あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

カテゴリ : 回想

ようやくといいますか、しばらく続いた関西出張が一区切りつきまして、関西と関東を往復する日々からは落ち着いたあさ川です。思えば、今住んでいるところを何週間も(実質的に)離れて暮らすというのは、学生時代に免許合宿で東北地方に滞在していたとき以来かも知れません。

そういえば当ブログ恒例のシリーズもあと一週間でした。昨年はかなり前から考えていたタイトルを土壇場でひっくり返して別のタイトルを付けていたわけですが、今年はまだ何も決まっていません。


さて、以前にも話題に出したことを(久しぶりなので)しつこく話題にするのが今日の記事であるわけですが、私が社会人になって一年ほど経った時、当時の学生の後輩たちにあてた文章を(改めて)紹介します。


当時を振り返りますと、

大学院二年の夏に、未来の見通しも暗く悶々としていた頃にふと縁あって、
親鸞会に対して本尊論ブログをぶつけて、しばらくやりあって、閉鎖して、
悶々とした状態で社会人になって、でも学友部からは出してもらえず、
社会人になってほどなく弥陀の本願を喜ぶようになった、

というような経緯の中で、社会人生活も一年を過ぎようとしていた頃、当時の学友部の担当講師から「支部に移籍して引き続き元気な姿を見せてほしい」と言われて移籍することになりました。


もう十年前の話です。


弥陀の本願を喜びながら親鸞会にいた私は、後輩たちに親鸞会の活動で疲弊して南無阿弥陀仏とのご縁が離れてしまっては勿体ないという話を常々していたのですが、あまり会うことも無くなるのだろうという思いもあって、送別会に際して後輩たちにあてたのでした。


その後輩たちも、数年は元気な姿を見せてくれてはいたのですが、私が親鸞会にいる間に、ほとんどの後輩は姿を見せなくなりました。私の至らなさもあったかもしれません。
親鸞会の外ででも、南無阿弥陀仏のご縁にあってくれていれば良いが、とも思いながら居るところです。

あれから十年、早いのか長いのか分かりませんが、十年経ってしまったのだなあと思いました。
昔話というほど昔でもなかったですね。


ちなみにブログ開設して間もなく紹介した時の記事はこれです。



========(以下、当時のメール)========

2007年2月10日 午前2時42分*****************
S(講師部員) 様

あさ川です。
今日の送別会は仕事でご縁ありませんので、
とりあえず一言お送りします。

だいぶ長くなりました。
あと、若干誤解を生むかもしれないところもあるかしれません。

急ぎだったので、文章が乱雑なのはご容赦下さい。

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今日は送別会を開いてもらいましたが、仕事で参加できず申し訳ない。
いないついでに話をしておきたいことを全部書こうと思いましたがやめておきます。

学生の皆さんは、もうすぐ新入生を迎える季節ですね。
そこで、人生の目的は大切だと話をする。数年前は、目的をはっきりさせて
学生生活を充実させようなどという話をしていたこともありました。
皆さんは、目的がはっきりしていて充実した学生生活を送っているでしょうか。
いろんな人があるかしれません。

今まで見てみると、親鸞会の学生さんは、いざ就職となったときに、
もうバリバリに進路が決まっている人もあるのですが、
結局どういう仕事に就けばいいのかわからないで途方に暮れてしまう人も少なくないよう
な気がしました。
「人生の目的がハッキリする」と言う話を人にしているような人でも、
自分の「どう生きる」は、なかなか難しいのだろうとも思います。

弥陀の本願は、すべての人を相手にされています。
すべての人ということは、どんな人生を送っている人でも
弥陀の本願の目当てになるということです。

自分の命は仏法のために捧げると言って学院に入る人も、
そこまでの覚悟はないけど聴聞のために公務員になるという人も、
自分のやりたい職業で夢を追いかける人も、
なんとなくサラリーマンな人も、
弥陀の本願の対象です。

十方衆生相手の弥陀の本願ということはしつこいくらい聞いていても、
なかなか自分相手とはピンと来ないものです。

親鸞聖人は、「邪見きょう慢の悪衆生、信楽を受持すること甚だ以て難し」と言われます。
一方、蓮如上人は「こころえやすの安心」とも言われています。

私は一年生の時、

「人生の目的達成は『難中の難』とも言われるけど『易中の易』とも言われるのだ」、

という話を先輩から聞いていたのですが、しばらくその意味はさっぱり分かりませんでした。


愚禿抄には

「一難疑情 二易信心」

といわれ

「難者三業修善不真実之心なり 易者如来願力廻向之心なり」

と親鸞聖人は言われています。

弥陀の本願の側からすれば、助かるために私が何をすることもないわけですから易と言われているようです。
にも関わらず、弥陀の本願を疑って掛かって、自分で計らってしまうので難と言われているわけです。

弥陀の本願はすべての人が相手だということは、弥陀の本願に制限はないのですが、
私たちは勝手に「こうしなければ弥陀は助けてくれないだろう」「こうすれば助けてくれるかも」
と、はねつけてしまうのです。

真剣に聞けば聞くほどそうなってしまいます。
ただ、それが行き過ぎると
「自分は弥陀の本願を聞く資格がない」といって、自分で弥陀の本願の対象外と決めつけて
弥陀とのご縁を無くしてしまうとすれば、残念なことです。

自分の問題になってくると、
毎回聴聞に行かないようでは助からんとか、
御報謝は何十万としなければダメで無かろうかとか、
すべての時間を仏法に費やしてこそ求道者だとか、
友人を百人くらい二千畳に連れて行くくらいでちょうど良いとか、
うまいもんに金を使うくらいなら御報謝だとか言ったモードになったりします。

ちなみに私が学生時代というのは、まさにこういう傾向がありました。

ただ、その場合、
そういうことができる人とできない人がいます。

学生時代はともかく、仕事なんか始めた日には必ずしも日曜が空くわけではありませんので
「仕事なんか世間のヒマだ」と投げられる人はともかく、
そうでもない人は、御法座にご縁のないこともあり得るわけです。

できる人しかダメとなると、できない人は弥陀の本願の対象外になってしまいます。
こんなのを弥陀は十方衆生とは言われませんし、親鸞聖人や蓮如上人が「易」と言われるはずもありません。

誤解する人は無いと思いますが、
聴聞がどうでもいいとか、御報謝なんかせんでいいとか、
そんなことを言いたいのではありません。

弥陀はすべての人を対象にされているのに、
自分で勝手に、自分は弥陀に助けてもらえないと思ってしまうのは勿体ないということです。

できないときに、できないと言ってそこでやめてしまうのか、
開き直ってしまうのか、
次の機会に向けて前向きになるか、
それは自分で選択することです。


思い悩むことも今後あるかしれません。
一人で抱えて一人でやめるのもその人の勝手といえば勝手ですが、
愚痴でも言える人がいて、言ってすっきりするなら話をするのも一つの方法です。
その相手が私でもいいです。
・・・

まだ足りないのですが、土曜も仕事なのでこの辺にしておきます。
長くなってしまいましたが、皆さんの仏縁をお念じ申し上げます。

実は今年は事情により帰省をしていません。ですので熊谷に引っ越してきて初めて熊谷で正月を迎えます。ブログに繋がりにくくなっているのは、年末年始のアクセス集中のたまものかと思ったり思わなかったりしているところです。今年は帰省していませんので好き放題ブログを更新できると思っていたのですが、それほど話はうまくいかないような気がしています。


さて、R1000さんからコメントを頂いてお返事していたのですが、恥ずかしながらR1000さんからの投稿文を頂いたのがつい今年の正月だったことを思い出しました。年を取れば取るほど月日の経つのを早く感じるものですが、そういえばこれは今年のことだったのか、と振り返って改めて気付くこともありますので、ざっくり当ブログの記事から今年を振り返りたいと思います。


・1/9 【投稿文】「自殺、死な(ね)ない理由」

実は今年初めての記事だったR1000さんの投稿文です。すごい反響でした。当ブログの特徴としては、投稿文のほうが反響が大きいということが挙げられます。


・2/7 寺巡り

大阪の八尾でご縁のあった阿部先生のお寺が群馬にあるというので調べて訪ねてみた、という話です。実はこれも今年のことでした。このときはまだ、埼玉慧日会という形でご縁があるとは思っていませんでした。

・2/26 転「親鸞会」

恒例のシリーズ、今年は「転」と付けました。

・3/11 懐かしい名前が出てまして

柴田弁護士が参院選に出馬するという話が持ち上がったので、思い出話がてら触れました。そういえばこれも今年でした。

・4/27 血染めの恩徳讃
 5/23 映画「なぜ生きる」
 5/30 映画「なぜ生きる」について 続き

親鸞会が映画で全国デビューした「なぜ生きる」の話でした。そういえばそんなこともありましたね。

・6/15 【投稿文】勉強会再開のお知らせ

RCさんの勉強会が、埼玉慧日会という形で再開されました。

・9/14 宗教問題15

親鸞会が久々に大々的に特集を組まれたという点で画期的な出来事だった気がします。哀愁のボタンダウン。


表立ったトピックはこんなところでしょうか。

今年もお付き合いいただきありがとうございました。
引き続きのご縁がありましたら、ありがたく思います。




過日、夫婦共々滋賀に車を走らせて行ってきました。腐れ縁というか、長い付き合いの住職の寺の報恩講に行ってきたのでした。住職との付き合い自体は長かったのですが、報恩講に行くのは4回目でした。

近くに住んでいるわけではありませんのでそう頻繁に行くわけでもありませんが、私どもの結婚式を挙げてもらったりと、何かと縁のあるお寺なのでした。

ちなみに、その寺の近傍には国内でも指折りの料亭がありますので、式には良い場所です。


報恩講のお話は、私なりに味わうところがありましたが、たとえば恩の話で、「恩」の文字の上にある「因」は象形文字で”ふとんの上に大の字になって寝ている人”を表しているということは初めて聞きました。話には出てきませんでしたが、よく似た字で「囚」があります。形だけ見ると布団の上に人がいるようにも見えますが、この字の囲みはおそらく別の意味だろうと思います。法を聞くということは、いろいろなことを忘れていることを思い出させることであるなあと味わわれた次第です。


さて、名号本尊ということで、いろいろな思い出があるのですが、まずあさ川として思い出すのは本尊論ブログのことです。

ちょうどブログを開いたのは、十一年前のこの時期でした。


ネタ自体は九月くらいに仕入れていたのですが、当時の私はさらに証拠を探していて、できれば『山科御坊之事並其時代事』の現物にも当たっておきたいと思っていたものでした。当時私が持っていたのは、『現代の教学問題』に引用されていたものだけだったからです。とはいえ、どこを探して良いのやら分からない状態でした。そのような状態だったのが、たまたま神田あたりの古本屋で見つけた時は小躍りしたものでした。

そのようなこともあって書いたブログだったのですが、結局その当時は親鸞会を追い出されるところまではいかずに終わりました。それが今に繋がっているのだと思いますと、これまた不思議なご縁だなと思うわけですが、その原体験を辿りますと、おそらくさらに五年ほどさかのぼった、大学一年のときに至ると思います。


以前にも書いた気がしますが、私は夏合宿での親鸞会入会の誘いを断って、当時は一人だけぽつねんと非会員の立場を続けていました。「おつとめは御名号の前でやるのが良いのだ」と言われながらも、御本尊を下付されていなかったので、手書きの名号本尊を作って一人でおつとめをしていました。その当時の思いとしては、「同じ南無阿弥陀仏に優劣など無いはずだ」というものでした。



それから程なくして、親鸞会の名号本尊を手に入れてから親鸞会を追い出されるまで、お仏壇は代替わりしたものの、私の仏壇には名号本尊が掛かっていました。本尊論ブログを書いていましたが、あの文章にも書いていた通り、別段私は名号本尊を否定していたわけでもありませんでした。

それが、親鸞会から追い出されたときに名号本尊を返却してから最近まで、お仏壇が空っぽの状態が続いていたのでした。


実は、結婚してほとんど間もない時期にそのような状態になったこともあって、妻からはずっと、お仏壇に御本尊をお迎えしろと催促されてました(ちなみに、しつこいようですが妻には親鸞会の会員歴はありません)。

家庭の事情もあっていろいろなルートが考えられました。手っ取り早くするなら仏具屋で購入すれば良いのかもしれませんし、埼玉で世話になっているお寺もあったので、そこにお願いする手もありましたが、考えた末に、夫婦共々浅からぬご縁のある大谷派のお寺から御名号を頂こうと決めました。

もちろん木像は木像、絵像は絵像の表現といいますか、良さや味わいがあるのですけれども、弥陀のお働きを直接イメージに表現しない潔さが良いなあと思ったのでした。あと、妻の実家が六字名号だったということもありましたが。


なぜかそうやって決めるまでに二年くらい掛かってしまいましたが、ようやく御名号本尊をお願いしたところ、大谷派では六字名号の下付は無いので、十字名号(帰命尽十方無碍光如来)と九字名号(南無不可思議光如来)のどちらが良いか、と聞かれました。

その話を聞いた時に私は、六字が無くて十字と九字があるという理由がよく分かりませんでしたが、何のことは無く、御名号本尊の設定が無いので脇掛を御本尊とするということだと理解しました。そういうことなら私は、十字名号が良いですというお返事をしたのでした。親鸞聖人といえば十字名号、という思いがあったからでした。


そして先日の報恩講で、ようやく御名号を頂いて、家の仏壇に安置できたのでした。



人間は「正見」ということができないのだ、という話を聞いたことがあります。ものごとを本当にそのまま見ることは出来ず、何かしらの思いを込めて見てしまう、というものです。それは良いとか悪いとかいう議論はさておき、そういうものだからこそ、一つのものに対しても思い入れが出来るのだろうと思うのでした。

御名号も、単純に手に入れるだけならば方法はいくらでもあったのですが、やはりこうだ、と思うのは、目の前の南無阿弥陀仏の中に、様々なご縁を味わうからなのかも知れません。


「帰命無量寿如来」といふは、寿命の無量なる体なり、また唐土(中国)のことばなり。阿弥陀如来に南無したてまつれといふこころなり。「南無不可思議光」といふは、智慧の光明のその徳すぐれたまへるすがたなり。「帰命無量寿如来」といふは、すなはち南無阿弥陀仏の体なりとしらせ、この南無阿弥陀仏と申すは、こころをもつてもはかるべからず、ことばをもつても説きのぶべからず、この二つの道理きはまりたるところを南無不可思議光とは申したてまつるなり。これを報身如来と申すなり、これを尽十方無礙光如来となづけたてまつるなり。この如来を、方便法身とは申すなり。方便と申すは、かたちをあらはし、御名をしめして、衆生にしらしめたまふを申すなり。すなはち阿弥陀仏なり。この如来は光明なり。光明は智慧なり。智慧はひかりのかたちなり。智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆゑに、無辺光仏と申す。しかれば、世親菩薩(天親)は、「尽十方無礙光如来」(浄土論 二九)となづけたてまつりたまへり。
さればこの如来に南無し帰命したてまつれば、摂取不捨のゆゑに真実報土の往生をとぐべきものなり。
(正信偈大意)

久しぶりの更新です。明日は嶋田さんの勉強会ということで、行く予定です。ご縁ある皆さん、よろしくお願いします。雪の心配をしていましたが、今のところたいしたことはなさそうです。


前回はR1000さんの投稿文でした。今までに無い反響と言いますか、アクセス数の推移がありました。傾向から推測しますと、新しい読者の方も随分あったのだろうと思います。


さて先日、「システムアーキテクト試験」の合格証が届きました。3年前に「ITストラテジスト試験」のことをネタにしましたが、今回も味わうところがありました。その味わいについて書こうと思ったのですが、内容を考えていたら長くなりそうでしたので、今回は別のことを書きます。


今回は、私の話(昔話)を少しすることにします。


私は浄土真宗親鸞会とかいう宗教団体(このブログでは単に「親鸞会」と呼称)に、十数年所属していたことになっていますが、つい二年ほど前に「親鸞会とは関係無い人」になりました。

私個人の意思で親鸞会から離れたわけでは無いので、別段親鸞会館へ行くこと自体は現在でもやぶさかでは無いのですが、立場上行けないことになっているので行っていません。(どうしても行きたいわけでもありませんので)


さて、そもそも私がそういう宗教団体と縁があったのは、大学入学手続きの日に声を掛けられて話を聞き始めたのがきっかけではありましたが、そもそもそういう話を聞く縁となったものがあったわけです。



私が実家にいた頃は、一応皆で一緒に晩ご飯を食べていたのですが、だいたい親はさっさと食事を済ませて居間に行ってしまっていたので、祖母と私が残りました。祖母は大正時代の人でしたので、戦争やら伊勢湾台風の話やら、よく昔話をしてくれました。

そこで、どういうプロセスを経てそうなったのかは覚えていませんが、多分に祖母の話の影響があったのでしょう。小学一年生だった私のヒエラルキーのてっぺんには、昭和天皇が君臨していました。

そういう意味で、昭和64年の1月7日の天皇崩御は、当時小学一年生だった私にとって大きな出来事でありました。

あの日は確か土曜日だったと思いますが、いとこの家に遊びに行っていた私は、テレビの昭和特番をずっと見て昭和時代を振り返っていました。まあ、振り返るだけの経験値はありませんでしたが。


天皇でさえも永遠でないという、当たり前と言えば当たり前の事実を実感しまして、人生の本懐というものを考えるようになったのでした。本懐というと大げさといいますか、小学一年生に馴染みませんので、「何をしたら良いのかを考えるようになった」と置き換えましょう。


あまりにテレビを熱心に見ていたからか分かりませんが、昭和天皇崩御後しばらくは、寝床に昭和天皇の顔が浮かんできて寝付きが悪かったことを覚えています。とはいえ、昭和天皇が出てこなくなった後も、寝付きの悪さは相変わらずでした。


最近は知らぬ間にすぐ寝付いてしまうことが殆どですが、それこそ大学を卒業するくらいまで私は、毎日寝付くまでに一時間くらいは掛かるような状態でした。そして、寝付くまでには人生について数々の妄想を広げていたのでした。


おそらく小学一年生だか二年生だかの時期に、「将来なりたいもの」を書かされました。そのときに私は「バスのうんてんしゅ」と書いたのですが、実は非常に困ったのでした。率直に言えば書くことが見当たらなかったのですが、当時の狭い世界の中で書けることを書いたのでした。


そうやってもやもやしながらの日暮をずっと送っていたのですが、どうしたことかそのような思考については、特に誰に話すわけでもなく、過ぎていきました。話すような内容でもないと思ってみたり、それが宗教的であるように思ってみたり、どういう心持ちだったかハッキリとは覚えていませんが。


こうして、いろいろありまして、大学時代に親鸞会の人(と言っても当時そのことは知りませんでしたが)に声を掛けられて話を聞いたのでした。


そういえば、そのときに「人生の目的」というフレーズが出てきました。その時に私は「こいつらは宗教だ」と直感したのです。私の中では胡散臭さ全開というか近寄りがたいというか「あっちの世界の人」のようにさえ思ったのですが、一方で「人生の目的」という単語は、今まで自分が考えていた内容であるようにも思えたのでした。

たぶん、そう思わなかったら聞かなかったのだろうなあ、と思いました。


最初から阿弥陀仏の本願とか言われて、ありがたい話と思ったかと言えば、まず思わなかっただろうなあと思います。未だに南無阿弥陀仏とのご縁があったことが不思議に思われます。

称名。

もう十数年前のことですが、学生時代に祖母を親鸞会館へ連れて行ったことがありました。ちょうどそのときは「降誕会」でした。


当時はまだ正本堂がありませんでした。最初は第一講堂で聞いていたのですが、祖母は耳が遠かったので別室の難聴者席へ行きました。難聴者席は、当時の私の感覚から見たらカオスでした。

法話中に話し声が聞こえる、途中でも構わず立ち上がって出入りする。基本的に高齢者が多かったからかも知れません。しかしながら、第一講堂とのあまりの違いに、大変だなあと思ったものでした。


その半年ほど前の「報恩講」、実は祖母をここに誘っていました。


学年が上がるにつれて、学生も周りはいろいろ家族を誘ってきたり友人を誘ったりしていましたが、私は宗教団体の集まりに人を誘うのが嫌だったので誘っていませんでした。しかしながら、さすがに学年が上となってきて周囲からの圧力もあったので、誘わざるを得なくなっていました。


実家で両親と同居している祖母とは、当然のように帰省のたびに顔を合わせていました。もともと「変な宗教で無ければ」宗教には寛容な家でもありましたので、祖母にはストレートに「仏さんの話を聞きに行かないか」と誘ったのでした。そして意外にあっさり、祖母と一緒に親鸞会館の報恩講に行く事になりました。


旅行がてらということで、法話は2日間でしたが3日間の旅程で行くことにしました。1日目には、金沢の兼六園に行こうと決めました。私にとっては、初めての金沢でした。特急列車の指定席の切符もとり、宿の予約もしました。

そして、旅行の前日に夜行で祖母を迎えに行ったのでした。



早朝に実家に着いたところ、いるはずの祖母が家にいませんでした。

深夜に心臓発作が起きて祖母は急遽入院した、と聞かされました。ちょうど私が夜行列車に乗ったあたりの時刻に発作が起きたそうです。一応近くに救急病院があったため、救急車は呼ばずに父が運んでいったようでした。


連れて行くはずの祖母が連れて行けなくなり、両親からは行くのをやめて家にいたらと言われたのですが、一人で行くことにしました。


出発前にひとまず、祖母の入院先の病院に行きました。手術がうまくいったようで、大事にはなっていないようでしたので、祖母の意識はハッキリしていました。私が病室に入ると、「悪かったねえ、悪かったねえ」とばかり繰り返していたので、私も悲しくなってすぐ病室を出てしまいました。


一人で出発した私は、予定通り金沢に向かいました。祖母が座っていたはずの隣の座席には、別の人が座っていました。

金沢は雨でした。兼六園を、大きな荷物を抱えて一人歩いていました。



報恩講は土日の2日間にわたって行われましたが、私は親鸞会館の書籍コーナーで購入した「正信偈のこころ」を持って祖母の見舞いに行くために、日曜日の午後の弁論大会には出ずにまた実家に戻りました。


祖母はずいぶん良くなっていたので、私は土産話をしつつ正信偈の話をして、夜行で帰りました。


実家は浄土真宗のはずなのですが、祖母はなぜか毎日仏壇に向かって般若心経をとなえていました。なので、浄土真宗は正信偈だという話と、正信偈の中身の話を少ししたのでした。

その甲斐あってかは分かりませんが、退院後に祖母は正信偈の勤行本を寺で求めたようで、それ以来正信偈をあげるようになりました。ちなみに、退院はしたものの障害は残ってしまいましたが、それ以外は元気でした。



とある年の「報恩講」には、そんな思い出がありました。今でも思い出します。そんな思い出があったので、翌年の「降誕会」は思い入れもひとしおかと思えば、冒頭書いたような状態ではありましたが。



さて、このときの報恩講の話は、祖母のことについての思い出もあるのですが、祖母のこととは別にその後日談がありました。



報恩講の数日後、K玉氏が部会後に私を呼び止め、私が弁論大会を聞かずに帰ったことについて尋ねたので、私は祖母の見舞いのためだと答えました。私の優先順位は、間違いなく弁論大会より祖母の見舞いの方が重要でありましたので、私にとっては当然の回答でした。
その後、少しやりとりがあった後にK玉氏がおもむろに、


「助からんということだ」


とのたまったのでありました。
これだけだと意味が分からないと思いますので、前後のやりとりから文脈を浚いますと、


「弁論大会は(高森)先生の御心で行われているものだ。それを軽んずるということは善知識を軽んずるということだから、助からんということだ」


というような趣旨のことでした。
私は、一応「はい」と言って下がりましたが、この件について納得することはありませんでした。


正直に申せば、祖母の見舞いより弁論大会を優先しなければ助からんような弥陀の本願なら、こちらから願い下げだわい、とすら思いました。



このときに同時に私が思いましたのは、

「親鸞会では高森先生の言う通りにしなければ助からんということになっているのだなあ」

ということでした。



とりあえず今回はおしまいに、歎異抄を味わいたいと思います。


専修念仏のともがらの、わが弟子ひとの弟子、という相論のそうろうらんこと、もってのほかの子細なり。親鸞は弟子一人ももたずそうろう。そのゆえは、わがはからいにて、ひとに念仏をもうさせそうらわばこそ、弟子にてもそうらわめ。ひとえに弥陀の御もよおしにあずかって、念仏もうしそうろうひとを、わが弟子ともうすこと、きわめたる荒涼のことなり。つくべき縁あればともない、はなるべき縁あれば、はなるることのあるをも、師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどいうこと、不可説なり。如来よりたまわりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんともうすにや。かえすがえすもあるべからざることなり。自然のことわりにあいかなわば、仏恩をもしり、また師の恩をもしるべきなりと云々
(六章)

口には願力をたのみたてまつるといいて、心には、さこそ悪人をたすけんという願、不思議にましますというとも、さすがよからんものをこそ、たすけたまわんずれとおもうほどに、願力をうたがい、他力をたのみまいらするこころかけて、辺地の生をうけんこと、もっともなげきおもいたまうべきことなり。信心さだまりなば、往生は、弥陀に、はからわれまいらせてすることなれば、わがはからいなるべからず。わろからんにつけても、いよいよ願力をあおぎまいらせば、自然のことわりにて、柔和忍辱のこころもいでくべし。すべてよろずのことにつけて、往生には、かしこきおもいを具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること、つねはおもいいだしまいらすべし。
(十六章)



ところで、先ほどRCさんから次回の勉強会の日程連絡が来ました。来月下旬の予定とのことです。詳細はまた近々、RCさんからいただけると思います。

10日ほど間が空きました。最近は、ここしばらくの間では親鸞会関係のブログの更新が(アンチ側だけですが)結構活発であるような気がしています。


さて、一応自分のリマインドですが、7月19日の日曜に、RCさん主催の勉強会の予定です。結構先だと思っていたら、もう一週間を切りました。あさ川に会いたいという奇特な方はそんなにいらっしゃらないかと思いますが、嶋田さんやRCさんとお話がしたいといわれる方は、RCさんにご連絡いただければと思います。



先日は、思い出話を書きました。今回もしょうもない話ですが、思い出話をしたいと思います。


先回に、私は「布教」からは逃げ続けた、という話をしたと思います。学生時代に会員だった方で、それなりに熱心に活動されていた方の場合、おそらく殆どの方が何らかの「布教」をされていたかと思います。これを「声かけ」とか「AT」とか言っていたと思います。


私の時代などはまだ、新入生が入ってくる時期に「新勧」と称して派手に勧誘をしていました。そんなわけで、自分の大学で「新勧」があったら、ふつうはほぼ間違いなく勧誘活動をしていたはずです。ところが私の場合、自分の大学で勧誘はあって私も居合わせたのですが、私はその時でさえも声かけを一切しなかったのでした。


なぜかと言えば、ずっと話し込みスペースのお守りをしていたからでした。


大学二年の時、私の大学では初めて本格的な勧誘をするという話になりました。私の時代の場合、1人ないしは2人程度で声かけに行き、新入生を捕まえてきて話し込みスペースで話し込みを行って、入部を促すという手順でした。おそらく、通常の流れであれば、私は声かけをしに行くはずでした。



本来なら、公認サークルの勧誘は入学式後なのですが、親鸞会はお構いなしに事前の勧誘を行っていました。それは、入学手続きの日でした。手続きの日に、講義棟の一角にあるベンチのスペースを占領して話し込みスペースにしていました。ちなみに私は先輩に対して、「こんなところを占領したら駄目じゃないですか」と文句を言った記憶がありますが、「真実を伝える為なのだ」といって聞き入れてもらえませんでした。


入学手続きの日には、入学金の手形を持ってくる必要もあるため、半分くらいの新入生は親同伴でした。そんなわけで、話し込みスペースに連れてきた親御さんの話し相手が必要になったのです。さすがに親御さんと一緒では話しづらいということもあってか、私を含めて何人かが親御さん相手に話をすることになったのでした。


ほかの先輩はどうしていたか知りませんが、私は親御さんに対して世間話しかしませんでした。明らかに不審そうな顔をされる親御さんもありましたが、私は無理も無いなと思いながら大学の話などをしていました。



次の年は、前年に派手な勧誘をしてしまった報いを受けまして、講義棟には鍵を掛けられてしまいました。ここでの率直な感想は、「そら見たことか」でした。急遽作戦変更し、近隣のマクドナルドなどの店を占拠して話し込みをすることになりました。そして私は、マクドナルドの席取りをする担当として、見事声かけを回避したのでした。私もさすがに、只で一日場所を占拠するのは申し訳ないということで、二時間おきくらいにハンバーガーを食べていた記憶があります。

それでも、やはり許可無く場所を占拠して怪しいことをしていたため、店から文句を言われたようでした。
そこで、その次の年からは、「来るたびに一品注文してもらえれば席を使っても良い」という喫茶店を勧誘場所に使うようになりました。

すっかり最高学年になっていた私は、勧誘の間ずっと店内にいてお守りをする係になっていました。おもりとは、話し込みの際に使用するバインダーを渡して飲み物を注文することと、新入生が入部を「決意」したら顔合わせをする(クロージング)ことをしていました。

勧誘の間、私は一時間ごとにコーヒーやらジュースやら、パンやらを飲み食いし続けていました。そんなことが何年か続き、私は大学院二年の春までずっと、自分の大学で声かけをしないという状態を貫徹したのでした。


「こいつは声かけをしに行かないほうが良い」と思われていたのかもしれませんが、私の立ち位置は地区の中でもなんとなく縁の下の何とかのように思われていたこともあったと思います。何はともあれ私は、声かけに行くより喫茶店の中に居続けた方が良かったので、お互いに「ちょうど良かった」のかも知れません。


もっとも私は、自分の大学で声かけをしなかっただけで、他の大学ではいろいろ声かけをしました。しかも、結構「楽しんで」やっていたように思います。




こうして勧誘のことを思い出して考えるのは、大学内における親鸞会の勧誘は、年々マシになってきたとはいえ私から見たら常識が無いように思えたことでした。

先日、セブンイレブンに(トイレを借りるために)行きました。一応、トイレを借りたということで何かを買って出ようかと思っていたところ、なぜか学研のヒトラーの本(『ヒトラーと第三帝国』)が置いてありました。


世界史に疎い私ですので、知っていたことより知らなかったことの方が多かったのですが、ナチス親衛隊のマークは「稲妻2本」というフレーズから、稲妻が書かれた黒っぽい色の本を思い出しました。そういえば「イナズマ作戦」とかいうことをやっていた親鸞会という宗教団体がありましたが、ヒトラーの本を読んで親鸞会を思い出すあたり、私の親鸞会に対するイメージはお察し頂けるかと思います。


さて、ブログを辿っていたら「顕正戦」が話題になっていましたので、私は「学道戦」を思い出すことにします。


私の学生時代も例に漏れず、親鸞会(の学友部)では様々な活動をしていました。とはいいながら、私の頭の中では大きく、「お布施」「教学」「顕正(布教)」の3つにカテゴライズされていました。

お布施の募財はしょっちゅうありましたので、確か当時は「○○ご報謝」と呼んでいたと思いますが、そんなものはいくつもありました。「顕正戦」は布教活動、そして「学道戦」は教学の活動でした。


実のところ私は、「顕正」ということが大嫌いで、いかにやらずに済むかをずっと考えていました。よくよく思い出してみると、私は学生時代に自分の大学内でAT(布教のための声かけ)をしたことが全くありませんでした。驚くことに(私だけですか)、新勧も含めて、です。必要とあらば他の大学ではせっせと声かけに勤しんでいましたが、自分の大学では決してやろうとしませんでしたし、結局やりませんでした。(すでに目の前にいる後輩への話はやってましたが)


そうすると、「活動をしていない」と思われないために何をしていたかといえば、お金を出していました。
大学三年の頃までは、教学も嫌いだったからです。

勉強も好きではなかったのですが、何より親鸞会の「教学」はテキストの丸暗記、しかもお聖教のご文だけでなく、そうでないところも「答」はすべて丸暗記、というのが嫌で嫌で仕方ありませんでした。なんといいますか、頭を使ってないような、ただただ服従しているような、そんな感覚があったからでした。


そんな私の転機は、確か大学三年の頃でした。


そのときに「学道戦」という名前を使っていたかは記憶が曖昧ですが、何にせよ「教学」の頑張りを各大学で競争することになったのでした。


私の大学は、普段活動している人間が5,6人程度のこぢんまりした所帯でした。それが、色んな事情から分不相応に大きな部室を親鸞会から提供されていたこともあり、ことあるごとにK玉先生の口撃がありました。どれくらいの広さだったかといいますと、多い時には130人くらいを押し込めてビデオご法話をやった実績がありました。

部長は後輩がやっていたとはいえ、一応事実上の最高学年だった私が考えていたことは、「いかにして文句を言われないようにするか」でした。そのためには、何らかの形で実績を残す必要があるのですが、「顕正」は絶対にやりたくなかった私は、「学道戦(教学)で実績を残すしか無い」と思い定めたのでした。


ちょうど同輩もやる気になっていたため、後輩も巻き込んでそれなりの実績を収めました。次の年には、後輩の頑張りが大きかったこともあり、どういう計算かよく分かりませんが全国一の実績を残すことができました。その頃、私の大学は関東で、「教学の○○」と呼ばれたものでした。


ちなみに、この学道戦は、教学聖典1~9の中で模試を受けて合格すると点数になる、という仕組みでした。私は手っ取り早く点数を稼ぐため、聖典1の50問模試ばかりやってました(当然、他のもやってましたが)。その甲斐あって(?)制限時間は2時間なのですが、慣れてしまった1号はだいたい40分くらいで終えられるようになっていました。ただ、書くことに集中するあまり殆ど頭を使わなくなっていたのは、本末転倒な気はしましたが。


そんなこんなで、教学に対する私の抵抗感は薄れていきました。そのおかげか色んなお聖教の言葉を覚えられたことは、今にして思えば財産だったなあと思うのでした。



周りの協力もあって、自分の大学は教学で実績を作ったのですが、やはり「顕正」の圧力は強く、結局私もやることになりました。意地でも自分の大学内で声かけをしないために、せっせと近隣の大学へと自転車を走らせたのはいい思い出でした。

しばらく前に、とある親鸞会関係のブログで「カルトの思い出」というようなタイトルの記事があったかと思います。
その記事を見て、ふと「親鸞会の思い出」というタイトルが浮かんで書こうと思ってから一月あまりが経過していました。そんなわけで、今回のタイトルはそのオマージュのつもりです。 




私は現在進行形で会員であるわけですが、入会が平成12年の12月でしたので、会員歴13年が経過しました。4月から聞き始めて入会が12月だったのは、単純に私が入会を拒否し続けていたからでした。 


今までこのブログを読まれてきた方、あるいは私を直接ご存じの方、それぞれの方が私(あさ川)をどのように捉えていらっしゃるのかは分かりませんが、おそらく「あさ川は親鸞会に対して入れ込んではいなかった」という感想はほぼ共通してお持ちではないかと思います。 

実際、私は学生時代も「L1」と呼ばれる幹部ではありませんでした。ただ、幹部ではなかったものの、一応は現在で言うところの「会計」にあたることをしていたので、親鸞会に対して全くお気楽に付き合っていたつもりはありませんでした。




ブログを始めてから今までの中で、様々な形で退会者の方とふれあうご縁がありました。これは私の勝手な印象なのですが、親鸞会が真実だと思って頑張っていた人ほど色々な意味でダメージが大きく、中には心の調子を崩されたと言われた方もありました。


私自身も実は、就職が決まってしばらくした辺りにちょうど、半分鬱のような状態だったことがありました。


「ネット診断」での、「重度の鬱の疑いがあります」という結果をネタにしていた記憶がありますので、本当に差し迫った危機感があったかどうかは疑わしいところですが、当時は当時で、私としては先の見えない真っ暗闇に迷っている心持ちでした。

それは、ちょうど就職も決まって修論を書くだけとなった段階でふと未来に希望が持てなくなったからでした。

 
このまま就職して仕事が忙しくなると、学生時代のように仏法を聞くことが出来なくなる。
学生時代のように頻繁に聞いていてさえ信心決定できなかったのに、聴聞のご縁が少なくなったらなおさら信心決定できるとは思えない。
ただ続けていても信心決定できるとは思えないが、聞かなくなって幸せになるとも思えない。

 
もう8年半も前のことで、今となってはまるで問題にしていないことなのですが、当時は切実でした。
ちょうどそんな時期に、私の大学の先輩は親鸞会をやめたのでした。そしてたまたまそのことを知った私は、それまで溜まっていた鬱憤を晴らそうと思いながら静かに今に至ったのでした。



冒頭に紹介した、「カルトの思い出」の記事にはこのようなくだりがありました。
 

>教団の正しさの上で疑問の答えを探して苦しんでいた日々から、一転してその「正しい」という土台を取り払ったら全てが簡単に説明のついてしまうことに気づいたあの日。忘れられません。


今回は詳細を割愛します(改めて書くかは分かりません)が、私の場合は親鸞会に対しては「間違いを見つけ出す」ことを密やかに願い続けていました。それゆえに「本尊論」に飛びついたわけで、その点では真面目に求めていられた方とは随分違って、そのような「忘れられない思い」はそんなに無かったのかな、と自分で思ってました。


私はこのブログの冒頭に、「そんな私自身の経験も含めて書くことで、宗教によって苦しんでしまった人に対して、なにかしらのご縁にでもなればと思います」と書いています。私としては、真面目に求めて苦しみ悩むことになった方にも弥陀念仏のご縁をと思ってのことでしたが、そもそも私が親鸞会の正しさを信じて苦しむ人に共感できるのか、という問題も感じてはおりました。


そんな風に思っていた私ですけれども、以前のメールを見返してみると、「親鸞会の論理に気付いた空しさ」を感じてはいたようでした。


みなさんがどのようにお感じになるかは分かりませんが、そのメールの文面です。
今となっては目新しい物ではないと思われるかもしれません。
当時の私が「ああやっぱりそうであったか」という空しさを感じていたように思われました。



===2005/9/6にぶるうの氏に送っていたメール(原文ママ)===


ちょっととやまに行って考えたこと。

みんな、ぶっぽうさんだんしてました。これはOK


そして、親鸞会を支えるロジック。

→先生の言われることなされることは全て正しい。

これ。

ていうかこれだけ。

いっぽまちがえば個人○拝

あとは些末。

どーしてああいうことされるのか
→それが善知識の選び抜かれた最短の道だから。

どーしてもぼくはこー思うんですけど
→自分の考えに従っていたら破滅だ、真実を体得された方からまことの教え聞く以外助からない。

いろいろとなやみがありますが・・・
→教えの通り進みましょう。


そーいうことですか。極論すれば。
 

詳細はまた後日、ご縁があればと思いますが、夜も遅いので簡単にします。

先日とある会員さんと『なぜ生きる2』について語るご縁がありました。


その方は、『なぜ生きる2』については「残念だ」と言われてました。


いくつかある「残念」の中に、「意訳が先になっている」というところがありました。これは懇親会でも話題になったそうですが、懇親会にご縁のあった方によりますと、「新しい人の立場に立って」ということだそうでした。


その是非については語りませんが、特に親鸞会結成50周年で大いに語られていた「親鸞学徒の本道」を思いますと、残念だと言われた会員さんの心はよく分かります。


親鸞会HPの論説にありましたので、引用します。
http://www.shinrankai.or.jp/b/gendai/20090101hondou.htm

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 まず親鸞聖人のお言葉を明示して


 高森顕徹先生のご説法は、常に親鸞聖人のお言葉を示して、その意味を懇切に説き明かされます。そのスタイルは50年間、一貫しています。
 ベストセラー『なぜ生きる』(高森顕徹先生・監修)の「はじめに」には、こう書かれています。

「はたして人生の目的は、あるのか、ないのか。親鸞学徒として、親鸞聖人の言葉を通して迫ってみたいと思う」
「聖人の言葉をあげて、古今東西、変わらぬ人生の目的を明らかにした」 

 同じく、『歎異抄をひらく』にも、こう記されています。

「本書は、聖人自作の『教行信証』などをもとに、『歎異抄』の真意の解明に鋭意努めたつもりである。親鸞聖人のお言葉を提示して、一石を投じたい」

 いずれも、まず親鸞聖人のお言葉を示す、という姿勢で貫かれているのです。

「私は、ああだった。こうなった」の私事を語る者たちの行く末は、明らかでしょう。
 私たちはあくまでも、親鸞学徒の本道を驀進します。
 そうである限り、浄土真宗親鸞会は無限に発展することでしょう。 

 50周年フィナーレのビデオには、次の言葉があります。
「まず親鸞聖人のお言葉を明示して、その正しい御心を徹底していく。浄土真宗と全人類の輝ける未来は、この一点にかかっていると言っても、決して過言ではないのです」 と。

 この教導を忘れず、今年も、親鸞聖人のみ教えをお伝えすることに全力を尽くしたいと思っています。

そういえばまだ正確なところは聞いていないのですが、私の聞き違いで無ければ「新しいご著書」の制作が進んでいるというような話を聞きました。明日は関東の集いですから、ひょっとしたらその辺の話もあるのかなあと一人勝手に思っているのですが、先日に書きましたとおり、私は仕事のためご縁がありません。


考えてみたら、明日の会場となる施設へは、会員さんの中で一番近いところに住んでいるのが私かも知れないと思ったのですが、実際どうだか分かりません。それくらい近いところでやるわけですので、残念ではあるのです。



さて冒頭(タイトル)の言葉なのですが、「会員さん」という表現からお察しの通り、最近の話ではありません。
もう8年近く前になりますが、私が「親鸞会の本尊論を再考する」というブログ(タイトルは私が付けたわけではありません)を公開したことについて、親鸞会館で幹部講師の方とお話しした時に出てきた言葉です。 
今回は、この言葉についてです。



そもそも私が「本尊論ブログ」を作って聞いていたことは、

「少なくとも蓮如上人は必ずしも形像本尊を排斥されていないのに、御本尊は名号で無ければ駄目だというのはおかしいのではないか」

ということでした。

従いまして、積極的に名号本尊を形像本尊に変えましょうとか、形像本尊こそが正しい本尊だなどと言ったわけではありません。当時(今もですが)の私の家の仏壇には名号本尊が安置されていましたし、強いて形像本尊を購入して自分の家の仏壇に据えたこともありません。


うろ覚えではあるのですが、その点について「蓮如上人が木像を安置されたという事実はあるかしれないが、親鸞会の会員であり名号本尊をご安置している身であるなら、そんなところに拘る必要は無いだろう」という文脈の中で、タイトルにある
 

「君は会員さんなのだから、会員である以上は本会の方針には従ってもらう」


という言葉が先方から出てきたのでした。 


実のところ私は、この言葉自体は非常にご尤もなことだと思ってまして、だからこそ8年経った今になってもよく覚えているのでした。

そもそも、組織というのは皆が同じ方向を向いていなければ体をなしません。全く異論が出ない組織も異常ではありますが、上が決めたことに対して「従わない」ということでは組織人の振る舞いとしては的確ではありません。
 


と、ここまで書きますと、


「あさ川のやっていることは、全然合ってないではないか」


と思われる方もあると思います。
 

人によってはこのブログは、親鸞会の言っていることとは正反対のことを言っていて、親鸞会を批判しているブログではないか、と思われている方もあると聞いています。


これについては、そもそも親鸞会を批判したり擁護したりするために書いているわけではありません、という従来の説明をすることになるのですが、とはいえそのようなご指摘もご尤もだと思います。

確かに私は、親鸞会の方針とは関係なく、ブログを書いています。


これについては、今までの記事でも書いてきたような内容が当てはまるのですが、そもそも弥陀の本願に組織という概念が馴染まないと考えているからです。


弥陀の本願より組織を優先してしまうと、組織の通りになることが目的化してしまって、組織に合わない人が排除されてしまう。「『なぜ生きる』を全人類に」を標榜している団体にあって、「組織に合わない人間は救われないのだ」と言うに至っては弥陀の本願を語る団体の振る舞いとしては不適切だ、と思っているからです。


正直なところ文章を理解しているわけではありませんが、『改邪抄』にこのような章があります。


 一 念仏する同行、知識にあひしたがはずんば、その罰をかうぶるべきよしの起請文を書かしめて、数箇条の篇目をたてて連署と号する、いはれなき事。 まづ数箇条のうち、知識をはなるべからざるよしの事。祖師聖人(親鸞)御在世のむかし、よりよりかくのごときの義をいたすひとありけり。御制のかぎりにあらざる条、過去の宿縁にまかせられてその御沙汰なきよし、先段にのせをはりぬ。また子細、かの段に違すべからず。
 つぎに、本尊・聖教を奪ひ取りたてまつらんとき、惜しみたてまつるべからざるよしの事。またもつて同前、さきに違すべからず。
 つぎに、堂を造らんとき、義をいふべからざるよしの事。おほよそ造像起塔等は、弥陀の本願にあらざる所行なり。これによりて一向専修の行人、これを企つべきにあらず。されば祖師聖人御在世のむかし、ねんごろに一流を面授口決したてまつる御門弟達、堂舎を営作するひとなかりき。ただ道場をばすこし人屋に差別あらせて、小棟をあげて造るべきよしまで御諷諫ありけり。中古よりこのかた、御遺訓にとほざかるひとびとの世となりて造寺土木の企てにおよぶ条、仰せに違するいたり、なげきおもふところなり。しかれば、造 寺のとき、義をいふべからざるよしの怠状、もとよりあるべからざる題目たるうへは、これにちなんだる誓文、ともにもつてしかるべからず。
 すべてこと数箇条におよぶといへども、違変すべからざる儀において厳重の起請文を同行に書かしむること、かつは祖師(親鸞)の遺訓にそむき、かつは宿縁の有無をしらず、無法の沙汰に似たり。詮ずるところ、聖人(親鸞)御相伝の正義を存ぜんともがら、これらの今案に混じてみだりに邪義に迷ふべからず。つつしむべし、おそるべし。


最近は誓約書の類いを書くこともなくなったので、上記の覚如上人のお言葉のところに直接合わないか知れませんが、いずれにしても「従わなければ罰を受けよ」などということは弥陀の本願とは合わないということで、今もブログで色々言っています。


これがやはり、親鸞会として不適切だと判断するのであれば私を追い出すのでしょうが、多分今はそれさえも面倒だから放置しているのかな、と思います。あるいは、別段不適切ではないと思われているのかもしれませんが、その辺はよく分かりません。 


もっとも、「あさ川は”弥陀の本願ガー”と言って自分を正当化しているだけではないか」というご指摘があるかもしれません。それについては特に否定しませんし、否定できません。 

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