきざされて名号の因は顕るるといふこころなり。

ということであります。

あさ川です。

ここ一週間ほど落ち着かない日々が続いておりまして(言い訳)、頂いたメールも読めていなくてコメントの未読も溜まってしまっておりました。そのことについて書くご縁があるかどうかは分かりませんけれども、書くご縁がありましたら書きたいと思います。

一つ私の最近の味わいを述べますと、弥陀を人の親にもしたとえるならば、腹の中から外に出てくるまでずっと願いを掛けて誕生を待ち望み、腹の中から外に出てからもずっと南無阿弥陀仏との縁を結ばせようと願いを掛け待ち望み通しの親であって、しかし因縁の世界のことで子が必ずしも願い通りに生まれ、あるいはご縁を結べないということもあるとすれば、願いを掛けるのも喜ぶのも悲しむのも、一人一人に対しての弥陀のお仕事なのだろうと、そのような心持ちの今日この頃です。


さて、月曜にとくよしみねさんから投稿文を頂いておりました(ありがとうございます)が、気付くのが遅くなり掲載が遅れまして失礼しました。愛知で山も山さんの勉強会のご縁だそうです。ご縁ある方は愛知までおいでください。


========(以下、とくよしみねさんから投稿文です)========


皆様へ、とくよしみねからのお知らせです。今回は山も山さん(宮田さん)の勉強会を開催します。
場所はいつもの愛知県です。
日にちは 8月 20 日 ( 日 ) です。
時間は 午前10時30分から午後5時までの予定です。
演題は「正信偈」についてです。
ご縁があれば是非ご参加ください。
詳細についてお知りになりたい方は、aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jpにメールしてください。
( アットマーク ) は” @ ”に変更してください。
折り返しお知らせいたします。
私にメールをくださる場合、少しプロフィールも書いていただけると有り難いです。
個人情報を漏らすようなことはいたしません。
また私のブログの URL は以下の通りです。
お暇なら見てください。よろしくお願いします。
http://tokuyoshimine.hatenablog.com/

あさ川です。

先の日曜日に、7月の埼玉恵日会がありました。なかなか最近文章を書けていませんが、味わいなどご縁があればまた書きたいなあと思ったりしております。


さて、RCさんからの前回の投稿文で、「念仏者の生き方」についての予告がありましたが、今回そちらの投稿文を頂きましたので掲載します。なお、先回お話しした通り、私は前回ご縁がありませんでした。ですのでこのようにまとめて頂けるのはありがたいなと思います。


RCさんに限らず、聞いたお話の内容でも、日頃のご自身の思いでも、自分でブログを作るまでいかないけど何か発表したい、というようなことがございましたら、お寄せ頂くのもありがたいかなと思います。


ちなみに、率直に言いますと「念仏者の生き方」のフレーズだけ見た時に私は少し引っかかってしまっていたのですが、最後を読んで「なーるほど」と思ったのでした。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========
RCです。

前回の投稿文の「唯識」の お話しのおしまいに、「念仏者の生き方」のお話しも 投稿しますと書きましたが、仕上がりました!

親鸞会で、「破邪顕正せよ」の話しの時に 「すごーく美味しい蕎麦屋を見つけたら、人に教えずにおれないでしょ?」と言われて「なるほど」って、思いました。

親鸞会の教義は、??? ですが、「美味しい蕎麦屋を見つけたら人に教えてたくなる」っていう話しには、頷けます。

「 美味しい蕎麦屋を教えたい気持ち」と同じ気持ちで、私は 「埼玉恵日会」のご縁のお手伝いをしたり、投稿文を書いたりしています。

では、念仏者の生き方について、阿部先生からお聞きしたことを 書きます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

「念仏者の生き方」とは、一言で言ったら
「ご恩報謝」です。

「阿弥陀さまと出遇った」ということは、そこに 「ご恩」があるわけです。
今まで、阿弥陀さまが いない生活をしていた人が、「私を仏にしてくださる阿弥陀という仏がいらっしゃって、この私を仏にしようとしてくださっている」ということに 出遇ったということは、そこに「ありがたいなー。」というご恩が 生まれます。
そのご恩に報いるという生活をご恩報謝といいます。
「お念仏を申さないで 来た私」と、「この教えに出遇った私」の 一番大きな違いは 「おかげさまで、ありがとう。」という ご恩の世界が開かれたか、ご恩のない世界に生きているかです。

「ご恩」いうのは 何かというと、今まで、自分を成り立たせていたものを、当たり前だと思っていたのを、そうではなくても 有難いと頂く世界です。
今 私が、生きているということは、実は、他のものの命をいただいている。
他のものの命をいただいて、生きているのですから、これは、「生きている」というより、「生かされている」のですね。

食前に、「いただきます」というのは、食事をいただくというよりも、命をいただく。
「あなたの命をいただくことによって、私の今日の命が恵まれました。」という「いただきます」です。
そして、食後に
「尊いお恵みを美味しくいただき、ますます ご恩報謝に努めます。」というのは、 頂いた命をどう使って行くかということが、問題で、それは「ご恩報謝と使わせて頂きましょう」ということです。

ご恩報謝と使わせていただくということはー

仕事は、普通は、給料をもらうために仕事をしていますが、「ご恩」という世界は、「他の人の働きによって、自分自身が今 ここに こうして生かされている。」ーーこれは、仏教の縁起論です。
自分が、成り立っているのは、他のありとあらゆるものによって成り立たしめられている、成立させられている。
ということは、私が 今 ここにこうして あるのは、あらゆる 多くの命と、みなさまのお陰なのです。みなさまのお陰 というのが、大事です。
「 みなさまのお陰に よって、今 こうやって命を恵まれて ここに 私かおるんだ」と気づかされたら、みなさまのお陰に どう報いて行くかということが、ご恩報謝です。

具体的には、
お米を作っている人が、魚を捕っている人に、「あなたのお陰で」とお礼を言い、
魚を捕っている人が お米を作っている人に「いやー、あなたのお陰で」と言って、
「お互いが、お互いの姿に感謝し合う世界」
それが、ご恩報謝の世界です。

「浄土真宗の生き方」というのは、こういうことです。
浄土真宗が広まると、世の中は、どうなるかというと、
給料を稼ぐために仕事をしているんじゃなくて、他の多くの方々のお陰によって 自分の生活が、成り立っていると、気づかされたら、多くの方々にお陰に、報いて行くような生き方をしたいとなります。これが ご恩報謝です。

そうすると、お米を作っている人は、相変わらず、お米を作っているわけですが、お米をつくる目的が、違います。
「お金を儲けるためにお米を作っている」のではなくて、「他の方々のご恩に 報いるためにお米を作っている。」そうすると、お米作りが、「少しでも美味しいお米を食べて頂きたい」となります。
「少しでも美味しいお米の食べて頂きたい」という、ご恩報謝の日暮らしが 始まると、そのお米を食べた人が 「このお米は、本当に美味しいなー。有難いなー。」と 衣食住が来るのです。

「 衣食住を求めてお米を作っている人」と、
「ご恩報謝で お米を作っている人」とでは、お米を作っている姿は、同じでも、内容が違う。

内容が違うことを 「転」といいます。
「転ぜられる」のです。
転ぜられるというのは、内容が変わるのです。
仕事をしている姿は同じです。

浄土真宗の盛んな地域でも、浄土真宗がない場所でも、皆 仕事をして暮らしています。
浄土真宗の盛んな地域であれば、仕事をしている人に、「よう 仕事なさいますなー」と言うと「それは 皆さんのお陰ですからね。」と
ご恩報謝の応えが、返って来ます。
浄土真宗がほとんどない地域では 「よう 仕事しますね。」というと、「だって仕事しなけりゃ食べられないじゃないですか」と、なります。

今 、我々は、どっちに暮らしているかということです。
「仕事しなけりゃ、食えないじゃないですか」という世界に暮らしては、いませんか?

これは、仏法でも、なんでもないです。

皆さん、子どもを どのように育てていますかね?
子どもに「勉強しなさい。勉強しなさい。」と勉強させるでしょ。それで どう言っていますか?いい学校を出なさいって言っているでしょ。
自分の子どもの尻を叩いて、ちょっとでもいい学校に入りなさいって言っているのは、ちょっとでもいい就職をさせたいのです。ちょっとでもいい就職が出来れば いい給料が貰えるからです。
そういう風に、子育てしていませんか。
競争になるのは、当たり前です。

「学校に、入りました」っていうことは、誰かが落ちたのです。
人気のある企業に就職出来たということは、だいぶ落ちた人がいるっていうことです。

私か入ったってことは、誰が落ちたということです。

そして、皆が 「勝ち組」とか「負け組」とか、言っている、それが今 我々か生きている世の中では、ないですか。

お説教で、
「いいんですよ。そうやって自分の理想の生活を追求して暮らして行ったって。
そうやっていつか死ぬんだけど、死んでもお浄土だから」
こういうお説教が、今、多いのではないですか。

こういうお説教を聞いていると
浄土真宗に出遇おうが、出遇わまいが
生きている姿は、変わらないっていうことになってしまいます。

これでは、おかしいでしょ。

「浄土真宗に出遇った」というとことは、
「今まで存在がなかった阿弥陀如来という存在が、私の生活に 存在として、出て来た」というとことです。

それまで、阿弥陀さまのいない生活をしていた。具体的に言ったら 仏壇のない日暮らし、念仏しない日暮らしをしていたのです。 その人が、念仏する日暮らしになって 、お仏壇を買い求めて、そこにご本尊をかけて お給仕して、正信偈をあげたり、お念仏したりする生活にチェンジするのです。

何かどうチェンジしたのかというと、阿弥陀さまが、いない生活から、阿弥陀さまのいる生活に変わったのでしょう?
ということは、そこに当然「ご恩」 というものが、出てくる。そうすと 「ご恩に報いる日暮らし」というものが出てくる。
ご恩に報いる日暮らしをもっと拡大していくと
「今まで、当たり前だと思っていたこと」が、「当たり前ではなかった 」と気づかされ、「今までの当たり前」が、「おかげさまで」 と、喜べる。
その代表的なものが、命じゃないですか。

仕事して、お金払ってご飯食べているのだから、食べるのが、当たり前だと思っていたでしょ。
違いますよね。
だって この命は、お金では、買えません。
命は、頂くものです。

だから、「いただきます」と、
今日も一日、命を頂いて生かされて生きている、ありがたいなーと、このことに、気づかされていく。
そこには、お米を作ってくれる人のおかげが あり、魚を捕ってくれる人のおかげが あり、
「多くの命と、みなさまのお陰によりこの命を頂いて、深くご恩を喜び 、有り難く いただきます。」と言って 「頂いたその日々の命」を どうやって使って行くかといったら、
「尊いお恵みを美味しく頂き、ますますご恩報謝に努めます」と、
私の生きることによって、周りのご恩報謝に報いて行く。

「利他」とは、違います。
利他とは、そんなに簡単なものではないのです。
私たちが出来るのは、ご恩報謝なのです。

浄土真宗の門徒の生き方は、「菩薩行の利他行」では、なく「ご恩報謝の日暮らし」なのです。

「信心頂いたら、利他が 出来る」と間違っている人が多いですが、
私たちに、利他は、出来ません。
利他は、 我々が、還相回向の位になった時にやるのです。

お浄土に参らない限り、 我々は、利他はできない。自我が、あるうちは、利他はできない。
生涯 我々は、「自我のとらわれ」から離れることはできない。
自我のとらわれから離れられたら凡夫ではないですから。
やっぱり自分が、優先して行くのです。
だから、他を利する、利他行はできない。

念仏者の生き方は、ご恩報謝です。
みなさまのお陰によりと、そのお陰に 報いて行く生き方をさせていただく。
お米を作る人は、お米を作っている姿は変わらないが 、お金のためにお米を作っているのでは、なくて、ご恩に報いるためにお米をつくる。少しでも美味しいお米を食べて頂いたたいと、日々努力をする。ご恩報謝には、「努力」があるのです。昨日よりも、もっといい仕事をしよう、少しでもいい仕事をして 周りの人に喜んで、頂こうとか。
ご恩報謝で作った美味しいお米を食べた漁師さんが、「あなたのお米は、美味しい。おかげさまで、ありがとう。」と 言ったら 、お米を作っている人は「いや~、あなたが、新鮮なお魚を捕って来てくれるから、私も お米が、美味しく食べられる。こちらこそ、ありがとうございます」と、「お互いが お互いに手を合わせあう世界」が、 浄土真宗の社会では、ないですか。
そういう風に、仏さまがしてくださる。

「当たり前だ」と思っていたことが、「当たり前でない」と気づかされる世界が、浄土真宗の世界です。
気づいたところから、変わって行くのが 浄土真宗の生き方です。
だからこのように生きて行きなさいとか、あのように生きて行きなさいとかはないです。
生き方というのは示されていない というのは、ご恩が、知れたら自ずと、そこに生き方が 変わって行くはずです。

おかげさまってことが わからないから、
おかげさまが、当たり前になっているから
ご恩報謝も出てこない。

多くの命を頂き、みなさまのお陰を頂きながら、自分の思い描いた未来の実現のために生きている。
今、そういう生き方の方が多いのでは、ないでしようか。

「お陰」が ないのです。

他の命を頂いて、他の人の労力を利用して、自分の幸せを実現しようとしているのです。

そうやって生きて行って、最後死んでもお浄土だから大丈夫という説教が 多いのでは、ないですか?
生きる時は、金の力を利用して、自分が太る事ばかり考えて、ひたすらそれを追及して、
挙げ句の果てに、命おわったら お浄土だから大丈夫だって。

とこに仏法があるのですか?
そんなの仏法では、ないです。

仏法っていうのは、「おかげさま」です。

「浄土真宗に出遇う」ということは、「我々の現実生活が 変わる」のです。

「生き方」というのは、「ご恩」というものが、スタートです。
こう生きるべきとか、ああ生きるべきとか、
浄土真宗の念仏者は、こう生きなければいけませんという話しは、どこにもない。

いけませんという話しはなく、「おかげさまでしよ 」という話しがあるのです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

以上、念仏者の生き方 のお話しでした。


南無阿弥陀仏


このページのトップヘ