あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

カテゴリ : 投稿文

あさ川です。
そういえば最近このブログではありがたいことに投稿文の掲載が続いておりますが、裏を返せば自分の文章を書いていないなということで、いろいろありましたがようやく書き始めていたところ、RCさんから投稿文を頂きましたので掲載します。私の文章はいつできあがるか分かりませんけれども、ご縁あれば後日載せたいと思います。


ここしばらく雨が続いていることもあり、現在は盆とは思えないほど涼しい熊谷ですが、次回の埼玉恵日会の頃には暑くなっているかも知れません。ご縁のある方は熊谷までおいでください。
なお、前回ご紹介のあった、とくよしみねさんの勉強会は今度の日曜の予定とのことです。こちらもご縁のある方はお越し下さい。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========

こんにちは。
RCです。

9月の埼玉恵日会のお知らせをいたします。

日時: 9月 18日(月曜日 祝日)
14:10~17:00
場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室 2
(熊谷市男女共同参画推進センター)

講師: 阿部 信幾 先生
(本願寺派補教 )

阿部先生にお聞きしたいことが、ありましたら、私に メールで、送ってください。

rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp

アットマークは、@に変えてください。

質問の締め切りは、勉強会の一週間前の9月11日とさせていただきますます。
よろしくお願いいたします。


ところで、少し前に 阿部先生の ご法話で、お聞きしたことが、とても有り難かったので、ちょっと長文になりますが、書かせて頂きます。

仏教の知識が無い私が、ご説法のお話しを文字にしたので、読み直してみると、わかりにくい部分もあるなーて思いますが。
我慢して読んで頂けたらって思います。

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「正信偈大意を通して、正信偈を学ぶ 」ということで、善導大師の「光明名号顕因縁」のところを お聞きしました。


「光明名号顕因縁」といふは、弥陀如来の四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり、これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。かの願すでに成就してあまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。さればこのひかりの縁にあふ衆生、やうやく無明の昏闇うすくなりて宿善のたねきざすとき、まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。しかれば名号執持することさらに自力にあらず、ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。このゆゑに光明の縁にきざされて名号の因は顕るるといふこころなり。

この文章は、光明と名号はどういう関係にあるのか 善導大師が 顕かになさったということです。

これを丁寧にいうならば、阿弥陀如来の48願の中の第12の願を 光明無量の願といいます。
48願は、全部 大切な願ですが 、ことに
17願、18願、11願、12願、13願 の五つ、五願といいますが、これが特に重要です。
どのように重要かと言いますと
第17願は、行を誓っている。
第18願は、信が誓ってある。
第11願は、証か誓ってある。
12願、13願は、真仏真土が誓われている。

行、信、証、真仏土、
「教行信証」の 教が かけているだけですね。

教行信証という書物は、48願の中の 第17願、18願、11願、12願、13願を根拠として書かれています。
浄土真宗の教義が 皆、ここに収まるということです。
17願は、行が誓ってあるということについて、学派によって解釈が、分かれます。
「行を念仏だという学派」
それに対して、
「行は名号という学派」があります。
どっちを押さえても間違えではないけれど、
その押さえ方によって 教行信証そのものの読み方が違ってくる。教行信証の取り扱いが違うから、そういう違いが出て来るとも言えます。

私が習いましたのは空華という学派でしたが
そこでは、「行は 名号」、「名号のはたらき」「南無阿弥陀仏というはたらき」を行といいます。
そして 「南無阿弥陀仏というはたらきがあるということを信ずる」、それを 信 という。
これを誓ってあるのが、第18願。
だから、17願と18願は、セットになっているのです。

18願は、信心を誓ってある。
何を信じるのかと、いうと、南無阿弥陀仏のはたらきを信じる。
「南無阿弥陀仏となってはたらく」という誓いが17願。
「南無阿弥陀仏のはたらきを 信ぜさせる」というはたらきが、18願。
両方、他力です。

「南無阿弥陀仏とはたらいて、すべての者を仏にする」、そのはたらきを行という。それを南無阿弥陀仏の名号で表わすのだというのが、
第17願を名号で、押さえるという言い方です。

その名号のはたらきを信じるのを信といいます。
第18願に信心が誓ってあるのは、このことです。
その信心が、正因となって、11願が仏果、
第11願は、必ず滅度に至らしめるという願。
滅度というのは、さとりですから。
必ずさとりに至らめるという願が、第11願。

ですから、
名号となってはたらいて、信心を与え、さとりを開かせるのが、全部 阿弥陀さまの本願のはたらきなのです。

17願と、18願と、11願のはたらきです。
そして、その元になっているのが、12願と、13願で、これは何を誓ってあるのかというと、
12願は、私は光明無量の仏になる。
「光明無量の仏になる」とは、「どのような場所にいる者の上にもはたらく仏になる 」ということです。
13願は、寿命無量を誓っています。
寿命無量は、「いつの時代に生まれた者の上にもはたらく。」ということです。
光明無量、寿命無量、だから阿弥陀と名付けるのです。
アミダ というのは 計れないという意味ですから。何が計れないのかというと、一つには、光明が計れない。もう一つは、寿命が計れない。

光明が計れない、光明が無量だというのは、
光明は私を救う仏さまの知恵のはたらきを指しますから、知恵のはたらきが どんな場所にいる者の上にも届いているということです。
正信偈の 「超日月光 」というのは、光明無量のはたらきを表しています。

13願は、寿命無量の仏になると誓っています。
寿命無量とは、どんな時代に生を受けた者の上にも はたらいているということです。

光明無量、寿命無量ということは、阿弥陀さまの救いのはたらきを表わし
いつでも、どこでもはたらく仏ということを
12願と13願で、表しているのです。

いつでもって言ったら 「今」ということ、
どこでもって言ったら、「ここ」ということです。
ですから 光明無量、寿命無量の本願は、
「あなたのいるところにいつでも 届いている」ということを表しているのです。
何が届いているですか?と言ったら、

︎この12願と13願が元 で
︎名号となってあなたの世界に届くというのが17願で、
︎その名号を信じる信心をあなたに与えるというのが18願、
︎その信心を因としてさとりを開かせるというのがはたらきが、11願。

これが 五願です。

ですから、教行信証という書物は、何を表しているのかというと、
阿弥陀さまのはたらきは、いつでもどこでもどんな者の上にもはたらいているんだということを 教 、行 、信 、証 、真仏土という書物で表してるのです。
それを書いてあるのが、お経です。
このお経は、仏説無量寿経ですから、
「教」は、仏説無量寿経が、上げられています。
仏説無量寿経には 何が説かれているのかというと、17願、18願、11願、12願、13願という「 すべての衆生を仏にする」というはたらきが説かれているのです。

仏説無量寿経は、おさとりを開いたお釈迦さまが、「すべての者を仏にするはたらきが、もうはたらいている」ということを私に告げてくださっている お説教です。
ですから、私たちは、はたらきの中に居るのだということです。
はたらきの中に居るのに、何故 私がまだ さとりを開かないでいるのか?その原因はどのにあるのか、それが問題です。
それは 「私の自力心」が、迷いの原因なのです。

自力心が、迷いの原因だと明らかにしたのが、教行信証の6巻目の 「方便化身土 巻」です。

(中略)

阿弥陀さまは、無碍光如来です。
無碍光とは、妨げるものがない。
碍とは、わたしたちの無明煩悩です。
阿弥陀さまのはたらきは、私たちの無明煩悩が邪魔にならない。
阿弥陀さまは、私たちの無明煩悩を問題にしない仏です。
それが、無碍光如来 という名前です。
ということは、私が迷っているのは、私の無明煩悩が原因では、ないのです。
せっかくそれを治す薬があるのに薬を飲まない。
阿弥陀さまの薬を、拒絶するのが、迷いの原因です。
阿弥陀さまの薬を拒絶する心を自力心 といいます。

阿弥陀さまのはたらきがあるのに、それを拒絶し続けてきたから迷っているのです。
「自力心が 私の迷いの原因である」いうことを明らかにしたのが、「教行信証の6巻目の化身土の巻」です。

阿弥陀さまのはたらきは、目に見えません。
春も、はたらきですから、見えません。
春が来たのが、わかるのは、花が咲くからです。
阿弥陀さまが はたらいているって言っても、はたらきは、見えません。
阿弥陀さまがはたらいているって何で、わかるのかというと、
一つには、お釈迦さまが、仏説無量寿経 というお経を説いたこと。これが、第17願です。
「お釈迦さまが仏説無量寿経を説いたこ」とが、「阿弥陀さまが成仏している証拠」です。

仏説無量寿経の内容は、一切全ての生きとし生けるものを仏にするはたらきがはたらいているということを私に告げているのです。

(中略)

無量寿如来というのは、見えない仏さまです。
だけど見えない仏さまのままでは、私の救いにも何にもならないので、私の上にはたらいているということを念仏で表しているのです。

「 念仏の声が聞こえている」ということは、「阿弥陀さまが はたらいて、あなたを仏にする仏がはたらいているぞ」と、私に告げてくださっているのです。

お念仏は阿弥陀さまのはたらきで
「私が、お念仏している」ってことは、「阿弥陀さまのはたらきが もう 私の中に届いて はたらいている」って言うことです。

阿弥陀さまのはたらきが届いてもう私の中ではたらいているのだから 私が お浄土に参るのは間違いない、こういう話しです。

言い方を変えれ、阿弥陀さまのはたらきにまかせるというのは、念仏を申すということです。反対の言い方をすれば、お念仏をしない人というのは、せっかく薬があっても飲まない人。せっかくお医者さまがいてもお医者さんの世話には、なりませんと治療を拒否する人です。

以上も前のことを踏まえて、正信偈大意を読むと、意味がわかると思います。

︎「光明名号顕因縁」といふは、弥陀如来の四十八願のなかに第十二の願は、「わがひかりきはなからん」と誓ひたまへり、

というのは、どんな場所にいる者の上にも 私のはたらきは、届いているのだ、ということです。

︎これすなはち念仏の衆生を摂取のためなり。

念仏の衆生というのは、阿弥陀さまからはたらきにおまかせした者。おまかせした者が、摂取というのは阿弥陀さまの光明に収めとららて、
二度と迷いの世界に戻らない、これを摂取不捨とか、不退転、正定聚といいます。

︎かの願すでに成就して

12願が、すでに 成就して

︎あまねく無碍のひかりをもつて十方微塵世界を照らしたまひて、

どんな場所にいる私の上にも そのおはたらきが届いていたのだ。

︎衆生の煩悩悪業を長時に照らしまします。

私の側の煩悩悪業を 長い時間照らしてくださって、

︎さればこのひかりの縁にあふ衆生、

私たちのこと、

︎やうやく無明の昏闇うすくなりて

迷いの闇が だんだんうすくなって

︎宿善のたねきざすとき、

宿善というのは、「たまたま行信をえば、遠く宿縁を喜べ」とおっしゃったように、宿縁ともいいます。宿は、過去ということ。
過去に善、過去の縁とは、仏さまのはたらきのことです。
仏さまのはたらきが ようやく私の上にはたらいて、無明の闇が だんだんうすくなって

︎宿善のたねきざすとき、
まさしく報土に生るべき第十八の念仏往生の願因の名号をきくなり。

南無阿弥陀仏の名号を聞くということは、「はたらき」によって聞くのです。
私が仏法の話しを聞こうという心を起こしたことも、こうやってお話してを聞かせていただいて、しかもそれが信じられて はからいに用事がなくなったということは、すべての 第12願の 「わがひかりきわなからん」という仏さまのはたらきが どんな者の上にも届いているということによって、起きるということです。


︎しかれば名号執持することさらに自力にあらず、

名号を 執持というは、念仏です。
念仏は、自力ではない。
阿弥陀さまのはたらきが私の上にお念仏となってはたらいてくださっている。

︎ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。このゆゑに光明の縁にきざされて

12願の光明無量のはたらきによって

︎名号の因は顕るるといふこころなり。

名号の因とは、いろいろな取り方がありますが、具体的には、お念仏を申す身にさせていただいている。ということです。

これが、光明と、名号の関係です。

私たちが、お念仏を申させていただいているということは、元を正すと、
光明無量の願のはたらきによって、私たちが、お育てをいただいて、今 ここに南無阿弥陀仏の名号が、お念仏となって現れているということなのだ
ということを 光明た名号の因縁を顕す
と 言われています。

他力の念仏ということは 顕におっしゃったということです。

ここに善導大師の手柄があります。

それ以前は、念仏は、私が称えるという一つの阿弥陀さまの条件を満たすという行ない。
私が 阿弥陀さまの条件を満たしたら、浄土が成立すると 普通は考えますね。
善導大師の時代にも、そう考えていた人がいたのです。

それまでの仏教は、「修行をして悟りを開く」という仏教だったので、念仏もその一つとして、捉えられました。
修行して悟ろういう人たちにとっては、念仏は、ただ口に 南無阿弥陀仏と仏名を称えるだけのことだから、そんなようなことで直ちに悟りを開けるような行ではない と、考えられていました。悟りが高ければ高いほど、その修行は難しいはずです。簡単な修行で手に入れるようなものは、あまり価値がないというのは、
修行して悟りを、開こうとしている人たちにとっては、常識でした。

その中で、南無阿弥陀仏のお念仏も 大した行では、ないと言われていました。
「念仏して、浄土に往生する」っていうのは、お釈迦さまが、仏縁のあまりない人に対して、それを勧めることによって仏法に引き入れる為に「方便」として説いた、念仏して 直ちに悟り獲るということはないとされていました。
念仏にあまり値打ちを見ていなかったのです。

それに対して、善導大師が
「ちがう。」と言って 光明と名号の因縁を顕かにしてくださった。
「切符を買ったら、電車に乗れる」という、念仏は、切符くらいの話しではないのです。

念仏が申されるまでには、過去に無量寿如来の
光明無量の願のはたらきによって、それが六道輪廻している者の上に、そのはたらきが、積もり積もって、その者が、ようやく「南無阿弥陀仏」た、お念仏をする者に仕立てて頂いたのだということを、善導大師が、顕かにしたことを
「光明、名号の因縁を顕す」と、おっしゃっているのです。

ですから、それまでの人が、受け止めていた念仏とは、違うのです。
善導大師以外のお坊さんは、皆 修行して悟りを開くとしか受け止めていなかったので
その修行の一つとして 南無阿弥陀仏と口に名号を称える行と、一応しておきましょう。という程度の念仏の扱いでした。
お念仏は、あまり価値のある行では、ないと受け止められていました。
だから、お念仏によって開ける悟りなど 大したものでは、ないと考えていたのです。

それを善導大師が、ひっくり返したのです。
念仏往生とは、そんな話しではなく、全部他力。
だから 人が念仏を申すようになる前には、果てしない阿弥陀さまの 「その者を助ける」というお慈悲のはたらきが、ずーっとあったから、私がここで、今 念仏を申す者にしていただいているのだ というのが、善導大師のお言葉です。

このことを明らかにしたということを

光明名号の因縁を顕す。

︎しかれば名号執持することさらに自力にあらず、

お念仏を申す者にして頂いたということも他力であれは、今ここに、こうやってお念仏を申しておるということも他力なのです。、

︎ひとへに光明にもよほさるるによりてなり。

光明のはたらきによって、そうして頂いた。

たとえて言ったら、春が来たら花が咲くと同じように、
光明のはたらきによって お念仏をする者が存在するということです。
光明のはたらきが、なければお念仏を申すものがいないということです。

そのことが、
︎このゆゑに光明の縁にきざされて名号の因は顕るるといふこころなり。

ということであります。

あさ川です。

ここ一週間ほど落ち着かない日々が続いておりまして(言い訳)、頂いたメールも読めていなくてコメントの未読も溜まってしまっておりました。そのことについて書くご縁があるかどうかは分かりませんけれども、書くご縁がありましたら書きたいと思います。

一つ私の最近の味わいを述べますと、弥陀を人の親にもしたとえるならば、腹の中から外に出てくるまでずっと願いを掛けて誕生を待ち望み、腹の中から外に出てからもずっと南無阿弥陀仏との縁を結ばせようと願いを掛け待ち望み通しの親であって、しかし因縁の世界のことで子が必ずしも願い通りに生まれ、あるいはご縁を結べないということもあるとすれば、願いを掛けるのも喜ぶのも悲しむのも、一人一人に対しての弥陀のお仕事なのだろうと、そのような心持ちの今日この頃です。


さて、月曜にとくよしみねさんから投稿文を頂いておりました(ありがとうございます)が、気付くのが遅くなり掲載が遅れまして失礼しました。愛知で山も山さんの勉強会のご縁だそうです。ご縁ある方は愛知までおいでください。


========(以下、とくよしみねさんから投稿文です)========


皆様へ、とくよしみねからのお知らせです。今回は山も山さん(宮田さん)の勉強会を開催します。
場所はいつもの愛知県です。
日にちは 8月 20 日 ( 日 ) です。
時間は 午前10時30分から午後5時までの予定です。
演題は「正信偈」についてです。
ご縁があれば是非ご参加ください。
詳細についてお知りになりたい方は、aim_in_life(アットマーク)hotmail.co.jpにメールしてください。
( アットマーク ) は” @ ”に変更してください。
折り返しお知らせいたします。
私にメールをくださる場合、少しプロフィールも書いていただけると有り難いです。
個人情報を漏らすようなことはいたしません。
また私のブログの URL は以下の通りです。
お暇なら見てください。よろしくお願いします。
http://tokuyoshimine.hatenablog.com/

あさ川です。

先の日曜日に、7月の埼玉恵日会がありました。なかなか最近文章を書けていませんが、味わいなどご縁があればまた書きたいなあと思ったりしております。


さて、RCさんからの前回の投稿文で、「念仏者の生き方」についての予告がありましたが、今回そちらの投稿文を頂きましたので掲載します。なお、先回お話しした通り、私は前回ご縁がありませんでした。ですのでこのようにまとめて頂けるのはありがたいなと思います。


RCさんに限らず、聞いたお話の内容でも、日頃のご自身の思いでも、自分でブログを作るまでいかないけど何か発表したい、というようなことがございましたら、お寄せ頂くのもありがたいかなと思います。


ちなみに、率直に言いますと「念仏者の生き方」のフレーズだけ見た時に私は少し引っかかってしまっていたのですが、最後を読んで「なーるほど」と思ったのでした。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========
RCです。

前回の投稿文の「唯識」の お話しのおしまいに、「念仏者の生き方」のお話しも 投稿しますと書きましたが、仕上がりました!

親鸞会で、「破邪顕正せよ」の話しの時に 「すごーく美味しい蕎麦屋を見つけたら、人に教えずにおれないでしょ?」と言われて「なるほど」って、思いました。

親鸞会の教義は、??? ですが、「美味しい蕎麦屋を見つけたら人に教えてたくなる」っていう話しには、頷けます。

「 美味しい蕎麦屋を教えたい気持ち」と同じ気持ちで、私は 「埼玉恵日会」のご縁のお手伝いをしたり、投稿文を書いたりしています。

では、念仏者の生き方について、阿部先生からお聞きしたことを 書きます。

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「念仏者の生き方」とは、一言で言ったら
「ご恩報謝」です。

「阿弥陀さまと出遇った」ということは、そこに 「ご恩」があるわけです。
今まで、阿弥陀さまが いない生活をしていた人が、「私を仏にしてくださる阿弥陀という仏がいらっしゃって、この私を仏にしようとしてくださっている」ということに 出遇ったということは、そこに「ありがたいなー。」というご恩が 生まれます。
そのご恩に報いるという生活をご恩報謝といいます。
「お念仏を申さないで 来た私」と、「この教えに出遇った私」の 一番大きな違いは 「おかげさまで、ありがとう。」という ご恩の世界が開かれたか、ご恩のない世界に生きているかです。

「ご恩」いうのは 何かというと、今まで、自分を成り立たせていたものを、当たり前だと思っていたのを、そうではなくても 有難いと頂く世界です。
今 私が、生きているということは、実は、他のものの命をいただいている。
他のものの命をいただいて、生きているのですから、これは、「生きている」というより、「生かされている」のですね。

食前に、「いただきます」というのは、食事をいただくというよりも、命をいただく。
「あなたの命をいただくことによって、私の今日の命が恵まれました。」という「いただきます」です。
そして、食後に
「尊いお恵みを美味しくいただき、ますます ご恩報謝に努めます。」というのは、 頂いた命をどう使って行くかということが、問題で、それは「ご恩報謝と使わせて頂きましょう」ということです。

ご恩報謝と使わせていただくということはー

仕事は、普通は、給料をもらうために仕事をしていますが、「ご恩」という世界は、「他の人の働きによって、自分自身が今 ここに こうして生かされている。」ーーこれは、仏教の縁起論です。
自分が、成り立っているのは、他のありとあらゆるものによって成り立たしめられている、成立させられている。
ということは、私が 今 ここにこうして あるのは、あらゆる 多くの命と、みなさまのお陰なのです。みなさまのお陰 というのが、大事です。
「 みなさまのお陰に よって、今 こうやって命を恵まれて ここに 私かおるんだ」と気づかされたら、みなさまのお陰に どう報いて行くかということが、ご恩報謝です。

具体的には、
お米を作っている人が、魚を捕っている人に、「あなたのお陰で」とお礼を言い、
魚を捕っている人が お米を作っている人に「いやー、あなたのお陰で」と言って、
「お互いが、お互いの姿に感謝し合う世界」
それが、ご恩報謝の世界です。

「浄土真宗の生き方」というのは、こういうことです。
浄土真宗が広まると、世の中は、どうなるかというと、
給料を稼ぐために仕事をしているんじゃなくて、他の多くの方々のお陰によって 自分の生活が、成り立っていると、気づかされたら、多くの方々にお陰に、報いて行くような生き方をしたいとなります。これが ご恩報謝です。

そうすると、お米を作っている人は、相変わらず、お米を作っているわけですが、お米をつくる目的が、違います。
「お金を儲けるためにお米を作っている」のではなくて、「他の方々のご恩に 報いるためにお米を作っている。」そうすると、お米作りが、「少しでも美味しいお米を食べて頂きたい」となります。
「少しでも美味しいお米の食べて頂きたい」という、ご恩報謝の日暮らしが 始まると、そのお米を食べた人が 「このお米は、本当に美味しいなー。有難いなー。」と 衣食住が来るのです。

「 衣食住を求めてお米を作っている人」と、
「ご恩報謝で お米を作っている人」とでは、お米を作っている姿は、同じでも、内容が違う。

内容が違うことを 「転」といいます。
「転ぜられる」のです。
転ぜられるというのは、内容が変わるのです。
仕事をしている姿は同じです。

浄土真宗の盛んな地域でも、浄土真宗がない場所でも、皆 仕事をして暮らしています。
浄土真宗の盛んな地域であれば、仕事をしている人に、「よう 仕事なさいますなー」と言うと「それは 皆さんのお陰ですからね。」と
ご恩報謝の応えが、返って来ます。
浄土真宗がほとんどない地域では 「よう 仕事しますね。」というと、「だって仕事しなけりゃ食べられないじゃないですか」と、なります。

今 、我々は、どっちに暮らしているかということです。
「仕事しなけりゃ、食えないじゃないですか」という世界に暮らしては、いませんか?

これは、仏法でも、なんでもないです。

皆さん、子どもを どのように育てていますかね?
子どもに「勉強しなさい。勉強しなさい。」と勉強させるでしょ。それで どう言っていますか?いい学校を出なさいって言っているでしょ。
自分の子どもの尻を叩いて、ちょっとでもいい学校に入りなさいって言っているのは、ちょっとでもいい就職をさせたいのです。ちょっとでもいい就職が出来れば いい給料が貰えるからです。
そういう風に、子育てしていませんか。
競争になるのは、当たり前です。

「学校に、入りました」っていうことは、誰かが落ちたのです。
人気のある企業に就職出来たということは、だいぶ落ちた人がいるっていうことです。

私か入ったってことは、誰が落ちたということです。

そして、皆が 「勝ち組」とか「負け組」とか、言っている、それが今 我々か生きている世の中では、ないですか。

お説教で、
「いいんですよ。そうやって自分の理想の生活を追求して暮らして行ったって。
そうやっていつか死ぬんだけど、死んでもお浄土だから」
こういうお説教が、今、多いのではないですか。

こういうお説教を聞いていると
浄土真宗に出遇おうが、出遇わまいが
生きている姿は、変わらないっていうことになってしまいます。

これでは、おかしいでしょ。

「浄土真宗に出遇った」というとことは、
「今まで存在がなかった阿弥陀如来という存在が、私の生活に 存在として、出て来た」というとことです。

それまで、阿弥陀さまのいない生活をしていた。具体的に言ったら 仏壇のない日暮らし、念仏しない日暮らしをしていたのです。 その人が、念仏する日暮らしになって 、お仏壇を買い求めて、そこにご本尊をかけて お給仕して、正信偈をあげたり、お念仏したりする生活にチェンジするのです。

何かどうチェンジしたのかというと、阿弥陀さまが、いない生活から、阿弥陀さまのいる生活に変わったのでしょう?
ということは、そこに当然「ご恩」 というものが、出てくる。そうすと 「ご恩に報いる日暮らし」というものが出てくる。
ご恩に報いる日暮らしをもっと拡大していくと
「今まで、当たり前だと思っていたこと」が、「当たり前ではなかった 」と気づかされ、「今までの当たり前」が、「おかげさまで」 と、喜べる。
その代表的なものが、命じゃないですか。

仕事して、お金払ってご飯食べているのだから、食べるのが、当たり前だと思っていたでしょ。
違いますよね。
だって この命は、お金では、買えません。
命は、頂くものです。

だから、「いただきます」と、
今日も一日、命を頂いて生かされて生きている、ありがたいなーと、このことに、気づかされていく。
そこには、お米を作ってくれる人のおかげが あり、魚を捕ってくれる人のおかげが あり、
「多くの命と、みなさまのお陰によりこの命を頂いて、深くご恩を喜び 、有り難く いただきます。」と言って 「頂いたその日々の命」を どうやって使って行くかといったら、
「尊いお恵みを美味しく頂き、ますますご恩報謝に努めます」と、
私の生きることによって、周りのご恩報謝に報いて行く。

「利他」とは、違います。
利他とは、そんなに簡単なものではないのです。
私たちが出来るのは、ご恩報謝なのです。

浄土真宗の門徒の生き方は、「菩薩行の利他行」では、なく「ご恩報謝の日暮らし」なのです。

「信心頂いたら、利他が 出来る」と間違っている人が多いですが、
私たちに、利他は、出来ません。
利他は、 我々が、還相回向の位になった時にやるのです。

お浄土に参らない限り、 我々は、利他はできない。自我が、あるうちは、利他はできない。
生涯 我々は、「自我のとらわれ」から離れることはできない。
自我のとらわれから離れられたら凡夫ではないですから。
やっぱり自分が、優先して行くのです。
だから、他を利する、利他行はできない。

念仏者の生き方は、ご恩報謝です。
みなさまのお陰によりと、そのお陰に 報いて行く生き方をさせていただく。
お米を作る人は、お米を作っている姿は変わらないが 、お金のためにお米を作っているのでは、なくて、ご恩に報いるためにお米をつくる。少しでも美味しいお米を食べて頂いたたいと、日々努力をする。ご恩報謝には、「努力」があるのです。昨日よりも、もっといい仕事をしよう、少しでもいい仕事をして 周りの人に喜んで、頂こうとか。
ご恩報謝で作った美味しいお米を食べた漁師さんが、「あなたのお米は、美味しい。おかげさまで、ありがとう。」と 言ったら 、お米を作っている人は「いや~、あなたが、新鮮なお魚を捕って来てくれるから、私も お米が、美味しく食べられる。こちらこそ、ありがとうございます」と、「お互いが お互いに手を合わせあう世界」が、 浄土真宗の社会では、ないですか。
そういう風に、仏さまがしてくださる。

「当たり前だ」と思っていたことが、「当たり前でない」と気づかされる世界が、浄土真宗の世界です。
気づいたところから、変わって行くのが 浄土真宗の生き方です。
だからこのように生きて行きなさいとか、あのように生きて行きなさいとかはないです。
生き方というのは示されていない というのは、ご恩が、知れたら自ずと、そこに生き方が 変わって行くはずです。

おかげさまってことが わからないから、
おかげさまが、当たり前になっているから
ご恩報謝も出てこない。

多くの命を頂き、みなさまのお陰を頂きながら、自分の思い描いた未来の実現のために生きている。
今、そういう生き方の方が多いのでは、ないでしようか。

「お陰」が ないのです。

他の命を頂いて、他の人の労力を利用して、自分の幸せを実現しようとしているのです。

そうやって生きて行って、最後死んでもお浄土だから大丈夫という説教が 多いのでは、ないですか?
生きる時は、金の力を利用して、自分が太る事ばかり考えて、ひたすらそれを追及して、
挙げ句の果てに、命おわったら お浄土だから大丈夫だって。

とこに仏法があるのですか?
そんなの仏法では、ないです。

仏法っていうのは、「おかげさま」です。

「浄土真宗に出遇う」ということは、「我々の現実生活が 変わる」のです。

「生き方」というのは、「ご恩」というものが、スタートです。
こう生きるべきとか、ああ生きるべきとか、
浄土真宗の念仏者は、こう生きなければいけませんという話しは、どこにもない。

いけませんという話しはなく、「おかげさまでしよ 」という話しがあるのです。

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以上、念仏者の生き方 のお話しでした。


南無阿弥陀仏


前回の更新から10日あまり経ちました。どうも最近の感覚からすると10日どころではなく経ったような気もしていましたが、RCさんから投稿文を頂きました。


前回の投稿文にありましたとおり、前回は「唯識」のお話もあったようです。残念ながら私は直接ご縁がありませんでしたのでどのようなお話があったのか分かりませんでしたが、ありがたいことにRCさんから投稿文の形で頂きましたので掲載します。


唯識についてあまり知識が無いので新鮮な感じがしました。そういえば親鸞会では十二縁起の話とか聞いたことなかったですね。

========(以下、RCさんからの投稿文です)========

前回、6月4日の埼玉恵日会で、

◉「唯識」とは、どのように理解したらいいのでしょうか
と、質問がありました。

以下、その時の先生のお応えをだいたいまとめたものです。
(言葉で、お聞きしたので、もしかしたら、私が当てた漢字に 誤りが あるかもしれません。
お気づきの点が、ありましたあら、教えて頂けると、助かります。)


◉大乗仏教の中で、中心の学問は、1つには、「中観(ちゅうがん)」と 、もう1つに「唯識」が、あります。
「中観」とは、お釈迦さまが亡くなって、700年間後 、龍樹菩薩という方がインドに出ました。龍樹菩薩が中論という書物を書いて
「空」というかとを明らかにしてくださいました。
「空」とは、簡単にいうと あらゆる現象、私が目にしている物や、体験していること、私自身も含めて、私が認識している全ての存在は、「そのもの のみ」によっては、成立はしていない 。お互いが、お互いを成り立たせている。そういう関係で全てのものは存在している。

Aが存在しているのは、Bによって Aが存在している。BはAによって存在している。
自らのなかに、自らを成り立たしめているものは存在しない。

「自らの中に自らを 成り立たしめているもの」を「自性」と言います。
「自性 」とは、「私が 私である」ということが「私の中に私たらしめている自性が存在する」ということです。
これを否定した言葉が「無自性」と言います。

龍樹菩薩 が、いろいろな例えで示してくださっていますが、一番わかりやすいのが親子の例えです。
例えば、3歳の子どもを抱えた母親がいる。その時 「3歳に子どもと この母親との 歳の差は、幾つ?」というと、私たちは、頭の中で そのお母さん年齢が、24歳とすれば、24から3を引きます。これは、誤りです。なぜなら「このお母さん」との 歳の差だからです。
「お母さんは、子どもがいることによって お母さんになっている」のです。子どもがいない時は、お母さんではないのです。だから、「子どもの歳が お母さんの歳」なのです。
子どもが、出来た時に、母になる。
子どもによっては、母が成り立っている。
お母さん 自らの中に、お母さんたらしめるものは存在しないのです。
全てのものが、そういう関係に、よって お互いが、お互いを成立させている、成立している。
これを「無自性」といいます。
このことを 「空 」と言っています。
「空」ということは、「縁起 」ということと同じことです。
「縁起 」というのは、これがあるからこっちがある、こっちがあるからこっちがある、つまり
それぞれが、それぞれを成立せしめている関係。これを「縁起」といい、また「 空」 といい、「無自性」 とも言うのです。
こういうことを、龍樹菩薩が、中論という書物でおっしゃったのです。

こういう 空 をさとる知恵を、仏様の悟りの知恵と言います。
仏様は何を悟ったのかというと 「縁起を 悟ったのです」という言い方もするのです。
お釈迦様がなくった後に、大乗仏教という経典がいろいろ出来たのですが、
その経典の内容が、仏説であるということを論証したのが 中論という書物ということになりますが、中観の説明は、このくらいにします。

「空」いうものが言われましたが、
今度は 「十二支縁起」というのがあります。
「十二支縁起」というのは、「我々になぜ 老病死という現実があるのか?」。
お釈迦様が 悟りの知恵で原因を訪ねていかれた。原因を訪ねていられて 一番の原因は、「無明 」という、知恵がないこと、そういうことが 「老病死の原因」だということが、わかった。

「無明」によって 「行」が起こる、「行」によって 「識」が 起こる。

「無明」「行」「識」「名色」「六入」「触」「受」「愛」「取」「有」「生」「老死」
で 十二。「十二支縁起」といいます。
普通は、「無明」からスタートして、最後「老死」とするのが、「順観」といい、
逆に 「死」の原因を訪ねて
「老死」から始まって、「生」「有」・・・「無明」に辿り着く見方を、「逆観」といい、
「順観」「逆観 」という見方をしていたのですが。

龍樹菩薩の「 空 」の 縁起と、いうことが、明らかになると、十二支縁起のそれぞれが、それぞれを成立させている、川の流れのように 「無明」から出発して、「老病死」となって行った縁起が、そうではなくて、「十二が、 十二それぞれが、それぞれを成り立たしめているという関係だ」ということになっている。
全ての存在は、お互いをお互いによって 成り立たせ合っているというのが 「空 」ですから。

そうすると、十二の関係が、もっと立体的な、
ーお互いがお互いを成立させているーという縁起論になっていく。

その中で 我々が、呼んでいる「世界」というものですが、どこにおいて世界が、存在しているのかというと、「識」によって存在している。
認識の「識」です。

認識の「識 」ということは、受け止めておる者がおるから、世界は存在しているんだ。
受け止めているということを「識」でおさえるのです。
そうすると、我々が「世界」」と呼んでいるのいるものは、何によって世界が存在するかといいますと、我々が受け止めている 識 。
仏教では、「六識」といいます。
六識とは、
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識
「眼」は、「眼根」眼根とは、眼球 のことです。眼球が無いと ものが見られないが 眼球は、レンズで、あって、眼球を通して、脳で見ている。この脳を「眼識」といいます。
眼根が、あって、眼識かあって、我々は、見えていると認識しているのです。
耳も、そうで、耳根 というのは、鼓膜も含めた三半規管です。音を感知するセンサーです。実際に聞いているのは 脳の中の音を感知する部分で、これを耳識 。香も鼻は、センサーで、認識しているのは、脳。味も、舌は、センサーで、美味しいとか 不味いと言っているのは 脳です。
身体とそう、硬いとか、柔らかいとか触れて、受け止めているのは、脳です。
それを全部受け止めているが、意識。
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の
六識によって、我々は、物事を認識している。
科学は、ここまでです。

だから、科学者は、人間が死んだらなにも残らないといいます。なぜなら 心は、脳だということだから。
「 心は、脳であり、心といっても肉体に過ぎない」というのが、「唯物論」です。科学は、だいたいこういう考えです。
「死んだらおしまい」という考え方です。

「唯識で」は、もっと深いところに違う意識があるといいます。これを阿頼耶識(アラヤシキ)といいます。
「アラヤ」とは、「蔵」という意味です。
「蔵識」ともいいます。

「阿頼耶識というのが 一番深いところに存在している。」

なぜそういうことがわかったのかというと「ヨウガ」に よって発見されました。ヨウガというのは、禅定です。
仏教のがヨウガを瑜伽業(ユガギョウ)と言い、瑜伽業によって発見された唯識ですから、「瑜伽業唯識学派」といいます。

科学とは、違います。
科学は、思考によってこういうものを発見した。物が見えるとは、眼球があってそのことを受け止めていると脳の部分があって、物を見ている。ということは思考によってわかります。 科学は、ここまでは知っていますが、これから先は、知らないのです。これから先は、禅定によって発見された真実です。
何を発見したのかというと阿頼耶識です。

身の行い、言葉、心の行い、これをカルマと言います。カルマは、漢字で「業」と言います。
我々は、全てのものを見て、認識して、聞いて、嗅いで 、味わって、触れて、心で受け止めて 何事かのことをそこで思い、そこで 何事かを喋り、何事かを行う。
これを 「身口意の三業」と言います。
そのやった行いの結果が、この「阿頼耶識の蔵」に「薫習し」ていきます。お香を作っている人の身体にお香の匂いが染み付くようなことを「薫習」といいます。
心で思っていること、身体で行っていること、口で喋っていること、全てが、阿頼耶識に薫習していくのです。薫習したものを種子(しゅうじ)と言って、縁に触れることによって、現行(現れてると)する。これが今 我々が生きている現実である。こう説明するのが唯識です。

世界というのは、世界があってそこに私がいるのではなくて、自分が作った行いが、この世界を作っている、これが唯識です。
ですから、今 我々が、享受している世界は、我々の心が作ったものをです。
自分が作った世界を自分が受けている、これを「自業自得」といいます。

唯識とは、どのように理解したらいいかというと。
私の生きている世界は、私の心から生まれ出ている、という言葉です。

そこに南無阿弥陀仏が届いているのです。どんな世界にいる者の上にも南無阿弥陀仏の名号となって届いて救うということです。

我至成仏道  がしじょうぶつどう
名声超十方  みょうしょうちょうじっぽう
究竟靡所聞  くきょうみしょもん
誓不成正覚  せいふじょうしょうがく

我もし仏道成るに至て
名号が 声となって十方世界に聞こえる。
聞こえない世界が、あるならば、私は覚りは開きません。

逆の言い方をすれば、
「南無阿弥陀仏が私の世界に届いている」ということは、「もう法蔵菩薩は、覚りを開いて、阿弥陀となって私を救いにかかっているんだ」ということです。
阿弥陀さまが、救いにかかっているわけですから、こちらのはからいは要らないということです。

これが、自力の心を捨てて、一心に弥陀をタノムということです。
これが、ご文章の中心です。
タノム一念の時は、往生一定。
タノム一念というのは、
阿弥陀さまが、はたらいているのだったら、私のはからいは要りませんでしたと、自力が廃った一念を「タノム一念」と言います。
あくまでも、他力と出遇ったから、阿弥陀さまがはたらいていると信じられたから、自力が廃るのです。

唯識とは、なぜ我々が こういう現実を生きているのかを説明したものです。
神さまが 作ったのでも、仏さまが、作ったのでもなく、私自身が 作った世界を、私が 生きている、自業自得の世界を、唯識ということで説明したのです。

六識があり、六識のやった行いが、阿頼耶識という第八識に薫習して、それが出てくる。
やった行いが消えてしまうなどということは、ありえません。死んだら終わりでは、ないのです。

死んだら、どうなるのか?
薫習したものが、次に出てくるのです。

そして、この第八識(阿頼耶識)を自我だと、
錯覚する識が、あるのです。
これが、第七識の「末那識」と言います。
元の言語は、マナス と言って、迷妄とか 迷い という意味です。
末那識は、阿頼耶識は実体が無いのに、これが自我だと錯覚します。
これが、迷いの根源なのです。

これで 全部で、八識です。
眼識,耳識,鼻識,舌識,身識,意識の 六識と、六識の結果を蔵のように溜め込む阿頼耶識と、阿頼耶識を自我だと錯覚する 末那識の
八つの識で、この現実世界を説明するのを
唯識というのです。

私たちは、唯識で、悟るわけでは、ないので、このくらいの理解でいいのでは、ないでしょうか。
浄土真宗が、唯識と どう関係するのかというと
唯識を大成したのが、天親菩薩だということです。
法相唯識のご開山は、世親(天親菩薩)です。
同じ、世親菩薩が、我々にとっては、七高僧のひとりです。
世親(天親菩薩)は、お兄さん(無著菩薩)の唯識の教えを受けて完成させたのです。

末那識というものは、無著菩薩は、いっておられるず、天親菩薩が発見されました。
天親菩薩が 末那識を発見したことで唯識の体系が完成したのです。

六識によって 我々は、身口意の三業を起こして
起こした業が 皆 阿頼耶識に薫習して 薫習して種子となり、ありとあらゆる種子が、現実のありとあらゆる縁と出合うことによって、この世界が生まれてくる。
我々が今 感知している世界は、阿頼耶識の現成した世界ということです。

実態として何かあるわけではなく、私たちの行いが生み出した世界です。

そして
浄土教では「その世界に、阿弥陀さまのはたらきというものが、私の業の上にはたらいている」といい、それを 「お育て」とか、「宿縁(たまたま 行信を獲ば、遠く宿縁を喜べ のお言葉の宿縁)」と言われます。

宿縁とは、宿は、過去、縁は、仏縁。
私の上に、仏縁が常にはたらき続けて、今 私がこうやって お念仏のおいわれを聞くご縁に遇わせて頂いている、これは、如来さまの仏縁に依るのです。

これは 私の自業自得では ありません。
我々の「自業自得の業」は 「迷いの三悪道に輪廻させる業」であって、
「三悪道から救い出すはたらき」は、「阿弥陀如来の大願業力」によるのです。

『 私の身口意の三業は「迷い」しか生み出さない。そうして、六道を、ある時は、地獄に生まれ、ある時は天に生まれ、ある時は人間に生まれ、ありとあらゆる世界を 六道輪廻してそこから出ることができない私で、あります。』と
善導大師の二種深信の中で
「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかた常に没し常に流転して、出離の縁あることなきにと信ず。」とおっしゃっています。

これは阿弥陀さまが、見抜いた私の姿なのです。どうやっても迷いの世界から出られない者と、阿弥陀さまが、ご覧になったので、そこに慈悲の心を起こしてくださって、その迷いの世界から、救い出してやろうと、願いを起こしてくださって、そこから救い出せないうちは、
私は仏と名乗りません。とお誓いくださって、ご修行に入られ、そして 今を去ること 十劫の昔に阿弥陀仏となって もうすでに、私を覚りの世界に生まれさせようと、はたらいてくださる。

我々は、その 阿弥陀さまのはたらきの中に居るので 自力を捨てて、他力をタノメと、
こう お勧めくださっているのが、浄土真宗。

これをやったら救われるという教えは、浄土真宗ではない。これをやったら救われるというのは自力の教えです。
そうではなくて、他力がはたらいているのだから、これをやることは、要りませんでしたね、
と、これがタノム一念です。

唯識とは、このように理解してもらえたらいいと思います。

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と、唯識について教えて、頂きました。

それから、
「念仏者に生き方」についても、お聞きしたのですが、それも やっぱり、ご紹介したいと 思います。

また、投稿させていただきます(o^^o)


南無阿弥陀仏

あさ川です。RCさんから、次回の埼玉恵日会の案内文を頂きました。前回は6月でしたが、次回は7月2日とのことです。夏は暑い熊谷ですが、ここ最近の朝はなかなか涼しくて、半袖では寒いくらいです。


さて実は、前回の埼玉恵日会に私は家の都合によりご縁がありませんでした。前回も新しいご縁の方がお見えになったと聞いておりますが、ご縁無く残念でした。あさ川を目当てにいらしたということではないと思いますが、いずれご縁あればと思います。


先日の土日は久々にご法話のご縁に触れた土日でしたが、やはり法話を頂くご縁というのはありがたいものだなと思いました。


埼玉恵日会はご法話という形ではありませんが、南無阿弥陀仏のお話を聞くご縁ですので、ご縁ある方は熊谷までおいでください。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========

RCです。

次回の埼玉恵日会の開催のお知らせです。

埼玉恵日会は 2ヶ月に一度くらいのペースで 開催したいと思っていますが、いろいろな都合で、だいぶ間が 空いてしまったり、詰まってしまったりしています。
前回が、6月4日でしたので 、次回の7月2日は 比較的 近い日程での 開催となりました。

いずれにしても 「南無阿弥陀仏」の教えをお聞きするご縁を頂けることは、本当にうれしいことです。

6月4日の埼玉恵日会で、「唯識」についての質問があり、阿部先生に 噛み砕いて、丁寧に教えて頂きました。
皆さんに、お伝えしたく、少し文章にまとめ始めたのですが、なかなか進まず 、今回、ここでのご紹介は、断念します。(;_;)

でも せっかく ですので、なるべく近いうちに、「唯識」について、お聞きしたことを ご紹介したいと 思っています。

ふと、
親鸞会で、高森会長が 「大学で唯識の勉強をしていた」って 話していたことを思い出しました。
でも、親鸞会で 高森会長から、「唯識」について、キチンと聞いたことは、なかったなって、思いました。
(もしかしたら、どこかで説いていたのかもしれませんが。私の記憶には、なかったです。)

仏教は、「 教え 」ですが
ずっと 存在している「真実」というか、「事実」というか 、そういうものを、私たちに わかる形にしてくださったのが、「仏教」という「教え」であり、「仏教」の内容を示す「言葉」なのだと思います。
「教え」も「言葉」も「真実や事実 」そのものではないけれど、「真実や事実」を知る手がかりとして、とっても大切なものだと感じています。

「月を指す ゆび」の例えで、
私たちが、月を見るときには、月を指してくださる誰かの「ゆび」が、とても大切です。
「月」は、「真実」とか、「事実」とか、「救い 」とか、「ほんとう」とか、そういうもの。「月を指しているゆび」が、仏教という教えであり その言葉なのだと思います。

ただ(ただという 言葉が 適切なのか わかりませんが)
私の心に、「月を見たい」という気持ちが、何故あったのか?
月があることも 知らない私、
月を見たことのなかった私、
月と縁のなかった私の心に
どうして 「月を見たい」っていう気持ちがあったのか、とても不思議です。

「月を見たい」という気持ちは、「月があること」が前提です。

月を見たこともなく、月を 知らないはず なのに。・・・なぜか 私の心にあった「月を見たい」っていう気持ち。
この気持ちは、阿弥陀さまが私に寄り添ってくださっている姿なのかなって、ふと 思ったりしました。

私たちは、自分でアレコレ考えて、自分で何かを決めて生きているように思って いますが
そこには、ただ 南無阿弥陀仏のおはたらきが
はたらいていてくださるばかりなのでは、と思う 今日この頃です。

では、
次回の埼玉恵日会のご案内です。
(「真宗の法話案内」に掲載している内容とおなじです。)

7月2日開催の埼玉恵日会のご案内

○親鸞聖人の教え、浄土真宗を 知りたい人の為の勉強会です。
質問形式の勉強会で、真宗の理解を深めたいと思っています。
予め 質問を集めて、先生に応えて頂きますので、その場で 質問する勇気がなくても、また 匿名でも 大丈夫です。

親鸞聖人の教えについて、質問のある方は、以下のアドレスに メールで質問を送ってください。
先生に 当日 お応え頂けます。
アドレスは、 rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
(アットマークは、@に変えてください。)

勉強会は、
日時: 7月 2日(日曜日)
14:10〜17:00
場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室 2
(熊谷市男女共同参画推進センター)

講師: 阿部 信幾 先生
(本願寺派補教 )

振り返ると、今年も、もうすぐ半分が過ぎようとしています。
埼玉恵日会も 7月2日、9月18日、12月3日の
3回で、今年のご縁は終わります。

不思議なご縁が揃って、今まで、埼玉恵日会を開催することができましたが、私たちが感じているよりも、ずっとずっとずっと、南無阿弥陀仏のお話しをお聞きするご縁は、きっと「有り難く」、もしかしたら「あり得ない」というレベルのことなのかもしれません。

親鸞聖人が
「たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」
とおっしゃってくださっています。

私に 南無阿弥陀仏に遇えるような善ができたから 南無阿弥陀仏に出遇えたわけではなく、
最初から最後まで、南無阿弥陀仏のおはたらきで、南無阿弥陀仏に出遇えたのだと教えていただきました。

本当に 「 不思議 」としか言えない聴聞のご縁。
お互い、一回、一回 のご縁を 大切に 聞かせて頂きたいですね。

では、
蓮生房、熊谷次郎直実の故郷 、
「あついぞ!熊谷」の地で、
あなたの ご参加を お待ちしております。
(会場は、冷房か効いて快適です!)
٩(๑❛ᴗ❛๑)۶

南無阿弥陀仏

この5連休で、二人の実家に帰省しておりました。思えば学生時代は毎年、新勧合宿だったなあと思い出します。

さて、RCさんから埼玉慧日会のご案内を頂いておりますので掲載します。

仏法とのご縁はそれぞれの場所でございますので、それぞれご縁のあるところでご縁にあわれればありがたいなあと思いますけれども、ご縁のある方はぜひ熊谷にもおいでください。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========

少し お久しぶりです。
RCです。

次回の 埼玉恵日会の勉強会のお知らせをさせていただきます。

●埼玉恵日会 の勉強会

日時: 6月4日(日曜日)
14:10~17:00

場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室 2
(熊谷市男女共同参画推進センター)

講師: 阿部 信幾 先生(本願寺派補教 )

参加費:2000円(ご法礼と、会場費に遣わせて頂きます。)です。

勉強会は、今まで通り、質問形式で進めていきますので、先生に お聞きしたいことや、深く教えて頂きたいことが、ありましたら、私に メールで、送ってください。

アドレスは、
rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
アットマークは、@に変えた下さい。
です。

頂いた質問は、プリントアウトして、阿部先生に 郵送します。
質問の締め切りは、5月27日(土)までと、させていただきます。

皆さまからの ご質問、ご参加を 心から お待ちしております。
よろしくお願いいたします。


ところで、
「 前回の埼玉恵日会の勉強会のお知らせ」には いろいろなご意見を頂きました。
批判的なご意見に対しての私の対応が 良かったのかどうかはわかりませんが・・・。
結果的には 閲覧してくださった方も増えて、勉強会にも 前々回よりも、多くの方が参加してくださいました。
また、私が「夕食が作れない」などと 愚痴をこぼしたので、心配してくださった方もあったようで、申し訳なく、また 有り難く そして 嬉しく 思っています。

でも、いろいろあっても
南無阿弥陀仏の教えを聞かれる方が 増えたのは
うれしいです。

本当に「南無阿弥陀仏だけで救われる」って
驚きですけど、そうなのですね。

南無阿弥陀仏って すごいですね。

「私たちは南無阿弥陀仏に髪の毛1本ほどが、触れ合っているだけのだ。でも 髪の毛1本ほどが触れ合っていることが 大切なのだ」と ある先生がおっしゃっていました。
南無阿弥陀仏にほんの僅かでも触れるご縁があったことが うれしいです。


先日 都内で ある先生(阿部先生ではない先生です。)のお話しが 印象に残ったので、一部 紹介いたします。
(このお話しに 疑問や 質問などが ありましたら、この先生に直接メールでお尋ねください。私のアドレスに ご連絡を頂ければ、この先生のお寺のホームページのアドレスをお教えいたします。私のアドレスは、rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp です。アットマークは、@に変えてください。)

以下 ある先生のお話しです。

*親鸞は、家族を捨てる出家仏教 に対して
「家族を捨てるのではなく 、むしろ 家族と共に、そこに在りながら、その中で、『いつでも、どこでも、誰でも』」の在家仏教を 真実としました。
『いつでも、どこでも、誰でも』
これが、真実か、真実でないかを見極める親鸞のルールです。

「『いつでも、どこでも、誰でも』の 仏教は 特別 なことではない。」
これが 聖道門から 批判され、 弾圧 されました。
出家聖道門の仏教は、『いつでも、どこでも、誰でも』という思想は受け入れない。特別な修行をした人でなければダメだとする。

これは、『誰でも』には、なりません。

『する』という仏教では 『いつでも、どこでも、誰でも』の定義には 当てはまらなくなります。

そこから、
『 する 』ではなく
『 being 在る 存在する 』
という世界が広がります。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

お話しの一部分なので、わかり難いかもしれませし、また、誤解を生むかもしれませんが、

『いつでも、どこでも、誰でも』
これが、真実か、真実でないかを見極める親鸞のルールです。

というお話しが、とても印象に残りました。

『いつでも、どこでも、誰でも』が 真実のルール 。本当の救い、本当の宗教ということは、当たり前と言えば 当たり前だと思います。

でも、
誰かさんに「皆さんは、選びに、選びに、選びに、選ばれた方です」なんて 持ち上げられると、「遠く富山まで聴聞に行っている私こそ、いつか必ず救われる」と、親鸞聖人の真実のルール『いつでも、どこでも、誰でも』から 全く外れたことを真実だと思ってしまうのですね。

阿弥陀さまは、
「もう あなたの救いは、完成している。南無阿弥陀仏がその証拠だ。大丈夫 。安心しなさい」っておっしゃっておらるのに。

「 富山の親鸞会の本部会館で、私の話しを聴聞しなさい。そこが 大悲の願船へ乗り換え場所です」なんて 親鸞聖人の教えではない話しです。
私も、親鸞会会員の時は、うっすらと違和感を持ちながらも、そうなのだと思って せっせと 富山まで通いましたが。
「阿弥陀さまの本願には そんな条件は なかった」と、当たり前のことを 当たり前だと 思えたのは、親鸞会を辞めてからでした。

さて、南無阿弥陀仏の教えを聴聞させて頂くことは、人生の土台、私の命を支えているもの を確認するとことのように思います。

阿弥陀さまの願いがあって
私の命が今 ここにあって、
阿弥陀さまの願いが私の命を生かしていてくださり、
阿弥陀さまが私の命を生きていてくださるから
私が南無阿弥陀仏を聞けたのだと思います。

南無阿弥陀仏の教えは、どんなにお聞きしても 「聞き終わった」ってことはない教えだと思います。

なので 「 埼玉恵日会 」是非 ご参加ください。
お待ちしております。

(ご都合がつきましたら、えす様にも 来て頂きたいです。元親鸞会会員の方でしたら、多少遠方でも 仏法聴聞とあらば 、日本全国 外国でも 聴聞されていたかと思います(^-^)v)

南無阿弥陀仏

あさ川です。
「おおきに」ってなんとなくいいなあと思う今日この頃です。


さて、すでにご本人がコメントで書かれてましたが、前回の投稿文に対してのコメントをご縁として、RCさんから投稿文をいただきましたので掲載します。


ちなみに私からコメントするとすれば、投稿文へのコメントに対して私から積極的にお返事することは(マイルールに基づき)しておりませんが、ご本人が必ずしもすぐにお返事しなければならないというルールも存在しませんので、投稿文を書いたらコメントへのお返事も必ずすぐに書かなければならないということではありません。

もっとも、せっかくいただいたコメントに対しては可能な範囲でお返事するのが良いと思いますので、私の記事に対してのコメントには、基本的に48時間を目安にお返事するように心がけてはおります。


========(以下、RCさんからの投稿文です)=======

RCです。

先日、「3月5日の埼玉恵日会のご案内」をさせて頂いた時に、勉強会の質疑応答の内容や 私の感想を述べさせて頂きましたところ、いろいろ コメントを頂きました。

それにつきまして 少し考えがまとまったので
文章にさせて頂きました。

まず、たとえ 元親鸞会会員であっても、親鸞会への思い、真宗への思いは、人 それぞれ違うと思います。

私には、私の思いがあり、私の思いに従って行動しています。
今は、埼玉恵日会に皆さんをお誘いしています。 そのことを評価される方、批判される方、無関心の方など いろんな方が、いらっしゃるのは、当然だと受け止めます。

私は、南無阿弥陀仏のお話しを、ご縁にある方と いっしょに喜びたいという気持ちで、埼玉恵日会をやっています。
真宗の教えは、素晴らしいという気持ちからです。
質疑応答の内容を紹介させて頂いたのも、「こんなお話しなら 聞いてみたい」という方がおられるかもと、思ったからです。


親鸞会との関わり方は、誰もが、難しいと感じていると思います。
私の大切な友人が 今も、親鸞会にいます。
私が親鸞会を辞め、正しい南無阿弥陀仏のお話しをお聞きしてから、その友人に 会って 話しをしました。
友人には、「自分は 親鸞会の他では、親鸞聖人の教えを聴聞することはできないって思っていたけれど、そんなことは、なくて 親鸞会以外にも、親鸞聖人の教えを聞けるところは、たくさんあるよ」と、伝えました。
でも、友人の心の中では、高森会長が 唯一の善知識なのです。ネットの情報などを見ることを勧めてもそういう方向には、進みませんでした。
また、地元の親鸞会館へ行って、会員の方に声をかけてたりしても、私の話しに耳を傾けては、もらえません。
親鸞会会員は、高森会長を信じているから、親鸞会会員でいるのです。
その信心を崩すのは、 簡単では、ありません。

以前 ある僧侶の方に、親鸞会への批判的な文章にその方のお名前を載せてもいいかどうか お聞きしましたが、その方は、
「友人の僧侶が、説法で、 親鸞会を批判したら、親鸞会から 訴えられて 裁判所から度々呼び出されてしまい 布教どころで、なくなってしまった人がいる。布教活動ができなくなるので、それはやめてほしい」と言われました。

私自身も、親鸞会に30年以上もいて、間違ったことを聞かされ、「必堕無間」に怯えて
人生の 大切な時間と、たくさんのお金を犠牲にしてきました。ですから 現親鸞会会員に、親鸞会の間違えを伝えて、正しい南無阿弥陀仏のお話しを聞いて欲しいです。
でも 難しいです。

今、あさ川さんのブログをお借りして 正しい教えの場、埼玉恵日会があることを紹介することが、今の私にできる親鸞会に対する行動だと思っています。

ある先生が
「人生とは(南無阿弥陀仏の物語の上に)
自分で 、自分の納得できる物語を作っていくこと」って おっしゃっていました。

私にとって、埼玉恵日会は、「私が 納得できる物語の一つ」です。

ですが、
埼玉恵日会のお話しや、私の言動に、納得出来ない人がおられるのも、当然だと思います。

無理に納得してくださいと、お願いしているわけではありません。

埼玉恵日会では、納得できない方は、納得できるどころでお聞きするのがいいと思います。
ご自分で納得できる勉強会をされてもいいかと思います。

南無阿弥陀仏を喜んでおられても、感じ方や考え方は、同じにならないのは 仕方ないと思います。

私が勉強会の内容をご紹介しましたのは、いいなって思われる方に参加して頂きたい気持ちだけで、読まれた方 皆さんにこの話しを納得して欲しいと、思った訳ではありません。

批判コメントをくださる方のご意見の内容はわかりましたが、だからと言って私が その方の考えと同じ考えにならないのも、仕方ないと思います。

真宗は、「自是他否」の教えではないとお聞きしました。

「私の考え」も 、そういう考えなのかと受け止めて頂けたら、と思います。

それから
私は、こういう文章を作るのに とても時間がかかってしまいます。
私へのコメントで 質問を頂いても それに、お応えしていると、日常生活が 混乱してしまいます。
ですので、申し訳ありませんが、私の投稿文へのコメントには、お返事出来ない場合もあるとご理解頂きたいと思います。

先生への質問や疑問は、
私のアドレスに、「埼玉恵日会への質問」という形で メールをください。
埼玉恵日会で 先生に、お尋ねします。

私のアドレスは
rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
アットマークは、@に変えた下さい。

よろしくお願いいたします。


南無阿弥陀仏

あさ川です。

メールのやりとりをしている方があるのですが、なかなかお返事できておらず失礼しております。
(私事ですが、ここしばらく出張が続いている間に体調を崩してしまいました)


さて、次回の埼玉慧日会について、RCさんから案内の投稿文を頂きましたので掲載します。今回は、前回のお話の内容も書いて頂いています。さすがにこの頃には出張が終わっているといいなあ、と思いながら、ご縁を待ちたいと思います。


========(以下、RCさんからの投稿文です)========


こんにちは。
RCです。

3月の埼玉恵日会の ご案内させて頂きます。

3月は、熊谷駅直結のティアラ21 の会議室が取れました。
今後も、なるべく ティアラでの開催を考えておりますので、是非 ご都合をつけて、参加 頂けたらと思います。


●埼玉恵日会 の勉強会

日時: 3月5日(日曜日)
14:10~17:00

場所: JR熊谷駅 直結 ティアラ21 4階
ハートピア 会議室 2
(熊谷市男女共同参画推進センター)

講師: 阿部 信幾 先生(本願寺派補教 )

参加費:2000円(ご法礼と、会場費に遣わせて頂きます。)です。

勉強会は、今まで通り、質問形式で進めていきますので、先生に お聞きしたいことや、深く教えて頂きたいことが、ありましたら、私に メールで、送ってください。

アドレスは、
rokujinotsudoiアットマークyahoo.co.jp
アットマークは、@に変えた下さい。
です。

頂いた質問は、プリントアウトして、阿部先生に 郵送します。
質問の締め切りは、2月25日(土)までと、させていただきます。

よろしくお願いいたします。

それから
せっかくですので、
前回の勉強会での 質問と応答を2つ、紹介させて頂います。

(問い①)
親鸞会時代に、
「たとい大千世界に満てらん人をも過ぎゆきて、仏のみ名を聞く人は、ながく不退にかなうなり」
という親鸞聖人のお言葉を高森会長から聞き、 相当 無理をして 富山まで 聴聞に行っていました。
この話しで、高森会長は「仏のみ名」とは、「仏教」である と話していました。
「仏教とは、真剣に仏教を聞けということだ」
という言葉は、何か迷路に入ったような気持ちになっていました。
親鸞聖人が おっしゃった正しいみ心をお聞きしたいです。

(応え)
これは、もう 答えが出ていますね。
「 経に 聞というは 衆生、仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし。」と、教行信証の信の巻の 本願成就文釈 にあります。
無量寿経の「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」のご文です。
無量寿経は、18願が 中心という人が いますが、18願ではなく、18願成就文が 中心です。
18願成就文が、無量寿経の中心です。

阿弥陀さまが 「本願を起こしてくださったこと」が、要(カナメ)ではなく、
阿弥陀さまが 「もう本願を 成就して 阿弥陀さまが、はたらいているんですよっていうこと」を、お釈迦さまが、告げてくださったのが大無量寿経です。
だから、大無量寿経の中心は、本願成就文 です。
18願成就文には、
「聞其名号 信心歓喜 乃至一念」
其の名号を聞いて、信心歓喜すること、乃至一念せん。とあります。
その成就文釈 が、教行信証に、
「経に、聞というは 衆生 仏願の生起本末を聞きて、疑心あることなし。これを 聞 というなり」

親鸞聖人は、「仏のみ名」を「仏教」などと 大雑把な言い方はしていません。
「名号のいわれを聞く」と おっしゃっています。
名号のいわれ とは、南無阿弥陀仏のいわれ です。
南無阿弥陀仏のいわれについて、蓮如上人は
「我らが、往生の定まりたる証拠なり」と、
おっしゃっています。
「定まりたる」は、現在完了の言い方です。
「定まった」と 言ったら 過去形。
「定まる」と 言ったら 未来形。

「定まりたる」の 現在完了形は、
「いつでも 決まっている」ということです。
「今、既に 決まっている」、何が というと、
「往生が 決まっている」。

「南無阿弥陀仏 が、我らが往生の定まりたる証拠なり」というのは、
「私を 往生せしめるはたらきが、もう はたらいている ということを、私に告げるのが 名号です。」ということです。

名号 とは、本願成就 です。
本願が 成就しなかったら、仏と名乗らないと いう誓いが、成就したから 「阿弥陀」と、名乗っているのです。
本願が成就したということは、もう 既に、阿弥陀さまは、48願の通りに はたらく 仏様に なっているということです。
48願の通りに、もう はたらいているぞ と、私に知らせるのが、南無阿弥陀仏 の六字の名号です。
私たちは、何を 聞くのかというと、南無阿弥陀仏のおいわれを聞くのです。
「ご文章」は、全部 そうなっています。

「信心獲得す というは、第18の願を心得るなり。この願を心得るというは 南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」と言われています。

18願を聞くことではなく、
「南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり」
だから 18願成就の名号のいわれを聞くことです。
名号のいわれ は、難しいことではありません。
「もう、阿弥陀さまは、はたらいているんだよ」っていうことです。
「阿弥陀さまが はたらいているんだよ」と聞くから「私のはからいは、要らなかったのですね。」と なるのです。それが、疑心あることなし です。疑心は、はからいです。
だから、はからいが 取られるのです。
なぜ、はからいが取られるのかというと、阿弥陀さまが はたらいていると いうことが、信じられたからです。
「はからっている人」というのは、「目には、見えない阿弥陀さまなんて、信じられません」という人です。目に見えないと信じられないけど、「南無阿弥陀仏」となって、届いているのです。

南無阿弥陀仏を疑っているのです。
本願成就を疑っているのです。
本願成就を疑っているから はからうのです。
念仏 称えて参ろうとか、一生懸命、真剣に努力して お聴聞して、信心 頂いて参ろうとか・・・。

阿弥陀さまは、はたらいているのです。

もう、阿弥陀さまは、はたらいているのに、
今さら 聴聞して 信心頂いって・・・。
何 考えているですか?

聴聞て、何を聞くのですか?
「阿弥陀さまが はたらいていること」を聞くのです。
聴聞が、目的ではない。
聴聞は、手段です。
何の手段かというと、「阿弥陀さまが、はたらいていることを聞く手段」が、聴聞です。

聴聞が、目的になったら エライことです。

「聞く」って、「何か聞かせてもらうのですか 」ということについて、「仏教」などと、そんな いい加減なことを 親鸞聖人は、おっしゃっていません。

「聞く」は、「南無阿弥陀仏のいわれを聞く」のです。
「南無阿弥陀仏のいわれを聞く」とは
「もう 私たちの 往生が 間違いないということを聞く」ということ。
「だから、こっちのはからいは、要らなかった」となります。
それが 仏願の生起本末を聞きて 疑心(はからい)あることなし。これを 聞 というなり。

「聞 即 信 」だから、
信心ということは、何か頂くのではなく、敢えて 頂くというなら、「成仏」を頂くのです。
まだ、成仏した ということではなく、「成仏することに間違いない」ということを頂く。
反対の言い方をすれば、はからいを取られる。

何かもらうように思ったり、何か不思議な体験を得るように思っているから間違うのです。

不思議な体験は もう 我々は しているのです。
南無阿弥陀仏が ここに 届いていること自体が不思議なのです。
これ以上の不思議は ないのです。
これを 仏智の不思議と言います。

南無阿弥陀仏が聞こえている。これを以上の不思議はない。
これを不思議と思わないということが 間違っているのです。

(まだ 阿部先生のお応えは、続きましたが、ちょっと 力 尽きたので、ここまでにします。続きを聞きたい方は、私に ご連絡下さい。)


(問い②)
信後の聴聞について、お尋ねします。

仏法は、聴聞に極まる と聞き、
親鸞会では、間違った話しを長く聴聞して来ましたが、救われませんでした。

親鸞会を離れて、仏願の生起本末を教えて頂き、また、南無阿弥陀仏が 私の往生の証拠とお聞きして、安心できました。
そうなると、もう 「信心決定する」という聴聞の目的は、果たされたわけですが、やはり 聴聞すると とてもうれしい気持ちになれるので、聴聞しています。

信後の聴聞について、親鸞聖人や蓮如上人は どのように教えておられるのか、
また、阿部先生のお考えもお聞きしたいです。
よろしくお願いいたします。

(応え)
信後の聴聞に ついて、親鸞聖人は、ほとんど おっしゃっていませんが、
蓮如上人は、時々「溝さらえ」と言われているところが あります。
聴聞しないと、ゴミが溜まるから信心の溝さらえだと、おっしゃっています。
私は、ご恩報謝だと考えます。
私は、布教師ですから、法座にきて 誰も聞く人がいなかったら、説法は できません。
ですから、ご法座に来られて、お話しを聞いて有難いところになったら、「ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と お念仏を称えて頂きたい。
そうすれば、ほかの人に そこが有難いところと、わかる。
自分一人が、救われたら いいっていうのでは、なく 次は、「教人信」ですが、
「自分が 救われた姿」以上の 教人信 は、ありません。
日々 お仏壇に 向かってお念仏をし、お寺で お聴聞して 「今日は有難い話しを聞かせてもらった」と 喜んでいる姿が、周りに 仏法を伝えているのです。
年をとって 、病気になっても 愚痴も言わすに
「ありがたいね。」と言っている姿を家族が見て「私も あんな風になりたいな」って 思う時に
お聴聞を勧めたらいいのです。



(勉強会に参加しての RCの感想)
阿部先生のお話しをお聞きしていると、「真宗の教え」を、生活や、社会の中の一つのもの として では なく、
真宗の教えこそが、人間の生活や社会を成り立たせるものであり、人間の心を照らし、社会を照らすものと、先生が、捉え 力強く ハッキリと教えてくださっていることに、心が、動かされます。

また、社会のおかしなことに対して、黙っているのではなく 声を上げていかなければ という、先生からの呼びかけを、私は、少し 耳の痛い思いで、受け止めました。
やがて 「無我の仏とする」とのお約束を頂いた私たちが、自分の中に閉じこもって 黙っていては、ダメだろうって いう思いが、生まれました。

阿部先生は、
「人間は、元々 自力で生きている。
自分と 相手の間に、垣根を作り 自分さえ良ければというのが、自力心。
戦争は、自力心が起こす。
自力心は自力が正しいという立場で、他人を叩く。
正義を振りかざしたら、怖い。その最たるものが、宗教」
とおっしゃっていました。
また、
「世界中で起きていることは 、業の世界から 言ったら、全て、自分もそうなる可能性が ある。
世の中の出来事は、全て 自分の延長線上のこと。そういう視点をくれるのが、業の教えであり、仏教。
そういう視点を持たないのが、自力」
と教えて下さいました。

先生の教えで下さることを、とても全部 理解出来て居ないと思いますが、
「仏様の視点の教え」でなけれ とても聞けない、深いお言葉を お聞き出来て、大変ありがたいご縁でした。

私の未熟な文章ではなくて、直接 先生からお聞きすることを、是非、オススメいたします。

ご参加 お待ちしております。

南無阿弥陀仏。

あさ川です。前回に続きまして、わいるどひっぷさんから投稿文の③です。


========(以下、わいるどひっぷさんから投稿文です)========


 関わっていると、正直つらくなる。だから、もう、辞めた。考えないでいよう。そう思って、仏法にはふたをしてしまいました。
 院に入った時、生計のため学習塾講師の職を得ました。「今でしょ」が一時期はやった、某大手予備校です。その、高校生部門ではなくて、つまりCMに出てくるような有名どころの講師、ではなくて、小中学生部門(ややこしいですか)、の講師から始め、卒業後もなんとなく続いて、教室責任者も任せていただくようになりました。仏法のことは考えないでいようとする態度、生活、それが、7,8年ばかり続いたでしょうか。
 ところがある時、たまたまインターネットで、会に関するブログを見てしまいました。最初がなんだったか、もはや忘れましたが、「えー!そうだったのか!?」という思いで、あるだけ読みました。その内容は、びっくりの連続、衝撃でした。「清森問答」「苦笑の独り言」「…なぜ辞めたのか」そして「さよなら親鸞会」。自分が思い込んでいたものは、ウソだった。自分の格闘は、何だったんでしょうか。こんなことのために、長い間、勝手につらいと思っていたのか。心の重しが次第に取れていくように感じました。マインドコントロールって、ほんとにこわいですね。ただ、わたしの中では、会にいたことももはや忘れられない一部になっている一方で、離れた後の期間のほうがずっと長いため、被害の感覚はあまりありません。それよりも「自分は、自分で、よかったんだ」とほっとできたことのほうが大きいです。ブログを立ち上げて下さった方々、ありがとうございます。ようやく、自分で自分を肯定できるようになりました。

 その後、ブログのほうは、ページが更新されるたびに読むことが半ば日課のようになっていました。「親鸞会ブログポータルナビ」ができて、とても便利になりました。ぶるうのさん、ありがとうございます。教義関係のブログ(「飛雲」など)や、質問形式のもの(「安心問答」など)、種類も増えて、とても勉強になりました。「私の白道」も、ほんとうに胸に迫るものがありました。それらを通じて「救わる、ということが、本当にある」「現に、南無阿弥陀仏を叫んでおられる」「そこでなくても、他所でも、説かれる方はいらっしゃる」ということは、理解はできました。
 それでも、重い腰を上げてまで、再び聞こうとする、までには至りませんでした。もはや過去のこととしておいて今さら面と向かいたくない、何となく遠ざけておこう、という意識や、日々の日常のルーチンにいるうち「今すぐに、でなくても、そのうち」と思っているものは、いつまでたっても手につけずじまい、という惰性的な気持ちに流されて、また5年6年、たってしまいました。
 一昨年、会社の部門整理により退職することとなり、一時的に平日の多忙さが一気になくなりました。職探しについて、どうしようかという心配はありましたが、ぽかんとしたヒマができた分、あまりに手持無沙汰で、今まで考えずに放ってきたことを、自然と考える機会となりました。そこへ父の危篤も重なり、身辺が急にあわただしくなってきたな、と思っているところ、半ば日課のブログめくりをやっていたら、RCさんの勉強会案内が目に留まったのでした。
 勉強会のあることは、その時初めて知ったのではなく、ネットを見ている中で、存在は知っていましたが、講師でいらっしゃるのが嶋田さんと知って、心に「うん?」と動くものがあったのでした。私の知っている、嶋田さんが、わたし自身はとうに郷里を離れて暮らしているのに、その福井からこちらに向かってくる。なんだか、これは行かないわけにはいかない、この機を逃してはいけないと思われて、前日あわただしくRCさんに問い合わせ、参加させていただいたのでした。
 仏願の生起本末を聞かせていただきました。少しの懐かしさと、本当の教えはこうだったのか、という、おそらくその時その当時でしか感じられないであろう新鮮さと、これまで放り出してきたままのことが、また目の前にあったことの不思議さとを、感じておりました。ありがたいことでした。
 以後、「やっぱり聴聞しよう」と思い直しました。嶋田さんからは本もいただき、早速読みました。築地本願寺の常例布教にも行ってみました。RCさんからは、ご法話の案内もいただいたので、失業中のひまも手伝って、機会のある所には出向いたりしました。
(近所のご法話にも一度行きましたが、その時は「あれ?違うぞ」と思いました。一々は覚えていませんが、救われた後の前提で「今の生活をいかに御恩報謝するか」というように聞こえてしまったのです。「信心決定しなければならないのに、そんなのんびりした話があるか」「どうやったらいただけるか、を聞きたくて来ているのに、それは済んだ話になっているのではないか。これは、あかん。」と勝手に決めつけてしまったこともありました。今にして思えば聞き間違いだと思いますが。)
 築地では、阿部信幾先生のご縁もいただきました。「南無阿弥陀仏は往生の証拠です。」と、その心をお説き下さいました。「法蔵菩薩が、わたしを救わずば仏にならないと誓いを立てられて、兆載永劫の修行をなされ、阿弥陀仏という仏になられた」「その阿弥陀仏は、南無阿弥陀仏という声の仏となられて、いまこの私の元に届いている」「今、南無阿弥陀仏が聞こえる世界に、いるのです。」「そのように誓われた法蔵菩薩が、阿弥陀仏になられたということは、わたしの往生は定まった、ということです。」「南無阿弥陀仏は、往生の証拠です。」(このようにわたしは聞きました…。)
 南無阿弥陀仏の意味を教えて下さり、それはそれでよかったです。有難くお話を頂戴いたしました。
 が。それはそれとして。南無阿弥陀仏が完成していることは、話としては分かりました。
で。肝心のわたしが、まだ救われていないんですけど。
 どうしたら、救われた身に、なるんですか?
 どうやったら、それを、いただけるんですか?
 それを、教えてくれませんか。
 こんな疑問が、どんどん出てきました。その日は食事会もあり、「お尋ねしたいことは何でもどうぞ」という雰囲気だったので、先生にいくつか質問をさせていただきました、今にして思えばどうでもいいことですが。お気楽に受けて下さりありがとうございます。(日中の常例布教でご法話された鈴木純幸先生もその場にいらっしゃり、わたしの質問を聞いて下さっていました。よほどわたしの物言いが他力をはねつけていたのでしょう、先生のお答えに返事するわたしに「その、はい、が大事ですよ。」とおっしゃって下さったのが、印象に残っています。)
 以降、新たな職にも就き、聴聞するようになりました。
 が。「救われていないわたし」は一向に変わりませんでした。どうしたら、南無阿弥陀仏をいただけるのか、は、相変わらず疑問のままでした。肝心のことを、聞けていない。阿部先生のご縁も、都合のつく限り、聞かせていただきました。昨年最初の、この勉強会で嶋田さんから教えていただいても、やはり疑問は変わらないままでした。
 わたしにとっては、なぞでした。
救いは完成しているはずなのに、救われていないわたしがいるのはおかしいじゃないか。
なぜ、わたしは、救われていないままなんだ?
いつになったら、助かった身に、なるんだ?
どういう心境になったら、救われた、というのか?

 聞いているはずのものを、聞いていないのでした。
「晴れているのが分かったら、傘は要らないでしょう。晴れていると分かるから、傘は要らない、ってなるんです。傘を離したら、天気は晴れになりますか?ならないでしょう。」
 阿部先生は喩えでこう話して下さるのですが、今となってはよく分かりますが、その時には分かりません。「晴れているのがよく分かっていないから、傘を手放さないのだ」と思い、まだどこかに自分の理解不足があるからだろう、晴れが晴れだとよく分かったら、手放すこともできるだろう、としか思えませんでした。
 聞き始めのときと、まったく、心は、変わっていない。こうまで聞かせていただいて、まだ、分かっていない。これは、まずい。
 1月の勉強会以降は、「理解不足をなくすため」に、買いこんでおいた「大経」「観経」など諸解説本、RCさんからいただいていたご法話の録音、嶋田さんからRCさん経由でいただいた本(のコピー)など、手元にあるものを片っ端から、読み直すものも、買っておいただけでまだ読んでいなかったものも含めて、仕事から帰って、寝てしまうまで、ずっと読み続けていました、「足りないはずの何物か、を埋める」ために。「それがあれば、助かるだろう」という手がかりが、どこかにあるはずだ、と思って、読み、録音を聞いていました。「それが何かは分からないが、それがあるために助かった状態にならない何か」を一生懸命、探していたのでした。
 そんな日が1カ月ほど続いたのですが、そんなものは、ありませんでした。相変わらず、「助かっていないわたし」だけが、ありました。
どうしたら、南無阿弥陀仏は、いただけるのか。これは、どうしても目の前にふさがる巨大な壁であり続けました。そしてその壁は、乗り越えることはできませんでした。「ここまで聞いても、分からなかった。自分は、分かる身じゃない。ほんとにあきらめよう」今度こそ、辞めた、と思いました。自分としては、やれることはやりました。思い直してまた聴聞しようとか、聴聞していったらそのうち分かってくるだろうとか、でも「救われた身になる能力」は、わたしにはございませんでした。
 聴聞も辞めた。仏法も、辞めた。ほんとに、辞めた。もう全部、辞めてやる。救われるなんて、辞めた。
 その時、ああ、そうだったのか、と分かりました。
南無阿弥陀仏。
だから、言ってたでしょう。最初から、わたしが全部用意してあるのだから、任せなさいよ。
阿弥陀仏のお呼び声、とは、このことだったか。
南無阿弥陀仏。
お任せします。
南無阿弥陀仏。
わたしで何か作るものではありませんでした。
南無阿弥陀仏。
任せなさい、とおっしゃるから、お任せします。来い、とおっしゃるから、「はい」と言うだけです。
南無阿弥陀仏。
こういうことだったのですね。
ようやく、南無阿弥陀仏の心を、分からせてもらいました。上の言い方では、全然、足りないですけど。わたくしの口から出た、わたくしの、今の味わいです。言葉は全然言い足りないですが、なんと、ありがたいことでしょうか。「にぐるものををわえとるなり」とは、このことでしょうかと、思っております。阿弥陀様は、ずーっと、いて下さった。今、現に、南無阿弥陀仏となって、おわします。
(大学入学時のご縁も捨て、もう一度と思ってみたのも捨て、ほんとうのご縁だと思ったものも捨てようとして、そこに、ありました。わたくし的三願転入でしょうかね。まあ、今の身としては、そんな、以前のことはどうでもいいですけど。)

 以降、聴聞は楽しみにしております。今まで、ほんとうに、聞いてこなかったなあ、と思うような、新しいことを気づかせていただけます。浄土までの間、阿弥陀仏のお育てをいただきながら、聴聞をし、ご恩をより深くお知らせいただき、わたくしなりの謝徳の行いをして参りたいと思います。
 慧日会のご縁、また楽しみにしております。

あさ川です。少し飛びましたが、わいるどひっぷさんから投稿文の②です。

①をまだお読みでない方は、 こちら です。

========(以下、わいるどひっぷさんから投稿文です)========


 さて、姿をくらましたわたしは、この先どうしたらよいものか、途方に暮れました。大学は今さら人より遅れてやり直せない、じゃあこの先、進路はどうする。求道の方は、きつくてついていけませんでした。今までは、辞めていく人を見て「人生の目的を知っていながら求めないのか」と誤った優越感を抱くような雰囲気もあったかもしれぬ中、今度は自分が敗残者になってしまった。当時のわたしの心境は、世間のことも仏法のことも満足にできぬ負け犬でした。
 この先どうしたらよいものか。敗残者のわたしが取った結論は、「もう1度、求める。今度は、1人で。」というものでした。そこで、もう一度大学を受験しなおすことにし、翌年、中央大学の哲学科に入学しました。ただこれは、もう1度求めるとか、今度は1人で、とかは、言葉の上でだけで、実際は多分に打算の働いた行動でした。求めるべき場所を逃げた者が、逃げた先で、世間上のものを同時に得ながら、かつ後生の解決に関わることを続ける方法として、選んだのが、これだったのです。かつ、「死に本願寺・干餓死本願寺」なのですから、宗門の大学へ入って教えを乞うわけにはいかない。そこに信心決定はない。だから、宗派のまったく関係のない大学の、哲学科を選んだのでした。幸い、合格できるだけの学力は、間に合いました。そこで、あわよくば、研究者としての途があれば、求めることは、続けていける。そう考えて、故郷の福井を離れ、東京へ引っ越したのでした。
学費はもう親に頼るわけにもいかないので、新聞配達をしながら、大学に通いました。(再受験するまで家族との一連のやりとりもあったのですが、ここでは割愛いたします。)
 離れて、一つ、よかったのは、人から聞かれても「親鸞聖人のことを勉強している」と堂々と言えるようになったことです。これまでは、なぜだか、隠していました。「人生の目的を果たす」こんな立派な集まりなのに、なぜ、堂々と言えない。なぜ、隠す。友人にも、家族にも、黙っていました。「自分のことを知らない」場所へ行って、「自分の人となりを知らない」人に向かって、集まりの正体を隠して、声をかける。後には引かない、引けない状況を計らいながら、ちょっとずつ、ちょっとずつ、事実を告げる。こんなことをやっていたんじゃないかな、と、断片ですが、思い出されてきます。
 ただ、「一人で求める」というのは、ただごとじゃなく、つらいものでした。元々は理系の学部に最初は入っていました、そこからまるで違う学部に入り直し、受験程度の古文・漢文の知識と、教えられたところの教学しか持っていないところに、大経・教行信証などを読み込もうと当時はしておりました。しかも、「蓮如上人以来、善知識はおられない」のだから、「大家の所説といえどしょせん信前の、誤った言説」にみだりに惑わされてはならない、と勝手に思い込んでいました。
 辞書を引き引き、解説書・概説書は語句の説明・用語の解説は参考に、他力の解説は慎重に、と思いながら、「自らの目でお聖教に目を通す」試みをやっていました。大学院の修士修了まで、いつしか10年たっていました(途中、1回、大学院の入試に落ちたり、修士課程は4年まで在籍できるので、籍は置いたりして)。
 (その間、何気に新聞を見たら「なぜ生きる」ベストセラー!なんかもありました。その時は、「逃げてこそこそ卑怯なわたしがいる一方で、真実は着実に広まってるのか…」さすがだなあ、と思ってみたり、「こんなところで一人何やってるんだ」と落ち込んでみたり…。今からすれば、どうでもいいですけど。また、院の1年後輩で入って来た人が、わたしが親鸞聖人をテーマにしていると知って「へーっそうなんですか」と驚いてくれたこともありました。「なんで?」って聞いたら「大学に入った時、サークルに誘われたんですよ。しばらくしたら、親鸞のことを聞く集まりだって」「ああ、そんなのがあるの? で、それからどうしたの? 続けたの?」「いえ、1カ月くらいでもう行かなくなりましたけど。」ああそうですか。その時は知らんぷりして話していたけど、その中身、実は知ってるよー。なんて思った出来事もありました。)
 結局のところ、一人ではどうにもできませんでした。字づらを追って表面上の意味はとりあえず追いかけても、「なぜ、この文脈で、こう出る?」とか、まして安心のことになったら、さっぱり分かりません。(ちなみに、二河白道は、聞かされていた話とまるで違いましたね。でも当時は、時代背景を考慮した上で現代人に分かるように合わせた深いミココロだと、勝手に解釈していました。)おもちゃのようなニセ教学を正しいと思いこんで、意識はせずとも「いかにその解釈に沿うか」と読もうとしていたのだと振り返っています。そうすると、文底秘沈的にならざるを得ないのも、分かります。
 自分なりに、他力観というものを、修士論文にまとめ、それで「求道」は終わりにしよう、と思いました。幸い、真宗については門外漢の大学でしたので、あまりにお粗末な修士論文は、それはそれで通りました。もうどうでもいいことです。
 もう、自分の中で、仏法は、終わりました。


(あさ川註:③に続きます)

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