あさ川進の、宗教と私

浄土真宗親鸞会に所属しながらアウトサイダーだった私(現在は会員でなくなりました)が、宗教(浄土真宗親鸞会)との付き合い方を考えつつ書いている更新頻度が低いブログ(この説明も暫定です)リンクフリーです。なお、投稿文を受け付けております。「【投稿文】」と書かれている記事は、頂いた投稿文です。

カテゴリ : 親鸞会の法座や座談会

今日はテレビ座談会でした。ちなみに私は初聞法会にはご縁ありませんでしたので、久しぶりのご縁でした。
内容は「破闇満願」というお言葉について、でした。


ごく大ざっぱに内容を書きますと、

・破闇満願、とは仏教の全てを表した言葉
・破闇=闇を破る、満願=願いを満たす
・闇=疑いの心・疑情。(「誠なるかなや」のお言葉から)摂取不捨の真言(阿弥陀仏の本願)を疑う心
・摂取不捨の真言とは、煩悩具足の大宇宙すべての仏から見捨てられた極悪人を絶対の幸福に助ける、という阿弥陀仏のお約束
・摂取不捨の真言に疑い晴れたのが、「誠なるかなや摂取不捨の真言」
 ①私が煩悩具足の者であったこと
 ②私が絶対の幸福になったこと
 の二つがはっきりした、と仰っている。
・(①について)親鸞聖人は歎異抄に、「いずれの行も及びがたき身なれば~」と仰っている。
 煩悩具足の凡夫=いずれの行も及び難き身 同じこと
 地獄一定は阿弥陀仏に救われても変わらない。
・(②について)「利他の信楽うるひとは~」のお言葉で
 絶対の幸福にするという阿弥陀仏の本願と一体になる(願に相応)→絶対の幸福になった
・絶対の幸福になったこと=満願。阿弥陀仏の願いを私たちの上に満たす
 現生十種の益=前九益が別益、入正定聚の益が総益
 絶対の幸福のことを正定聚という。
 阿弥陀仏の本願の目的は総益、正定聚にすること。
・10番目(入正定聚の益)は絶対、1~9番目(前九益)は相対。
 絶対から相対が流れ出る。18願から、19願20願が出てくる。
 
なんだか、ここに書いただけでは端折っていてよく分からなくなっているようにも思いますが、あくまで大ざっぱな内容ということでご理解頂ければと思います。


あとは、

・3月2日は学生大会、4月6日はご法話。今後、行事は文字にして連絡して良い
・アニメバスを9月までに全国で10台にする。(多分発注済み)
・講師部員の配置が大きく変わり、支部のガラガラポンが始まる

といった趣旨の連絡がありました。
1番目にある通り、今後は日程を文字にして連絡して良いそうなので、覚え書きとしてここにも書いておきます。

今日は取り急ぎ以上と致します。

 

日曜日は地元の会館にて、関東学徒の集いがありました。私にとってはやや久しぶりの、光晴先生とのご縁でもありました。参詣者が何人くらいだったのかは分かりませんが、落慶座談会並の参詣者ということだそうでしたので、畳72畳の仏間に300人くらいの方が来られたということでしょうか。おかげで行事中は休憩中も含めて身動きが取れませんでした。


午前は、55周年大会のスローガン2つを通して、主に「『なぜ2』を書かれた御心」のお話、
午後は、四苦八苦のお話から「『なぜ2』には何が書かれているのか」のお話、と理解しました。
今回の表題は、一日を通して私に伝わってきたお話の趣旨を文字にしたものです。同じお話を聞かれて、「そんな趣旨では無い」と言われる方があるかもしれませんので、そういう方がありましたらコメント等頂ければと思います。


お話によりますと、

・『なぜ生きる』では多生の目的一つを書いたが、どうすれば達成できるのかについては紙幅の関係で書けなかった。機が熟して、55周年の節目ということもあり執筆した。
・「その道に通ずる人のアドバイス」によって、意訳を先にした。
・(『なぜ生きる2』は)三世十方を貫く書物で無ければならない、との思いで書いた。

といった趣旨の話が、とある座談会でなされたようです。

年末にお話しした会員さんも首を傾げていられましたが、『なぜ生きる』の後書きの件について私は学生時代に、


「書く必要が無いから書かなかった」


という趣旨の話を聞いた記憶があります。そもそも最近は、「以前こう聞いた、というのは根拠にならない」というようなことを言われているので、根拠にならないと言ってしまえばそれで終わる話なのですけれども、もし当時のことを覚えてらっしゃる方があればお聞かせ頂ければと思います。


すでに、陸続と反響のはがきが届いているという話もありました。またその中には、「自殺を思いとどまった」と言われる方もあったそうです。


それで私は、また学生時代のことを思い出すのです。


・・・


あまり詳しいことを書くのも憚られますが、学生時代に親鸞会でご縁のあった方の中には、「自殺をしようと思っていたが、真実の仏法を知らされて自殺をやめた」と言われた方が私が知るだけでも何人かありました。 


その中身が適切かどうかはさておき、親鸞会は「人生の目的」「生きる意味」を、非常に泥臭く訴えてくれた団体でした。私なんかは、最初に話を聞いた時はドン引きでした。
 

別に親鸞会に限らないのかも知れませんが、そういう意味では、「親鸞会の命を救われた」ということになる方もあったのだろうと思います。


しかし、その全てとは言いませんが、私が知る何人かのその人たちは皆、親鸞会を去りました。

そのすべての理由は分かりません。その中の一人は、「親鸞会では解決できないと思うからやめた」と書き残して退会しました。 「人生の目的」という希望の灯火によって望みを与えられ、その灯火が求めても求め得ない物に感じられた、のかどうかは分かりませんが、そんな思いがにじみ出ていました。




もう一つの学生時代の思い出。

私は、学生時代の先輩の勧めによって、とある健康法を実践してました。
その健康法は、「朝食を抜くだけで元気いっぱい、健康になれる」という趣旨のものでした。
 

朝食を抜くだけ、というのは、当時の私にとっては非常に都合が良いものでした。なぜなら、楽だからです。お金も掛からないし。


しかし、単に朝食を抜くだけでは駄目でした。


朝食を抜いてしばらく経っても、私の体に良い兆候は特に現れなかったのです。


実際によくよくその健康法を詳しく見てみると、ただ朝食を抜くだけではなく、全体に量を減らさなければならないとか、 食べていいもの悪い物を分別しなければならないとか、色々気に掛けなければならない問題が出てきたのです。


しばらくは自分なりに頑張ってみたものの、気に掛ける項目が果たせていない自分に落ち込む毎日を過ごしました。不甲斐ないことですが、結局私は、成就できそうに無いと思ってその健康法をやめてしまったのでした。


 
・・・


竊かに以みれば、難思の弘誓は難度海を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日なり。しかればすなわち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲す。かるがゆえに知りぬ。円融至徳の嘉号は、悪を転じて徳を成す正智、難信金剛の信楽は、疑いを除き証を獲しむる真理なりと。しかれば、凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径なり。大聖一代の教、この徳海にしくなし。穢を捨て浄を欣い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡なく、悪重く障多きもの、特に如来の発遣を仰ぎ、必ず最勝の直道に帰して、専らこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。ああ、弘誓の強縁、多生にも値いがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。もしまたこのたび疑網に覆蔽*150せられなば、かえってまた曠劫を径歴せん。誠なるかなや、摂取不捨の真言、超世希有の正法、聞思して遅慮することなかれ。ここに愚禿釈の親鸞、慶ばしきかな、西蕃・月支の聖典、東夏・日域の師釈に、遇いがたくして今遇うことを得たり。聞きがたくしてすでに聞くことを得たり。真宗の教行証を敬信して、特に如来の恩徳の深きことを知りぬ。ここをもって、聞くところを慶び、獲るところを嘆ずるなりと。
(教行信証総序)



私が健康法を断念したのは、単なる私の怠慢だったと言われればそれまでです。しかし、世の中頑張っても報われないように思えることも少なくありませんし、そもそも頑張れない人もあります。


先に挙げた親鸞聖人のお言葉を味わいますに、親鸞聖人が教えていかれた浄土真宗は、

凡小修し易き真教、愚鈍往き易き捷径

なのでありましょう。 
誰もが助かる教え、ということは、がんばれる人だけの教えでは無い、ということです。



親鸞会の存在によって、「命を救われた」という方がある一方で、「結局自分は助からない」と絶望に陥る方もある。
 

浄土真宗はそういう教えではありません。弥陀が助けると言われているので、「結局自分は助からない」ということは無いのです。



私は年頭に寄せて、『なぜ生きる2』をすてて、と書きました。

「先生が満身創痍でお書き下された御本を何だと思っているのだ」と思われる方があったかもしれません。


「全人類の指南書」と言うと、この本があたかも導くように、あるいはこの本の導きによって、と思われる方も出てくるでしょうが、あくまでも南無阿弥陀仏、弥陀に導かれるのだと味わわれるので、そういうふうに書きました。


「全人類の指南書」を標榜するのであれば、蓮如上人が仰ることに尽きると思います。


そもそも善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、人を勧むべきばかりなり。
(御文2-11)


どうも最近は、殺伐とした記事が続いてしまっているような気がしますが、今日は以上と致します。 

今日は(最近いつものような気もしますが)手短にします。


個人的にはかなり残念なのが、来年から担当の支部長さんが変更になる、との知らせでした。ただ、今の支部長さんも全く話ができなくなrわけではなさそうなのと、新任の支部長さんも学生時代に縁のあった方ということで、少し残念さが軽減されました。新任の支部長さんには学生時代、合宿中に病院に連れて行って頂いた思い出があります。合宿中にCTスキャンを受けた人間はそうそういないんじゃないか、などということを思い出しました。


そういえば、先日にメニューお布施のビデオを見せてもらいました。『なぜ生きる2』は初版5万部、発売前に1万部増刷して6万部出ているそうです。考えてみれば、親鸞会のアクティブ会員さんは1万人もいないと思いますし、親鸞会全部の会員さんを数えても6万人はいないんじゃないかと思いますが、6万部ということはそれだけ読者がいるということでしょうか。何冊も買う人がいるのかも知れませんが、今回は出版記念のお布施の募集はなく、「メニューお布施を頑張って欲しい」とのことでした。


その『なぜ生きる2』の産みの苦しみの反動で相当に「お疲れ」なのかは分かりませんが、今月は親鸞会館でのご法話や講演がビデオご法話になり、地元の行事は座談会に切り替わってました。私の耳がおかしくなければ、来月の予定も、初聞法会以外に親鸞会館での行事は予定されておらず、1回は座談会、もう1回は録画の上映と聞いています。原稿が上がった時点ではなくて、無事に出版が済んだタイミングで「お疲れ」になったのは、好意的に解釈すれば無事出版されて緊張の糸が切れたため、というところかもしれません。



さて、今日(昨日)は座談会だったそうです。「だったそうです」というのは、私がご縁無かったからです。
もともと「大導師以上座談会」の予定だったので行かない予定にしていたのですが、どうも通常の(一万円出さなくて良い)座談会だったようです。まあ、連絡が来てなかったから知らなかった、ということになりますが。

行った人(妻←親鸞会の会員ではありません)の話によると、『なぜ生きる2』に解説されている「現生十種の益」の話で、その中の「至徳具足の益」のところが中心だったようです。電話で聞いただけなのでよく分かりませんが、どうも「至徳具足の益と煩悩具足の凡夫と言われる関係が(君らには)分からんだろう」という話があって、その話が中心になったという内容だと理解しています。善の勧めというか聴聞の勧めという話もあったみたいです。


そんな話を聞いて思いだしたのですが、『なぜ生きる2』は、以前『顕真』にて連載された文章が土台になっているそうです。連載の名前はよく覚えていませんが、「宿善と聴聞と善の勧め」だとか、そんな感じの名前だったような記憶があります。

 
今回はとりあえず以上と致します。 

『なぜ生きる2』は、一部の書店で既に発売されていたようです。私の場合は、辺鄙な工場勤務のために大きな書店へは行けないので、アマゾンで注文する予定です。


さて、 日曜日はテレビ講演、という予定だったのですが、見た感じ座談会でした。久しぶりにどこだかよく分からない部屋からの中継で、でかいソファに深々と座っての座談会ということで、相当にお疲れな様子が見て取れました。


私は、今度予定されている(変更されたかも知れませんが)大導師以上座談会にはご縁無く、初聞法会もご縁がありませんので、またしばらく間隔が空く予定です。



今回の内容は、先日の真生会ご法話で予定されていた「自利利他の精神について」ということで、内容はほとんど「因果の道理」でした。基本的に、親鸞会でお話を聞いてきた方であれば概ね聞かれているであろう内容でしたので、特にここで詳しく書くつもりはありません。 


座談会ということで、当然いくつかの話題についての議論もあったのですが、その議論の質については微妙なところでした。


「因果の道理」の話になると、必ずと言って良いほど「偶然ではなく、すべては必然だ」というような内容の話が出てきます。「偶然」という単語についてはよく、「原因が無いこと」と同義で語られることが多いのですが、そんな意味で「偶然」という言葉を使っている人が、果たしてどれだけいるのだろうかといつも首を傾げていました。今回の議論では、特にその傾向(偶然=原因が無い)が強かったので、皆さんがどう思われるかは分かりませんが、私は余計に気になって仕方ありませんでした。

昨日は用事があったので終わったらそそくさと帰ってしまったくせに、ブログでこんなことを書いている私も大概だなと思いつつ、懐かしい思いにも浸っていました。 

 

そういえば、今週末のテレビ講演はどんな演題になるのかな、とふと思いました。


取り上げるのが随分遅くなりましたが、以前にこのブログで話題にした「五重の義」の「光明」について、山も山さんが記事を書いてらっしゃいますのでご紹介します。


こちら


”御文章「五重の義」の光明とは?(摂取の意味で、調熟ではありません)” とあります。
これは、私が以前書いた内容について様々なコメントを頂いて議論になった内容でもあると思います。

親鸞会では通常、「遍照の光明=調熟の光明」と言われている(と理解している)ので、私もその意味で使っていたのですが、調べてみるとどうもその前提が怪しいといったところが話題に上ったところです。

「光明」の詳しい意味については、山も山さんのブログや、下のコメントも下記とあわせてご参照頂ければと思います。
(12/7 リンクの下よりこの部分まで、表現を一部修正 あさ川)

 
さて最後に、私が中途半端に取り上げていた、『真宗用語辞典 蓮如篇』にある、「遍照の光明」の説明をご紹介しておきます。今回も手抜きのため、そのまま撮影したうえで中途半端に修正しました。最近は手抜きがさらにひどくなりすいませんが、とりあえず内容はお読み頂けるかと思います。

(稲城選恵著 『真宗用語辞典 蓮如篇』より)

 遍照の光明

今日は親鸞会館でのご法座の予定で、富山に来ています。

今朝メールが飛んできまして、タイトルの通りということでビデオになるようです。
十年以上行ってますが、当日に連絡があったのは初めてのような気がします。

通常、こういうケースは講演者の責任になると思いますが、親鸞会はどう考えてもそうならないと思います。

もっとも、ビデオといっても内容に差は無いのですけれども。

55周年の話もまとまっていませんが、今日は二千畳講演でした。お題は例によって「五重の義について」でした。
今日は講師試験もありまして、私の車に乗る人も受験ということで出発が一時間以上遅かったので早く帰れるか少し心配でしたが、幸いに渋滞もなく、蓋も少なく、ほぼ目標通りに帰宅できました。


今回は「光明」について、ということだったのですが、午前の前半までは「宿善」「善知識」までの話で、午後の後半に「光明」が出てきました。 「光明」が出て、そのまま「信心」「名号」の話まで進んでひとまず終わったようですので、来月からは違う演題になるかも知れません。


ところで、私が以前頂いたコメントへのお返事に、

実のところは、親鸞会が正統派だとは親鸞会自身も断言していなかったように思いますが、自称正統派と異端が逆転とは何度も言っていましたね。

と書いたからというわけではないのでしょうが、顕正新聞11月15日号の法友通信のタイトルが『55周年「正統」に集う』となっていました。 やはり親鸞会が正統だと断言したかったのだと思います。




ところで今日、唐突に昼休みの時間15分を使って、アニメバスのビデオが上映されました。アニメ「世界の光 親鸞聖人」を上映するためのバスが東北の被災地に行って上映会をしたという内容だったのですが、個人的にはそこに映っていた看板に書いてあった「東北震災こころの復興支援事業」の「支援事業」の文字に微妙なモザイクが掛かっていたように見えたのが気になりました。そんなところに目が行くのは、私がひねくれてるからかも知れませんが。

被災地の方が喜ばれていた映像で、それ自体は良いと思いましたが、変なところが気になりました。
 

55周年も一ヶ月を過ぎてようやく土曜日の午後が出来ました。この分だと日曜日ができあがるのはもう一ヶ月かかるようなペースですが、できれば書いていきたいと思います。


毎度のお断りですが、「私にはこう聞こえた」というメモです。前回同様、中身をほとんど整えることなく運版に書いていますので、話がループしてたり文章が繋がってなかったりするかも知れませんがご容赦下さい。


=====

今日は親鸞聖人報恩講。親鸞聖人のご恩に報いる。
親鸞聖人の喜ばれることをしなければ、報恩講にはならない。

親鸞聖人の喜ばれることは、親鸞聖人がただ一つ教えていかれたこと、平生業成の身に私がなること。
絶対の幸福になるということ。

親鸞聖人の教えを聞かないと、平生業成の身に私はなれない。それには仏法を聞かなければならない。
仏法は聴聞に極まる。

聴聞とは、きく一つ。きく一つで平生業成の身に私はなれると教えていかれたのが親鸞聖人。

では、何を聞くのか。親鸞聖人はあのように教えられている。


「聞」というは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」というなり。
(親鸞聖人)
 

仏=阿弥陀仏
願=本願

阿弥陀仏の本願の、生起と本と末を聞け、それだけで平生業成の身になれますよと親鸞聖人は仰っている。 

阿弥陀仏とお釈迦様の関係も午前中に話をした通り。
お釈迦様は地球上で一番偉い方だが、私たちの罪があまりに思いので私たちを見捨てられた。
それを阿弥陀仏が、我一人助けんと本願を建てられた。

蓮如上人の御文章2帖目8通に、そのように書かれている。


それ十悪五逆の罪人も五障三従の女人もむなしくみな十方三世の諸仏の悲願に漏れて捨て果てられたる我らごときの凡夫なり、とは
十方衆生、大宇宙すべての人は、大宇宙の諸仏の力ではどうにもならない、極悪人だといわれている。
それで、私たちは捨てられた、
諸仏方はみな大慈悲の方。その大慈悲を持った仏方が見捨てた。見捨てられたのは私たち、十方衆生。

これは一部の人のことでは無い。十方衆生が見捨てられた。
お釈迦様がそう仰っている。地球上で一番偉いお釈迦様でもどうにもならないとお釈迦様が仰っている。
だから阿弥陀仏に助けてもらえ、阿弥陀仏のところへ行け、一向専念無量寿仏。
これがお釈迦様の結論。
無量寿仏=阿弥陀仏。

それを蓮如上人はこの後に仰っている。

しかればここに弥陀如来と申すは、三世十方の諸仏の本師本仏なれば、久遠実成の古仏として、今の如きの、諸仏にすてられたる末代不善の凡夫、五障・三従の女人をば、弥陀にかぎりて、我一人助けんという超世の大願をおこして、


十方衆生を、阿弥陀仏だけが、我一人助けん
これが阿弥陀仏の本願。

これを皆さん聞かれると、「俺はそんな悪いことしていない。仏に見捨てられるようなこと、考えられない」、こう思う。

それで、阿弥陀仏の本願の生起を今から話する。


生起とは、阿弥陀仏がなぜ本願を建てられたのかという理由。

それは、十方の諸仏から捨てられた十方衆生だから、見ておれない。それをその中阿弥陀仏が独り助けんと立ち上がられた、ということ。

ということは、大変に重い病気だということ。
そうでなければ全ての医者から見捨てられるということはない。
大慈悲を持った仏方が見捨てた、ということは、十方衆生は大変な悪人だということ。

ところが、私たちは、自分がそんなものだとは夢にも思っていない。

もしそうなら、十方の諸仏は見捨てない。お釈迦様も見捨てた。蓮如上人の仰っている通り。お釈迦様がお経で仰っている。


では、十方衆生はどのようなものなのか。この中に入らない人はいない。すべての人。
仏さまの目線で言われている、お釈迦様のお言葉。


心常念悪 口常言悪 身常行悪 曽無一善 (大無量寿経)

 
仏さまとは、見(見ておる)聞(聞いておる)知(知っておる)の方。
私たちの心も口も体も全てご承知、ということ。


それで、私たちの心と口と体をご覧になって仰っている。

中でも心を一番重視せられている。
なぜなら、心が言わせるから。心がやらせるから。
悪いことをしていたら心が悪いことを思っているから。 

だが、心で思っていることを取り締まることは出来ない。
けれども、口で言わせるのも体を動かすのも心だから、仏さまは心を問題にされる。
 

心は何を思っているか。悪を思う、こう仰っている。
心がそうだとすれば、口も体もそれに汚染されている。 
心ではどう思っているか。
自分の思っていることを人に言えるか。人に分かったとしたらどうなるか。


お釈迦様はこうも仰っている。


心口各異 言念無実
 


心で思っていることと口で言っていることは同じか。
仏さまからご覧になると、心で思っていることと口で言っていることが違う。
自分でもぞっとするようなことを思っていることはないか。
 
お世辞にもかわいいと思えない子供を見て、「あらかわいい」と言う。

「そんなこと当たり前でないか」これは人間の目線。 

何年も介護していて、医者にも見捨てられた親を見て、本当に心から治ってもらいたいという心があるか。
「もういい加減に・・・」という心は出てこないか。
そんなこと思うのが良いことか。人に言えるか。
「なんという親不孝者」と思われたくないから言えない、ということは、誰にも言えない心があると言うこと。
抑えても抑えても出てくる。

子供がかわいいと言っていても親に背いて苦しめるようになったらどうか。
「こんな子供、死んでくれたら・・・」と一瞬でも思わないか。

そんな心は、仏さまはみんなお見抜き。見聞知、みんな知っておられる。
それでも悪をしていないといえるか。
 

親鸞聖人は9歳の時から29歳の時まで比叡山でものすごい難行苦行をされた。
僧侶になって修行するということは、体で見たり聞いたりすることは、山に入ると女を見ないから罪を作らない。 
親鸞聖人は、20年間修行されて、見ざる聞かざる言わざるの三匹の猿はどうにかなった。 
ところが、思わざると言う猿はどうにもならなかった。
抑えても抑えても心はどうにもならなかった。
 
見たいけれども見ない、聞きたいけれども聞かない、言いたいけれども言わない。
抑えれば抑えるほど思わざるの猿が暴れる。これが悪。 
絶対人に言えない。

皆さんもその思っている心を見つめていく。
すると、これが十方諸仏が見放した心か、どこからこんな心が出てくるのか、となる。
仏法を聞くとは、心を見つめていくということ。鏡に映して見ていく。
親鸞聖人の教え、仏教は鏡。
お釈迦様は、「仏教は法(真実)鏡なり」と仰っている。

その鏡に何を映していくか。心を映していく。
すると、十方諸仏が見放した心というのはこの心か、と分かる。
自分の心を見なさい。 
心を見ていくと、お釈迦様が言われていたことが、「うん」となる。

心が親。 
その親が、口や体に全然思ってもないことを言わせている。やらせている。
これが「心口各異」
だから言ってることも思ってることもまことがない。
これが「言念無実」

これが、親鸞聖人20年間比叡山で修行されて、見ざる聞かざる言わざるの三匹の猿はどうにかなったけれども、思わざるの猿だけはどうにもならなかったと、比叡山を泣き泣き降りられた。
こんな親鸞を助ける方はどこにおられるのかと、29歳の時に降りられた。

十方諸仏に見捨てられた。親鸞聖人はその自分の心を徹底的に見られた方。
その心を見ていくのが二千畳。

そこで、阿弥陀仏は、十方諸仏に捨てられた極悪人、全然自分を悪人と思っていない、認めようとしない、
「私だけでない」「みんなやっている」とごまかしている、
しかしそのごまかしは、因果の道理には通用しない。
まいた種は必ず生える。心で思ったことは悪の種となってアラヤ識に収まるから、そんなごまかしはきかない。

それを親鸞聖人は、この思わざるの猿をなんとか助かる方法は無かろうかと、比叡山を泣き泣き降りられて法然上人の教えを聞くようになった。


だから、あくまでも自分の心の問題だから、「悪いことを言わないしやってもいないのに、どうして十方諸仏に見捨てられるような悪人なのか」と思うのは、自分の心を全然知らないということ。


善導大師という方がこう仰っている。


「一人一日のうちに八億四千の憶いあり、念念になすところこれみな三塗の業なり」


一人=善導大師
一日のうちに心で思っていることが八億四千べんも変わる、と仰っている。
これは自分の心を真剣に見つめていかないと分からない。
一生懸命聞こうとすると、ふっと心が二千畳にいなくなるのが見えてくる。
善導大師は真剣に自分の心を見られて、めまぐるしく変わる心が見えた。
 
しかも、思っていることはすべて、人には言えないような恐ろしいこと。悪ばかり。
こう仰っている。
 

善導大師は、30年間床を敷いて寝られなかった方、
また、向こうから女性が歩いてきたら笠で隠して見ないようにされた方。
石部金吉どころではない、それくらい自分の口と体というものに気をつけられた。
だが、心はこうだ、と。それくらい心というのはものすごい。
そういう心を十方諸仏は知っておられる。その上で、とても助けることは出来ないということで、
お釈迦さもあのように仰っているように、
十方衆生は心は常に悪を憶い、口は常に悪を言い、身は常に悪を行って、今まで一つの善をやったことが無いと。
こんな仏さまの目線でご覧になると、十方衆生はこんなもの。
 
親鸞聖人は、この姿を阿弥陀仏に照らし抜かれて仰ったのがこのお言葉。
 

煩悩具足の凡夫火宅無常の世界は万のこと皆もって空事たわごと、真実あること無し
(歎異抄)



煩悩の塊の親鸞、仏さまの目線で見られた自分の姿が知らされた。
本当の自分が、お釈迦さまの言われたあのとおりの姿であったと仰っている。
あのとおりの自分だと分からないのは自惚れているだけ。
親鸞聖人は本当の自分が知らされてあのように仰っている。
 
これは親鸞聖人お一人では無く、十方衆生すべての人がそうだよ、と仰っている。
 

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なく、虚仮諂偽にして真実の心なし。


一切の群生海とは、すべての人間のこと。この中に入らない人はいない。
すべての人は、はじめの無い始まりから今までずっと、常に、悪に汚染されている、
全ての人間は悪の塊だと仰っている。
そして、清浄の心、これは善。一つの善もやったことが無い悪人であると。
そして、虚仮諂偽にして真実の心なし、心口各異言念無実のことを仰っている。
親鸞聖人は、本当の自分が知らされてこのように仰っている。


これは親鸞聖人個人のことではなく、十方衆生のことを仰っている。 
十方の諸仏が助けることが出来ないと見放された者、これが十方衆生の姿だから、阿弥陀仏は、これは捨ててはおけないと、我一人助けんと本願を建てられた、これが生起。

阿弥陀仏が本願を建てられた原因、生起は何か、これは十方衆生。
 

十方衆生は親鸞聖人が仰っている通り。悪の塊で、綺麗な心は全くなく、ウソ偽りばかりで真実の心が全くない者。一切の群生海。この一切の群生海のために阿弥陀仏は本願を建てられた。これが阿弥陀仏の本願の生起。

そんな者を阿弥陀仏はどうして助けようとされたのか。これを聞くのが本と末。

明日はこの本と末の話をします。



 

皆さんにとってはどうでも良いのですが、個人的に最近は各方面で慌ただしくなってきました。明日からは静岡に行くので数日間は(たぶん)更新できません。(コメントのお返事も微妙)
実は書きたいこともあったのですが、取り急ぎは55周年でどういうお話があったのか、それをあさ川はどう聞いたのか、といったところの需要がありそうな、そんな気がしましたので、取り急ぎ土曜の午前だけ書いておきます。


ただ、話の内容を整理している余裕がなかったので、基本的に「このように聞こえた」という内容をつらつら書いています。端折った部分もありますが、聞こえたままの文章のところも多いため、若干読みにくいかも知れませんがご承知おき下さい。

ついでにいいますと、推敲もしてません。誤字脱字等ございましたら、お知らせ頂けると有り難いです。


=====

親鸞聖人のご恩に報いる報恩講。親鸞聖人のご恩に報いるには、私たちは何をすべきか。親の恩に報いるには、親が一番喜ぶことをすれば良い。親鸞聖人の一番喜ばれることをしなければ報恩講にならない。

親鸞聖人が一番喜ばれることとは、私たちがどうすることか。親鸞聖人が90年の生涯、ただ一つ教えられたことがあり、それを実行するということ。親鸞聖人の一生涯教えていかれたこととは何か。

平生業成 ということ。

親鸞聖人の生涯教えていかれたことを漢字4字で教えられた言葉。親鸞聖人から出た言葉。


平生=達者な時、生きている時、死んでからではない。親鸞聖人は平生のことを教えられた方。
業=大事業。何のために生まれてきたのか。
   ただ食って寝て起きて、では死ぬために生きていることになる。
   親鸞聖人は、大事業を完成するために生きているのだ、と言われている。
成=完成


これ一つ果たすために人間に生まれてきたということが全人類にある。
人それぞれではなく、全人類共通の生まれてきた目的がある。それを親鸞聖人は「業」と言われた。
まさに人間出世の本懐。
秀吉や松下幸之助のやったようなことではない。秀吉はあれだけのことをやったが、
臨終には「夢のまた夢」と泣いて死んでいった。人間出世の本懐とは、夢のように消えていくようなものの
ために生きているのではない。
これ一つ果たしたら、生きて良し、死んで良し、そういう大事業がある。殆どの人が知らないこと
そういうことを親鸞聖人はハッキリ教えられた。 

そして、それが平生に完成する、達成すると教えられた。だから今日親鸞聖人は世界の光と言われている。
その親鸞聖人の教えを平生業成という。

 
全人類の人間に生まれてきた目的、共通の目的、今日の言葉で絶対の幸福ともいえる。

すべての人は幸福を求めて生きている。これに異論のある人はいない。不幸を目的に生きている人はいない。
そのために政治も経済も芸術もスポーツも倫理も道徳もあるから幸福を目的としている。
しかしどんな幸福でも、秀吉のやったように必ず消えてしまうようなもの。そういう儚い幸福ではなく、絶対に変わらない幸福こそ、すべての人の求めている究極的なもの。
そういう絶対の幸福になることが、全人類が生まれてきた目的、大事業だと教えられたのが親鸞聖人。
それが死んでからではない、平生達者な時に達成できると教えられた。
親鸞聖人には、これ以外教えられたことはない。教行信証もこのこと一つ書かれている。 

その親鸞聖人のご恩に報いるには、親鸞聖人の教えられた絶対の幸福になる、そして人間に生まれてきて良かったという生命の大歓喜を得る、これが親鸞聖人がお喜びになること。
報恩講とは、私たちが生まれてきた目的を果たす、それが一番の報恩講。
これ以外に親鸞聖人のご恩に報いる道はない。


では、どうすれば平生業成の身になれる、と教えられたのか。
平生に大事業を達成したということは、達成ということがなければならない。ゴールに向かっている。
全人類は、意識しようとしまいと、ここ(たての線)に向かって生きている。
だからこのゴールに向かって進みなさいよ、そうすれば必ず業成ということがありますよ、人生の目的達成したと言うことがありますよ、絶対に変わらない幸福ですよ、このように親鸞聖人は教え続けられた方。
その教えに従って、平生業成の身になることが、親鸞聖人がもっともお喜びになること。今度の土日の報恩講はそういう集まり。


たまたま今年は親鸞会55周年。
3人で結成した親鸞会。55年間、何を私は教え続けてきたか。
この親鸞聖人の教え、ただ一つ。

親鸞聖人は、平生業成の身になるにはどうすれば良いかといいますと、親鸞聖人は聴聞に極まる、こう教えられる。

親鸞聖人が教えられた教えは仏教。仏法ともいうが、仏法は聴聞に極まる。親鸞聖人は聞思と仰っている。
平生業成になるには、聴聞という道一本しかない。聞思という道一本しかない。

では聞思とは何か。聞は「きく」、思も「きく」。だから聞く一つ。聴聞も聞思も聞く一つ。
二千畳が出来たのも、平生業成の身になる、会館が出来たのも仏法を聞く一つ。


じゃあ、仏法を聞くというのは何を聞くのか、親鸞聖人の教えを聞くとは何を聞くのか。
親鸞聖人は、この道を進むとはどういうことか、を教えられている。


「聞」というは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心あることなし。これを「聞」というなり。
(親鸞聖人)



親鸞聖人は何を聞くのかというと、仏願の生起と本末を聞くのだと仰っている。
聴聞、仏法を聞くというのは何を聞くのか。仏願の、と仰っている。

仏願=阿弥陀仏の本願

仏願の生起本末とは、阿弥陀仏の本願の生起・本末。
これ以外、聞くことはない。平生業成の身になるために、仏願の生起・本末以外聞く必要は無い。
これ一つ。仏願の生起本末を聞いて疑い晴れた時。
これを聞いたという。これを聴聞したという。これがゴール。


阿弥陀仏の本願の、生起と本と末を聞け、と仰っている。

まず生起を聞きなさい。そして本を聞きなさい。次に末を聞きなさい。

これが聴聞。これ一つ。平生業成の絶対の幸福になれるのですよ、
勿論、絶対の幸福になれば死ねば無量光明土、極楽浄土に往く。
生きている時は絶対の幸福、死ねば阿弥陀仏の無量光明土、極楽浄土にいく。二益。
そのためには、平生に業成していなければならないから、それにはどうすれば良いか。
聴聞に極まる。

何を聞くか、仏願、阿弥陀仏の本願の、生起と、本と、末を聞きなさいよ、といわれている。

これを聴聞という。これ一つ聞くために全てのものはこの世に存在すると言って良い。


まず生起とは何か。

生起の話をする前に、阿弥陀仏の本願と言われる阿弥陀仏とはどこから出てきたのか。

実は、仏教を説かれたお釈迦様は何を説かれたのか。
阿弥陀仏のこと。阿弥陀仏という仏が在すこと。
その阿弥陀仏の本願とは、阿弥陀仏という仏の本当の願い、これを教えられたのがお釈迦様。


釈迦は2600年前インドに生まれられた方。
80歳でなくなるまで一生涯教えられたのが仏教。一切経に書き残されている。
その一切経に何が説かれているか。


如来所以興出世 唯説弥陀本願海 (正信偈)


如来=この世(地球上)にあらわれた如来、お釈迦さま以外にない。

釈迦如来がこの世に現れられ、仏教を説かれた目的は=如来所以興出世


唯説=ただ一つのことを教えられた、親鸞聖人の断言。

ただ一つのこととは何か。弥陀(=阿弥陀仏)本願。

阿弥陀仏という仏が在すこと。 


ご存じのように、大宇宙には地球のようなものがたくさんある。
大宇宙には仏がたくさんおられる。これを十方諸仏といわれる。
大宇宙のことをお釈迦様は十方と言われる。

その十方諸仏の中に、阿弥陀仏という仏が在す、とお釈迦様が仰っている。 
お釈迦様がただ一つ説かれたのは、阿弥陀仏という仏が在すことだと。 
 

阿弥陀仏という仏はどのような仏か。一切経に説かれているが、一言で言うと
先生と弟子の関係。阿弥陀仏が先生、お釈迦様が弟子。


学校の先生が、生徒たちに「太陽と月はどちらが偉大か」と尋ねたところ、
生徒たちは、「それは月に決まってます」
なぜかと聞くと「月は暗いところを照らして明るくしているが、太陽は明るいところを照らしているだけだから」
 

月の光は太陽の光を反射しているだけ。
そのたとえでいうと、阿弥陀仏は太陽。その太陽の光を受けて反射しているのが お釈迦様。


お釈迦様は、自分の先生のこと一つ、私たちに教えていかれた。これが仏教。
親鸞聖人はそれを仰っている。
弟子は先生の本当の願いを皆さんに伝える。お釈迦様は弟子の役目を忠実に80年間なされた。

 
ここでお釈迦様は阿弥陀仏の本当の願い一つを教えられた。
親鸞聖人は、仏法は何を聞くのかというと、お釈迦様がただ一つ教えられた阿弥陀仏の本願を聞くのだと仰っている。


お釈迦様が阿弥陀仏の本願一つ教えられたから、親鸞聖人は、私たちがただ一つ聞かねばならないのは阿弥陀仏の本願だぞと仰っている。



そこで、親鸞聖人は、お釈迦様が教えられた阿弥陀仏の本願の生起、その前に阿弥陀仏の本当の願いとは何か。


すべての人を平生業成の身に救いたい


阿弥陀仏はこういう願いを建てておられる。

すべての人=十方衆生
 

お釈迦様の舞台は地球だが、阿弥陀仏の舞台は大宇宙。 

阿弥陀仏は十方の諸仏がとても考えられなかったことを阿弥陀仏がそういう本願を建てられている。
だから阿弥陀仏の本願はすごい。
 

本願というのは、仏さまはみな本願を建てられている。
本願とは、苦しみ悩む人を助けようという願い。

仏によって数が違う。お釈迦様は500、薬師如来は12。
数は違うが、問題は内容。阿弥陀仏の本願は桁違い。

それで諸仏方は「我が先生」と阿弥陀仏を褒め称えておられる。


(御文章2-8)

 
十方三世の諸仏の悲願に漏れた、といわれる。 

十方三世の諸仏=大宇宙の諸仏
悲願=私たちを幸福にしてやりたいという仏様の願い。慈悲から起きている。

ところが私たちは仏方の悲願から漏れた。罪悪が重かったから。
医師の力以上の病気は治せないのと同じ。

十方の諸仏は、私たちを助けようと悲願を建てられたが見捨てられた。
お釈迦様が仰っている。
とても俺の力でお前たちを助けることはできないから阿弥陀仏に助けてもらいなさい。


一向専念無量寿仏

 
これは阿弥陀仏の弟子であるお釈迦様のお言葉。そして、釈迦の教えの結論。

無量寿仏=阿弥陀仏、お釈迦様の先生。

その先生のところに向きなさい、助けてもらいなさい。
ここで明らかに、お釈迦様は阿弥陀仏の弟子である。私の先生に助けてもらいなさい、と仰っている。
阿弥陀仏以外にお前たちを平生業成の身に助けることは出来ないから、阿弥陀仏一つに向きなさい。

親鸞聖人はこのことを徹底的に教えられたから、浄土真宗が正しい名前だが、世間の人は一向宗といった。
お釈迦様の一向専念を親鸞聖人が厳しく仰ったから。
命に代えて伝えられたから。

十方の諸仏に見捨てられたような、私たちのように罪の重いものを阿弥陀仏一仏が、必ず 平生業成、絶対の幸福に助けるという本願を建てられた。

これが阿弥陀仏の本願といわれる。


その阿弥陀仏の本願の生起と本と末を聞く。そうすれば救われる。
親鸞聖人が「聞というは~」と仰っているのはそういうこと。 

土日で、親鸞会結成55周年、報恩講が行われました。報恩講なのでなかなかたくさんの人がいらしてましたが、黄色い名札の私は3番通路と4番通路の間に座ってました。

今回は珍しく用事があったので、土曜日の会食会には出なかたのですが、地元の会館の東屋で談笑している私の映像が流れていたそうです。複数の人から声をかけられたのですが、W部先生にもその話題で声をかけていただきました。ご縁があれば見てみたいですが、そういう機会はないかもしれません。「いみずの四季」で使用する映像だと聞いていたのですが、よもや私の入った映像が採用されるとは思っていませんでした。


ビデオ上映があるということで楽しみにしておりましたが、個人的には750回忌の生ナレーションビデオの印象が強すぎて、今回はそれほどといった感覚でした。やはり一流の方の生ナレーションは、場の雰囲気も引き締まるような印象がありましたが、今回はそんな印象を受けなかったので、ナレーションの力は偉大だなと思いました。

内容としては、一日目の前編は

・『歎異抄をひらく』の反論書が5年7ヶ月の間出ていない(自称正統派は沈黙)
・自称正統派は本尊から親鸞聖人の教えに反している(正しい本尊は名号)
・本尊についての弁論
・その辺のビデオご法話

こんな内容だったと記憶しています。後編はあまり記憶がありませんが

・『なぜ生きる』が78万部突破
・「平生業成」が誤解されている
・本願寺では「平生業成」の正しい意味を聞いたことがない(というインタビュー)

というような内容だった記憶があります。


さて、お話の内容は「仏願の生起本末について」ということで、

生起=阿弥陀仏がどんな人のために本願を建てられたのか
本=どのように助けるのか(18願)
末=19願、20願

というような説明は最近と同じだったのですが、私が特に印象深かったのは板書でした。


通常、縦の線とよこの線を書いてそこに三願を書くので、

(18願) | (20願)  (19願)

という板書になるのですが、今回はなぜか

(18願) |

でした。

19願、20願で18願まで導かれる、という説明のされ方だったので、いつもの三願転入の話からすると、ずいぶん印象が違って聞こえました。


まあ、話の最初には「親鸞聖人のご恩に報いるためには、親鸞聖人の教えられたことを実行しなければならない」というような話がありましたので、てっきり19願の話になるのだと思っていましたが。


今日はこれくらいにいたします。

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