あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

カテゴリ : ご家族の方むけ(仮)

私のところにはほとんど情報が入ってきませんから最近の親鸞会のことはよく分かりませんけれども、私が居た時でさえ(大)学生は相当に少なくなっていたので、新たに親鸞会に入るという方も少なくなっているように思います。ただ、以前に聞いた話でSNSでの勧誘も活発化?しているという話も聞きますから、以前のように大学入学時に勧誘されて、夏合宿の頃に入会という流れ(私は入りませんでしたが)は変わってきているのでしょう。


そういえばそもそも親鸞会に入るメリットってなんだろう、とふと思いましたので、今回はその関係の話を書こうと思いました。以前に何本か、「ご家族の方向け(仮)」の記事を書いていたのですが、一応その流れで、どちらかと言えば会員の経験がおありでない方向けの記事です。


まあ、結論から言えば「メリットは無いこともない」という平凡なものですし、批判的な皆さんにおいては「入会なんて検討の余地すら無い」のではないかと思うのですが、あえてそれをこれからダラダラ書きます。




漠然と「親鸞会のメリット」を考えてみたところで、そもそも人によって感じるメリットは違うであろうと思いましたので、そもそも親鸞会に何を求めていたかを考えますと、私の場合、

「人生の目的をさっさと達成するためのもの」

でした。人によって程度は異なるかも知れませんが、親鸞会が「なぜ生きるの答え」をアピールして勧誘していることを考えますと、だいたい他の方もその辺のことを(少なくとも入会当時は)求めていらしたのだろうと思います。「金儲け」や「出世のための勉強」はお門違いでしょうから。


私の学生時代を思い出しますと、周りのだいたいの学生は、親鸞会の入会案内を受けたらすぐに入会してしまっていました。私は宗教団体のメンバーになるのが嫌で何度か断っていたので、すぐに入会するような心理状態が(正直なところ)よく理解できないのですが、やむなく入会に至った心持ちを思い出しますと、もはやメリットデメリットを検討しての結果ではなく「手詰まり感を覚えたから」でしたので、ひょっとしたらすぐに入会した多くの皆さんもそんな感じだったのかなあと思いました。


ちなみに、こういう思考に至らしめる過程をマインドコントロールというそうですが、それはまた機会があったら書きます。


だいたい、通常しないような選択をする場合は、あまり理屈っぽく考えられないのですが、目の前に親鸞会の入会のようなイベントがちらついている場合には、入会するにしてもきちんと考えた方が良いかと思います。


とりあえず(是非は置いといて)考えられそうな「メリット」を挙げてみます。
(厳密に言うと包含関係と見られるものもありますが)


・信心決定(=「人生の目的達成」)の近道になる
・仏教を深く学べる
・「高森先生のご法話のご縁」が増える
・友人が増え、生きがいが得られる
・御名号本尊を頂ける



そして、親鸞会に入会したらこうなる、ということも挙げてみます。


・入会金や会費等が発生する
・誓約書を書かされる
・様々なお布施の案内が来るようになる
・先輩会員が入会前ほど親切に構ってくれなくなる


親鸞会経験者の皆さんからの「こういうこともあるよ」の情報等頂ければまた有り難いのですが、いったんは上記挙げた内容を少し詳しく見ていきたいと思います。



<「メリット」の内容>

●信心決定の近道になる、について


まずもって、親鸞会の入会が直接「信心決定の近道」になることはありません。この点については、入会勧誘レベルで先輩会員や講師部員の人が言うケースはあるかもしれませんが、少なくとも現在は親鸞会でも公式には言っていないはずです。


いかに不信なりとも、聴聞を心に入れて申さば、御慈悲にて候うあいだ、信をうべきなり。ただ、仏法は、聴聞にきわまることなりと云々
(蓮如上人御一代記聞書 193)


ここをもって『大経』に言わく、諸有衆生、その名号を聞きて、信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心回向したまえり。かの国に生まれんと願ずれば、すなわち往生を得、不退転に住せんと、と。

(中略)

「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」と曰うなり。「信心」と言うは、すなわち本願力回向の信心なり。
(教行信証信巻)



親鸞会で話を聞いているとよく出てくるこれらのご文にありますように、信心決定は自分で頑張った結果得られるものではなく「お慈悲によって」でありますから、親鸞会に入るとか入らないとか、お金をいっぱい遣うとか遣わないとか、そういったことによって左右されるものではありません。なおかつ仏願の生起本末は、親鸞会の会員にならないと聞けないという性質のものでもありませんから、「信心決定の近道」という点は「親鸞会入会のメリット」とはならないかと思います。



●仏教を深く学べる

親鸞会には「教学聖典」なるものがありまして、ご文の引用が「?」と思える部分もありますがお聖教のご文を覚えるきっかけにはなるかと思います。

ただ、(最近そんなこと言う人はいないでしょうが)「これ(教学聖典)を覚えれば、本願寺の学者よりも教学力が身につく」などと本気で思ったら大恥かきますので注意した方がよろしいかと思います。

仏教を深く学ぶ、という観点だけで言えば、大きな書店に色々な本も売られていますし、本が高いということであればネットでも詳しい方がいろいろいらっしゃいますから、そこで学ぶことも出来ます。

どうしても教学聖典が良いということでしたら、別に親鸞会の会員でなくても購入できたはずですので、親鸞会館に行った際に購入すればよく、必ずしも親鸞会に入会しなければ学べないというわけではありません。



●「高森先生のご法話のご縁」が増える

私が学生時代には、会員の中でも教学聖典の丸暗記に成功した人だけが受講できる「教学講義」なるご縁がありました。しかしながら、数年前に無くなってしまいました。

会員さんの中でも特定の条件を満たした人だけが参加できる「ご縁」は、「ご法話」に限らず存在しますが、出来たり消えたりしているので最近はあるのかどうなのか、私には分かりません。なお、講師部員対象の講師部会議などは、聞くところによると昔から今に至るまであるようです。


そういう意味で言いますと、親鸞会に入会することで「高森先生との(ご法話に限らない)ご縁」が増えるのは間違いないですが、ただ会員かそうでないかの違いだけで差が生じることはあまり無いです。限定された「ご縁」にあうためには、たとえば先に述べたような「教学聖典の丸暗記に成功」だとか、「●●円以上のお布施」といった条件が別途必要なことが多いように思います。


「高森先生のご法話のご縁」に拘る場合、別途条件が追加で必要だとしても「親鸞会に入会するメリット」は感じられると思います。ただ、蓮如上人は次のように言われています。


帰するところの弥陀をすてて、ただ善知識ばかりを本とすべきこと、おおきなるあやまりなりとこころうべきものなり。
(御文2-11)




●友人が増える

「親鸞会会員の」を頭に付ければこれはその通りだと思います。ただ、親鸞会は人の入れ替わりがそれなりに激しいために、増えた友人全てが何十年の友人となるかといえば、まず望み薄だと思います。


だいたい友人になったら、会をやめたとか続けているだとか、そんなことはあまり関係無いようにも思うのですが、こと親鸞会に関して言えば、離れる際に人間関係も切れてしまうことが少なくないです。

と言いますのは、経験上、親鸞会を離れる時に円満に離れられるケースが殆ど見られないからです。ふつう、会というのは入るのもやめるのも自由で、親鸞会も一応そのようになっているはずなのですが、やめようとする際に強く説得されるだとか、人(引き留める側の会員さん)によっては自宅突撃などトラブルになりかねないほどのことが行われるために、勢いやめる側も

・徹底的に争う
・徹底的に無視する
・トラブルを未然に防ぐために気付かれないようフェードアウト 等

といった対処を迫られるがゆえに、親鸞会の中と外に分かれた時に人間関係が終焉を迎えることが少なくないように思います。
もちろん例外もありますし、最近は若干ましになったかもしれませんが、劇的に改善しているという話は聞かれません。


ですので、友人を増やすことを第一義に親鸞会の入会を検討することは、まったくお勧めできません。



●御名号本尊が

私が学生時代、先輩がやたら入会を勧めてきた内容として「親鸞聖人御真筆の御名号が頂ける」ということがありました。これは、当時においては正しかったのですが現在は状況が変わっています。


あの御名号本尊は親鸞聖人の筆跡の通りだろうとは思いますが、唯一現存している六字名号の写真と見比べるとスッキリしすぎています。ネット上では「貼り合わせ」と指摘されている代物ですが、今回その部分は考えません。


当時(私が大学生の頃)、「御下付」と言っていた通り「頂けるもの」という認識だったのですが、しばらくしてからなぜか「貸与」に変わって、退会等のときには返却するという誓約書を書くことになりました。


そういうわけで、親鸞会に居る間は御名号本尊が手元にあるわけですが、あくまで貸与ということであって、いつまた話が変わるか知れたものではありません。


御名号本尊が貸与されることを目当てに親鸞会の入会を検討される方はまず無いでしょうが、御本尊に関して言えばお寺に行けば求めることは出来ます。私の家の仏壇にある、親鸞会の携帯用御本尊と同じくらいの大きさの十字名号は、1万3000円でした。(脇掛という扱いですが)
お仏壇屋でも求めることは出来ると思います。



<入会した後>

私が知っている時代の話で言いますと、入会金は5万円(学生なら2万円)です。会費はいくつか種類がありまして、毎月3千円(学生は2千円)から100万円までの種類があります。

参考
※10年ほど前の記事ですが、私が親鸞会から追い出された3年程前も変わってませんでした。


月に10万円以上の会費を出しますと、普通の会員バッジではなく丸い会員バッジにグレードアップします。しかし、会費が少なくなると返却する羽目になります


会費以外にも、法話等のご縁の時にはお布施が募られます。親鸞会館での法話の場合、受付で一万円札を出すと、何も言わなければ5千円戻って来ました。もちろん、お布施は本人の志次第ですので、5千円である必要はありません。「お気持ちで」と言って千円札一枚を出そうが百円玉であろうが構わないと言えば構わないでしょう。

全く出さない(受付に行かない)人も、私が居た当時はありましたが、そういう方は名札で分かるようになっていました。最近はまたシステムが変わっているという話も聞きますので、現在どうなっているか、詳細は分かりませんが。


あと、先ほど御名号本尊のところで述べた通り、「退会した時には御本尊を返却します」という趣旨の誓約書を書きます。なぜか入会後一回では無く、思い出したように不定期に書くようにいわれます。


あと、親鸞会で顕著なのは、様々なお布施です。「ご著書」が出版されるたび、各地の会館が建てられるたび、同朋の里の建物が増えるたび、その他親鸞会に大きな設備(アニメバスとか)が入るたび、お布施の機会が訪れます。各お布施で大金を出しますと、表彰されたり懇親の機会が得られたりしますが、懇親の際もお金が掛かったりすることがあるのはご愛敬です。


先に紹介したサイトにお金の話が出ていますが、ある程度熱心な会員さんの場合、年間に100万円以上お布施に費やしたりします。


あと、これは私がなんとなく感じていたことでもあり、また、退会された年配のとある元会員さんが仰っていたことでもありますが、入会前は色々親切にもしてくれ、熱心に話しもしてくれていた先輩会員さんが、入会してある程度安定して親鸞会館に参詣したりすると、安心したかのように放っておかれるようになります。個人差があるのかもしれませんが、釣った魚にえさはやらないを地で行くような扱いを受けるという話は、ままあったように思います。(個人の感想)



さて、親鸞会の入会を検討される場合にメリットを検討してみると、メリットが全くないこともないですけれども、親鸞会に入会しなければ得られないような大きなメリットがあるかと言われると、微妙だなあということになるかと思います。ここで、そのようなメリット等を考えるまでもなく、親鸞会に入会しなければ魂が救われないように思われている方があるとしますと、まさにマインドコントロールの中にある可能性がありますので、それはそれでよく検討された方が良いかと思います。


親鸞会に入会して、やめていかれた方の中で少なくない方が大変な後悔をされていますが、一方で、必要な縁だったとあじわっていられる方もあります。どちらに転んだにしてもそれは結果論ですから、どうしても親鸞会に入会したいと思われる方を私は止めませんけれども、強いて親鸞会の入会を勧めようとは思わないのでありました。


いずれにせよ、南無阿弥陀仏とのご縁にあわれれば、有り難いご縁だなと思う次第です。


南無阿弥陀仏南無阿弥陀仏

おそらくは今年最後の記事かと思います。

お手紙のやりとりをさせて頂いている方からのお返事がまだできていないのですが、思うところもありまして年内のお返事を見送らせて頂こうと思います。そこで今回は、学生時代などを思い出しながら、親鸞会の冬休みについて書こうと思います。一応今回の記事は、「ご家族の方むけ(仮)」の記事です。


学生や、あるいは就職して間もない時分の場合、遠方に行っていたりしますと普段はなかなか顔を合わせることがありません。私なんかはそういうパターンで、だいたい夏休みと年末年始に実家に帰っていました。


普段から顔を合わせている同居の場合は、恐らく年末年始も変わらず顔を合わせているでしょうから、特別でもないのかもしれませんが、たまに帰ってくるとなると、家族から一応は歓迎されたりしていました。そういう私は運が良かったのかもしれませんが、同じように遠方に実家がある人の中には、帰るたびに親御さんの反対に遭うとかいう人がいたり、さらには何か言われるのが嫌だからそもそも帰らないなどという話も聞いたことがあった気がします。


そこで、今回の記事で言いたいのは、月並みなのですが、親鸞会をよく思われずにやめてほしいと思っていても、たまに帰ってきた時には温かく迎えてやって頂きたいなあということです。

そもそも(私みたいに)親鸞会のことが好きではない場合は「まあ言いたいことはよく分かる」と思うことがあるかしれませんが、親鸞会が正しいと思って熱中している時には、残念ながら言えば言うほど逆効果になってしまうと思います。そうやって、先ほどの例みたいに、顔を合わせるのも嫌だというようになってしまうと、余計にご家族の方からご本人の心が遠ざかってしまうことさえあるのではないでしょうか。

私が「温かく迎えて」と書きましたのは、ご家族がご本人にとっての「居場所」であり続けることが大切では無かろうかと思うからでもあります。例えば親鸞会の活動に心折れた時、あるいは折れずに活動を続けていったとしても、居場所があれば戻ってくることができます。

本来なら、さっさと親鸞会から離れてほしいと思われたとしても、言ってさっさとやめるくらいならそんなに熱中しないと思います。(大して正しいとも思っていないようでしたら、ちょっと強く言えばすぐやめる可能性は大いにあると思います) 以前にも書きましたが、残念ながら長期戦になることが多いと思います。


そういえば言い忘れましたが、いくつかあったケースとして、「ご家族に対してはやめたことにする(つまり本当はやめていない)」ということがありました。一概には言えないでしょうが、ご家族の反対が強いのにご本人の親鸞会依存度が高い場合に見受けられると思います。言動だけで見分けるのは難しいかも知れませんが、そういう場合もありえるということは頭に置いて頂いても良いかしれません。

とはいえ、経験から申せば、こういう場合も多くはいずれやめていきましたが。





さて、言いたいことを先に書いてしまいましたが、一応親鸞会の冬休みということで、ひょっとしrたら何かの参考になるかもしれませんので、思い出がてら続けます。


就職するとそんなヒマもありませんが、学生時代には「冬合宿」というのがありました。だいたい、冬休みが始まる3日間程度、合宿をします。合宿では、冬休み中の過ごし方の心構えなどを教育されます。下宿後に、下宿生の中には帰省する人もいますし、しない人もあります。社会人は、特に合宿などはありませんから、支部の行事の兼ね合いを見て、実家に帰る人は帰ります。


ある程度会員歴が長い人で帰省する人は、封がされた封筒を受け取って帰省します。


新年が明けますと、封筒を開封して、「顕正新聞(親鸞会の機関紙)」の「年頭所感(「会長先生のお言葉」)」を「拝読」します。会員さんの中には、もらってすぐ開封する人もあるかしれませんが、「年が明けてから拝読」と決められているのでたいていの人は年始に読みます。学生で自宅生の人は、年明けに部室に集まって「拝読」します。年越しのタイミングで部室に集まって、「ご著書」を「拝読」しつつ年を越す人もあるようです。


「年頭所感」は、最近では大概『ご著書』の一部分の抜粋のような構成が多かった記憶がありますが、学生は熱心に何度も「拝読」します。なぜなら、覚えさせられるからです。年明けに集まった時には「年頭所感」を覚えていないと講師部員から叱られることがあったような無かったような、そんなものでした。


そして、年明けすぐの日曜日には「初聞法会」と称して富山の親鸞会館に集結します。早い時では3日に「初聞法会」があった記憶があります。このときには、帰省していた下宿生も富山に行きます。

ちなみに、「初聞法会」の前日には、「新春大会」という会食会が行われていました。これは会費が1万円(学生の場合。一般は2万円だった記憶があります)の会食会で、一応「会長先生と一緒に」ということになってますが、講堂一杯に人がいますのであまり実感は湧きません。ここでは、梅酒で乾杯しながら弁当を食べ、「親鸞会はこんなにすごい」という映像を見ながら皆でスクラムを組んで「親鸞会同志の唄」を歌うという集まりです。3日に初聞法会がある年の場合は1月の2日から親鸞会館に足を運ぶわけです。

「初聞法会」は、新年最初の法話ですので、熱心な会員さんは当たり前のように参詣するのですが、そもそもまだ正月気分も抜けない日取りだったりすることもありまして、あまり参詣数は多くなかった覚えがあります。

先ほど書きました、「年頭所感を覚えているかどうか」は、この初聞法会で聞かれます。今の学生さんはどうか知りませんが、学生は大変です。


おおよそ、会員さんの冬休みは、以上のように消費されていきます。


あと、ちょっと熱心な会員さん(大概、親鸞会館に行くような学生の場合は当てはまりますが)の、冬休み中のイベントに対する過ごし方としては、

・親鸞会の「えらい人」に年賀状を出す
・年賀状に「あけましておめでとう」とは決して書かない
・年始の挨拶「あけましておめでとう」も言わない
・初詣では拒絶する(もしくは神社の鳥居は決してくぐらない)

というようなことがあったかと思います。(うろ覚えですが)

年賀状については、「謹賀新年」は良いようです。「賀正」が良かったかどうかは覚えてません。私は字数を稼ぐために「謹んで新年のご挨拶を申し上げます」と書いていました。最近は「会長先生への年賀状」を書ける人は限られた人だけになったようですが、学生時代は必ず書くように勧められていました。そこで決意発表をするというわけです。

「あけましておめでとう」を言わないのは、「一年経ったと言うことはそれだけ死に大きく近づいたから・・・」というわけです。私は、友人から「あけおめ」メールが来た時に「ことよろ」と返していましたが、今は別に気にしてません。

初詣での件、鳥居をくぐらないのは別に親鸞会に限った話ではないのでしょうが、日本人のある意味では恒例行事なだけに、会員さんは苦慮していました。よくある逃げ方としては、仮病が使われていたようです。講師部員も、一番無難な方法として仮病を推奨していたような気がします。

最近手紙のやりとりをさせて頂いている方の情報からすると、今の親鸞会はこの辺が緩くなっているような話も受けていますが。


親鸞会のことをあまりご存じで無い方からすれば、上記のことはいずれも奇異に映ることかと思いますが、これはいずれも親鸞会の教えているところに由来するものです。詳細は述べませんけれども、ごく簡単に申しますと、上記のことが出来ないと「救われない(親鸞会にいる目的が達せられない)」、という思いがあるからです。有り体に言えばそう理解するように教えているのは親鸞会であるわけですが。


ですので、熱心な会員さんほど、上記のことで文句を言うと喧嘩になってしまうと思います。それは、ご本人にとっては「人生が掛かっている」からです(厳密に言いますと、不十分ですが)。

会員歴が長くなると、人によってはこのあたりの受け流し方も身につけてくるのでしょうが、会員歴が浅い人の場合は、どうしても純粋であるがゆえに、周囲の方からご覧になると違和感を覚えることが少なからずあろうかと思います。これも先ほど申した通りです。


思い出すままに親鸞会の冬休みについて書いてみましたが、補足や訂正すべき点などございましたら、会員歴のある皆さんにコメントをお願いして、今年の締めとしたく思います。


今年もたくさんの方のご縁を頂きまして、ありがとうございました。

メールを頂いたりメッセージを頂いたり、といったことが続いているのですが、まだまともにお返事が出来ていませんで失礼しております。早いうちにお返事などしたいと思います。



さて、たぶん昨日と一昨日で今年の親鸞会(宗教法人浄土真宗親鸞会)での報恩講が行われたのであろうと推測しておりますが、その中には会員さんに誘われて初めて親鸞会館に行かれた方もあろうかと思います(ここの読者の方で、どの程度そのような方があるかは分かりませんが)。


これだけネットでいろいろ言われている親鸞会ですが、今回初めて行かれた方の感想はどのようなものだったでしょうか。これは行かれた方に聞かないと分からないところですが、私が会員時代に顕正新聞を読んでいて出てきたのは、


「素晴らしいところだった」


という感想です。機関誌だから当たり前なのですが、本当にそれしかありませんでした。強いていえば、


「不安だったけれど」
「心配だったけれど」
「最初は不審に思っていたけれど」


が頭に付くことはありました。
親鸞会では、「親鸞会館へ一度参詣すれば、あなたの宗教観は一変します」というようなことを吹聴しているわけですが、実際にそうなった(?)方もあるようです。


ちなみに私は、家族を別々の機会(10年以上前)にそれぞれ親鸞会館へ連れて行ったのですが、高齢だった祖母はともかくとして、両親や弟は、


「うさんくさそう」

が、

「やっぱり駄目だこりゃ」


に変わっただけでした(変わってないとも言えますが、悪くなったと言えます)。母親は、「同じ話をぐるぐるしているだけで、たいした話をしとらん」と言ってました。その時以来、両親も弟も、本音ではさっさとこんな宗教団体から離れてほしいと思っていたと思いますが、強硬にやめろとは言われることがありませんでした。


ちなみに我が家は仏教に対して特に抵抗があるわけでもなく、墓参りは月に2回行ってましたし法事も欠かさずしておりまして、祖父の50回忌まで勤め上げていました。ただ、特に両親が行った報恩講では、当時正本堂の建設中で、正本堂の自慢ばかり流れていましたので、嫌気がさしたのも分かります。


以上は両極端の反応ですが、そのほか学生時代には学生が家族を連れてくることも多く、その反応は様々でした。


たいがいは大人の方ですから、表だった不信感を前面に出される方は少なかったのですが、その後も続けて来られる方が少なかったところを見ますと、


「たいしたことない」
「やっぱり怪しい」


といったところか、せいぜい「可も無く不可もなし」といった感想だったのだろうと思います。



行かれた方がどのような感想をお持ちになるかは人それぞれですから、私はどのような感想も「その方にとっては正しい」感想であると思います。ただ、通り一遍を見ての感想と、そこから深く付き合っていった時の感想とは、これまた必ずしも一致しないことは、皆さんも経験上お分かりになるかと思います。


現在財務省の麻生大臣は、「半径1.5mの男」と呼ばれていると、以前に新聞で読んだことがあります。遠くから見ている姿と、近づいて見ている姿とでは、まったく印象が異なる、ということのようでした。斯様に、それは団体に対しても言えることであろうと思います。


なぜふと、このような話を書いたのかといいますと、最近私が仕事で似たようなことを経験したからでした。私個人としてはそれほどでもないと思っていた人が、やはり評判通りの人だった、というところですが。

人の評判は得てして当てにならないと思いますが、全く外れてもいないなあと改めて思った次第です。



親鸞会に対して良い印象を持たれなかったとすれば、その後積極的に親鸞会と関わることは少なくなるでしょうが、良い印象を持たれた場合には、その後も関わることがあろうかと思います。

最終的にはご本人がお決めになることですが、親鸞会の目的は


「 一人でも本当の(親鸞聖人の)教えを知っていただき、
本当の幸福になっていただくこと」


と書いてあります(公式HPより。ただし括弧書きはあさ川註)。
親鸞会がその目的に足るかどうかは、最近はいろいろな情報がありますので、最終的にはご本人の判断になると思います。



ちなみに私が知る限り、親鸞会の中で「人生の目的達成した」と言われている方も数名あるようです。今も親鸞会にいらっしゃるかどうかは分かりません。亡くなる時に「救われた」らしい方の話も何人か聞きました。
あるいは親鸞会時代に弥陀の本願喜ばれたと言われる方も何人か聞いておりますが、なぜかそのような方は親鸞会を離れざるを得なくなることが多いようです。


親鸞会を離れた方の中でも、「親鸞会との縁が無ければ、弥陀とのご縁は無かった」と言われる方もあります。ただそれは、親鸞会によって救われたこととはイコールではない、というところがまたややこしいのですが。



RCさんから投稿文を頂きました。そういえば、もうRCさんが退会されてから一年近く経つのだと思いますと、長いような、短いような、不思議な感慨があります。RCさんは、親鸞会では目的が果たせないと思われて、退会された方です。さっき気がついたのですが、私のGoogleでは、「親鸞会」と検索すると、RCさんの投稿文が公式HPに次いで2番目に表示されました。


RCさんの投稿文は、今夜にでも公開したいと思います。

今日は久々に親鸞会に在籍経験の無い方向けの記事を書こうと思いまして、カテゴリ名について考えたあげく「ご家族の方むけ(仮)」としました。妻のこともあり、別にご家族だけではないのだろうとは思いましたが、良い名前が思いつかなかったので仮で決めました。良い名前の候補がありましたら、教えて頂けると有り難いです。

今日は、会員さんの休日の過ごし方を思い出してみたいと思います。あくまで私の目線ですので、違う方がありましたらコメントいただければと思います。


「休日」とカッコを付けて書きましたのは、会員さんの仕事ないし学校の休日、という意味合いからです。親鸞会自体は、意味合いとしては(熱心な会員さんであればあるほど)休める日という意味での休日は存在しなくなります。


親鸞会では、学生も社会人も概ね何かしらの支部または学友部に所属しています。そこでは毎日のように行事がありまして、仕事帰りに参加する人もあれば休みを取って参加する人もありました。私の勤務先は帰りのバスが3時間に1本に減らされたおかげで3キロほど歩いた別のバス停を使うようなところですから、通常の勤務日の帰りに親鸞会の行事に参加することはほとんどありませんでした。


仕事の休日、私の場合は土日ですが、これも親鸞会の行事があります。親鸞会の行事といいましても、私が親鸞会を離れる直前には、講師部員が直接話をする機会はほとんどありませんでした。


・ご法話:富山の親鸞会館へ行って、1日法話を聞く(遠方だと前泊または夜行)
・ビデオご法話:1日もしくは半日、ビデオを見続ける
・アニメ上映会:アニメ1本を見続ける(概ね2時間程度)
・テレビ座談会等:親鸞会館から中継される「高森先生の座談会」


などが一般的で、あとは不定期に光晴先生を囲んでの「親鸞学徒の集い」などの行事がありました。また、アニメ上映会も、支部行事の場合もあれば、チューリップ企画主催行事に動員、ということもありました。


基本的にはこのような行事または前泊で「休日」は費やされるのですが、まれにそのような行事が無い場合、あるいは遠方の場合は、


・ちらし配り
・サークル活動 (若くて熱心な会員さんが行う、布教を目的として会員でない方と行うもの)


などといった活動で、(仕事の)休日を過ごします。ですので、熱心な会員さんほど休める日というものはなくなります。

これらの行事に、どの程度参加するかはご本人次第ですが、親鸞会の会員でない方からすると、このような過ごし方は奇異に感じられるようです。




私が親鸞会を離れて(自分の意思ではありませんでしたが)、変わったことといえばこの(仕事の)休日の過ごし方です。親鸞会の行事に参加すれば、時間が取られるのは当然として、「お布施」やら「あんしん弁当」やらで1日5千円から1万円くらいは飛んでいきます。親鸞会館に行けば交通費も掛かります。

会費も掛かりますから、毎月親鸞会館に行っているような会員さんの場合、関東ですと最低で月に3万円程度は遣っていたのではないかと思います。また、体力も結構使います。


私の場合は、身体を壊したり資金繰りに困ったりするほどのことはしませんでしたが、会員さんの中には体をこわしたりされる方もありました。支部長や支部会員さんの人柄によっては、お見舞いを出し合ってくれる場合もありますが、親鸞会自体は個人に対しては基本的に何もありません。



会員でない方からご覧になれば、特に熱心な会員の方がそのように体力的にも金銭的にも追い込んで活動していることに対して、理解することがなかなか困難かもしれませんが、

・そうしないと救われないという思いがある
・喜びである

といった理由があるかと思います。


喜んでやっているのであれば私がとやかくいうことは無いのでしょうが、そうしないと救われないと思いがあるという点については、親鸞会での説法や書籍やアニメの内容などから、そのような信念が形成されていったのだろうと思います。

ちなみに、学生時代の私はそのような傾向がありました。今はまったくありませんけれども。

先日に頂いていたお手紙の返信は、日曜にようやく書きました。そのお返事を書いていて思いだしたことが今回の話です。

今回は、親鸞会の会員でない方向けの話です。そろそろ別カテゴリを作ろうと思っておりますが、カテゴリ名が思い浮かびません。


最近(私が親鸞会を離れてから)は、法話さえもまともに行われなくなったという噂も聞きますが、一応私がいた間で直近の話をします。


親鸞会では、富山にある親鸞会館で概ね月に一回法話がありました。その一年の中でも、親鸞会として大きな行事が2つありました。

・おおむね5または6月 → 降誕会
・おおむね10月 → 報恩講

ちなみにこの2つは、親鸞会限定ではありません。


親鸞会においては、この2つの行事は基本的に2日間行われ、

・土曜の午前・午後、日曜の午前 → 法話
・日曜の午後 → 弁論大会

というパターンは、私が在籍していた間は概ね変わりませんでした。
ただし、一昨年は2日間で正味の法話の時間は3時間でした。

親鸞会が「あんしん弁当」を作ってからは、土曜の夕方に1食2~3000円くらい(うろ覚え)の弁当を食べる会食会があったと記憶しています。


この2つの行事、特に報恩講は、一年で最大の行事ということもあって「お誘い」がすごいです。そのため、会員さんのご家族など、会員でない方、話を聞いたこともない方が大勢来られます。

私の学生時代には、ツアーを組んでまでして、学生たちがご家族を一生懸命誘っていました。


その法話の演題ですが、いちおう募集が掛かっていたように記憶しています。その中で、どういう決まり方になっているのかは分かりませんが、決められます。ただ、会員でない方が多い行事に関していえば、話の内容も、ネットで突っ込まれているような話はあまり強調されなかった印象があります。そういう意味で言えば、親鸞会の法話の中では、比較的聞きやすいのがこの報恩講や降誕会、そして8月に行われる追悼法要あたりだと思います。


ちなみに、最近はどうなっているか分かりませんが、親鸞会の法話の「お布施(昔はご報謝といってました)」は、一般の人で一回5000円が相場でした。万札を出すと、何も言わなければ5千円札が返ってきたものです。その5000円というのは、大きな行事ではないときの話で、たとえば報恩講は1日1万円(2日だと2万円)が相場だったと記憶しています(これもうろ覚え)。ちなみに、750回忌では確か1日2万円(3日間なので合計6万円)でした。

この金額が納められない会員さんは、支部長に「特別申請」をして許可をもらうことになっていたと思います。
なお、会員でない方は通常、いくら出せと言われることはないと思いますので、出す気が無いようでしたら出されなくても良いと思います。出されたい方は、出されても特段問題にはならないかと思います。


10年あまり前までは、通常の法話の前日(土曜)に、座談会というものがありまして、質問を書いて箱に入れておくと質問に答えてもらえる(かもしれない)ということがありました。ところが、体調面の問題からか、いつの間にか無くなってました。


さて、話を報恩講に戻しますと、私がいた頃の報恩講のタイムテーブルは概ね以下の通りでした。(うろ覚え)


土曜
9:30~(10:00からだったかも) 勤行
11:00~12:00 法話

13:30~ 勤行、その後体験発表
15:00~16:00 法話
17:00頃~ 会食

日曜
午前中は土曜と同様
13:30~ 弁論大会


勤行は、正信偈のおつとめをしますが、東西本願寺の節とは異なります。ひろしさんがお詳しかったのですが、覚えていません。勤行が終わったら、講師部員の随行文が定例でした。これは、講師部員がなぜ講師部員になったかという話と決意(「高森先生への信順」)表明です。初めての方は違和感を覚えるかも知れませんが、およそ宗教団体とはこういうものだと思っていただいたほうが、精神的には楽だと思います。


さて最後に行われる弁論大会は、私が思うに、「非常に親鸞会的なもの」です。弁論大会を見れば親鸞会が分かると言いますか、弁論大会が親鸞会と言っても言いすぎではない、と個人的に思っております。弁論大会をどのように捉えているかによって、その人の「親鸞会度」が分かるといっても良いでしょう。

10数年前の内容はさすがに覚えていませんが、弁論内容も、時代と共に変わっていました。その昔は「自分の体験談」だったようです。私の若い頃は「ある会員さんの信心決定体験」でした。近年はそれさえも無くなって、「自分(あるいはほかの会員さん)の”求道”披露」でした。今年はどうなっているか、聞けないのはやや残念です。


時期的に、今年の報恩講は 10/10、11と推測しておりますが、いかがなものでしょう。


*一部誤りのご指摘を頂きましたので、修正しました(コメント欄参照)

久しぶりにPCを起動しましたら、月曜にメッセージを頂いておりました。頂いた方、反応が遅く失礼しております。
取り急ぎであればメールをと思うのですが、メールアドレスの代わりに住所を頂きましたのでお手紙のやりとりになりそうです。そうしますと、さらに日数を費やすことになりそうですので、失礼かと思いながら取り急ぎこの場を使いまして仮のお返事としたく思います。お手紙での返事は、今少し時間を頂ければと思います。


今日は今までの記事とは少し性質が違うような気がしますが、タイトルのことについて、あさ川なりの考えを述べてみます。今回は、親鸞会の会員歴が無い方が読まれることを想定します。
会員歴がおありの方で、補足がありましたら、コメント頂ければありがたいことだと思います。



1.親鸞会の入会について

最近はどうか分かりませんが、私がいた当時、入会のためには5万円(学生は2万円)を納める必要がありました。ご本人の気持ちは様々かと思いますが、一応は数万円を払うという覚悟をお決めになった、ということなので相応の熱心さはおありだろうと思います。

ご本人が自ら進んで入会の事実を言われた場合、(一部の例外を除いて)ご本人には大なり小なり「親鸞会で教えていることは正しい。ぜひ皆にも聞いてほしい」「全人類が聞くべき教えだ」といった思いがおありだと思います。

ご本人は特に何も言われず、他のルートから入会の事実を知らされた場合は、大きく二つの場合が考えられると思います。ひとつは、「先輩会員」から口止めされている場合、もう一つは親鸞会への入会に何らかの後ろめたさがある場合です。ちなみに私は、「宗教団体に入ったなんて恥ずかしくて言えない」と思っていたので後者に該当します。

ただ、いずれにしても、程度の差はあれ「親鸞会で教えていることは納得できる、正しい」という前提があればこその入会だとお考えいただければと思います



2.心配なことと、そこまで心配しなくて良いこと

ここ数年、ネット上での親鸞会情報が増え(多くの場合は退会者情報かと思いますが)、充実してきました。
親鸞会の会員経験がおありでない場合、そのような情報が大切な情報源だろうと思います。そうやってご覧になった感想はおそらく、「こんな宗教団体に所属しているなんて危険きわまりない」といった内容だろうと思います。私が思いますに、今現在ネット上で公になっている情報が一通りご覧になった上で、「親鸞会は素晴らしい団体である」と思われる方は皆無だろうと思います。

一応私は、「会員だけど会員じゃない」と言われながら一年半ほど前まで十年あまり在籍していました。その経験から言いますと、中にいる限りにおいては、外で言われているほど極悪な団体という印象はなく、むしろ人によっては居心地が良いとさえ思えるということです。

居心地が良いから良い団体であるとは言えませんけれども、外から見える部分と中から見える部分とでは、随分差があるということは言えると思います。


外から見たら、心配で心配で仕方ない親鸞会であろうと思いますが、あえて一つ「とりあえずこの点だけは心配されなくて良いですよ」という点を挙げるとすれば、「ただちに社会性を失うことは無い」という点です。

昭和時代の親鸞会は、「すべてを犠牲にしても仏法(親鸞会)」でしたので、たとえば学生も中退留年は当たり前だったと言われています。しかし最近は、そこまでひどくはありません。ご本人の性質如何にはよりますが、会員さんに対して親鸞会が「社会からの隔絶」を強制することはありません。従いまして、会員になったからといっても、いわゆる「一般的な生活」は続けて送ることができます。会社にはいつも通り出社してきちんと仕事をして帰る、飲み会に誘われたら飲みに行く、といったことは一応変わりなく続けることが出来ます。


ただ、「ただちに」とか「ご本人の性質如何」という但し書きをしましたとおり、人によっては「親鸞会の職員を目指すため」「時間に囚われず聴聞するため」などの理由で、仕事や学校をやめるなどするようになることもあります。そこは「大いに心配な点」の一つです。


ほかに大きく心配な点として思いつく点は、色んなところでも言われていますが「お金がかかる」という点です。

月の会費は、入会したての場合はおそらく3000円(学生は2000円)でしょうが、それ以外に行事では毎回「お布施」を出します。富山県の親鸞会館での行事は基本的に一回5000円(学生は3000円。名目上は「いくらでも良い」)だったと思いますが、年に数回の大きな行事では一回で数万円使うこともあります。親鸞会はとにかくお金が掛かるのは間違いないと思います。

やや古い情報ですが、親鸞会とお金については以下の情報があります。10年ほど前の記事ですが、私が離れる1年半ほど前でも通用する内容だと思います。(ただ、最近の学生でそこまで出す人は多くないと思いますが)

http://nazeyame.shinrankai.biz/mondai/naze1.html

余談ですが、ここに出てくるAさんは私のことです。
今でも、名目を替えて様々な「お布施」を募っているようです。


ほかに大きな心配事としては、会員ご本人の熱心さが高じて反対されているご家族との間に溝が出来てしまう点でしょうか。そうなる前に「やめさせたい」と思われるのは自然のことと思います。



3.なんとか親鸞会をやめさせたいのですが

まず最初にお断りしなければなりませんが、私はこの問いに対して明快な解答を持っているわけではありません。このブログのことをよくご存じの方は私の性格もご存じかと思いますが、そもそも私は誰かを「入会させた」ことも「退会させた」こともありません。ですので、あくまでこの件についても「あさ川なりの考え」とご理解下さい。


先ほど書きましたように、親鸞会に入会した時点で多くの場合「親鸞会で教えていることは正しい」という思いがあると思います。これが高じて「親鸞会は正しい」となる方もありました。また、親鸞会の会員さん自体は概ね真面目で人当たりも良いため、中にいると「おかしな団体」という認識はほとんど持ちません。

ここに、親鸞会の外と中とで埋めがたいギャップができます。ついでに言いますと、親鸞会も批判されること自体はすでに慣れているので、ご本人に対してもさりげなく対策がなされ、予防線が張られているはずなのです。

いわゆる「マインドコントロール」と言って良いでしょう。最近ではとくよしみねさんが書かれてました。古い記事にも詳しく書かれているものがあります。

http://tokuyoshimine.hatenablog.com/entry/2015/08/05/232315

http://nazeyame.shinrankai.biz/mindcontrol/index.html


ですので、心配のあまり「親鸞会をやめろ」と言っても、ご本人は聞く耳を持てないのです。下手したらけんかになってしまいます。批判サイトのコピーを見せるなどして認識を改める程度の入れ込み方なら話は早いでしょうが、逆効果になってしまうことさえ少なくないと思います。

ご本人にはご本人の言い分がありまして、たとえば

「高森先生のお話も聞こうとしないで」
「真実の教えを知らないからだ」
「あなたにも後生の一大事があるのだ」
「後生の一大事を解決できない人生なんて無意味だ」
「なんとしても破邪しなければ」

などなど、


今まで何人かの話を聞いてきた限り、基本的には、強く反対すればするほど頑なになってしまうように思います。


対処法の案をいくつか考えてみますと

・ひとまずご本人の主張をよく聞いて、自分の懸念を伝える
・ご本人が親鸞会に興味が無くなるのを待つ、興味が無くなるよう仕向ける
・退会された方を連れて行って説得してもらう

などでしょうか。いずれにしても、ある程度時間が掛かることを念頭に置かれた方が良いと思います。


一つ目の案は、とにかくご本人の主張を聞くことに尽きると思います。「どういう話を聞いているの?」をとっかかりに、なぜその話が大切だと思うのかなどを聞いて、おかしいと思うところや心配に思うところを突っ込んでいくことで、ご本人が気付くことを期待します。即効性も無く時間が掛かりますが、ほかに妙案が無いようでしたら、私はまずこれをやってみられてはどうか、と思います。


二つ目の案は、ご本人にとって親鸞会の活動以上に大切なものを作ってもらって、フェードアウトすることを待つ方法です。親鸞会では、学生の間は熱心に聞いていたのに社会人になると、ふっと来なくなるという方も少なくありませんでした。環境が変わったことで、ご自身の優先順位も変わったのだと思います。そうなることをひたすら待つか、そうなるようにけしかけていく、という方法です。


三つ目の案は、そのものズバリですが、退会された方に語ってもらって心変わりを期待する方法です。ご本人も気付いていない不審点などに当たれば効果はあるでしょうが、「強引にやめさせようとしている」ように見えるため、話の進め方によっては余計に反感を買う危険性もあると思います。


私から言えることはあまり多くありませんが、最後に。


すぐに解決しようと思って、頭ごなしに否定しないようにされてください。先ほどから書いてますように、時間が掛かっても仕方のない内容だと思います。

お金を無心するようであれば、きっぱり断ってあげて下さい。お金を使わなければ救われない、という教えではありませんから。

もっと言うなら、親鸞会で教えている「はず」のことは、本来親鸞会の独占物ではありません。お金を積まなければいけないものでもなければ、何か特別なことをしなければいけないものでもありません。ご本人がもし、そのような囚われにあるようでしたら、「そんなものが親鸞(聖人)の教えなのか」と聞いてみられても良いかと思います。


あとは会員歴のある皆さんからのコメントをお待ちしつつ、今日はこれまでといたします。

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