あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

カテゴリ : 投稿文

あさ川です。RCさんから、次回の埼玉恵日会の案内文を頂きました。前回は6月でしたが、次回は7月2日とのことです。夏は暑い熊谷ですが、ここ最近の朝はなかなか涼しくて、半袖では寒いくらいです。


さて実は、前回の埼玉恵日会に私は家の都合によりご縁がありませんでした。前回も新しいご縁の方がお見えになったと聞いておりますが、ご縁無く残念でした。あさ川を目当てにいらしたということではないと思いますが、いずれご縁あればと思います。


先日の土日は久々にご法話のご縁に触れた土日でしたが、やはり法話を頂くご縁というのはありがたいものだなと思いました。


埼玉恵日会はご法話という形ではありませんが、南無阿弥陀仏のお話を聞くご縁ですので、ご縁ある方は熊谷までおいでください。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========

RCです。

次回の埼玉恵日会の開催のお知らせです。

埼玉恵日会は 2ヶ月に一度くらいのペースで 開催したいと思っていますが、いろいろな都合で、だいぶ間が 空いてしまったり、詰まってしまったりしています。
前回が、6月4日でしたので 、次回の7月2日は 比較的 近い日程での 開催となりました。

いずれにしても 「南無阿弥陀仏」の教えをお聞きするご縁を頂けることは、本当にうれしいことです。

6月4日の埼玉恵日会で、「唯識」についての質問があり、阿部先生に 噛み砕いて、丁寧に教えて頂きました。
皆さんに、お伝えしたく、少し文章にまとめ始めたのですが、なかなか進まず 、今回、ここでのご紹介は、断念します。(;_;)

でも せっかく ですので、なるべく近いうちに、「唯識」について、お聞きしたことを ご紹介したいと 思っています。

ふと、
親鸞会で、高森会長が 「大学で唯識の勉強をしていた」って 話していたことを思い出しました。
でも、親鸞会で 高森会長から、「唯識」について、キチンと聞いたことは、なかったなって、思いました。
(もしかしたら、どこかで説いていたのかもしれませんが。私の記憶には、なかったです。)

仏教は、「 教え 」ですが
ずっと 存在している「真実」というか、「事実」というか 、そういうものを、私たちに わかる形にしてくださったのが、「仏教」という「教え」であり、「仏教」の内容を示す「言葉」なのだと思います。
「教え」も「言葉」も「真実や事実 」そのものではないけれど、「真実や事実」を知る手がかりとして、とっても大切なものだと感じています。

「月を指す ゆび」の例えで、
私たちが、月を見るときには、月を指してくださる誰かの「ゆび」が、とても大切です。
「月」は、「真実」とか、「事実」とか、「救い 」とか、「ほんとう」とか、そういうもの。「月を指しているゆび」が、仏教という教えであり その言葉なのだと思います。

ただ(ただという 言葉が 適切なのか わかりませんが)
私の心に、「月を見たい」という気持ちが、何故あったのか?
月があることも 知らない私、
月を見たことのなかった私、
月と縁のなかった私の心に
どうして 「月を見たい」っていう気持ちがあったのか、とても不思議です。

「月を見たい」という気持ちは、「月があること」が前提です。

月を見たこともなく、月を 知らないはず なのに。・・・なぜか 私の心にあった「月を見たい」っていう気持ち。
この気持ちは、阿弥陀さまが私に寄り添ってくださっている姿なのかなって、ふと 思ったりしました。

私たちは、自分でアレコレ考えて、自分で何かを決めて生きているように思って いますが
そこには、ただ 南無阿弥陀仏のおはたらきが
はたらいていてくださるばかりなのでは、と思う 今日この頃です。

では、
次回の埼玉恵日会のご案内です。
(「真宗の法話案内」に掲載している内容とおなじです。)

7月2日開催の埼玉恵日会のご案内

○親鸞聖人の教え、浄土真宗を 知りたい人の為の勉強会です。
質問形式の勉強会で、真宗の理解を深めたいと思っています。
予め 質問を集めて、先生に応えて頂きますので、その場で 質問する勇気がなくても、また 匿名でも 大丈夫です。

親鸞聖人の教えについて、質問のある方は、以下のアドレスに メールで質問を送ってください。
先生に 当日 お応え頂けます。
アドレスは、 rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
(アットマークは、@に変えてください。)

勉強会は、
日時: 7月 2日(日曜日)
14:10〜17:00
場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室 2
(熊谷市男女共同参画推進センター)

講師: 阿部 信幾 先生
(本願寺派補教 )

振り返ると、今年も、もうすぐ半分が過ぎようとしています。
埼玉恵日会も 7月2日、9月18日、12月3日の
3回で、今年のご縁は終わります。

不思議なご縁が揃って、今まで、埼玉恵日会を開催することができましたが、私たちが感じているよりも、ずっとずっとずっと、南無阿弥陀仏のお話しをお聞きするご縁は、きっと「有り難く」、もしかしたら「あり得ない」というレベルのことなのかもしれません。

親鸞聖人が
「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」
とおっしゃってくださっています。

私に 南無阿弥陀仏に遇えるような善ができたから 南無阿弥陀仏に出遇えたわけではなく、
最初から最後まで、南無阿弥陀仏のおはたらきで、南無阿弥陀仏に出遇えたのだと教えていただきました。

本当に 「 不思議 」としか言えない聴聞のご縁。
お互い、一回、一回 のご縁を 大切に 聞かせて頂きたいですね。

では、
蓮生房、熊谷次郎直実の故郷 、
「あついぞ!熊谷」の地で、
あなたの ご参加を お待ちしております。
(会場は、冷房か効いて快適です!)
٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

南無阿弥陀仏

この5連休で、二人の実家に帰省しておりました。思えば学生時代は毎年、新勧合宿だったなあと思い出します。

さて、RCさんから埼玉慧日会のご案内を頂いておりますので掲載します。

仏法とのご縁はそれぞれの場所でございますので、それぞれご縁のあるところでご縁にあわれればありがたいなあと思いますけれども、ご縁のある方はぜひ熊谷にもおいでください。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========

少し お久しぶりです。
RCです。

次回の 埼玉恵日会の勉強会のお知らせをさせていただきます。

●埼玉恵日会 の勉強会

日時: 6月4日(日曜日)
14:10~17:00

場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室 2
(熊谷市男女共同参画推進センター)

講師: 阿部 信幾 先生(本願寺派補教 )

参加費:2000円(ご法礼と、会場費に遣わせて頂きます。)です。

勉強会は、今まで通り、質問形式で進めていきますので、先生に お聞きしたいことや、深く教えて頂きたいことが、ありましたら、私に メールで、送ってください。

アドレスは、
rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
アットマークは、@に変えた下さい。
です。

頂いた質問は、プリントアウトして、阿部先生に 郵送します。
質問の締め切りは、5月27日(土)までと、させていただきます。

皆さまからの ご質問、ご参加を 心から お待ちしております。
よろしくお願いいたします。


ところで、
「 前回の埼玉恵日会の勉強会のお知らせ」には いろいろなご意見を頂きました。
批判的なご意見に対しての私の対応が 良かったのかどうかはわかりませんが・・・。
結果的には 閲覧してくださった方も増えて、勉強会にも 前々回よりも、多くの方が参加してくださいました。
また、私が「夕食が作れない」などと 愚痴をこぼしたので、心配してくださった方もあったようで、申し訳なく、また 有り難く そして 嬉しく 思っています。

でも、いろいろあっても
南無阿弥陀仏の教えを聞かれる方が 増えたのは
うれしいです。

本当に「南無阿弥陀仏だけで救われる」って
驚きですけど、そうなのですね。

南無阿弥陀仏って すごいですね。

「私たちは南無阿弥陀仏に髪の毛1本ほどが、触れ合っているだけのだ。でも 髪の毛1本ほどが触れ合っていることが 大切なのだ」と ある先生がおっしゃっていました。
南無阿弥陀仏にほんの僅かでも触れるご縁があったことが うれしいです。


先日 都内で ある先生(阿部先生ではない先生です。)のお話しが 印象に残ったので、一部 紹介いたします。
(このお話しに 疑問や 質問などが ありましたら、この先生に直接メールでお尋ねください。私のアドレスに ご連絡を頂ければ、この先生のお寺のホームページのアドレスをお教えいたします。私のアドレスは、rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp です。アットマークは、@に変えてください。)

以下 ある先生のお話しです。

*親鸞は、家族を捨てる出家仏教 に対して
「家族を捨てるのではなく 、むしろ 家族と共に、そこに在りながら、その中で、『いつでも、どこでも、誰でも』」の在家仏教を 真実としました。
『いつでも、どこでも、誰でも』
これが、真実か、真実でないかを見極める親鸞のルールです。

「『いつでも、どこでも、誰でも』の 仏教は 特別 なことではない。」
これが 聖道門から 批判され、 弾圧 されました。
出家聖道門の仏教は、『いつでも、どこでも、誰でも』という思想は受け入れない。特別な修行をした人でなければダメだとする。

これは、『誰でも』には、なりません。

『する』という仏教では 『いつでも、どこでも、誰でも』の定義には 当てはまらなくなります。

そこから、
『 する 』ではなく
『 being 在る 存在する 』
という世界が広がります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

お話しの一部分なので、わかり難いかもしれませし、また、誤解を生むかもしれませんが、

『いつでも、どこでも、誰でも』
これが、真実か、真実でないかを見極める親鸞のルールです。

というお話しが、とても印象に残りました。

『いつでも、どこでも、誰でも』が 真実のルール 。本当の救い、本当の宗教ということは、当たり前と言えば 当たり前だと思います。

でも、
誰かさんに「皆さんは、選びに、選びに、選びに、選ばれた方です」なんて 持ち上げられると、「遠く富山まで聴聞に行っている私こそ、いつか必ず救われる」と、親鸞聖人の真実のルール『いつでも、どこでも、誰でも』から 全く外れたことを真実だと思ってしまうのですね。

阿弥陀さまは、
「もう あなたの救いは、完成している。南無阿弥陀仏がその証拠だ。大丈夫 。安心しなさい」っておっしゃっておらるのに。

「 富山の親鸞会の本部会館で、私の話しを聴聞しなさい。そこが 大悲の願船へ乗り換え場所です」なんて 親鸞聖人の教えではない話しです。
私も、親鸞会会員の時は、うっすらと違和感を持ちながらも、そうなのだと思って せっせと 富山まで通いましたが。
「阿弥陀さまの本願には そんな条件は なかった」と、当たり前のことを 当たり前だと 思えたのは、親鸞会を辞めてからでした。

さて、南無阿弥陀仏の教えを聴聞させて頂くことは、人生の土台、私の命を支えているもの を確認するとことのように思います。

阿弥陀さまの願いがあって
私の命が今 ここにあって、
阿弥陀さまの願いが私の命を生かしていてくださり、
阿弥陀さまが私の命を生きていてくださるから
私が南無阿弥陀仏を聞けたのだと思います。

南無阿弥陀仏の教えは、どんなにお聞きしても 「聞き終わった」ってことはない教えだと思います。

なので 「 埼玉恵日会 」是非 ご参加ください。
お待ちしております。

(ご都合がつきましたら、えす様にも 来て頂きたいです。元親鸞会会員の方でしたら、多少遠方でも 仏法聴聞とあらば 、日本全国 外国でも 聴聞されていたかと思います(^-^)v)

南無阿弥陀仏

あさ川です。
「おおきに」ってなんとなくいいなあと思う今日この頃です。


さて、すでにご本人がコメントで書かれてましたが、前回の投稿文に対してのコメントをご縁として、RCさんから投稿文をいただきましたので掲載します。


ちなみに私からコメントするとすれば、投稿文へのコメントに対して私から積極的にお返事することは(マイルールに基づき)しておりませんが、ご本人が必ずしもすぐにお返事しなければならないというルールも存在しませんので、投稿文を書いたらコメントへのお返事も必ずすぐに書かなければならないということではありません。

もっとも、せっかくいただいたコメントに対しては可能な範囲でお返事するのが良いと思いますので、私の記事に対してのコメントには、基本的に48時間を目安にお返事するように心がけてはおります。


========(以下、RCさんからの投稿文です)=======

RCです。

先日、「3月5日の埼玉恵日会のご案内」をさせて頂いた時に、勉強会の質疑応答の内容や 私の感想を述べさせて頂きましたところ、いろいろ コメントを頂きました。

それにつきまして 少し考えがまとまったので
文章にさせて頂きました。

まず、たとえ 元親鸞会会員であっても、親鸞会への思い、真宗への思いは、人 それぞれ違うと思います。

私には、私の思いがあり、私の思いに従って行動しています。
今は、埼玉恵日会に皆さんをお誘いしています。 そのことを評価される方、批判される方、無関心の方など いろんな方が、いらっしゃるのは、当然だと受け止めます。

私は、南無阿弥陀仏のお話しを、ご縁にある方と いっしょに喜びたいという気持ちで、埼玉恵日会をやっています。
真宗の教えは、素晴らしいという気持ちからです。
質疑応答の内容を紹介させて頂いたのも、「こんなお話しなら 聞いてみたい」という方がおられるかもと、思ったからです。


親鸞会との関わり方は、誰もが、難しいと感じていると思います。
私の大切な友人が 今も、親鸞会にいます。
私が親鸞会を辞め、正しい南無阿弥陀仏のお話しをお聞きしてから、その友人に 会って 話しをしました。
友人には、「自分は 親鸞会の他では、親鸞聖人の教えを聴聞することはできないって思っていたけれど、そんなことは、なくて 親鸞会以外にも、親鸞聖人の教えを聞けるところは、たくさんあるよ」と、伝えました。
でも、友人の心の中では、高森会長が 唯一の善知識なのです。ネットの情報などを見ることを勧めてもそういう方向には、進みませんでした。
また、地元の親鸞会館へ行って、会員の方に声をかけてたりしても、私の話しに耳を傾けては、もらえません。
親鸞会会員は、高森会長を信じているから、親鸞会会員でいるのです。
その信心を崩すのは、 簡単では、ありません。

以前 ある僧侶の方に、親鸞会への批判的な文章にその方のお名前を載せてもいいかどうか お聞きしましたが、その方は、
「友人の僧侶が、説法で、 親鸞会を批判したら、親鸞会から 訴えられて 裁判所から度々呼び出されてしまい 布教どころで、なくなってしまった人がいる。布教活動ができなくなるので、それはやめてほしい」と言われました。

私自身も、親鸞会に30年以上もいて、間違ったことを聞かされ、「必堕無間」に怯えて
人生の 大切な時間と、たくさんのお金を犠牲にしてきました。ですから 現親鸞会会員に、親鸞会の間違えを伝えて、正しい南無阿弥陀仏のお話しを聞いて欲しいです。
でも 難しいです。

今、あさ川さんのブログをお借りして 正しい教えの場、埼玉恵日会があることを紹介することが、今の私にできる親鸞会に対する行動だと思っています。

ある先生が
「人生とは(南無阿弥陀仏の物語の上に)
自分で 、自分の納得できる物語を作っていくこと」って おっしゃっていました。

私にとって、埼玉恵日会は、「私が 納得できる物語の一つ」です。

ですが、
埼玉恵日会のお話しや、私の言動に、納得出来ない人がおられるのも、当然だと思います。

無理に納得してくださいと、お願いしているわけではありません。

埼玉恵日会では、納得できない方は、納得できるどころでお聞きするのがいいと思います。
ご自分で納得できる勉強会をされてもいいかと思います。

南無阿弥陀仏を喜んでおられても、感じ方や考え方は、同じにならないのは 仕方ないと思います。

私が勉強会の内容をご紹介しましたのは、いいなって思われる方に参加して頂きたい気持ちだけで、読まれた方 皆さんにこの話しを納得して欲しいと、思った訳ではありません。

批判コメントをくださる方のご意見の内容はわかりましたが、だからと言って私が その方の考えと同じ考えにならないのも、仕方ないと思います。

真宗は、「自是他否」の教えではないとお聞きしました。

「私の考え」も 、そういう考えなのかと受け止めて頂けたら、と思います。

それから
私は、こういう文章を作るのに とても時間がかかってしまいます。
私へのコメントで 質問を頂いても それに、お応えしていると、日常生活が 混乱してしまいます。
ですので、申し訳ありませんが、私の投稿文へのコメントには、お返事出来ない場合もあるとご理解頂きたいと思います。

先生への質問や疑問は、
私のアドレスに、「埼玉恵日会への質問」という形で メールをください。
埼玉恵日会で 先生に、お尋ねします。

私のアドレスは
rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
アットマークは、@に変えた下さい。

よろしくお願いいたします。


南無阿弥陀仏

あさ川です。

メールのやりとりをしている方があるのですが、なかなかお返事できておらず失礼しております。
(私事ですが、ここしばらく出張が続いている間に体調を崩してしまいました)


さて、次回の埼玉慧日会について、RCさんから案内の投稿文を頂きましたので掲載します。今回は、前回のお話の内容も書いて頂いています。さすがにこの頃には出張が終わっているといいなあ、と思いながら、ご縁を待ちたいと思います。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========


こんにちは。
RCです。

3月の埼玉恵日会の ご案内させて頂きます。

3月は、熊谷駅直結のティアラ21 の会議室が取れました。
今後も、なるべく ティアラでの開催を考えておりますので、是非 ご都合をつけて、参加 頂けたらと思います。


●埼玉恵日会 の勉強会

日時: 3月5日(日曜日)
14:10~17:00

場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室 2
(熊谷市男女共同参画推進センター)

講師: 阿部 信幾 先生(本願寺派補教 )

参加費:2000円(ご法礼と、会場費に遣わせて頂きます。)です。

勉強会は、今まで通り、質問形式で進めていきますので、先生に お聞きしたいことや、深く教えて頂きたいことが、ありましたら、私に メールで、送ってください。

アドレスは、
rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
アットマークは、@に変えた下さい。
です。

頂いた質問は、プリントアウトして、阿部先生に 郵送します。
質問の締め切りは、2月25日(土)までと、させていただきます。

よろしくお願いいたします。

それから
せっかくですので、
前回の勉強会での 質問と応答を2つ、紹介させて頂います。

(問い①)
親鸞会時代に、
「たとい大千世界に満てらん人をも過ぎゆきて、仏のみ名を聞く人は、ながく不退にかなうなり」
という親鸞聖人のお言葉を高森会長から聞き、 相当 無理をして 富山まで 聴聞に行っていました。
この話しで、高森会長は「仏のみ名」とは、「仏教」である と話していました。
「仏教とは、真剣に仏教を聞けということだ」
という言葉は、何か迷路に入ったような気持ちになっていました。
親鸞聖人が おっしゃった正しいみ心をお聞きしたいです。

(応え)
これは、もう 答えが出ていますね。
「 経に 聞というは 衆生、仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし。」と、教行信証の信の巻の 本願成就文釈 にあります。
無量寿経の「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」のご文です。
無量寿経は、18願が 中心という人が いますが、18願ではなく、18願成就文が 中心です。
18願成就文が、無量寿経の中心です。

阿弥陀さまが 「本願を起こしてくださったこと」が、要(カナメ)ではなく、
阿弥陀さまが 「もう本願を 成就して 阿弥陀さまが、はたらいているんですよっていうこと」を、お釈迦さまが、告げてくださったのが大無量寿経です。
だから、大無量寿経の中心は、本願成就文 です。
18願成就文には、
「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」
其の名号を聞いて、信心歓喜すること、乃至一念せん。とあります。
その成就文釈 が、教行信証に、
「経に、聞というは 衆生 仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし。これを 聞 というなり」

親鸞聖人は、「仏のみ名」を「仏教」などと 大雑把な言い方はしていません。
「名号のいわれを聞く」と おっしゃっています。
名号のいわれ とは、南無阿弥陀仏のいわれ です。
南無阿弥陀仏のいわれについて、蓮如上人は
「我らが、往生の定まりたる証拠なり」と、
おっしゃっています。
「定まりたる」は、現在完了の言い方です。
「定まった」と 言ったら 過去形。
「定まる」と 言ったら 未来形。

「定まりたる」の 現在完了形は、
「いつでも 決まっている」ということです。
「今、既に 決まっている」、何が というと、
「往生が 決まっている」。

「南無阿弥陀仏 が、我らが往生の定まりたる証拠なり」というのは、
「私を 往生せしめるはたらきが、もう はたらいている ということを、私に告げるのが 名号です。」ということです。

名号 とは、本願成就 です。
本願が 成就しなかったら、仏と名乗らないと いう誓いが、成就したから 「阿弥陀」と、名乗っているのです。
本願が成就したということは、もう 既に、阿弥陀さまは、48願の通りに はたらく 仏様に なっているということです。
48願の通りに、もう はたらいているぞ と、私に知らせるのが、南無阿弥陀仏 の六字の名号です。
私たちは、何を 聞くのかというと、南無阿弥陀仏のおいわれを聞くのです。
「ご文章」は、全部 そうなっています。

「信心獲得す というは、第18の願を心得るなり。この願を心得るというは 南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」と言われています。

18願を聞くことではなく、
「南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」
だから 18願成就の名号のいわれを聞くことです。
名号のいわれ は、難しいことではありません。
「もう、阿弥陀さまは、はたらいているんだよ」っていうことです。
「阿弥陀さまが はたらいているんだよ」と聞くから「私のはからいは、要らなかったのですね。」と なるのです。それが、疑心あることなし です。疑心は、はからいです。
だから、はからいが 取られるのです。
なぜ、はからいが取られるのかというと、阿弥陀さまが はたらいていると いうことが、信じられたからです。
「はからっている人」というのは、「目には、見えない阿弥陀さまなんて、信じられません」という人です。目に見えないと信じられないけど、「南無阿弥陀仏」となって、届いているのです。

南無阿弥陀仏を疑っているのです。
本願成就を疑っているのです。
本願成就を疑っているから はからうのです。
念仏 称えて参ろうとか、一生懸命、真剣に努力して お聴聞して、信心 頂いて参ろうとか・・・。

阿弥陀さまは、はたらいているのです。

もう、阿弥陀さまは、はたらいているのに、
今さら 聴聞して 信心頂いって・・・。
何 考えているですか?

聴聞て、何を聞くのですか?
「阿弥陀さまが はたらいていること」を聞くのです。
聴聞が、目的ではない。
聴聞は、手段です。
何の手段かというと、「阿弥陀さまが、はたらいていることを聞く手段」が、聴聞です。

聴聞が、目的になったら エライことです。

「聞く」って、「何か聞かせてもらうのですか 」ということについて、「仏教」などと、そんな いい加減なことを 親鸞聖人は、おっしゃっていません。

「聞く」は、「南無阿弥陀仏のいわれを聞く」のです。
「南無阿弥陀仏のいわれを聞く」とは
「もう 私たちの 往生が 間違いないということを聞く」ということ。
「だから、こっちのはからいは、要らなかった」となります。
それが 仏願の生起本末を聞きて 疑心(はからい)あることなし。これを 聞 というなり。

「聞 即 信 」だから、
信心ということは、何か頂くのではなく、敢えて 頂くというなら、「成仏」を頂くのです。
まだ、成仏した ということではなく、「成仏することに間違いない」ということを頂く。
反対の言い方をすれば、はからいを取られる。

何かもらうように思ったり、何か不思議な体験を得るように思っているから間違うのです。

不思議な体験は もう 我々は しているのです。
南無阿弥陀仏が ここに 届いていること自体が不思議なのです。
これ以上の不思議は ないのです。
これを 仏智の不思議と言います。

南無阿弥陀仏が聞こえている。これを以上の不思議はない。
これを不思議と思わないということが 間違っているのです。

(まだ 阿部先生のお応えは、続きましたが、ちょっと 力 尽きたので、ここまでにします。続きを聞きたい方は、私に ご連絡下さい。)


(問い②)
信後の聴聞について、お尋ねします。

仏法は、聴聞に極まる と聞き、
親鸞会では、間違った話しを長く聴聞して来ましたが、救われませんでした。

親鸞会を離れて、仏願の生起本末を教えて頂き、また、南無阿弥陀仏が 私の往生の証拠とお聞きして、安心できました。
そうなると、もう 「信心決定する」という聴聞の目的は、果たされたわけですが、やはり 聴聞すると とてもうれしい気持ちになれるので、聴聞しています。

信後の聴聞について、親鸞聖人や蓮如上人は どのように教えておられるのか、
また、阿部先生のお考えもお聞きしたいです。
よろしくお願いいたします。

(応え)
信後の聴聞に ついて、親鸞聖人は、ほとんど おっしゃっていませんが、
蓮如上人は、時々「溝さらえ」と言われているところが あります。
聴聞しないと、ゴミが溜まるから信心の溝さらえだと、おっしゃっています。
私は、ご恩報謝だと考えます。
私は、布教師ですから、法座にきて 誰も聞く人がいなかったら、説法は できません。
ですから、ご法座に来られて、お話しを聞いて有難いところになったら、「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と お念仏を称えて頂きたい。
そうすれば、ほかの人に そこが有難いところと、わかる。
自分一人が、救われたら いいっていうのでは、なく 次は、「教人信」ですが、
「自分が 救われた姿」以上の 教人信 は、ありません。
日々 お仏壇に 向かってお念仏をし、お寺で お聴聞して 「今日は有難い話しを聞かせてもらった」と 喜んでいる姿が、周りに 仏法を伝えているのです。
年をとって 、病気になっても 愚痴も言わすに
「ありがたいね。」と言っている姿を家族が見て「私も あんな風になりたいな」って 思う時に
お聴聞を勧めたらいいのです。



(勉強会に参加しての RCの感想)
阿部先生のお話しをお聞きしていると、「真宗の教え」を、生活や、社会の中の一つのもの として では なく、
真宗の教えこそが、人間の生活や社会を成り立たせるものであり、人間の心を照らし、社会を照らすものと、先生が、捉え 力強く ハッキリと教えてくださっていることに、心が、動かされます。

また、社会のおかしなことに対して、黙っているのではなく 声を上げていかなければ という、先生からの呼びかけを、私は、少し 耳の痛い思いで、受け止めました。
やがて 「無我の仏とする」とのお約束を頂いた私たちが、自分の中に閉じこもって 黙っていては、ダメだろうって いう思いが、生まれました。

阿部先生は、
「人間は、元々 自力で生きている。
自分と 相手の間に、垣根を作り 自分さえ良ければというのが、自力心。
戦争は、自力心が起こす。
自力心は自力が正しいという立場で、他人を叩く。
正義を振りかざしたら、怖い。その最たるものが、宗教」
とおっしゃっていました。
また、
「世界中で起きていることは 、業の世界から 言ったら、全て、自分もそうなる可能性が ある。
世の中の出来事は、全て 自分の延長線上のこと。そういう視点をくれるのが、業の教えであり、仏教。
そういう視点を持たないのが、自力」
と教えて下さいました。

先生の教えで下さることを、とても全部 理解出来て居ないと思いますが、
「仏様の視点の教え」でなけれ とても聞けない、深いお言葉を お聞き出来て、大変ありがたいご縁でした。

私の未熟な文章ではなくて、直接 先生からお聞きすることを、是非、オススメいたします。

ご参加 お待ちしております。

南無阿弥陀仏。

あさ川です。前回に続きまして、わいるどひっぷさんから投稿文の③です。


========(以下、わいるどひっぷさんから投稿文です)========


 関わっていると、正直つらくなる。だから、もう、辞めた。考えないでいよう。そう思って、仏法にはふたをしてしまいました。
 院に入った時、生計のため学習塾講師の職を得ました。「今でしょ」が一時期はやった、某大手予備校です。その、高校生部門ではなくて、つまりCMに出てくるような有名どころの講師、ではなくて、小中学生部門(ややこしいですか)、の講師から始め、卒業後もなんとなく続いて、教室責任者も任せていただくようになりました。仏法のことは考えないでいようとする態度、生活、それが、7,8年ばかり続いたでしょうか。
 ところがある時、たまたまインターネットで、会に関するブログを見てしまいました。最初がなんだったか、もはや忘れましたが、「えー!そうだったのか!?」という思いで、あるだけ読みました。その内容は、びっくりの連続、衝撃でした。「清森問答」「苦笑の独り言」「…なぜ辞めたのか」そして「さよなら親鸞会」。自分が思い込んでいたものは、ウソだった。自分の格闘は、何だったんでしょうか。こんなことのために、長い間、勝手につらいと思っていたのか。心の重しが次第に取れていくように感じました。マインドコントロールって、ほんとにこわいですね。ただ、わたしの中では、会にいたことももはや忘れられない一部になっている一方で、離れた後の期間のほうがずっと長いため、被害の感覚はあまりありません。それよりも「自分は、自分で、よかったんだ」とほっとできたことのほうが大きいです。ブログを立ち上げて下さった方々、ありがとうございます。ようやく、自分で自分を肯定できるようになりました。

 その後、ブログのほうは、ページが更新されるたびに読むことが半ば日課のようになっていました。「親鸞会ブログポータルナビ」ができて、とても便利になりました。ぶるうのさん、ありがとうございます。教義関係のブログ(「飛雲」など)や、質問形式のもの(「安心問答」など)、種類も増えて、とても勉強になりました。「私の白道」も、ほんとうに胸に迫るものがありました。それらを通じて「救わる、ということが、本当にある」「現に、南無阿弥陀仏を叫んでおられる」「そこでなくても、他所でも、説かれる方はいらっしゃる」ということは、理解はできました。
 それでも、重い腰を上げてまで、再び聞こうとする、までには至りませんでした。もはや過去のこととしておいて今さら面と向かいたくない、何となく遠ざけておこう、という意識や、日々の日常のルーチンにいるうち「今すぐに、でなくても、そのうち」と思っているものは、いつまでたっても手につけずじまい、という惰性的な気持ちに流されて、また5年6年、たってしまいました。
 一昨年、会社の部門整理により退職することとなり、一時的に平日の多忙さが一気になくなりました。職探しについて、どうしようかという心配はありましたが、ぽかんとしたヒマができた分、あまりに手持無沙汰で、今まで考えずに放ってきたことを、自然と考える機会となりました。そこへ父の危篤も重なり、身辺が急にあわただしくなってきたな、と思っているところ、半ば日課のブログめくりをやっていたら、RCさんの勉強会案内が目に留まったのでした。
 勉強会のあることは、その時初めて知ったのではなく、ネットを見ている中で、存在は知っていましたが、講師でいらっしゃるのが嶋田さんと知って、心に「うん?」と動くものがあったのでした。私の知っている、嶋田さんが、わたし自身はとうに郷里を離れて暮らしているのに、その福井からこちらに向かってくる。なんだか、これは行かないわけにはいかない、この機を逃してはいけないと思われて、前日あわただしくRCさんに問い合わせ、参加させていただいたのでした。
 仏願の生起本末を聞かせていただきました。少しの懐かしさと、本当の教えはこうだったのか、という、おそらくその時その当時でしか感じられないであろう新鮮さと、これまで放り出してきたままのことが、また目の前にあったことの不思議さとを、感じておりました。ありがたいことでした。
 以後、「やっぱり聴聞しよう」と思い直しました。嶋田さんからは本もいただき、早速読みました。築地本願寺の常例布教にも行ってみました。RCさんからは、ご法話の案内もいただいたので、失業中のひまも手伝って、機会のある所には出向いたりしました。
(近所のご法話にも一度行きましたが、その時は「あれ?違うぞ」と思いました。一々は覚えていませんが、救われた後の前提で「今の生活をいかに御恩報謝するか」というように聞こえてしまったのです。「信心決定しなければならないのに、そんなのんびりした話があるか」「どうやったらいただけるか、を聞きたくて来ているのに、それは済んだ話になっているのではないか。これは、あかん。」と勝手に決めつけてしまったこともありました。今にして思えば聞き間違いだと思いますが。)
 築地では、阿部信幾先生のご縁もいただきました。「南無阿弥陀仏は往生の証拠です。」と、その心をお説き下さいました。「法蔵菩薩が、わたしを救わずば仏にならないと誓いを立てられて、兆載永劫の修行をなされ、阿弥陀仏という仏になられた」「その阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏という声の仏となられて、いまこの私の元に届いている」「今、南無阿弥陀仏が聞こえる世界に、いるのです。」「そのように誓われた法蔵菩薩が、阿弥陀仏になられたということは、わたしの往生は定まった、ということです。」「南無阿弥陀仏は、往生の証拠です。」(このようにわたしは聞きました…。)
 南無阿弥陀仏の意味を教えて下さり、それはそれでよかったです。有難くお話を頂戴いたしました。
 が。それはそれとして。南無阿弥陀仏が完成していることは、話としては分かりました。
で。肝心のわたしが、まだ救われていないんですけど。
 どうしたら、救われた身に、なるんですか?
 どうやったら、それを、いただけるんですか?
 それを、教えてくれませんか。
 こんな疑問が、どんどん出てきました。その日は食事会もあり、「お尋ねしたいことは何でもどうぞ」という雰囲気だったので、先生にいくつか質問をさせていただきました、今にして思えばどうでもいいことですが。お気楽に受けて下さりありがとうございます。(日中の常例布教でご法話された鈴木純幸先生もその場にいらっしゃり、わたしの質問を聞いて下さっていました。よほどわたしの物言いが他力をはねつけていたのでしょう、先生のお答えに返事するわたしに「その、はい、が大事ですよ。」とおっしゃって下さったのが、印象に残っています。)
 以降、新たな職にも就き、聴聞するようになりました。
 が。「救われていないわたし」は一向に変わりませんでした。どうしたら、南無阿弥陀仏をいただけるのか、は、相変わらず疑問のままでした。肝心のことを、聞けていない。阿部先生のご縁も、都合のつく限り、聞かせていただきました。昨年最初の、この勉強会で嶋田さんから教えていただいても、やはり疑問は変わらないままでした。
 わたしにとっては、なぞでした。
救いは完成しているはずなのに、救われていないわたしがいるのはおかしいじゃないか。
なぜ、わたしは、救われていないままなんだ?
いつになったら、助かった身に、なるんだ?
どういう心境になったら、救われた、というのか?

 聞いているはずのものを、聞いていないのでした。
「晴れているのが分かったら、傘は要らないでしょう。晴れていると分かるから、傘は要らない、ってなるんです。傘を離したら、天気は晴れになりますか?ならないでしょう。」
 阿部先生は喩えでこう話して下さるのですが、今となってはよく分かりますが、その時には分かりません。「晴れているのがよく分かっていないから、傘を手放さないのだ」と思い、まだどこかに自分の理解不足があるからだろう、晴れが晴れだとよく分かったら、手放すこともできるだろう、としか思えませんでした。
 聞き始めのときと、まったく、心は、変わっていない。こうまで聞かせていただいて、まだ、分かっていない。これは、まずい。
 1月の勉強会以降は、「理解不足をなくすため」に、買いこんでおいた「大経」「観経」など諸解説本、RCさんからいただいていたご法話の録音、嶋田さんからRCさん経由でいただいた本(のコピー)など、手元にあるものを片っ端から、読み直すものも、買っておいただけでまだ読んでいなかったものも含めて、仕事から帰って、寝てしまうまで、ずっと読み続けていました、「足りないはずの何物か、を埋める」ために。「それがあれば、助かるだろう」という手がかりが、どこかにあるはずだ、と思って、読み、録音を聞いていました。「それが何かは分からないが、それがあるために助かった状態にならない何か」を一生懸命、探していたのでした。
 そんな日が1カ月ほど続いたのですが、そんなものは、ありませんでした。相変わらず、「助かっていないわたし」だけが、ありました。
どうしたら、南無阿弥陀仏は、いただけるのか。これは、どうしても目の前にふさがる巨大な壁であり続けました。そしてその壁は、乗り越えることはできませんでした。「ここまで聞いても、分からなかった。自分は、分かる身じゃない。ほんとにあきらめよう」今度こそ、辞めた、と思いました。自分としては、やれることはやりました。思い直してまた聴聞しようとか、聴聞していったらそのうち分かってくるだろうとか、でも「救われた身になる能力」は、わたしにはございませんでした。
 聴聞も辞めた。仏法も、辞めた。ほんとに、辞めた。もう全部、辞めてやる。救われるなんて、辞めた。
 その時、ああ、そうだったのか、と分かりました。
南無阿弥陀仏。
だから、言ってたでしょう。最初から、わたしが全部用意してあるのだから、任せなさいよ。
阿弥陀仏のお呼び声、とは、このことだったか。
南無阿弥陀仏。
お任せします。
南無阿弥陀仏。
わたしで何か作るものではありませんでした。
南無阿弥陀仏。
任せなさい、とおっしゃるから、お任せします。来い、とおっしゃるから、「はい」と言うだけです。
南無阿弥陀仏。
こういうことだったのですね。
ようやく、南無阿弥陀仏の心を、分からせてもらいました。上の言い方では、全然、足りないですけど。わたくしの口から出た、わたくしの、今の味わいです。言葉は全然言い足りないですが、なんと、ありがたいことでしょうか。「にぐるものををわえとるなり」とは、このことでしょうかと、思っております。阿弥陀様は、ずーっと、いて下さった。今、現に、南無阿弥陀仏となって、おわします。
(大学入学時のご縁も捨て、もう一度と思ってみたのも捨て、ほんとうのご縁だと思ったものも捨てようとして、そこに、ありました。わたくし的三願転入でしょうかね。まあ、今の身としては、そんな、以前のことはどうでもいいですけど。)

 以降、聴聞は楽しみにしております。今まで、ほんとうに、聞いてこなかったなあ、と思うような、新しいことを気づかせていただけます。浄土までの間、阿弥陀仏のお育てをいただきながら、聴聞をし、ご恩をより深くお知らせいただき、わたくしなりの謝徳の行いをして参りたいと思います。
 慧日会のご縁、また楽しみにしております。

あさ川です。少し飛びましたが、わいるどひっぷさんから投稿文の②です。

①をまだお読みでない方は、 こちら です。

========(以下、わいるどひっぷさんから投稿文です)========


 さて、姿をくらましたわたしは、この先どうしたらよいものか、途方に暮れました。大学は今さら人より遅れてやり直せない、じゃあこの先、進路はどうする。求道の方は、きつくてついていけませんでした。今までは、辞めていく人を見て「人生の目的を知っていながら求めないのか」と誤った優越感を抱くような雰囲気もあったかもしれぬ中、今度は自分が敗残者になってしまった。当時のわたしの心境は、世間のことも仏法のことも満足にできぬ負け犬でした。
 この先どうしたらよいものか。敗残者のわたしが取った結論は、「もう1度、求める。今度は、1人で。」というものでした。そこで、もう一度大学を受験しなおすことにし、翌年、中央大学の哲学科に入学しました。ただこれは、もう1度求めるとか、今度は1人で、とかは、言葉の上でだけで、実際は多分に打算の働いた行動でした。求めるべき場所を逃げた者が、逃げた先で、世間上のものを同時に得ながら、かつ後生の解決に関わることを続ける方法として、選んだのが、これだったのです。かつ、「死に本願寺・干餓死本願寺」なのですから、宗門の大学へ入って教えを乞うわけにはいかない。そこに信心決定はない。だから、宗派のまったく関係のない大学の、哲学科を選んだのでした。幸い、合格できるだけの学力は、間に合いました。そこで、あわよくば、研究者としての途があれば、求めることは、続けていける。そう考えて、故郷の福井を離れ、東京へ引っ越したのでした。
学費はもう親に頼るわけにもいかないので、新聞配達をしながら、大学に通いました。(再受験するまで家族との一連のやりとりもあったのですが、ここでは割愛いたします。)
 離れて、一つ、よかったのは、人から聞かれても「親鸞聖人のことを勉強している」と堂々と言えるようになったことです。これまでは、なぜだか、隠していました。「人生の目的を果たす」こんな立派な集まりなのに、なぜ、堂々と言えない。なぜ、隠す。友人にも、家族にも、黙っていました。「自分のことを知らない」場所へ行って、「自分の人となりを知らない」人に向かって、集まりの正体を隠して、声をかける。後には引かない、引けない状況を計らいながら、ちょっとずつ、ちょっとずつ、事実を告げる。こんなことをやっていたんじゃないかな、と、断片ですが、思い出されてきます。
 ただ、「一人で求める」というのは、ただごとじゃなく、つらいものでした。元々は理系の学部に最初は入っていました、そこからまるで違う学部に入り直し、受験程度の古文・漢文の知識と、教えられたところの教学しか持っていないところに、大経・教行信証などを読み込もうと当時はしておりました。しかも、「蓮如上人以来、善知識はおられない」のだから、「大家の所説といえどしょせん信前の、誤った言説」にみだりに惑わされてはならない、と勝手に思い込んでいました。
 辞書を引き引き、解説書・概説書は語句の説明・用語の解説は参考に、他力の解説は慎重に、と思いながら、「自らの目でお聖教に目を通す」試みをやっていました。大学院の修士修了まで、いつしか10年たっていました(途中、1回、大学院の入試に落ちたり、修士課程は4年まで在籍できるので、籍は置いたりして)。
 (その間、何気に新聞を見たら「なぜ生きる」ベストセラー!なんかもありました。その時は、「逃げてこそこそ卑怯なわたしがいる一方で、真実は着実に広まってるのか…」さすがだなあ、と思ってみたり、「こんなところで一人何やってるんだ」と落ち込んでみたり…。今からすれば、どうでもいいですけど。また、院の1年後輩で入って来た人が、わたしが親鸞聖人をテーマにしていると知って「へーっそうなんですか」と驚いてくれたこともありました。「なんで?」って聞いたら「大学に入った時、サークルに誘われたんですよ。しばらくしたら、親鸞のことを聞く集まりだって」「ああ、そんなのがあるの? で、それからどうしたの? 続けたの?」「いえ、1カ月くらいでもう行かなくなりましたけど。」ああそうですか。その時は知らんぷりして話していたけど、その中身、実は知ってるよー。なんて思った出来事もありました。)
 結局のところ、一人ではどうにもできませんでした。字づらを追って表面上の意味はとりあえず追いかけても、「なぜ、この文脈で、こう出る?」とか、まして安心のことになったら、さっぱり分かりません。(ちなみに、二河白道は、聞かされていた話とまるで違いましたね。でも当時は、時代背景を考慮した上で現代人に分かるように合わせた深いミココロだと、勝手に解釈していました。)おもちゃのようなニセ教学を正しいと思いこんで、意識はせずとも「いかにその解釈に沿うか」と読もうとしていたのだと振り返っています。そうすると、文底秘沈的にならざるを得ないのも、分かります。
 自分なりに、他力観というものを、修士論文にまとめ、それで「求道」は終わりにしよう、と思いました。幸い、真宗については門外漢の大学でしたので、あまりにお粗末な修士論文は、それはそれで通りました。もうどうでもいいことです。
 もう、自分の中で、仏法は、終わりました。


(あさ川註:③に続きます)

あさ川です。先回の記事にて話題にしましたが、わいるどひっぷさんから投稿文を頂きました。わいるどひっぷさんは、RCさんの勉強会にご縁がありまして、続けて聞かれている方です。

今回、投稿文として3通のメールをいただきまして、3通で一つの文章になるようになっていました。くっつけて一本の記事にしようかどうしようかとも思いましたが、ちょうど良い位置で続いているように思いましたので、頂いたとおり、3回に分けてご紹介したく思います。


========(以下、わいるどひっぷさんの投稿文です)========


 ご縁をいただいて以来2年たたないくらいになりますか、当初は自力ばかりを振り回し暗中模索でおりましたが、今は「そのまま来い」のお呼び声に「はい」とお任せする身とさせていただきました。させていただいた身から振り返ってみるに、まさかわたくしも南無阿弥陀仏の主とさせていただけるとは、自分でも不思議です。いま喜んでおられる方々のお仲間に加えていただき、ともに南無阿弥陀仏の心を味あわせていただく、このような楽しみを下さり、ほんとうに有り難く思います。
 私事ながら、一個人の身の上話に過ぎませんが、遇法までのご報告をさせていただくとともに、また埼玉慧日会のご紹介にもなればと思い、記させていただきます。
 あさ川さんのブログで、この勉強会があることは当初から知っていました。一昨年4月、嶋田さんが来られるとのことで、私にとってはこれが背中を押すきっかけでもあったと思います。求道と称するものを辞めて以来24年ぶりの聴聞でした。生まれて初めて、生の声で、南無阿弥陀仏の心を、聞かせていただきました。
 大学1年の時、少なくない数の方がもしかしたらそうであろう、入学したての時期に、先輩から声をかけられ、後生の一大事が人生の目的であることを教えてもらったのでした。以後、「信心決定」を目的に、聴聞と、それから、言われているところの活動とに精を出しておりました。約30年も経った今となっては、一々のことはうっすらとした記憶にしかありませんが、ご多分に漏れず「獲信のためには宿善を厚くせよ」「真の知識はここにしかおられない」と刷り込まれ、その説示には疑問を持たず、自分なりにやれることをやっていたのでありました。
 そして、一部の方はもしかしたらそうかもしれませんが、大学4年になるころには、学業との両立ができずに来てしまい、どうにもならなくなりました。そんな中、春先の、新入生を迎える動きの中で、クタクタになって寝て、起きてみたら夕方になっていて、慌てて集まりに行きましたが時すでに遅し、新入生がたくさん来ているのに先輩がこともあろうに遅刻してくる(かつ当時わたしはリーダー格ということにされていました)、講師から身の心配もしていただけましたが、また同時に「求道者としてあるまじきこと」と強く叱られました。
 「人集め」も「金集め」も、自分の中では、無理して無理してやっている。後生の一大事を人質に取られて、宿善と称して本音ではやりたくもないことを、やっている。学業ももはやどうしようもない所まで来ている。どうにもならなくなり「ええい、もうどうでもいいや」と、わたしは、半ば行方不明になるかのように、そこから姿をくらましてしまったのでした。
 入学当初、わたしに人生の目的というものを教えてくれたのは、谷川秀大講師でした。仏教といえば当時、高校卒業したぐらいの者が普通知っているであろうぐらいのことしか知らなかったわたしに、「親鸞聖人の教えの中に、ほんとうのものがある」と教えて下さったのです。
 わたしからすれば、谷川講師はたいへん優しくて、決して上から目線でものを言わない方でした。大学生くらいであれば時にはあるであろう、得てして世間を知らないところからくる独尊的な態度(が、おそらくわたくしにはあったと思いますが)にも、お付き合い下さり、時としてよそ見をしかねないわたくしに、ご縁をつないで下さいました。また普段の様子も、真摯で真面目で「求める、とは、かくあるべし」と体現されているように見えました。講師部の方は、みんな、神々しく見えたものです。
 嶋田さんは、そんな中、同じ県の担当講師としていらっしゃいました。平日夜の聞法の中、月に1回くらいは聴聞させていただいていたと思います。
(嶋田さんとは、2つ思い出があります。1つ目は、ある時の聴聞で急に「ご法礼集め、やってよ」と施主の方に手伝いを頼まれたのですが、突然言われてしかも初めてのことだったので、どうやってよいやら分からずモタモタしているうちに、後半のご法話の開始が遅れてしまったのです。嶋田さんは、「大変申し訳ございません」と深々と頭を下げられ、聴聞に来られた方々にお詫びしていました(後で知ったことですが、講師部の方にとって、ご法話の遅刻は断じて許されないこと、お詫びして、かつ、来られた方々一人一人にお詫び状を出さねばならない、とか。わたしの記憶に間違いなければ。)嶋田さんが悪いんじゃありません、わたしが悪いんです。大変、申し訳ないことを致しました、ごめんなさい。
2つ目は、敦賀で聴聞があった時のことです。ご法話の時間帯は夜でしたが、たしか昼から、会場の手伝いに行っていました。その準備の中、嶋田さんの車にご一緒させていただきました。嶋田さんは「くり返し再生できる録音テープ」(名前は何というんでしたっけ?そんなカセットテープもありましたね)にご自分で声を吹き込み、車上のスピーカーから「本日は…親鸞聖人の…お話が…」と鳴らしながら、ゆっくり街中を車で回られました。そこへご一緒させていただいていました。そして「どういうきっかけでご縁があったのですか」とか「どうして講師になられたのですか」とか、恥ずかしげもなくわたしは車中で聞いていたような気がします。)
 学生ながら、わたしからは嶋田さんの求道されるお姿には、心打たれるものがありました。


(あさ川註:②に続きます)

あさ川です。RCさんから、RCさんから次回の埼玉恵日会のご案内をいただきましたので掲載します。


本文中にあります通り、先の日曜日に前回のご縁がありました。
私が特に味わい深く聞きましたのは、御恩報謝ということでした。御恩報謝の日暮らし、それは南無阿弥陀仏のおかげであります。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========

こんにちは。
RC です。

あさ川さんが 記事の中でお知らせしてくださっていましたが、次回の埼玉恵日会の日程をお知らせいたします。


●次回の埼玉恵日会は、

日時: 平成29年1月22日(日曜日)
14:10~17:00

場所: 熊谷商工会議所 2階 3号会議室
(JR熊谷駅 北口より 徒歩 8分 熊谷市役所のすぐ近く)

講師: 阿部 信幾 先生
(本願寺派補教 )

参加費:2000円(ご法礼と、会場費に遣わせて頂きます。)です。

勉強会は、予め 提出して頂いた質問に、先生にお応え頂く形式で行っています。
ご質問が ありましたら、私のアドレスに メールを送ってください。

勉強会に参加は出来ないけれど ぜひ お聞きしたいことが ある方も メールを 頂けましたら、私が質問し、お伝え出来ると思います。

私のアドレスは、

rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp

アットマークは、@に変えて下さい。


12月4日の埼玉恵日会も 元親鸞会会員の方が たくさん参加されて、とても中味の濃い勉強会になりました。

印象に 残るお言葉が、たくさん ありましたが、先生のお言葉の中で、やっぱり 私の一番のお気に入りは、
「南無阿弥陀仏のご名号だけが、私の往生浄土の証拠です。」
という 断言です。
このお言葉は、何度お聞きしても、心からうれしく 、安心させて頂けます。
「南無阿弥陀仏の聞こえる世界」が、
「南無阿弥陀仏のはたらいてくださっている世界」、
「私の往生浄土が定まった世界」。

火宅無常の娑婆世界に生きる、煩悩具足の凡夫の私が、こんなに安心して生きていられるなんて。

私の心は 変わり通しですが、
「南無阿弥陀仏が 往生浄土の証拠」なのですから、私の心など関係ないことが有難いです。

親鸞会にいる頃は、「信心決定が人生の目的」と教えられ、そう思って生きていました。
でも、親鸞聖人の本当の教えは、「阿弥陀仏に すっかり完成して頂いたお救いをお聞きする」だけです。
「私には、何もすることが無かった、もう幸せの中に生かさせていたと気づくこと」を「人生の目的」っていうと、ちょっと 違うように 感じます。

「後生のことは、阿弥陀さまの仕事だったと教えてもらって 安心して生きて行くこと」が、真宗です。

阿弥陀さまのご恩を教えて頂いた後は、
ご恩報謝と、頂いた命を 大切することを「考えて生きて行くこと」
が とても大切に感じます。

人は 誰も この世界に生まれようと思って生まれた人は ひとりもいません。
そういう見方をすれば、私の存在そのものが受動的です。
命を与えられ、数え切れないご縁に支えられ、他の生き物の命を頂いて 南無阿弥陀仏に遇わせて頂くところまで、すべてが頂き物と 教えて頂いて、
「煩悩具足の我利我利の心しかない私」が、
「おかげさまの心」を持たせて頂けるのだと思います。

「阿弥陀仏のみ心」を 聴聞させて頂かないと、すぐに ご恩を忘れて 、「おかげさま」を忘れてしまう私なので、これからも、ずっとずっと
聴聞させて頂いて、なんとか 人間らしい日々を過ごすことが できるのだと思います。
聴聞のご縁に 恵まれることは、本当に有難いことと感じます。
聴聞のご縁も 「受動的なこと」と思うと、更に ただ有難いです。

親鸞会を辞めてから
いろんな尊い先生からお話しをお聞きして、お同行のみなさんと南無阿弥陀仏を喜んで、不思議な幸せの中で、安心して生かされています。
こんな不思議な幸せを 今 私が知ることができたのは、
過去~現在の 善知識と 念仏者の皆さんが きちんと 教えを伝え、教えを聞いて、正しく生きてくださったからだと思います。
「なんまんだぶつ」だけで 、心が通じる 不思議で尊い教えが、どうか すべての人の心の 明かりになりますように。

ここに書かせて頂いたことは、いろんな先生や、お同行の方から教えて頂いて
今 私が 思っていることです。

真実のお言葉を、凡夫の私が お聞きできることが、不思議で、本当にうれしいです。

埼玉恵日会に、ぜひぜひ ご参加ください。

心より お待ちしております。

南無阿弥陀仏

あさ川です。気がつけばもう11月です。今回はRCさんの勉強会のご案内をいただきました。

RCさんが親鸞会を退会されてから、およそ2年が経ちました。当時RCさんから電話を頂いた時はかなり意外に思ったのでしたが、あれから2年経ったのだなあという感慨があります。


電話で何回かお話しして、いろんな思いを伺って、「じゃあ文章を書きませんか」と提案したのは私からでした。

それで、このブログで「投稿文」を始めました。

そして勉強会が始まり、ご縁が広がって、RCさんからだけではなく、何人かの方から投稿文を頂きました。


どこからが弥陀のお手回しだったかなあと、投稿文を頂いて思いまして、全部かしらんと一人味わっているのでした。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========

RCです。

「埼玉恵日会のご案内」をさせて頂きます。

今年 最後の「埼玉恵日会」です。

日時:12月4日(日)
14時10分~17時
場所:熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室2

熊谷市筑波3丁目202番地
(熊谷市男女共同参画推進センター
:ハートピア)
電話番号:048-599-0011

講師: 阿部信幾 先生

参加費: 2000円
(経費と お布施にさせて頂きます)

今回は JR熊谷駅直結の会議室での開催です。
JR熊谷駅は、新幹線も 停ります。

駅直結の この施設は 人気があるのか、予約がなかなか 取れなません。
ですので 遠方の方なども、是非 今回の勉強会に 頂けたらと、思っています。

火宅無常の世界で、
「阿弥陀さまの願い」を お聞きできるご縁、本当に 有難いことと 思います。

今回も、皆さまからの ご質問を 募らせていただきます。
「〇〇に ついて わからないので、教えてください」と いうことでも
「〇〇に ついて ご説明して頂きたいです」ということでも いいかと思います。

今まで 頂いた質問には、全て お応え頂いています。

もしも 勉強会には、参加出来ないけれど 質問したいという方は、私に 質問メールを送って頂ければ
私から 阿部先生のお応えをお伝え いたします。

ご質問メールは、私のアドレスに 送って下さい。

私のアドレスは、

rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp

アットマークは、@に変えて下さい。

ご質問、そしてご参加を 心からお待ちしております(^-^)/

それから、
とりあえずですが、
来年の「埼玉恵日会」の勉強会の日程をお知らせいたします。
まだ、会場は、未定です。

2017年(平成29年)
1月 22日 (日曜日)
3月 5日 (日曜日)
6月 4日 (日曜日)
7月 2日 (日曜日)
9月 18日 (月曜日)
12月 3日 (日曜日)
時間は、どの日も 14時10分~17時
の予定です。

変更が、ありましたら、早目にご連絡いたします。

来年が、どんな年になるのが わかりませんが
「親鸞聖人の教え」を聞かせていただき
「お念仏」を称え 、
「ご恩報謝」(なかなかできませんが)が できるようにしたいです。

南無阿弥陀仏

あさ川です。RCさんから、次回の埼玉(熊谷)での勉強会の案内文を頂きました。なお、とくよしみねさんの勉強会(愛知)は今度の日曜日です。いずれも、ご縁のある方はご参詣下さい。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========

「埼玉恵日会」勉強会のお知らせです。

こんにちは。RCです。

「埼玉恵日会」の 勉強会のお知らせをさせて頂きます。

日にち: 9月18日 (日曜日)

時間: 午後2時15分~午後5時

場所:(熊谷駅 南口 徒歩2分)
熊谷ホテル ロイヤルすずき 会議室

講師: 阿部信幾先生

参加費:¥2000

●阿部信幾先生は、
群馬県 みどり市にあります「西福寺」の ご住職で いらっしゃいます。
現在、西本願寺の 「伝道院 (布教師養成学校)」の 「布教研究課程」の 主任講師 というお立場、
(簡単に言うと、本願寺の布教師の先生をされているっていうことです)
また 本願寺派補教 で おられます。

●ホテル ロイヤルスズキ
熊谷駅南口より、歩いて2分。
駅を背に、右手方向に来てください。建物は線路沿いの道に建っておりますが、表玄関は一本離れた方の道沿いになります。
関越自動車道、東松山インター・花園インターよりそれぞれ約30分。まずは、熊谷駅南口を目指して下さい。
tel:048-521-0523
http://www.rhotel-suzuki.jp/

それから、前回は、お知らせに掲載するのを忘れてしまいましたが、
参加費 として
¥2000 頂いています。
会場費、ご法礼に充てさせていただきます。


勉強会は、予め頂いた質問に
先生にお答え頂くという形式をとっています。


阿部信幾先生のお話しは、とても立体的に感じます。

仏教の教え だけでなく、歴史、歴史の流れ、関わっていた人の人物像、人間関係、地理、などの背景も お話しくださるので
お話しをお聞きしていると、ドラマを見ているような感じがします。

「仏教の教学」も、言葉や知識だけでなく 先生 ご自身のものになっていることを 、一般人の私たちが、わかるように教えてくださるので、
毎回 「そーなんだ・・・!」という驚きがあります。
また、仏教の専門家の先生でも意見が異なるような内容についても、根拠に基づいて 先生のお考えを示してくださるので、仏教の真髄 、親鸞聖人の教えの本質を お聞き出来ている喜びを感じます。
前回の勉強会では、質問からの流れで、「大乗非仏説」のお話しをお聞きしました。
大乗非仏説とは、大乗経典は、お釈迦さまが説かれたものでは なという説で、実際に 大無量寿経などは、お釈迦さまが亡くなられてから ずいぶん経ってから作られたことは、事実のようです。
「え?!」って 驚かれる方もおられるかと思いますが。

このことについて
まず、お釈迦さまがおられた時は、
「正法」の時期ですから、悟る方がおられたということです。
仏陀のおさとりの知恵は、 お釈迦さまだけでなく、お釈迦さま お亡くなり以降も その時に現れた無名の仏陀に続いていたということです。

また 「月指のたとえ」があります。
「月(南無阿弥陀仏)」を指す指が、
お釈迦さまの指だとか、他の方の指だとかが、大切ではなくて、
指が指している「月」が 大切という話しです。

「月をさすゆび」というコミックもあるみたいですね。(仏教の専門学校の青春漫画です)

私の拙い説明では、???の方は、是非勉強会にご参加頂いて、直接 先生にお聞きください。

「南無阿弥陀仏」は、
「お前を助ける」っていう 阿弥陀さまのおはたらきの証拠としてのお言葉です。
何にもわからない、知恵の無い私のために 法蔵菩薩は、「南無阿弥陀仏」の名号となって 私のところに届いてくださいました。
南無阿弥陀仏が届いているってことは、
南無阿弥陀仏のおはたらきの中にいるっていうことです。
南無阿弥陀仏のおはたらきは
「お前の後生 必ず 浄土に生まれさせて仏にする。必ず 助ける」っていうことです。

南無阿弥陀仏が聞こえている
この世界にいる私たちは、なんて幸せなことでしょう。

「仏願の生起 本末」をお聞きして
南無阿弥陀仏が 何かをよく教えて頂くことが、真宗の聴聞です。
聴聞で、「私の往生は、南無阿弥陀仏のおはたらきで既に定めてくださってあった」ことを、教えて頂いて
安心して、 その後は ご恩報謝に
私の人生を使わせて頂く。
そういう幸せな教えに、遇えた私たちは、本当に幸せです。

浮き沈みのある人生で、
イヤなことも、悲しこともいっぱいあります。(私は、昨日 職場で、上司のヒドイ言葉が ぐさっと来て、後輩たちの前で 派手に泣いてしまいました
(。-_-。))
まあ、上手くいかないことが、山のようにあっても、南無阿弥陀仏に遇えたので、まあ いいっか。って思い直して
生きていけます。
絶対助ける南無阿弥陀仏を お聞き出来て うれしいです(o^^o)。

私を気持ちが 「うん、うん、」って
わかる方と ?の方がおられかと思います。

?の方は
「仏願の生起本末」をよく 聞いて頂きたいです。
せっかく 南無阿弥陀仏 が届いていても
南無阿弥陀仏が 何か知らないと、
喜べるはずは、ありません。

勉強会へのご参加 心よりお待ちしています。

勉強会は、予め質問を先生に出してお聞き、それにお答え頂く形式で進めています。

信心のこと、教学のことなど、質問受け付けています。
私にご連絡 ください。

私のアドレスは、

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南無阿弥陀仏

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