目がでかい

詩人・中本速のブログです。

この文章はあまり面白みのあるものではありませんが、全国紙面で誤ったそして挑発的な文章が書かれたことを意識し、早さを重視してアップします。私自身が当該の問題について先月何を言ったかは、このブログの過去記事
http://blog.livedoor.jp/sknkmt/archives/16733380.html
をお読みください。


 2017年7月24日の朝日新聞「短歌時評」の題は「歌会こわい」である。書いたのは歌人の大辻隆弘。

 これはその前月にツイッター上を賑わせた騒動について振れつつ、大辻自身の主張を行うものであるが、内容がひどい。

 まず、事実認識が完全に間違っている。

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 この事態は「歌会は真剣な批評の場であるべきだ」という主張がツイッター上に載せられたことから始まった。
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 いきなり重要な部分をすっ飛ばしている。この問題は歌会の席で、

「巧いとは思うけど好きじゃないので採らない。好きな歌を採る」
「それは不誠実だ」

 ということから始まったのだ。そのことは、発端となった灼風のブログhttps://note.mu/shakufu/n/n8c6f68bffa12
に書いてある。
 なにしろ出発点が間違っているので、一見意味のあることを書いているようで、すべてがあやふやな一般論である。
 そして、結論はこうだ。

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 批評は怖い。が、作品をそこにさらすことでしか文学は成立しない。
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 この結論でわかるのは、大辻の文章は、先月の歌会論争が「批評されるのが怖い」という話題だと思っていることである。
 違う。
 自分の歌が批評されるのが怖いという話ではない。

 そうではなくて、選や評のあり方が、技術的な巧拙を語る「批評」を目指すべきなのかという話題だったのだ。

 もう完全に認識が誤っているので、こんな文も出てくる。

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何も、リアルな歌会に出て、他人の批評を受けて傷つく必要はない。
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 だから、批評を受けて傷つく傷つかないの話ではないのだ。そんな低次元の話をしているのではない。

 大辻の意見は、一応「批評」側に立っているものだが、問題の把握自体が間違っているので、先月の論争のどちらのサイドに対しても失礼なものである。


 新聞紙面から先にこの問題を知った人は確実に論争の内容を誤解するだろう。それを少しでも防ぐべく、(その防壁をネット上につくることの有効性がうすいことを知りつつ)早めにこの記事を書いておく。

速い人歌会in京都

中本速が広島への帰省の途中下車で京都で歌会をしちゃおうという企画です。
関西のみなさん是非お会いしましょう。


----------大枠-------------

【日時】
2017年8月10日(木) 14時~17時

【場所】
京都駅から徒歩7分の「明覺寺会議室」
https://www.meikakuji-kaigishitsu.com/

【会費】
千円(飲み物は各自持参)

【短歌】
自由詠一首。作品は作者の承諾なしに公開しない取り決めで。
締切:8月3日(木)まで(はやっ)。このときに懇親会の出欠も教えてください。

(追記)→いくらなんでも早すぎる気がしてきました。8月6日(日)までとします。
ただし、懇親会の出欠は必ず8月3日(木)までに教えてください。
また、いろいろ名前が変わる方も多いので筆名も念のため添えてください。
(ただし歌会自体は無記名とし、プリントの最後に参加者名を全部まとめて記します)
meityというものを利用して、参加者にのみ前もって作品を開示します。

【定員】
平日の昼間だし大人数にはならないことでしょう。

【懇親会】
17時半から19時半(はやっ)。中本が、参加してからそのまま広島に帰るという強行軍です。
※懇親会の費用、書いていませんでしたが、参加した人の大雑把な割り勘で。無闇に高いお店は選びません。なお、懇親会のみ参加という方もいらっしゃいますが、そういう方はもちろん歌会の会費はとらず、懇親会費のみいただきます。
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【ひまなときに目を通してください】

 京都は学生時代を過ごした土地です。なつかしい気持ちで歌会にのぞみます。

 中本の主催する歌会は、「みとめてのばす」をモットーにしています。
 作品のいいところをみつけてそれを言葉で表現し、欠点も頭ごなしに否定するのでなくどうすればもっとよくなるかを皆で考えます。
 歌会デビューにも向いていると思いますし、ベテランの方も、「いいところはどこか」「どうすればよくなるか」を言葉にするのは楽しんでいただけると思います。

 選をするかどうかはまだ決めていないのですが、いずれにせよ無記名で評をして、作者は最後に明かす一般的な方式でやります。



 明覺寺会議室はとても気持ちがよさそうです。実は、京都駅付近はリーズナブルな会議室が少なく、人に教えてもらいました。


 どうぞよろしくお願いいたします。





1.現状

 ツイッターで歌会について色々意見が出た。

 発端は、ある実際の歌会での対立がもとだが、それが少し前からツイッターで話題になっていた「歌会怖い」という話と関連付けされるかたちで燃え広がったようだ。

 このあたりは手つきを慎重にする必要がある。というのは、まず、実際の対立のきっかけとなった状況がどういうものか明確でないことがある。さらに、歌会の当事者たちは対立後に当事者たちのみが見られるサイトでやり取りをしている。
 そのあたり、主催者・参加者の個人的な感情もあるであろうから、聞き出すのは避けたいと思う。

 そして、本当はそこでやり取りされたことも含めて問題なのだろう。

 当事者の一方である灼風氏が語るところによれば(https://note.mu/shakufu/n/n8c6f68bffa12)
、歌会の対立は次のような会話がきっかけだ。

「巧いとは思うけど好きじゃないので採らない。好きな歌を採る」
「それは不誠実だ」

 ここから歌会は批評の場である(べきだ)という論が展開されている。この文章の投稿をきっかけに、さまざまな意見が飛び交い、さらに、それに対する反論・反感が巻き起こった。特に、えりうに氏の「寿司とハンバーガー」(https://blogs.yahoo.co.jp/eriuni_tanka/64858686.html)、およびその修正文章である「6月21日追加ペーパー」(https://blogs.yahoo.co.jp/eriuni_tanka/64860569.html)は、賛同・反論の声を多数巻き起こした。


 以上が、私の把握している顛末である。



2.前置き

 歌会が批評であるべきかどうかをめぐって短歌クラスタが二つに割れたような状況だが、さてこの文章を書いている私はどうかというと、微妙である。微妙というと、両方にいい顔をしようとしているかのようであるが(社交としてはそうしたいのだが)、事態はもっと私にとって厳しいもので、実は私が思っているようなことを述べている人が見当たらないのである。

 だから、書くことで孤立してしまうかもしれないのだが(そこまでには至らないだろうとたかをくくってもいるが)、それはそれで仕方がないとも思っている。
 なぜこのような前置きをしたかというと、「さてこの人はどちらの陣営なのか」と思いながら読まれると、どっちでもないので期待はずれだしわかりにくい内容だからだ。では始める。




3.主催した歌会

 私は歌会に参加したことが、はっきりとしないが七回程度ある。そのうち二度司会をし、一度は主催している。参加者の協力により楽しい歌会にできた。

 その際に、参加者向けに次のように私は書いた。

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楽しい歌会にします。初心者ばかりかもしれません。
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さて、歌会の方式ですが、寄せられた短歌作品はこのコメント欄で無記名にて公開しますので、目を通して歌会にお越しください。当日プリントでもお配りしますので、各自でのプリントアウトは必要ありません。

中本を司会として、それぞれの歌について挙手や指名で感想を述べてもらいますが、うっかり(?)短歌の作者に聞いてしまうこともあるでしょう。しれっとした顔で、他人の歌のように思うところを述べてください。

ところで、16首を3時間弱でやると、結構な早足です。なので、特に歌会初めての方は、キーワードだけでも良いので思うところをメモしてくることをおすすめします。自分の歌がどう言われるか緊張していると、時間は早く過ぎます。

今回のモットーは「みとめて伸ばす」でよろしくお願いします。

・その短歌のよいところを見つける
・(欠点があっても頭ごなしにけなさず)どうしたらもっとよくなるかみなで考える
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4.怖さと批評の関係

 これだけ読むと、初心者向けのゆるい歌会をやっていると感じられるであろう。そのとおりである。そして、おそらくこの人は「歌会は好き嫌いもOK派」なんだな、と思われると思うのだが、そこが先程述べた「微妙」である。

 歌会が批評であるべきかどうかという論は、怖い怖くないという話と関連付けられ、なんとなく次の表のような認識が共有されているように思う。


批評のみ 好き嫌いもOK
成長 楽しむ
怖い 怖くない


 けれどこの組み合わせは先入観による錯覚だと思っている。さきほど引用した私の歌会連絡は、この組み合わせを「変える」ことで成り立っている。

・その短歌のよいところを見つける
・(欠点があっても頭ごなしにけなさず)どうしたらもっとよくなるかみなで考える

「よいところ」「欠点」「よくなるか」。実は、この初心者向け歌会は、「良し悪し」「好き嫌い」でいうと、「良し悪し」を軸とするように、参加者に要求している。どちらかといえば「批評」の歌会なのだ。

 実際には「この歌のここが好きです」といって「それは良し悪しではない」と否定されるかというとそんなことはないし、上記の引用からそう感じる人もあまりいないと思う。ただし、「よいところを見つける」「頭ごなしにけなさず」によって、「嫌い」とだけを言うことはできないように誘導している。

 これも表にすると(するのか)、

良し 好き
悪し 嫌い

 このうち、「良し」はOK、「悪し」は改善案つきでOK、「好き」もOK、「嫌い」はなし。
 四つのうち三つを許容する仕組みになっている。

「嫌い」がなければ、歌会の「短歌を評される場面」で人はそれほど傷つかないのではないかと思っている。もちろん改善点をばしばし言われれば痛みはあるだろうが、怖くない歌会を希望する人もその部分をおそれていることは少ないのではないか。
 批評の歌会も怖くなく出来るのである。

 逆に言えば傷つくのは「嫌い」と言われた場合である。
 なぜ「嫌い」は傷つくのか?
 それは、表現の巧拙ではなく表現行為そのものの否定だからだ。
 この「傷つく」を「怖い」と言い表すならば、次のような言い回しも可能になる。

 批評じゃない歌会は怖い。批評じゃない歌会は自分を否定されるかもしれない。
 トリッキーに聞こえたかもしれないが、まっすぐ語っているつもりである。



5.現実に役割をよく果たすのは?

 そして、歌会でお互いのためになるという観点から言うと、「良し悪し」「好き嫌い」の綺麗な対立関係は、現実的には若干あやしいと思う。
 というのは、特に「好き」「嫌い」において、「好き」の評は「嫌い」の評に比べ、価値のある役割を果たしやすいからである。

 なぜか。短歌のような表現は食べ物ではなく、役に立たないので、腹に入ればうれしいということがない。私達が表現に感動するのは、あくまで何かが伝わってきたときだけだ。そして、作者の意図や技術と関係なく感動するということはほとんどないのである。
 一方で、作者の意図や技術がわからなくて嫌いになるということはある。というか、何がいいのかわからないといった場合、しばしばそういう理由である。

 だから「好き」の話は、作者の意図や技術に関連しやすいが、「嫌い」の話は関連しにくい。批評そのものではないが、「好き」は批評に似た役割を果たしやすいのである。「嫌い」は果たしにくい。

 また、「悪し」については、

・その短歌のよいところを見つける
・(欠点があっても頭ごなしにけなさず)どうしたらもっとよくなるかみなで考える

 としたのは、実際には作者の意図に寄り添えていない「悪し」は、作者を成長させる役割を果たしにくいからである。まず作者の意図をはかるところから始めることで、欠点の指摘は相手の「ためになる」のだ。

 以上のような理由から、私は「嫌い」が出てきにくいように歌会を主催した。(実際には「歌会は『嫌い』が出てきにくいほうがいいな」と思って主催して、あとからその理由を分析しているのだが。)



6.個人的な感想(願望含む)

 ここからは今回の騒動についての個人的な感想だが、私は騒動のどちら側の当事者とも(誰が当事者なのか完全にわかっているわけではないがおそらく)歌会をしたことがあり、その限りでは、そんなにいやな人たちじゃなかろうと思っている。(歌会以外でどうかは知らないが。)
 そのため、性善説にすぎるかもしれないが、隠れた対立要因として、思いやりをめぐるすれちがいが双方にあるのではないかと思っている。

・突然「好き嫌い」を語ることを全否定される人を守りたい
・歌会で自分の短歌が「嫌い」で全否定される人を守りたい

 こういう思いやりや正義感が、かえって過熱したひとつの要因ではないか。

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