SKE48とエアバスA380超絶推し男のblog

新型コロナウイルス禍の一日も早い終息を願います。がんばろう日本!

タグ:三陸鉄道

月日が経つのは早いもので、2011年3月11日(金)に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)から9年を迎えました。
行方不明者や関連死も含めると24,585名の尊い生命が奪われ、また地震の被害により引き起こされた福島第一原子力発電所事故により福島県相双地方の一部区域が警戒区域に指定されるなど、未曾有の被害が出たのは記憶に新しいところかと存じます。

あれから時は過ぎ、コロナウイルス感染症による影響こそ心配されるものの、復興のシンボルとして招致した東京オリンピック・パラリンピックの開催が今夏に迫っているほか、被害を受けた鉄道路線のなかで最後まで(注)不通だった常磐線富岡~浪江間が昨日2020年3月14日(土)のダイヤ改正とともに運転を再開するなど、復興への歩みは着実に進んでいるといえます。
(注)BRT化されたうえ、鉄道路線としては廃止が決定した気仙沼線柳津~気仙沼間、大船渡線気仙沼~盛間を除く。

しかし、富岡~浪江間の沿線には今なお放射線量の高い帰還困難区域が残っており、慣れ親しんだ故郷に帰りたくても帰れない人が数多くいる状況です。また、原発事故の影響のなかった宮城県や岩手県の沿岸部でも、今なおあちこちに津波の爪痕が残っています。

完全な復興はまだまだ遠い道というわけですが、今日はそんな被災地の鉄道を支援するべく、関西のとある私鉄が始めた取り組みをご紹介します。


叡山電鉄は、京都市左京区内に叡山本線(出町柳~八瀬比叡山口間)と鞍馬線(宝ヶ池~鞍馬間)の2路線を運行する京阪電鉄グループの地方私鉄です。
沿線に比叡山や鞍馬寺など、風光明媚な観光地を多く有するため、国内外の観光客に親しまれている同社ですが、去る2019年3月31日(日)よりデオ710形電車のうちデオ712号を三陸鉄道の気動車と同じ塗装に塗り替えて運用しています。

もともと叡山電鉄と三陸鉄道は、2009年の叡山電鉄のイベントに三陸鉄道が協力したという縁をきっかけに連携関係を築いており、以来10年近くにわたり共同でのフォトコンテスト実施や災害時の義援金などさまざまな形でのやり取りがありました。
そして2019年3月23日(土)、三陸鉄道が東日本大震災で不通になっていた旧JR東日本山田線の宮古~釜石間の経営を承継、従来の北リアス線・南リアス線と合わせた久慈~盛間を「リアス線」として一体運営するようになったことをお祝いすべく、東日本大震災の復興支援や三陸鉄道のPRといった意味合いを込めて、三陸鉄道塗装のデオ712号の営業運転が開始されることになった次第です。

2月某日、宝ヶ池駅に到着したデオ712号の出町柳行き。
叡山電鉄の全路線で運用されるデオ710形ですが、この日昼間のデオ712号は叡山本線・鞍馬線の出町柳~二軒茶屋間の折り返し運用に就いていました。
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【参考】三陸鉄道の36-200形気動車36-205号(2010年撮影)
この36-205号は東日本大震災の際、盛駅構内で浸水の被害を受け廃車となりました。
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デオ712号に掲出されたヘッドマーク。
「がんばれ!三陸鉄道」の文字と、三陸鉄道沿線の漁港をイメージした大漁旗、両社の看板車輌である叡山電鉄デオ900系「きらら」と三陸鉄道36-700形があしらわれていました。
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三陸鉄道塗装のデオ712号ですが、当初は2019年3月31日~2020年3月までの1年間の期間限定だったところ、運行期間が2020年9月まで延長されることになりました。

叡山電鉄では毎年6~9月、沿線の鞍馬山が源義経ゆかりの地であることから、鞍馬駅や電車内に同じく源義経に縁のある岩手県特産の南部風鈴を飾り付けるイベント「悠久の風」を実施していますが、2019年の「悠久の風」では岩手県のローカル線である三陸鉄道の塗装を纏ったデオ712号の車内に風鈴が飾られたといいます。

ところで、映画界では東日本大震災から9年を前に、諏訪敦彦さん監督・モトーラ世理奈さん主演の最新作「風の電話」がにわかに話題になりました。
この映画の舞台は、三陸鉄道リアス線沿線の浪板海岸(岩手県上閉伊郡大槌町)にある、震災の遺族が犠牲になった大切な人へのメッセージを伝えるための電話ボックス型モニュメント「風の電話」です。
奇しくも時を同じくして三陸鉄道の塗装を纏うことになったデオ712号には、被災地から離れた洛北の地で「風の電話」になり、乗り合わせた人たちにもう会うことのできない大切な人へのメッセージを届けてくれる存在であって欲しいと思うところです。

長くなりましたが、東日本大震災でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、大槌町をはじめとする被災地に一日も早く真の復興が訪れることを願います。
そして、源義経や両社の関係者が取り持った叡山電鉄と三陸鉄道の連携が今後さらに深いものとなり、京都と岩手県双方を強く結びつけることを期待しつつ結びとさせていただきます。
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本日3月11日(日)で、2011年3月11日(金)の東日本大震災から丸7年となりました。
あの日、まだ20代だった私は、友人たちと明石球場にプロ野球オープン戦の東北楽天ゴールデンイーグルス対千葉ロッテマリーンズ戦を観戦しに出かける計画がなくなり、おとなしく大阪府内の職場に出勤し、そこで目眩のような長時間の揺れに遭遇しました。
帰宅後は、翌日に全通を控えた九州新幹線鹿児島ルートの初乗りに備えて荷造りをしながら、被災地からの衝撃的な映像を目の当たりにして沈んだ気持ちになっていたものです。
この地震では、余震によるものや関連死も含め、18000人以上の人が死亡または行方不明となり、東北地方の太平洋沿岸の町の多くが壊滅、鉄道網もあちこちで寸断されました。また、地震の揺れや津波によって引き起こされた東京電力福島第一原子力発電所の事故により、福島県双葉・相馬地方の一部の地域では今なお人の居住が困難な状態が続いています。

さて、我が家では昨年よりスキャン機能のあるプリンターを導入。
これによりデジタルカメラ導入前の鉄道写真を電子データで残すことができるようになりました。
今夜は震災から7年を迎えるにあたり、震災前、平穏な日々が続いていた頃の三陸沿岸の鉄道風景をお届けします。

【石巻線・女川駅(宮城県牡鹿郡女川町)】
東日本大震災の本震震源にほど近い女川町の中心市街地は、最高14.8mの津波に直撃され、鉄筋コンクリート造りのビルさえも横倒しになるという壊滅的な被害を受けました。
町内の死者・行方不明者は879名、当時の人口の8%超に相当する数字です。
同町唯一の鉄道路線である石巻線の終着駅・女川駅も駅舎が流失、停車中のキハ48系ディーゼルカー2両も、隣接していた「女川温泉ゆぽっぽ」に保存されていたキハ40系ディーゼルカー1両とともに裏山に打ち上げられました。

この女川駅ですが、2003年12月7日、大学1年生の時に訪問する機会がありました。
石巻から女川まで乗車した普通列車1627D。
使用車輌は、東日本大震災当日に女川駅に停車していたのと同形のキハ48系ディーゼルカーでした。
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当時の女川駅舎。
1939年の石巻線全通と同時に建てられた味のある建築でしたが、東日本大震災の津波で跡形もなく破壊されました。
なお、震災発生当時、女川駅ではホームと駅舎の間を結ぶエレベーターの設置工事が進められていましたが、このエレベーターは供用されることなく津波の直撃を受け、最終的に解体されています。
駅舎の後ろに見える女川町生涯教育センターのビルも、最上階まで津波が達し、震災後に解体されました。
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駅舎前にあった、「女川駅の駅名由来」のプレート。
このプレートも、津波にさらわれて行方知らずになったとみられます。
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女川駅の駅舎とホームを結ぶ階段には、1960年5月のチリ地震津波による浸水高を示す青い線が入っていました。
過去何度も津波の被害に遭っており、それゆえ日頃から人並み以上の危機意識を持って行動していた女川の人々ですが、未曾有の大津波を前にしてはなすすべもなかったようです。
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女川駅近くの漁港の岸壁。
この岸壁近くにあったベンチに腰掛け、近くのファミリーマートで調達したカップヌードルで朝食を済ませたのは、今となっては良い思い出です。
震災後、ファミリーマートは嵩上げ工事の済んだ土地で場所を若干変えて再開店したようですが、土地の高さも道路の区割りも大きく変わってしまい、2003年当時と同一のアングルで写真を撮ることはできなくなりました。
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【山田線・大槌駅(岩手県下閉伊郡大槌町)】
大槌町も女川町と同様、東日本大震災でもっとも大きな被害を受けた自治体の一つです。
本震発生直後、大槌町役場では加藤宏暉町長以下職員が参集し、庁舎前の駐車場で災害対策本部を立ち上げていたところへ大津波が襲来。加藤町長をはじめとする幹部職員を含め、多数の町職員が死亡または行方不明となり長期にわたり行政機能が麻痺する結果となりました。
また、津波とその後の火災で町役場のみならず周辺の民家・事業所もほぼすべてが流失・焼失、先に述べた町職員を含め1277名の町民が死亡・行方不明となりました。
ちなみに被災した各自治体のうち、住民の死亡率が8%を超えたのは、この大槌町と先述の女川町のみといいます。

2004年8月26日。大学の鉄道研究会の旅行会の際、私は山田線・三陸鉄道の直通普通列車111Dで、岩手県の久慈駅を目指していました。
111Dは途中、大槌駅で対向列車との行き違いのため長時間停車。
その際に一旦途中下車して、2枚ほど写真を撮影する機会がありました。

駅舎に掲げられた駅名標。
おそらく、宮古寄りの隣駅「吉里吉里」が気になって撮影したものと思われます。
この駅舎も大津波で流失、ホームを残すのみとなりました。
なお、釜石寄りの隣駅である鵜住居駅は釜石市に所在しますが、同駅近くでも避難所となっていたはずの防災センターが津波の直撃を受け、住民200名以上が犠牲となっています。
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大槌駅1番線ホームに停車中の、三陸鉄道36-1200形ディーゼルカー。
JR直通列車用に改造され、0系新幹線電車の廃車発生品であるリクライニングシートを装備した三陸鉄道の花形車輌でした。
同車は震災前の2009年に三陸鉄道での活躍を終え、ミャンマー国鉄に譲渡され、幹部用の特別車輌として運用されているといいます。
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あれから7年。
石巻線は2015年3月21日に最後まで残った浦宿~女川間が復旧、4年ぶりに全線での運転を再開しました。女川駅は震災前より200m内陸に移設され、展望ホールと「女川温泉ゆぽっぽ」、土産物店を合築した鉄骨造り3階建ての駅舎に生まれ変わりました。
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そして、大槌駅を含む山田線の釜石~宮古間についても順調に復旧工事が進んでおり、2018年度中に三陸鉄道に移管したうえでの運転再開が予定されています。
このほか、福島第一原子力発電所の事故の影響で不通になっている常磐線の富岡~浪江間についても、2020年度までに運転を再開する方針が決まっているといいます。

東日本大震災から7年。一部の線区については鉄道としての復旧を断念し、正式にBRT(バス)に切り替える方針が打ち出されていますが、それでも被災した鉄道路線の復旧は長い時間がかかったとはいえ着実に進んでいる印象です。

最後になりましたが、東日本大震災で亡くなられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災した地域が一日も早く真の復興を遂げる事を願って締めくくらせていただきます。

今日3月11日は、2011年3月11日(金)に宮城県牡鹿半島沖を震源に発生した東北地方太平洋沖地震(東日本大震災)から5周年の節目の日です。
あの日、大阪府内の職場で眩暈のような長い揺れに遭遇し、帰宅後に観たテレビニュースの映像に衝撃を受けたこと。翌日、素直に楽しめない気持ちで、新大阪から営業開始初日の九州新幹線「みずほ603号」に乗車し、鹿児島の友人のもとに向かったこと。この2つの経験は生涯忘れることはないと常々思っており、今後またこのような万が一の事態に遭遇した場合、冷静に対処し、お互いに助け合うことができるようにと肝に銘じているところです。

あれから5年間、日本社会にも私個人にも大きな変化があったわけですが、それは横に置いておいて、今日は東日本大震災で被害を受け、現時点でも不通になっている鉄道路線のことについて触れさせていただきます。

東日本大震災で被害を受け、2016年3月11日現在も不通になっている鉄道路線は次の通りです。
・山田線 宮古~釜石間(三陸鉄道に移管のうえ2018年度までに全線復旧予定)
・大船渡線 気仙沼~盛間(BRTで仮復旧、鉄道としての復旧を断念へ)
・気仙沼線 柳津~気仙沼間(BRTで仮復旧、鉄道としての復旧を断念へ)
・常磐線 竜田~原ノ町間、相馬~浜吉田間(2019年度までに全線復旧予定)
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このうち、東京電力福島第一原子力発電所事故の影響で一時は竜田~原ノ町間の運転再開が危ぶまれていた常磐線については、このほど国土交通省JR東日本の報道発表及び安倍晋三首相の記者会見の中で、2019年度末までに福島第一原子力発電所に近い富岡~浪江間の復旧工事を完成させ、全線での運転再開を目指す方針が発表されました。
除染作業や住民が帰還できる環境の整備などとの兼ね合いもあり、多少前後するかもしれませんが、まずは今春に復旧する予定の小高~原ノ町間と、2016年度中に内陸部へのルート変更のうえ復旧する予定の相馬~浜吉田間が予定通り営業再開することを願うところです。残る竜田~富岡間と、浪江~小高間については2017年ごろの営業再開が予定されています。
また、津波の被害が大きかった岩手県下閉伊郡山田町・大槌町を通る山田線の宮古~釜石間についても、復旧後に地元の第三セクター鉄道である三陸鉄道に経営を移管する前提で、復旧工事が進められているところです。

その一方で、今後が気がかりな路線もあります。

2012年にいち早くバス高速輸送システム(BRT)を用いて仮復旧した気仙沼線の柳津~気仙沼間と、大船渡線の気仙沼~盛間については、鉄道としての復旧に巨額の費用が伴うこと、また津波災害防止のために内陸部へのルート変更が必要となるため、用地買収に手間を要することが課題となっていました。
JR東日本としては沿線自治体からの公的支援がないこと、また将来的に利用者が減少する見込みであることを理由に、これらの費用を自社で負担することを拒んでおり、対する沿線自治体も鉄道復旧のために経済的支援をする動きがないことから、この2路線については鉄道としての本復旧はほぼ断念され、半永久的にBRTとして運営されることが濃厚になったようです。

実際、現行のBRT方式には運行本数の調整をしやすく、また内陸部の公的施設に立ち寄れるという大きなメリットがあります。また、並行して高規格道路の三陸自動車道の建設も進められており、沿線の自治体や住民にとっても今さら鉄道を復旧させる必要性は乏しいのかもしれません。
ただ、これまで地図に描かれていた鉄道路線を示す記号が消えることは、南三陸町や気仙沼市、大船渡市、陸前高田市といった沿線自治体にとって、鉄道を利用した観光客の呼び込みができなくなる、「鉄道で他地方と結ばれている都市」という地政学的なステータスが消滅することでもあるわけです。

鉄道が無くてもBRTと高規格道路があれば、他地方からのアクセスは容易で、災害時にも迅速な対応ができるのは確かだと思うのですが、沿線自治体の担当者の方々には、道路交通だけで観光客や移住者を繋ぎとめることができるのか、繋ぎとめようとする場合どのような対応をすべきかということを考え、今すぐは無理でも遠い将来の鉄道復活も視野にいれた長期的な構想を打ちたてて欲しいものと思います。
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震災直後に全線復旧を果たした路線のことにも触れておこうと思います。
私事ですが、去る1月9日(土)~11日(祝)の北海道旅行の往路に東京13時20分発新青森16時43分着の、東北新幹線「はやぶさ21号」を利用しました。
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この列車の仙台駅到着は、14時52分。つまり、東日本大震災の発生時刻である14時46分の6分後です。
仙台に向けて速度を落とし始めた新鋭・E5系電車の車内。
帰宅後に写真のデータをパソコンに取り込んだ時に分かったことですが、この写真の撮影時刻は14時46分でした。
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仙台駅到着直前、仙台市太白区~若林区界隈を走行中の一コマ。
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ふと、左腕に嵌めた時計に目をやると14時50分を指していました。
2011年3月11日(金)のちょうどこの時間帯、この街がある東北地方に住んでいた人たちは、長時間続いた未曾有の激しい揺れに恐れおののいていました。そして、その約30分後に1000年に一度とも言われる大津波が太平洋沿岸に来襲することになります。
仙台駅を前に速度を下げた「はやぶさ21号」の車内で、あの日、迫りくる恐怖の中、沿岸部で無念の死を遂げた多くの人たちのことを思い、1人静かに目を瞑り、手を合わせました。
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ちなみに、「はやぶさ」号自体は震災発生6日前の2011年3月5日(土)から東京~新青森間で運転されていましたが、時速300Km運転に対応したE5系電車の頭数が少なかったため、当時の運転本数は東京~新青森間2往復、東京~仙台間1往復という僅かなものでした。この当時、現在の「はやぶさ21号」に相当する列車はE2系による「はやて27号」として運転されていたようです。

その後、震災による一時運休を経て、同年4月29日から「はやぶさ」号は運転を再開。当初は通常ダイヤより本数が少なく、また速度を落としての運転でしたが、復旧工事の進展に伴い5ヶ月後の9月23日に速度制限は解除されました。また、ダイヤ改正のたび「はやて」号からの衣替えで本数が増え、デビュー当時は「1日3往復のレアな存在」だった「はやぶさ」号は、いつしか名実ともに東北新幹線の主役に、そして東北地方復興のシンボルに成長しました。
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来る3月26日(土)のダイヤ改正で、北海道新幹線の新青森~新函館北斗間が延伸開業、これに伴い「はやぶさ」号、「はやて」号も一部が新函館北斗まで延伸されます。新しい時代を迎える「はやぶさ」号ですが、デビューして僅か6日後、2011年3月11日に起こった東日本大震災からの見事な復活劇については鉄道ファンの1人として、深く心に留め、そして後世に語り継ぎたいものです。

最後になりましたが、東日本大震災でお亡くなりになられた方のご冥福をお祈りするとともに、被災者、ご遺族の方に心の復興が1日も早く訪れること、被災地が物心ともに真の復興を遂げることを願って、今夜は筆を置かせていただきます。

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少々古い話になりますが、AKB48グループが2011年夏以来続けている東日本大震災の被災地訪問の一環として、AKB48・HKT48から選ばれたメンバーが5月19日(日)に岩手県宮古市の三陸鉄道宮古駅を訪問されました。
被災地訪問に参加されたメンバーはAKB48の渡辺麻友さん、秋元才加さん、松原夏海さん、梅田彩佳さん、小森美果さん、小林茉里奈さん、HKT48の朝長美桜さん。以上の7名です。

【参考】
AKB48オフィシャルブログ内の記事
http://ameblo.jp/akihabara48/entry-11533899041.html

三陸鉄道㈱ブログ内の記事
http://tetsulog.jp/index.php?e=1521

7人のメンバーは、まず三陸鉄道㈱の望月正彦社長より宮古駅の1日駅長に任命され、車両の清掃や駅構内の花壇の手入れ、改札業務、出発の合図といった仕事に従事されました。
1日駅長の仕事の後は、宮古のファンが待ちわびた駅前広場でのミニライブ。
7人は途中、MCやじゃんけん大会を交えながら、「ヘビーローテーション」などヒット曲6曲を披露し、宮古市とその周辺から集まった2600人の人たちを勇気づけました。彼女たちの笑顔やパフォーマンスは、東日本大震災の惨禍から2年2ヶ月経った今も、日々復興に向けた作業に汗を流している人たちにとって大きな励ましになったことと思います。

以上が今回の被災地訪問の概略ですが、話はまだ続きます。
宮古の人たちにと、AKB48グループは2点の置き土産を用意してくれていました。
1つ目は、今回被災地訪問に参加された7名のメンバーをあしらった記念撮影用のパネル。これは宮古駅に末永く置かれることになりそうです。
もう1つが、三陸鉄道36形気動車(車番不詳)の車内に7名のメンバーが書き残したサインです。この車両は現在三陸鉄道北リアス線の宮古~小本間の折り返し運転に使われており、機会があれば一度乗ってみたいものです。

ところで、東日本大震災による津波は、東北の太平洋側を走っている鉄道路線のほぼ全てに、全線不通もしくは一部区間不通という被害を与えましたが、三陸鉄道の北リアス線と南リアス線もその例外ではなく、現在も北リアス線の小本(岩手県下閉伊郡岩泉町)~田野畑(岩手県下閉伊郡田野畑村)間と、南リアス線の吉浜(岩手県大船渡市)~釜石間が不通になっています。
しかし幸いなことに、国や岩手県からの支援予算が付いたこともあり、この2つの不通区間では来年2014年の運転再開に向けた工事が急ピッチで進んでいます。集落の高台移転等との兼ね合いで復旧が難航しているJR東日本の各路線に比べると、割合スムーズに復旧に漕ぎ付けられたのかなという印象です。
そもそも三陸鉄道は、明治時代、昭和時代に計3度の大津波で被害を受け、そのたびに交通手段が不便なため支援物資の入手に苦労してきた三陸の人たちが、オイルショックや国鉄の財政悪化による新路線建設凍結を乗り越え、やっとの思いで開業させた悲願の鉄道路線でした。
そのような経緯で開業した鉄道を、1000年に一度の大津波で絶やしてしまうわけにはいかない、ガソリンの入手難で頼みの車を動かしにくい今こそ鉄道の出番ではないか。そんなわけで三陸鉄道の関係者の運転再開にかける思いは強く、早くも東日本大震災の5日後には被害の比較的少なかった北リアス線陸中野田~久慈間での運転再開に漕ぎ着けています。大津波で家族や知人、家財を失い、絶望に沈んでいた人、疲れ果てた人を乗せて運賃無料の復興支援列車が走りだしたというニュースが日本中を勇気づけたのは記憶に新しいところです。

関西から東北は遠く、また交通費も高いわけですが、いつか機会があれば、「ピーチ」の大阪(関西)~仙台便と陸上の交通機関を乗り継いで、あの大震災を乗り越え復旧に漕ぎ着けた三陸鉄道の気動車たちに会いに行きたいものです。何でも、南リアス線には津波で水没して廃車になった車両の代わりに、クウェートからの支援で導入された車両がいるそうです。もちろん、宮古駅に飾られたAKB48メンバーの写真パネルも撮影したいですし、沿線にある海鮮レストランや土産物屋にも立ち寄ってみたいものです。

最後に、今回の被災地訪問に参加されたメンバーのうち、秋元才加さん、松原夏海さん、小森美果さんは近日中の卒業が決定しています。2期生として加入し、チームKの主軸メンバーとして公演に、シングルに、女優業に活躍された秋元さん。大家志津香さんや倉持明日香さんと仲が良く、昨年のじゃんけん選抜にも選ばれた松原さん。名古屋出身でSKE48の稽古場でレッスンを積み、野球やプロレス、宝塚歌劇への造詣が深かった小森さん。3人が卒業後の新天地に進むにあたって、この三陸鉄道訪問で得たものを活かして羽ばたいてくれることを願うばかりです。

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