目がでかい

詩人・中本速のブログです。

 もう無理です。限界です。
 うちの本棚はいっぱいです。

 詩と短歌の本は売らない、持ち続けるという方針で本を整理してきましたが、さすがにそれももう無理なようです。
 じゃあ、詩の本か、短歌の本か選べということになれば、いかに惜しくとも、私は詩人。短歌の本を手放します。

 12月10日、東京で行われる古本市に「中本速書店」を出店することにしました。(めちゃひどい天気の場合は中止)
 下記ツイートのリンク先に、11/26、12/3、12/10で開催することが書かれていますが、そのうち12月10日の回に参加予定です。(16時までと書かれていますが15時位で終わるかもしれないとのことなのでご注意ください)

(この文章は下の方にも続きます。)



 率直に言います。
 私は手持ちの短歌の本を、短歌の人に受け継いでほしいと思っています。

 いくつか検索してみたのですが、売り出す本のなかには、ネット書店で古書価が数倍になっているものもあります。
 ネットで売ればお金は入ります。

 でも、高く売るより、短歌に取り組む人、短歌を知りたい人、偶然出会った人に、普通の値段で売ろうと思いました。

 今回、「定価より高い値段」は一冊もつけません。(ものによっては200円とかで売ります)
 ぼろぼろなわりにそこまで安くない本もあれば、見た目も中身もいいのに妙にお買い得な本もあります。ただし、いちばん高くても「新刊時の定価」とします。

 また、私は詩の本と短歌の本を両方読んできた結果として場所が足りなくなりました。短歌の本が短歌の本を圧迫しているのでなく、詩の本が短歌の本を圧迫しています。

 ですので、今回で短歌関連本のうちの、わりとメインの部分を売りに出すつもりです。「短歌の本のうちいらない本」を売るのでなく「本当は持っておきたかった本」を売りに出します。

 私はこのブログ記事を、「短歌の方だけRT希望」としてツイートするつもりです。

 ただ古本を売るだけなのにやたら熱くなってしまいました。所詮、個人で持っていく程度の冊数ではあります。でも、語るべき、渡すべき本があります。

 ぜひ、おこしください。
 単に私を冷やかしに来てもいいです。
 古本市は楽しいですよ。
 

(なお、念のため詩集『照らす』も持って行きますので、お求めの方、署名をご希望の方はお気軽に声をかけてください。)

(石川啄木は難しく装飾的な詩を書く青年であったが、食うべき詩という考え方に目覚め、その本領を発揮した。そして24歳で死んだ。「飛行機」は死の前年の詩である。)

見よ、今日も、かの蒼空あをぞら
飛行機の高く飛べるを。

給仕づとめの少年が
たまに非番の日曜日、
肺病やみの母親とたった二人の家にゐて、
ひとりせっせとリイダアの独学をする眼の疲れ……

見よ、今日も、かの蒼空に
飛行機の高く飛べるを。

石川啄木「飛行機」青空文庫
http://www.aozora.gr.jp/cards/000153/files/47892_31512.html


(後の俳人・坪内稔典ははじめて買った「現代詩手帖」で「新人作品」を読んだ。高校生、水川真。私はこの水川真が詩人になったかどうか知らない。この作品以外知らないのだ。そういう作品を覚えていたいと思う。堂々としたいい詩だ。)

もういらないんだ
さらばと歩き出したら
さらばと唄い出したら
大きな声としっかりとした声だけで
何処かへ生きてゆくには
充分なんだ

水川真「さらばさらばと歩く唄」より 『名詞渉猟』思潮社


(私は詩に興味がなかった。センチメンタルなことに興味がなかった。大学生になって私は『戦後名詩選1・2』という二冊の本を買った。戦後詩は難しく哲学的で私に合う気がした。だが、結局私の心をとらえたのは難しさをくぐりぬけたあとに現れた軽い詩の旗手・辻征夫であった)

夕陽
沈みそうね
…………
賭けようか
おれはあれが沈みきるまで
息をとめていられる
いいわよ息なんかとめなくても

辻征夫「落日――対話篇」より 『戦後名詩選2』思潮社



(また、古本屋で見つけた『詩のたのしさ』嶋岡晨、という本も私に色々な詩を教えた。そのなかで私を魅了したのは片岡文雄「卓上の思想」というりんごについての詩であった。このあと「片岡文雄詩集」を読んで楽しもうとするが、ちょっと無理していた気がする。)



りんごをつくる人をかじる
何代もの経験が監視にまわり
豊作の幻影のからまりあう果樹園に
みえかくれするすっぱいおんなをかじる
雪の来ない季節に虫をとり
りんごをもぎとるやわらかい腕を
さくさくさくさくかみしめる

片岡文雄「卓上の思想」より 『詩のたのしさ』講談社


(ケストナー。「飛ぶ教室」「エーミールと探偵たち」などの児童文学で知られるこの作家は詩人でもあった。ものごとの隠れた側面を見る詩人の目が、その物語に長い命を吹き込んだのだ。美しくないものの美しさをも詩人は知っていた。)

もっと有名な手があります
もっと美しい手もあります
しかしあなたがたがここにごらんになるのは
家庭用の手です

ケストナー「洗濯女の手について」より 『人生処方詩集』ちくま文庫、小松太郎訳


(詩の本、鹿島茂『あの頃、あの詩を』。「団塊の世代」をターゲットとした奇妙なアンソロジーだ。「団塊の世代が教科書で読んだ詩」を集めたのだが、そのとき他の世代と読んでいる詩が違うということに鹿島は気づいた。それは「時代の刻印」であった。)

天の川が、石英のこなのように。
光っています。

北斗のひしゃくが。
天の水を汲みます。

いいえ。
氷ってて動きません。

草野心平「天のひしゃく」 『あの頃、あの詩を』

(金子光晴は、反戦の詩人として有名である。だが、それはむしろ未成年への配慮の結果に思える。何しろ代表詩集のひとつは『愛情69』である。教えられないのだ。この詩集は「愛情1」から「愛情69」まであり、だいたい女のことである)

男の舌が女の唇を割つたそのあとで、女のほうから、おづおづと、
男の口に舌をさし入れてくるあの瞬間のおもひのために。

金子光晴「愛情55」より 『女たちへのエレジー』講談社文芸文庫


(外国語を知らない私のような人にとって、海外の詩は、難しい。言葉の調子は訳の仮定でうしなわれがちだし、むかしの翻訳は日本語自体が外国語みたいだったりする。いまの時代にも、詩をうまく訳して解説してくれる人がいたらなあ、と思ったら、アーサー・ビナードがいた。)



きみが嘆き悲しみ、心の芯からぼくを惜しんで、
「借りてた、これがあの十ドル……」と囁いたなら、
死に装束の白いネクタイをしめたまま、ぼくはぬうっと
起きて「なになになんだって?」というかもしれない。

ベン・キング「もしぼくが死んだら」より 『もしも、詩があったら』


(岸田衿子「南の絵本」は私にとって恐るべき詩だが、同じ読書体験を他の人もしているかどうかはわからない。この詩を読むと、どうやっても詩の序盤より終盤のほうが速度がゆっくりになるのである。愛される詩で、本の巻頭に置かれている。)

兎にも 馬にもなれなかったので
ろばは村に残って 荷物をはこんでいる
ゆっくり歩いて行けば
明日には間に合わなくても
来世の村に辿りつくだろう

岸田衿子「南の絵本」より 『いそがなくてもいいんだよ』童話屋



(柴田翔『詩に誘われて』は、ちくまプリマー新書という若者向けのシリーズの一冊である。詩の本は多くはないので、そういうものも読んでいくのがよい。私が難しい本を敬遠しているということもあるが、立原道造への偏見をのぞいてくれるなど、ありがたい。)


夢は 真冬の追憶のうちに凍るであらう
そして それは戸をあけて 寂寥のなかに
星くづにてらされた道を過ぎ去るであらう

立原道造「のちのおもひに」より 『詩に誘われて』柴田翔


(詩の中には、その一部分が異様に輝かしいと思えるものがあり、たとえば北村太郎「朝の鏡」がそれである。この詩を知ったのは大学時代に読んだ『戦後名詩選1・2』の1のほうである。のちのちどこかで北村太郎はモテたという話を聞いたが、こんな冒頭部を書けるならそれもわかる。)


朝の水が一滴、ほそい剃刀の
刃のうえに光って、落ちる――それが
一生というものか。不思議だ。

北村太郎「朝の鏡」より 『戦後名詩選1』思潮社


(しかし、詩を読むのに「まずはこれ」というアンソロジーはないのか。実はいまは、ちょうどある。西原大輔編『日本名詩選1・2・3』全三巻である。見た目にも典雅なこの本は、名の通りのアンソロジーだが、実は解説がメチャクチャ厳しい面白い本でもある。吉野弘に特に厳しい。)


僕は興奮して父に話しかけた。
――やっぱりI was born なんだね――
父は怪訝そうに僕の顔をのぞきこんだ。僕は繰り返した。
――I was born さ。受身形だよ。正しく言うと人間は生まれさせられるんだ。自分の意志ではないんだね――。

吉野弘「I was born」より 『日本名詩選3』


(ただ一番好きなアンソロジーはと言われたら、私は河出書房新社のムック『心の詩集』とこたえる。難しい詩もあれば、小沢健二もある。ここでは天野忠の詩を紹介しよう。老人の詩を多く書いた天野だが、『心の詩集』に入っているのは「しずかな夫婦」だ。)

結婚よりも私は「夫婦」が好きだった。
とくにしずかな夫婦が好きだった。
結婚をひとまたぎして直ぐ
しずかな夫婦になれぬものかと思っていた。
おせっかいで心のあたたかな人がいて
私に結婚しろといった。
キモノの裾をパッパッと勇敢に蹴って歩く娘を連れて
ある日突然やってきた。

天野忠「しずかな夫婦」『心の詩集』河出書房新社

(ほかにも好きなアンソロジーはあって、たとえば水内喜久雄『一編の詩がぼくにくれた優しい時間』だ。この本は詩と文章が交互にあって、バランスが良い。疲れにくいのだ。著者が元教師ということで、ここでは高校生に関する詩を紹介しよう。だが結末は教えない)

ゲームセンターで恐喝があった
それを止めて
丸く収めた高校生がいたということだ
彼は店主に名前を聞かれると
「名乗るほどの者ではない」とだけ言って
そそくさと立ち去ったそうだ

伊藤芳博「名乗るほどの者ではない」より 『一編の詩がぼくにくれた優しい時間』



(同じく水内喜久雄の編んだアンソロジー『一編の詩があなたを強く抱きしめる時がある』に、THE BLUE HEARTSの歌「人にやさしく」が収められている。私の本能はこの曲を最初拒んだが、実は驚くべき歌なのだ。この曲は三番でファンを「振っている」。)

やさしさだけじゃ 人は愛せないから
ああ なぐさめてあげられない
期待はずれの言葉を言う時に
心の中では ガンバレって言っている
聞こえてほしい あなたにも
ガンバレ!

甲本ヒロト「人にやさしく」より 『一編の詩があなたを強く抱きしめる時がある』


(最近読んで面白かったのが甲田四郎という詩人である。詩集に『大手が来る』があがある。詩人は和菓子屋を営んでいるが街に大手スーパーがやってくるのだ。それが詩になるのかといえば、なるのである。)


近所で買えったってその近所がうちへ来ないじゃないか、大手は売るだけでぜったい買いに来ないったって近所だって来なけりゃおなじだ、意地張ったって損するだけだ、安けりゃ敵からだって仕入れることがあるんだ
だいいち売上がないんだ売上が、

甲田四郎「刺身」より 『甲田四郎詩集』


(思潮社に「詩の森文庫」というシリーズがあり、詩の評論やアンソロジーを収めている。(色々)ややこしいことに新書サイズであるが、新刊が出なくてあまり本屋においてないが、詩人としては大変に助けられた。『戦後代表詩選・続』からひとつ変なのを紹介しよう。)

千葉行の終電車に乗った
踏み汚れた新聞紙が床一面に散っている
座席に坐ると
隣の勤め帰りの婆さんが足元の汚れ新聞紙を私の足元にけった
新聞紙の山が私の足元に来たので私もけった
前の座席の人も足を動かして新聞紙を押しやった

鈴木志郎康「終電車の風景」より 『戦後代表詩選・続』


(ここらで有名詩人に戻ろう。中原中也の詩は、読んでいると、有名でないものがあんがい今にも通じる感じがして面白かったりする。「汚れっちまった」と言われるとついていきづらいが、しかし、それ以上に激しい、そして奇妙な願望を歌う「羊の歌」冒頭部の「それよ」はいまも美しい)

死の時には私が仰向かんことを!
この小さな顎が、小さい上にも小さくならんことを!
それよ、私は私が感じ得なかったことのために、
罰されて、死は来たるものと思ふゆゑ。
あゝ、その時私の仰向かんことを!
せめてその時、私も、すべてを感ずる者であらんことを!

中原中也「羊の歌」より 『中原中也詩集』角川文庫

(詩は妙なもので、輝かしいものが輝くとは限らず、ときには情けないもの、弱いもの、そしてそれが正義感や同情心ではなく、まさに弱さや情けなさを発揮する時に、輝くことがある。そのことを、決して当時においても新しい作風ではなかった佐藤春夫は教えてくれる。)


あはれ
秋風よ
情(こころ)あらば伝へてよ、
夫を失はざりし妻と
父を失はざりし幼児とに伝へてよ
――男ありて
今日の夕餉に ひとり
さんまを食(くら)ひて
涙をながす と。

さんま、さんま、
さんま苦いか塩つぱいか。

佐藤春夫「秋刀魚の歌」より



(たとえば山之口獏。念願の家族を持ちながらも、生涯貧しさに苦しんだこの詩人は、しかし、同情を得るのではなく、明るさに包んだ。その美しい包み紙は、詩人の飽くなき推敲により、貧しさそのものが輝くように錯覚さえさせる。だが繰り返そう、貧しさに苦しんだと。)


俗人の口にするみたいなことを
詩人がおっしゃるもんじゃないですよ
お金に用のないのが詩人なんで
詩人は貧乏であってこそ
光を放ち尊敬もされるんです
詩人はそこでかっとなり
借りに来たことも忘れてしまって
また一段と光を添えていた

山之口獏「十二月のある夜」より 『山之口獏詩集』岩波文庫


(また詩の森文庫の話だが、『忘れえぬ詩』という本は私に鎌田喜八「不運」という詩を教えてくれた。大人たちがやってきて、「僕」に、どんなものになりたいか、叶えてやるから申してみよというのである。だが「僕」の答えは。)


僕は動転しつい口を滑らせる 云ってはならぬこと この甲冑のようにいかめしい連中に通用しない感情を表明してしまう<涙だよ 涙になってみせる>見る間に大人共の顔がふくれあがり荒々しく卓子を叩き声をつまらせて怒鳴る

鎌田喜八「不運」より 『忘れえぬ詩』思潮社


(『日本名詩選3』において西原大輔に厳しく解説される吉野弘だが、彼はフランシス・ジャムの名を私に教えてくれた。というとジャムの詩集を読んでそうだが、この前見かけたがよくわからなかったので買わなかった。だが吉野弘が紹介した詩は面白い。)

少女よ お前は何を食べたか?
お前は桜実(さくらんぼ)を食べたでせう

驢馬は燕麦は食べなかつた
飼主が貧しいので。

驢馬は古縄をしやぶつて
暗い隅へ行つて寝てしまつた。

お前の心の縄には 少女よ
こんなに味はない。

ジャム「私は驢馬が好きだ……」より 堀口大學訳 『詩のすすめ』



(海外の詩人をもう一人、今度は現代にほどちかく、ブローティガンを見てみよう。味わい尽くすだけが人生ではない。人生を乱暴に扱うことも、ときには詩になる。俳句を好んだアメリカの詩人の詩は、短く、面白い。)


あたしの糞ったれ人生の最高に
見事にハングリーな朝は
フライド・ポテトのようにファックしてよ。

ブローティガン「フライド・ポテトのようにファックしてよ」 『突然訪れた天使の日』中上哲夫訳



(さて、この文章もそろそろ終わりに近づき、だんだんと「好きな詩人」にかたむいていく。菅原克己は私を「反省させる詩人」だ。何を飾ろうとしているのか、詩においてさえ、守ろうとしていないか、賢い自分を。菅原克己は誰も責めない。詩人が詩人自身に問うとき、それは私への問いになる)


そんなにはやく歩くと
きっと大切なものを素通りする。
よそみせず静かに歩こう。
人はたくさんの知識をほこるが
ぼくにはなにもない。
もしたれかが稚いといったら
足もとを見て、
ぼくは正直だったかと自問しよう。

菅原克己「夜のもひとつ向こうに」より 『菅原克己詩集』思潮社


(知られた詩人で好きなのは黒田三郎だ。彼は『ひとりの女に』という恋愛詩集を出した。なかでも「賭け」は美しい。ここでは最終部を引用するが、そこにいたるまでの長い助走は、徐々にスピードを上げていく三段跳びの選手のようだ。)


僕は
僕の破滅を賭けた
僕の破滅を
この世がしんとしづまりかえっているなかで
僕は初心な賭博者のように
閉じていた眼をひらいたのである

黒田三郎「賭け」より 『黒田三郎詩集』思潮社


(黒田三郎は『ひとりの女に』の女性と結婚し、娘をさずかる。妻が病身で病院にいるときの、家庭の様子を描いたのが詩集『小さなユリと』である。「夕方の三十分」は三十分間の父娘の攻防を描く。その様子はいまも読み継がれる。)

かんしゃくもちのおやじが怒鳴る
「自分でしなさい 自分でェ」
かんしゃくもちの娘がやりかえす
「ヨッパライ グズ ジジイ」
おやじが怒って娘のお尻をたたく
小さなユリが泣く
大きな大きな声で泣く

黒田三郎「夕方の三十分」より 『黒田三郎詩集』思潮社


(もっとも愛する詩人辻征夫の詩をふたつ紹介して終わることにしよう。とにもかくにも詩が「面白い」ということを教えてくれたのが辻征夫である。そして、たゆまぬ推敲が軽い詩を本物にすることも。)


きみがむこうから 歩いてきて
ぼくが こつちから
歩いていつて
やあ
と言つてそのままわかれる
そんなものか 出会いなんて!

辻征夫「きみがむこうから……」より 『辻征夫詩集』思潮社


(最後のひとつは辻征夫「蟻の涙」。面白く、ほろっとする、親しみやすい、ユーモアのある、落語のような詩を書いていた詩人の、こころざしに思いをはせて、終わることにしよう。なんだろうか、と詩人は考えていた。)

どこか遠くにいるだれでもいいだれかではなく
かずおおくの若いひとたちのなかの
任意のひとりでもなく
この世界にひとりしかいない
いまこのページを読んでいる
あなたがいちばんききたい言葉はなんだろうか

辻征夫「蟻の涙」より 『辻征夫詩集成 新版』書肆山田



短歌を積極的に分かち書きや改行しないわけ


 ツイッターでここのところ、短歌を分かち書きするかしないかという話題が出ている。
 短歌クラスタの大勢は予想通り詰めて書く派で、私が行ったアンケート(回答:50人)では、66%が詰めて書くという結果が出た。このアンケートには「その他」という実質回答しない選択肢もあるから、明らかに「詰め書き派」優勢と言っていいだろう。


 さて、かくいう私自身はどうか。何か理由があったり気まぐれなどで改行しない場合、詰めて書いている。自分の短歌の9割以上詰めて書いているように思う。改行はたまにするが分かち書き(句ごとに一字空きをいれる)はしたことがないような気がする。

 つまり、短歌クラスタの大半と似た方針だ。では、分かち書き・改行についてこうして書いているのはなぜか。それは、詰めて書く理由が他の人と違うように感じているからだ。

 短歌の会などに行くと、五七五七七の音に短歌を分けて、線を引く人を時折見る(それほどたくさんではないが)。こういう具合だ。

 ひさかたの/ひかりのどけき/春の日に/しづ心なく/花の散るらむ 紀友則

 ひさかたの~は古典から引いたので、補助線を引いた意味があまりない。だが、このやり方は現代短歌を読む上でまっとうな補助線の引き方であるように思う。というのは、現代短歌においては「句またがり」(言葉が五七五七七の切れ目をまたがっている)も多数あり、そのズレ方も含めて鑑賞するのが王道らしいからだ。現代の短歌でもひとつやってみよう。

 ショッピング/モールの中の/駄菓子屋は/親切な郷/愁でおなじみ 松木秀(『親切な郷愁』)

 ショッピングモールはショッピングとモールを組み合わせた語だから特に違和感がないが、「親切な郷愁でおなじみ」を「七・七」で読むのはきつい。郷愁という単語がばらばらになってしまう。そのきつい書き方をあえて行い、あえてそれを読者も読み取るのが現代短歌である。補助線を引けばそれは読み取りやすい。

 松木自身がツイートで、この短歌について「この歌は「郷/愁」でぶった切ることで批評性を出そうとした」と述べている。

 ここで、この短歌をあえて改行してみよう。念のため言っておくと元の歌集では

ショッピングモールの中の駄菓子屋は親切な郷愁でおなじみ

 と普通に詰めて書かれている。

ショッピング
モールの中の
駄菓子屋は
親切な郷
愁でおなじみ

 さて、この書き方では「郷」「愁」が明確に離れた位置にある。松木の意図するぶった切った批評性はこのほうがわかりやすくはないだろうか。実は、松木は先の発言につづけて「だれ一人わかってくれません。ちょっと寂しいです。」とも言っている。

「親切な郷愁でおなじみ」。これをそのまま読めば「五・五・四」になるだろう。批評性はあくまで「七・七」との関係においてうまれる。松木の短歌はそうであった。だが、現代短歌において句またがりはそうでない場合もあるのではないか。この短歌で言えば、単に「五・五・四」の調べを感じてほしいケースである。

親切な郷
愁でおなじみ

 の書き方は、そのどちらなのか、すなわちぶった切る批評性を明確に示すことができる。もしこれが違う短歌で、調べを純粋に味わってほしいケースでは

親切な郷愁で
おなじみ

と書けば良い。明確に示せば、だからこそ無粋ともいえるだろうが、松木は寂しくならずとも済んだかもしれない。


 ここで紀友則に戻る。

ひさかたの
ひかりのどけき
春の日に
しづ心なく
花の散るらむ

 詰めて書くのとあまり変わらない感じがする。句またがりのない、定型に即した短歌は、改行する意味に乏しいのだ。意味がないということは変化がないということでもある。現代短歌が改行に合わないと言われるのはそこに別の意味が生じるというのがひとつの理由である。だが、松木の例でみたようにその「意味」は作者の意図を補完する可能性もある。

 さて、私自身は短歌をつくるとき、おおむね定型を守るほうである。おおむねで申し訳ない。
 定型を守っているので、私には改行や分かち書きをする「意味」がない。改行しなくても五七五七七で読みやすいからだ。ただし、改行されてもあまり変化がない。

 意味がないので普段は詰めて書いているが、改行することにも抵抗感がない。
 私は句またがりをする現代短歌ではなく「短歌」を書いている。だから、改行の「必然性」「違和感」、その両方に縁が薄いのである。

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