あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

カテゴリ : 雑感

前回の記事に関連しまして、あたたかいコメントあるいは個別のメール、メッセージなど何人かの方から頂きました。ありがとうございます。

ちなみにR1000さんからのコメントについてお返事ができていなかったのは、先日書いたお返事にある通りで、しばらくブログも見ておらずPCも起動していなかったからでした。すいません。


なお、今更ではありますが、以前RCさんと一緒に投稿文を頂いていた嶋田さんが「あなたの白道」を書かれていますのでご紹介します。嶋田さんの現状はご本人が書かれているのでここでは触れませんけれども、様々な方が関わって作られたブログであると伺っております。

「あなたの白道」


せっかくですので、当ブログに頂いた投稿文のうち、もっとも反響のあった第4回のリンクも貼ります。

第4回



さて、まったく話は変わりますが、前回の記事に関連してこのような言葉を頂きました。(ありがとうございました)


仏教の言葉はこういうとき厳しいです。
とにかく心と体に気を付けてください。奥さんを大事にしてください。



確かにそうだなあ、と思いながらお返事しました。仏教の言葉を癒しだとか活力源だとかいうように捉える方もあるかしれませんが、本来仏教の言葉というのはまともに受け取ったらとても厳しくて聞けたものではなかろうか、と思ったのでした。


親鸞会の顕正新聞やら弁論大会やら体験発表やらで、身内の「ご不幸」が縁となって仏法とのご縁を持たれた方のお話はよく聞きました。別段親鸞会に限らず、私が行く寺にもそのような方がいらっしゃいます。ちなみにここで言う「ご不幸」は一般的な意味合いとご理解下さい。

弁論大会やら体験発表やらでそのような方のお話を聞きます中に、身内の「ご不幸」を「弥陀のご方便」というような表現がしばしば見られた事を思い出します。そのような方を見て、ご縁のある方だなあという思いもありましたが、自分だったらそのようには思えないなあという思いも、当時はありました。

ちなみに今もそのような思いはあまり変わらず、娘が亡くなったことについて「ご方便」という味わいが皆無というわけでもありませんが、「仏縁ということだったら娘を殺さないでくれ」という思いの方が強かったりします。


娘を火葬場で見送る際、私がよく行く寺の副住職が来てくれました。実は友人の坊さんを呼ぼうかという思いも頭をかすめたのですが、忙しい中滋賀から呼びつけるのも申し訳ないなという思いもありまして、結局当人には未だに直接話が出来ないまま日が経ってしまいました。来月に行った時にでも話をしようかと思いますが。

それで、その際に寺からリーフレットやらなにやら色々もらったのですが、その中に法語カレンダーのようなものもありました。これは、初七日から七七日まで一週間単位でめくっていくもので、法語や妙好人の言葉などが並んでいたものです。そのカレンダーを仏壇に飾っていたのですが、それについて妻が

「責められているようでつらい」

と頻りに言っていました。私も実際は「そう思うだろうな」と思いながらもご縁だからと飾っていたのですが、つらい時に仏教の言葉を正面から受け取ると、尚更厳しく感じるのだろうと思ったのでした。このとき私は、妻が仏法を聞く気を無くしてしまうのではないかと少し心配になったのですが、仏法を聞く気については以前と変わらなそうだったので安心しました。

ちなみに私が妻ほどに感じなかったのは、私の他人事気質の性質によるものだと思います。それがいいとは思いませんし、「衆生苦悩我苦悩」の如来のこころとはまったくかけ離れているようにも思いますが、結果的にはこのような状態で今に至りました。


仏縁は様々なご縁によって結ばれます。その中でも「身内の不幸」は、いわゆるまったくの他人の死よりも身近に感じる分、自分により近い問題として捉えられ、それによってご縁を結ばれる方も少なくないでしょう。


いっぽう、仏教の言葉は遠慮がない分、厳しく感じられるものだと思います。そしてそれゆえに仏法を撥ね付けてしまうこともあるのではなかろうか、今回私はそのように思いました。


私の場合は幸いにと言いますか、娘の死と前後して仏法を聞く気に特段大きな変化は今のところありませんでした。無常を縁として聞法心なり御恩報謝の心なりが強まればご方便ともなったのかもしれませんが、それが私の性根なのだろうとも思います。とりあえずは逆側に触れなかっただけありがたいと思う私については、いろいろ思われる方もあろうかと思いますが、


ただ一つ言えることは、厳しい仏教の言葉を正面から受けられないような、そんな私が助かるのだとしたら、性根にも根性にも求道心も、一切条件を付けない南無阿弥陀仏より無いのだろうということでした。

もし南無阿弥陀仏の救いを求めてなお救いにあえないと思われている方があるとすれば、私が書いたところで説得力はありませんけれども、南無阿弥陀仏だから心配いりません。もっとも、素直にそのように思えれば苦労しないといわれるのかもしれませんけれど、それはまた機会があれば書くかも知れませんし、書かないかも知れません。



ところで先ほど、「仏縁ということだったら娘を殺さないでくれ」と書いておいてこういうのも変ですが、一方で亡き娘の姿が南無阿弥陀仏とも味わわれる今日この頃です。


南無阿弥陀仏

次回の埼玉慧日会は二週間後ですが、無事にご縁があるとすればまた一つ年を取るのだなあと思っている今日この頃です。


先日、バスに乗っておりますと一人のご婦人がありました。私はバスに乗る際、大概最後部の座席に座るのですが、そのご婦人は私から見て二つほど前の、詰めれば二人座れる座席の窓側に座っていたのでした。

最近のバスは、座席の通路側にも捕まり棒があります。ご婦人は、降りるバス停が近づいたのか、座席の通路側に移動して捕まり棒に捕まり、そしてもう一方の手を窓側に伸ばして、窓にある押しボタンを押したのでした。


このとき、私は一瞬「おや?」と思いました。実にご婦人が掴んでいた捕まり棒にも押しボタンがあったからです。しかも、ご婦人の手の僅かに15cmほど上にあったのでした。

しかしながらご婦人がわざわざ窓側に手を伸ばしたのは、おそらく近くのボタンに気がつかなかったからなのだろう、と思ったのでした。


もっとも気がつかないのも無理は無く、ボタンはご婦人の目線から考えれば上にあり、斜め上を見なければ視界に入らないと思われる位置にありました。


押しボタンが見つからずに探して遠くのボタンを押したら、実は案外近くにボタンがあったというのは路線バスのあるあるのような気がしますが、これがいわゆる盲点というのでしょう。


・近いものが案外見えていない
・見えているようで見えていない


視点を変えてみれば、あるいは少し離れた立場から見れば、案外造作も無く見えることなのかも知れません。
こんなことを考えて私はなぜか、観無量寿経を思い出したのでした。


汝いま知れりやいなや、阿弥陀仏、此を去りたまうこと遠からず。


阿弥陀仏は南無阿弥陀仏として目にもし、耳にもしているのでしょうが、見えているようで見えていなかった、聞こえているようで聞いていなかった、ただ超絶不思議な「何か」が阿弥陀仏なのだろうと勝手に思っていた、

そんな学生時代を思い出したのでした。


南無阿弥陀仏

気がついたら一ヶ月ほど更新していませんでした。最近は終バス率が高くなっていたからという言い訳もできるのですが、何か書こうとすると以前に書いた話と同じような話になってしまいそうで、いわゆる「筆が進まない」状態だったというのが適切かも知れません。と言いながら書かないでいると本当に書かなくなってしまいそうですので、どこかで書いたような話になるかもしれないと思いながら書くことにします。


先月、とある中華の7インチタブレット(Android)を9千円くらいで購入しました。自称ガラケー派の私はスマホを持たないことにしていたのでスマホは持ってません。ガラケー派のくせにLTE対応のタブレットを買ったという点について突っ込みどころがあるような気がしますが、今日はそのタブレットに(少しだけ)関係する話です。


最初にお断りしておきますと、今回の話は「話題が分からない人にはまったく分からない」度合いがいつも以上に高いかと思います。


私は学生時代と比べて、PC等でのゲームをほとんどやらなくなったのですが、たまたまタブレットに必要なアプリを入れている最中に見つけた「ファイヤーエムブレム(FE)」をとりあえず入れてみたのでした。アプリ自体は無料だったので。


FEと言えば、古くは小学生時代の友人が、わざわざ私の家に遊びに来て、(友人が)自分で持ってきた
FEを何時間も遊んで帰って行ったというシュールな思い出がありました。その後SFCでようやく、自分が「紋章の謎」「聖戦の系譜」を遊んで、こういうものかということが分かったのでした。


それから20年近くは経っておりまして、久方ぶりに出逢ったFEは大きく変化していました。この内容についても語ることもできますが、今回の本筋とは異なりますのでやめておきます。
もっとも、据え置き型ゲーム機でやるSRPGと、携帯端末でやるSRPGが同じゲームシステムで成立するわけがありません(ゲームとして作ることは出来ても、プレイスタイルに合わない)ので、当然の成り行きだろうと思いました。


さて、今回のFEには、最近の「スマホゲーム」同様に「アプリ内課金」がありました。課金対象は、キャラクタの召喚で使用する「オーブ」です。18歳以上で購入可能なオーブの値段を見ていましたら、個数によっては数千円という値段が付いておりました。ものすごく端折ってざっくりした言い方をすれば、オーブを大量に使いさえすればキャラクタを強くすることができます。よって、手っ取り早くキャラクタを強くしたければ、金さえ掛ければ強くなれる、ということが言えます。



このような「インストールは無料、アプリ内で課金」というゲームの場合、ユーザは「無課金で遊ぶユーザ」と「課金して遊ぶユーザ」とに分かれます。無課金でもそれなりに遊ぶことはできますが、課金で遊ぶユーザと比較すると、当然ながらゲーム進行においては随分不都合があります。例えば、大金を使ったユーザと同じレベルに上げようとしたら、お金を遣う代わりに多くの時間や労力を費やす必要がある、などです。(むしろ、それに極まるようにも思いますが)


そんなことを考えてふと、私の学生時代のことを思い出したのでした。(今回は久々に導入が長めでした)


端的に言えば、私が学生時代に親鸞会で話を聞いていた結果としての行動は、アプリ内課金でせっせと大金を使うゲーマーのようなものだった、という感慨です。


私は、入学手続きをした日に「人生の目的とは」という、宗教臭い香り漂う勧誘を受けて話を聞き始めました。他の大学の部室に行くための交通費は掛かりましたが、この時点で会費のようなものは取られませんでした。つまり、「最初は無料」でした。


その後、「人生の目的を達成するために」様々なあれこれが出てきました。まずは新歓合宿(親鸞会的には新勧合宿)。そして夏合宿、そして親鸞会への入会勧誘。


以前に何度か書きましたが、夏の時点での入会勧誘は断りました。その年の夏合宿で勧誘を断ったのは、関東近辺では私以外にもう一人居ただけだったようです。その時には、「入会しなくても(=金を遣わなくても)続けていけるだろう」とのもくろみがありました。


しかし数ヶ月経って、まったく「人生の目的が達成できる」気もせず、金銭的に若干の余裕が出てきた頃にまた「新しい人に対しての入会勧誘」があり、そこでも最後まで粘ったものの入会しました。つまり、金を出しました。入会しさえすれば「人生の目的」とやらが達成できるのだろうという、今振り返れば壮大な勘違いがありました。


会員になったら、いよいよお金を遣う場面は増えました。ここの読者の方でしたらご存じの方も多いかと思いますが、一応例を挙げてます。


・募財(当時は「御報謝」)。色々な建物を建てたり、出版物の広告を出したり、といった費用。
・会費。学生の場合、最初は毎月2000円からでした。実は色々な種別がありました。
・法話の参詣費用。私が大学二年の夏までは地方で法話がありました。夏以降は富山だけになりました。


まだまだいろいろあるかと思いますが、これくらいにしておきます。

私はしばらく会費二千円でしたが、会費を増やすと法話の時に前へ行けるということがあって、毎月一万円にしたり、三万円にしたり、大学院二年のときには十万円にしたりしたこともありました。

そのほか、正本堂等の募財がありました。私が出したのはそれなりでしたが、人によっては百万円単位のお金を出したりした人もあったようです。

なんだかんだ金を遣ったのも、使わないよりは使った方が「人生の目的達成に近づける」という漠然とした思いがあってのことだったのかな、と思いました。



アプリ内課金のスマホゲームも、ゲームによっては際限なく金を掛けられるため、たまに課金の請求がすごいことになったというニュースが流れていたりすることもあります。ゲームの場合は、キャラクタが成長したり、レアアイテムが入手できたり、一応はゲーム内での「成果」が分かります。
ただし、その成果はあくまでゲーム内の話であって、実世界においてハッキリした「成果」の果実を得ることは難しいかも知れません。リアルまたはネットの世界で自慢の種にすることはできるかもしれませんが、例えばお金や財物あるいは国家資格といったようなものが手に入るわけではありません。もっとも、少なくともゲームの目的に対しては近づきこそすれ遠ざかるといったことはないでしょうが。


親鸞会の場合も一応お金を掛けないことはできますが、大概お金が掛かります。そして、たまにものすごい金額を遣う方があります。そうやって金を掛けた「成果」としては何があるでしょう。たとえば、会員種別が上がったり、法話で前の席に行けたり、銘板に自分の名前が刻まれたり、功労者として名前を呼ばれたり、といったことはあるでしょう。ただしこれもゲームと似たようなもので、いずれの「成果」も親鸞会に留まるものです。そして、そもそも親鸞会にいる理由、すなわち目的に役立つのかという点においてもおぼつかないです。

親鸞会で言うところの「人生の目的達成」とは、つまるところ「信心決定」ですが、信心決定はお金を掛けなければできない、などということは言われません。信心決定という言葉をよく御文で使われた蓮如上人は、たとえばこう言われています。


その信心というはいかようなることぞといえば、なにのわずらいもなく、弥陀如来を一心にたのみたてまつりて、その余の仏菩薩等にもこころをかけずして、一向にふたごころなく弥陀を信ずるばかりなり。これをもって信心決定とはもうすものなり。
(御文1-15)



親鸞会なり、何かの宗教なり、その他夢中になっていることが、夢中になる正当性を自分の中に持っていたとしても、ひょっとしたら課金ゲームにひたすら課金し続けてゲーム内の成果に満足しているようなことと似たような状態になっている、ということがあるかもしれません。後から振り返って、あるいは離れた立場から見れば、その入れ込み方に違和感を覚えるのでしょうが、夢中になっている当人は、当人なりの正当性を持っているために違和感を感じない。そこにギャップがあるのだろうと思ったのでした。


熊谷に引っ越してきて7年半くらい経ちました。妻が引っ越してきてから数えても三年あまり経ちました。結婚前からずっと同じ家に住んでいますので、主立った家電は、妻が来た時に妻が持ってきた冷蔵庫に変わった以外はほとんど変わっていません。


以前に2回くらい書いたような気がしますが、熊谷にはビデオ法話をやるために引っ越してきたようなもので、ほとんど自分で使っていなかった42インチのモニタやエアコンなども、いわば「客人用」にと引っ越し時に設置したものでした。もっともエアコンについては、結婚してからは冬と夏はほぼ毎日使用するようになりましたが。


そんなわけで、結婚前はほとんどエアコンを使用していませんでした。どれくらいの使用頻度だったかと言いますと、1シーズン全く使用しなかったこともあるくらいで、多くても1シーズンで5日程度でした。だからなのか分かりませんが、取説もどこにやってしまったのか分からなくなっていました。


ところで最近ふと、家のエアコンにフィルタ清掃と内部洗浄機能があることに気がつきました。そういえばリモコンには「フィルタ清掃」と「内部洗浄」のボタンがあったのですが、全く気にしていませんでした。遠い過去にそんなボタンを押したことがあったかもしれませんが、7年半も経ってようやく気付いたのでした。


きっかけは些細なものでした。

1~2週間に一度、掃除機でエアコンのフィルタの埃を吸っていて、たまたまフィルタの取り付けが甘かったのか、普段点灯しない表示が点滅していたのでした。それで何とはなしにリモコンを見て、見つけたという次第です。


もともとこのエアコンは、とりあえず自分で頻繁に使うことも想定していなかったため、池袋のヤマダ電機で「安い機種」として選んだに過ぎないものでした。そういうものに、フィルタ清掃機能が付いているという発想はありませんでした。


「盲点」という言い方をする場合がありますが、まさに見ているけど見えていない、思い込みなどによって気付いていない、といったことがあるものです。


・・・

大聖易往とときたまう  浄土をうたがう衆生をば 無眼人とぞなづけたる  無耳人とぞのべたまう
(弥陀和讃)



南無阿弥陀仏のお話を、発想とか気付きとかで語るのもおかしなように思いますけれども、もし南無阿弥陀仏のお話を聞いて南無阿弥陀仏のお助けを求めていられて、なお南無阿弥陀仏にあえないと思われる方があるとすれば、何かの思い込みによって「聞いているけど聞こえていない」といったことがあるのかもしれません。


蓮如上人は、

「雑行をすてて、後生たすけたまえと、一心に弥陀をたのめ」

といわれていますが、


・雑行を捨てなければ・・・
・雑念を振り捨てて真剣に求めなければ・・・
・法話に欠かさず参詣しなければ・・・
・自分のようなものは救われないのではないか・・・
・因果の道理が徹底されなければ・・・
・必堕無間と知らされなければ・・・


などといった思い込みを挟むと、


阿弥陀仏の、むかし法蔵比丘たりしとき、衆生仏にならずはわれも正覚ならじとちかいましますとき、その正覚すでに成じたまいしすがたこそ、いまの南無阿弥陀仏なりと、こころうべし。これすなわちわれらが往生のさだまりたる証拠なり。されば他力の信心獲得すというも、ただこの六字のこころなりと落居すべきものなり。
(御文4-8)



このように往生の証拠と言われている南無阿弥陀仏を聞いても、「それはただの必要条件であって、南無阿弥陀仏を聞くために何かが必要」と勝手にハードルを付けてしまうことにもなりかねません。


淳心房さんが紹介されている「お天道様を見たら傘は要らない」という表現を借りますならば、傘を持っているから雨が降るわけでもなければ、傘をしまったからお天道様が出てくるわけでもありません。言うなれば、自分の行為によって「お助け」が決まるわけではないといえましょう。


私の場合、「安い機種だからフィルタ清掃機能など付いていないだろう」と勝手に決めつけてしまっていましたが、自分の思い込みなど関係無く付いているものは付いていたのでした。


「心得たと思うは、心得ぬなり。心得ぬと思うは、こころえたるなり。弥陀の御たすけあるべきことのとうとさよと思うが、心得たるなり。少しも、心得たると思うことは、あるまじきことなり」
(蓮如上人御一代記聞書)



が今回もまた味わわれたのでした。

先日(2/26)の記事は、毎年恒例のシリーズだったのですが、今年は趣を変えてというか必然的にというか、自分の言葉を載せるのをやめました。途中まで文章を作っていたのですが、結局それを出すのはやめました。別の日にこっそり出すかも知れません。

あと、今年の文字が「離」となった上にその件に関して何も説明をしていないので、あさ川の味わいが変わったかと思われる方があるかも知れないなあと思ったのですが、特に何も無さそうでしたので、取り急ぎ「例年と特に変わっていません」とだけ申しておきます。


ところで明日は埼玉慧日会の予定です。だいたい私が法座のご縁とか仏法絡みのご縁に行くとなると、近くても約40km離れた大宮ですので、東京のご縁となると高崎線で一時間以上掛けて行くことになります。

通勤で毎日片道二時間程度のバスの旅をしている私にとって、一、二時間の鉄道の旅が格別苦痛だとか遠いだとかいうわけでもありませんが、それでも半日のご縁が一日がかりになったりしますので、近場で行われるご縁というのはありがたいものです。探せば他にも近場のご縁もあるのでしょうが、それも含めてご縁なのだろうと思う次第です。



さて、先日の淳心房さんのブログの記事に、


さて、話の中で『帖外御文』にあるという、

「信心という二字をば、まことの心と読めるなり、まことの心と読む上は、凡夫自力の迷心に非ず。全く仏心なり」

という文章を出して話があったそうです。ただ、この文章は調べても親鸞会関係のサイトでしかヒットしませんでした。

ただ、『御文章』1帖目15通には、

信心といへる二字をば、まことのこころとよめるなり。まことのこころといふは、行者のわろき自力のこころにてはたすからず、如来の他力のよきこころにてたすかるがゆゑに、まことのこころとは申すなり。

とあり、覚如上人の書かれた最要鈔には、

この信心をば、まことのこゝろとよむうえは、凡夫の迷心にあらず、またくの仏心なり。

という御文がありますので、蓮如上人がそのような文章を書かれていたとしても不思議ではありません。が、ちょっとモヤモヤしますので、もしご存じの方は前後の文章を含めて教えて頂きたく思います。



ということがありました。すでに林遊さんがお調べになったようでしたが、私もせっかく学生時代に買った『御文全篇』が手元にありましたので、流し読みして探してみることにしました。


『御文全篇』は、「蓮如真筆ならびに真偽未決を収録し、年記を尊重して配列し、その後に無年記、真偽未決分の順に配列した」ということで、真偽が未決のものも含めて掲載してあるそうです。500ページ近くあるので、それなりの分量でした。同じような御文も分けて掲載されています。


結論を言いますと、私も見つけることは出来ませんでした。


似てるとは言いがたいかしれませんが、せっかく流し読みしましたので、私がしおりを挟んだ二カ所を紹介します。いずれも「真偽未決」のところにありました。


そもそも当流に沙汰するところの信心といふ二字をば、まことのこころとよむなり、また安心とかきては、やすきこころとよむなり。これによりて不審あり。信心の二字をばまことのこころとよむは、弥陀如来の他力のまことの御こころときこえたり。(後略) p427


(前略)されば当流の安心とまふすは、一念にも多念にもあらず、唯念佛往生と深く信ずるをもて、宗の正義とす。すなはち、真の知識にあひたてまつり、念佛往生の本願をきき開て、佛願にまかせ、一念発起するところをさして、信心決定とはいふなり。この信心と申すは、凡夫自力の迷心にあらず如来清浄の願心なり。願心はまことのねがひとよめり。(後略) p443


こうやって見ますと、淳心房さんが紹介された最要鈔のお言葉が一番近いように思いました。


ちなみに、学生時代に私が『御文全篇』を買ったのは、

後生という事は、ながき世まで地獄におつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思いとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。


が、本当に帖外御文にあるのか、ということを調べるためでした。
これについては探すのに時間が掛かりましたが、p406にありました。


後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつることなれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。


よく見たら「おつ」ではなくて「をつ」でした。

親鸞聖人の、

もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。
(教行信証)


のお言葉と同じようなことを言われているのかなあと思いました。


特にオチもありませんが、今日はこのくらいにします。

最近はずっと関西にいるせいか、関西のイントネーションに慣れてきたあさ川です。

さて、仕事繁忙を理由にブログを放置してしまっておりましたら、たくさんのコメントをいただいておりました。今日確認したら34件の未読コメントがありました。投稿文に対しては基本的にお返事しないというマイルールに基づき、特に個別のお返事は差し上げないかわりに、久々に少しだけ更新します。


いただいたコメントについては理解が追いついてませんので、単純に私の味わいを少しだけ書きます。


私が埼玉慧日会で話を聞いている限り、労組運動で感じるような社会運動を云々ということは特に感じませんで、皆さんの質問に基づいて南無阿弥陀仏の話、そして親鸞会の教えているところの違いなどのお話です。


さて、聖道の慈悲云々ということについて親鸞聖人は、コメントをいただいているとおり三部経千回読むというお話はよく知られているところです。その親鸞聖人ほどの方も悩まれるほどの問題だなあと思います。親鸞聖人は最終的には、やはり南無阿弥陀仏をお伝えすることだといわれました。一方でその悩みの強さは、衆生済度あるいは世の中を見渡したときに感ずる様々な苦悩を見て、なんとか助けたいという親鸞聖人の強いお気持ちの表れだろうとも味わわれます。人間の問題と言いましょうか。


あと、本願寺はじめ既成の仏教集団が親鸞会を正さなかった云々の話です。まあこれは30年以上前に、西本願寺が親鸞会の教義批判を行っていたということは周知の通りですが、あのまま親鸞会に対してもっと徹底して批判を加えていてくれていたならどうだっただろうか、という思いは私もあります。ただ、どこかのサイトで見たような記憶のある表現を用いるなら「親鸞会は自ら浄土真宗でないと宣言をしてしまって本願寺が呆れて相手をしなくなった」ということですと、この展開は分からなくもないです。

といいますのは、「仏教は無諍の法」とどこかで聞きます通り、他の宗教を大々的に批判あるいは否定をしないのが仏教だと味わっているからです。どこか小さいところはやってるかもしれませんが、たとえば某宗教のように、異教徒の国を征伐しに行ったりするという話は聞いたことがありません。そのように考えますと、浄土真宗というカテゴリで認識されていたなら「親鸞聖人の仰せ」を基準に教えをただすということはできても、「その他宗教」と認識されたら基本的には親鸞聖人の埒外だからです。もっとも、親鸞会は浄土真宗を名乗っているので、浄土真宗として既成の真宗集団がきちんと正してくれないと、ということかもしれませんし、確かにそれは私もかつておもっていたところではあります。

あと、仮に既成の真宗集団が親鸞会を正して親鸞会が無くなったとして、今南無阿弥陀仏を喜んでいらっしゃる親鸞会にご縁のあった方々皆が皆、今南無阿弥陀仏を喜ばれていたかというと、私は必ずしもそうではないだろうと思ったりもしております。少なくとも私は違ったので無いか。それは私がいつも書いていることでもありますが。


それも含めて、南無阿弥陀仏とのご縁は、親鸞聖人や歴代の善知識方、皆さんとのご縁あってのものだと味わわれたのでした。


まとまってませんが、今日はこれまでといたします。

来年に持ち越しの仕事はいろいろありましたが、とりあえず昨日で今年の仕事は終えまして、今日は一日、家の掃除と年賀状書きとしていました。その辺の年賀状イラスト集などにあるデザインを使う気が毛頭無い私は、毎年PCでへたくそな絵を描いているのですが、今年はまったくアイデアが出てきませんでした。とりあえず今年はひよこらしき物体の絵を描いて、どうにか書き終えました。

ちなみに妻は別のデザインの年賀状を作っているので、毎年夫婦別々の年賀状です。


さて、「あう」といっても某三太郎のCMでお馴染みの通信会社の話ではありません。読んで字の如くです。先日、つけ麺を食べながら思ったことが、今日の話です。



私の身内に、ラーメン屋の店主をやっている人が居ます。連絡先も知らないので、普段やりとりをしているわけではありませんけれども、どこの店でやっているのかは分かりましたので、機会があれば食べに行こうと思っていました。

そして先日、たまたまそのラーメン屋の近くに行く用事が出来たので、昼に食べに行くことにしたのです。ただし、連絡先を知りませんし、普段やりとりをしているわけでもありませんから、特に連絡すること無く食べに行きました。

つまり、私はその身内のラーメン屋を目当てに行ったわけですが、その身内はそんなことをまったく知らなかった、ということでした。



話は変わりまして、私が、腐れ縁というか長い付き合いの住職の寺で勤められた報恩講に行った折、思いも掛けず大学時代の先輩に会いました。向こうも、私が来ていることは知らずに来たようで、お互いに「久しぶりですね」と話をしたものでした。


さてここで、話の都合上、ラーメン屋の話と報恩講の話をそれぞれ抽象化しておきます。

①AはBを目当てにあいに行った。BはAに予期せずあった。
②AとBは互いに予期せずにあった。


ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしいかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知りぬ。ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。
(教行信証)



親鸞聖人が南無阿弥陀仏にあうことを、「値う」や「遇う」といった表現で書かれています。いずれも、予期せずにあうという意味があるそうです。


このような意味において、十八願真実の立場は仏から衆生へという方向にあり、自らの求めるに先行して既に救いの法が与えられている立場を前提とする。それ故、私から仏への自らが先に求める方向は逆になっているのである。このような逆対応的関係は遇うという言葉によっても明らかに知られる。最近「出会い」という言葉を散見することがある。出会いは元来ブルンナーBrunner によるものといわれる。Begenung はキリスト教の上では通ずるが、浄土真宗の上では逆の立場となる。
出会いは両者が予想され、神と人間という二元的対立的な呼応関係にたっている。
両者の歩みよりが前提となるのが出会いである。しかし、会うと遇うは全く逆の立場に立つ。『浄土論』の「観仏本願力、遇無空過者」の遇を一多証文には(真聖全、宗祖部・六一七頁)
「遇はまうあふといふ、まうあふとまふすは、本願力を信ずるなり。」
とあり、『教行信証』の総序にも「遇い難くして今遇うことをえたり」とあり、正信念仏掲の「一生造悪値弘誓」を念仏正信偈には「遇弘誓」となっている。遇のまうあうは目上の人から目下の人に向う場合に使われる用語といわれ、しかも全く予期しないあい方である。それは自らの予想し、求めている方向にないからである。
(稲城選恵著 『他力信心の特色』)



私は、このことを読んで、漠然と「道ばたで旧知の人にばったり出くわすような”あい方”」を想像していました。さっきの①と②の話を、「A=弥陀、B=私」とすると、あえて言えば②のようなものとして、漠然と味わっていました。

「あえて言えば」と書きましたのは、私の側から見れば「予期せずにあった」という点については同じなのですが、「道ばたで旧知の人にばったり出くわすような”あい方”」といった場合は、双方とも「予期せずにあう」ように思われたからでした。もっと言えば、「私」のことしか頭に無くて特段「弥陀」について思いを致さなかったために①と②の「あい方」の違いを味わうことさえ出来なかったのです。


しかしながら、ラーメン屋でつけ麺をすすりながらふと、弥陀から見たら①の「あい方」だったのではないかと味わわれたのでした。


弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ
(歎異抄)


ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。
(教行信証信巻)



ちなみに、ラーメン屋の主人は、麺をゆでるのに忙しかったようで私には気付かなかったようでした。もっとも私も、邪魔してもいけないかなと思って声を掛けなかったのでした。

これはこれでまた味わうところもありますが、今日はこの辺と致します。

さて本日は埼玉慧日会の日です。ご紹介かたがたブログを更新しようと思いながら当日になってしまいました。また後ろの方でご案内します。


前回の記事で、林遊さんから御名号についての記事へのリンクをコメントで頂きました。コメント欄では自動的にリンクができませんので、この記事で紹介します。


こちら


あと、以前にご紹介した「私が好きな本」として『他力信心の特色』という本の関係か分かりませんが、以前にこちらも林遊さんからご紹介頂いていたご法話も紹介します。


こちら


今日の記事はご紹介だけですが、最後に、またRCさんからご案内があるかと思いますけれども、今年の埼玉慧日会の予定をこちらにも書きます。いずれも熊谷駅近辺の予定だが場所は未定、とのことです。


2017年(平成29年)
1月 22日 (日曜日)
3月 5日 (日曜日)
6月 4日 (日曜日)
7月 2日 (日曜日)
9月 18日 (月曜日)
12月 3日 (日曜日)
時間は、どの日も 14時10分~17時の予定

先日の続きと言いますか、書こうと思いながら例によって延び延びになった今日の話です。


前回の記事に頂いたコメントへのお返事で少し書いたのですが、私が学生時代から社会人になるかならないかの頃に手にした庄松同行の話の中で、一番印象に残っていたのが、継子の話です。ご存じの方もいらっしゃるでしょうが、大ざっぱに言いますと


庄松が寺の本堂で急に寝転がった。
いっしょに来た人が、「本堂で寝転がってはいけない」と注意すると、
庄松は「親のうちじゃ、何の遠慮もいらない。そういうお前は継子だろう」と言った。


というような話です。


そういえばどなただったか、「救われる前は、阿弥陀様は怖い存在だと思ってました」と言われていた方がありました。


善をしなければならない、
おつとめをさぼってはいけない、
手を抜いてはいけない、
誰が見て無くても仏さまは見てござる聞いてござる知ってござる・・・


たしかに、こういったことを聞かされ続けていたら、弥陀に助けてもらうにはどれだけのことをしなければならないかと悩んでみたり、少し出てきた怠け心を見つけては救いから遠ざかった気がしたり、

と、

(語弊はありますが)阿弥陀様のご機嫌をいかに損ねないようにするか、ということに神経をすり減らすような心持ちになってしまうのかもしれません。


庄松同行にとって弥陀は、存分に心置きなく甘えられる存在だといわれているのかもしれません。
「親様」ということばもありますが、まさに親のように遠慮のいらない存在。

それは決して粗末にして良いとか軽んじて良いとかいう話ではないのですが、


たとえ悪い心が出てきたとしても、
善をする気が起きなくても、
手を抜いてしまっても、
おつとめをさぼってしまったとしても、


「そんなことをする奴はたすけてやらん」とは決して言われません。
何を言っても何をやっても、そのことによって弥陀が心変わりすることは無いということです。

とは言っても、だからといって本当にやりたい放題言いたい放題、弥陀も貶し放題、となっては勿体ないです。
一般的に、親に対しても、親の愛情を感じたら、そこまで親を故意に粗末にしようという人はそうそう無いと思います。

ただただ申し訳ないなあという心になる人もあるのではないでしょうか。ならない人もあるでしょうけど。


南無阿弥陀仏。


私がよく行く寺で、ほぼ毎月の勉強会が行われています。テキストを読んで、そしてめいめいが思ったことやら味わいやらを好き勝手言うのですが、そこのご住職は、


「仏法は遠慮してはいけない」


と口癖のように言われます。継子の話と通じるものがあるのかも知れません。


南無阿弥陀仏。

先週の日曜日は、とある国家資格の試験を受けてきました。ちなみに、宅建ではありません。私個人的には別に受ける気も無く、どちらかというと別の試験を受けたかったのですが、会社からいついつまでに試験に合格すること、と言われたので受けてきました。


もともと、「人生の目的」について何かを書こうと思っていたのですが考えがまとまりませんので、今回はこの試験を受けて考えたことを書きます。こちらも全然まとまってはいませんが、いつものことなのでそのまま書いてしまいます。読みにくかったら失礼しました。


さて、何かしら試験を受けるといった場合、「不承不承でとりあえずポーズだけ」などといったケースでもなければ基本的にその試験に合格するために受けると思います。そして、だいたいの場合、一応は勉強すると思います。


勉強 → (試験) → 合格 または 不合格


受けた結果がすぐに表示されるような試験でもない限り、大なり小なり合格発表まではタイムラグがあります。
そして、少なくとも合格発表までは、自分が合格しているのかしていないのか、本当のところは分かりません。


私が今回受けた試験は、全部マークシートでした。そして、試験日の夜遅くには解答が発表されました。この場合、自分がしたはずの解答と、発表された解答を見比べれば、自分が取るであろう点数は予想できます。私も、珍しく採点してみました。


しかしながら、これも多くの場合はせいぜい「おそらく合格(不合格)だろう」止まりだと思います。マークミスやその他の不備の可能性が(僅かであっても)考えられるからです。


そのようなわけで、ある程度結果が予想できていたとしても、合格発表のときまではどっちつかずの日々を過ごすことになります。この間、試験の結果がどれくらい気になるかは、その人がどれくらいその試験に思い入れを持っているかに比例するかも知れません。入試などの場合は、人生をも左右しかねませんので、重大である場合も多いと思います。

私の場合は、試験結果が人生に対して与える影響は大して無いはずですが、またこの試験を受験となるのも面倒だという点において、試験結果は気にしています(現在進行形)。


そして、試験の合格発表の結果、自分が合格したかしてなかったかが分かります。ここで一応分かるはずなのですが、合格証が手元に届くまでは安心できない、という人もあるかしれません。いずれにせよ、何かしら自分の合格(あるいはその逆)を証明する事柄をもって、結果が分かります。私の場合は、来月の中旬に合格発表の予定です。


試験の場合は、以上の流れになることが多いと思います。
この間、(程度の差こそあれ)悶々とする理由を考えますと、まさに上記の通りだと思ったのでした。つまり、


①自分の努力が自分への結果に反映されることを期待している
②しかしながら、自分への結果を決めるのは自分では無い


この2つが揃うと結果が出るまでの間、悶々としてしまうのだと思うのです。逆に言いますと、この2つのうち片方だけならば悶々としようが無いでしょう。
そしてこれは、別段試験に限った話ではないと思います。

たとえば、自分の努力が完全に結果に反映されるのであれば、自分が努力しさえすれば良いのです。自分が結果に対して努力しないのであれば、結果を決めるのが自分であってもなくても、それほど結果を気にしないでしょう。

試験とは関係ありませんけれども宝くじはどうかな、と思ったのですが、考えてみますと、本気で当てようとしている人であれば大量に購入するとか購入場所を選ぶとか、結局何かしら努力していると言えるでしょう。



そういえば少し前に、淳心房さんのブログで19願の話題が出ました。臨終来迎は死の間際まで結果が分からないので、試験どころの騒ぎではありませんし、その行も比較にはなりませんが、自らの行いでもって弥陀の救いを待つという構図は、似ていなくも無いかなと思いました。試験であれば合格発表日は決められてますが、臨終来迎はいつ死ぬか分かりませんから、いつ発表されるか分からない合格発表を待ち続けていることになるかも知れません。


絶対他力という話を聞いていれば自分の善が救いに反映されるという考えは持たないと思いますし、平生業成という話を聞いていれば臨終来迎を強いて待ち望むことも無いかとは思います。
しかしながら、もし、弥陀の救いにあうために善をする必要があると思っているとすれば、今まで述べてきたような「試験の合格発表まで悶々としている」構図、しかも、「いつ発表されるか分からない合格発表を待ち続けている」構図に嵌まってしまっているのではないでしょうか。


①自分の努力が自分への結果に反映されることを期待している
→自分の善が救いの「よい因縁」となる
②しかしながら、自分への結果を決めるのは自分では無い
→絶対他力なので弥陀まかせ

→②によって、救われていないということは何かが足りてないと思う
→さらに何か努力をする
→①に戻る


絶対他力と聞いてはいても、ついつい何かをせずにはいられないのは、人生において

「自分で努力して自分の求める結果を得る」

という自力の成功体験しか持ち合わせていないからなのかも知れません。そしてこの成功体験が強いほど執着も強くなるのでしょう。


一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして、清浄の心なし。虚仮諂偽にして真実の心なし。ここをもって如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまいし時、三業の所修、一念・一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもって、円融無碍・不可思議・不可称・不可説の至徳を成就したまえり。如来の至心をもって、諸有の一切煩悩・悪業・邪智の群生海に回施したまえり。すなわちこれ利他の真心を彰す。かるがゆえに、疑蓋雑わることなし。この至心はすなわちこれ至徳の尊号をその体とせるなり。
(教行信証信巻)



弥陀の救いといった時に絶対他力と言われますけれども、つまりは「自分がすることは何も無い」ということです。上の親鸞聖人の文章を読みますと、


・一切苦悩の衆生海を悲憫して
・菩薩の行を行じ
・至徳を成就したまえり
・回施したまえり


はみんな「如来」でした。努力という言葉はおかしいですが、あえてさっきと比べるなら


「如来で努力して如来の求める結果を得る」


と言えるかも知れません。であるならば、全部弥陀のお仕事ですから、私が手心を加える必要はありません。さっきの①と②も、


・弥陀におまかせ。


なんだか話を小難しくしてしまっただけのような気もしますが、南無阿弥陀仏

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