目がでかい

詩人・中本速のブログです。

 岡本真帆さんの短歌で好きなものに感想を書きました。



本来の服の持ち味殺してる私の服の組み合わせ方

 服の持ち味を殺すと、格好がいいかわるいかでいうと悪くなるだろう。
 だから、そんなことはしないほうがいい。それをしてしまっているのが岡本さんなのだが、ここでは「できない」のか「しない」のかは書かれていない。服の持ち味殺すようなセンスだけどこれが私なんだ、と胸を張っているのかもしれないのだ。


ほんとうにあたしでいいの?ずぼらだし、傘もこんなにたくさんあるし

 傘がたくさんあるのはよろしくない。天気予報が雨でも持ち歩くのが面倒なので傘を置いて出た。ところが降った。いや、そもそも天気予報を見ていないかもしれない。そんな岡本さんでいいのかと恋人に問うのだが、どうせ答えは「いい」とか、むしろ「そこがいい」とかだと確信している節がある。岡本さんはずぼらでずうずうしい。


丸ノ内線が地上に出るときはみんなあかるい方を見ている

 丸の内線が地上に出るのは四ツ谷駅の近くだそうである。
 本当は全員見ているわけがないし、それを岡本さんも確認したはずがない(だって自分も明るい方を見ているんだから)。だけどそんな気がするのだ。ずっと地下を走ってきたものが光の気配を感じるとそちらを向く。人間は地上で暮らす生き物だからだ。


きのうよりきょうの夕暮れうつくしく わたし未来の話がしたい

 昨日より今日の夕暮れが美しいという把握が、今日よりあしたの話をしようという飛躍に結びついている。昨日と今日の夕暮れに実際の差があったせいではない。同じような夕暮れだったとしても今日のほうが美しく思える。だから、あしたはもっと美しく思えるだろう。


無駄なことばかりしようよ自販機のボタン全部を同時押しとか

 自販機のボタンを全部同時押しするのは、ものすごく難しそうだ。ひとりでできないからこそ、「しようよ」と呼びかけているのかもしれない。そして、出てきたジュースが何であっても飲むのである。この悪ふざけ短歌が気分を悪くさせないのは、どの未来が来ても飲み込むことを宣言しているからだ。


何気なく打った数字で開く鍵 ねえこの四桁って、わたしの

 勝手に鍵をあけようとしてはいけない。四桁でひらくって何の鍵だろう。それも気になるが、もうひとつ気になるのは、「何気なく」というセリフが若干嘘っぽいことだ。人は何気なく「わたしの」数字を入力したりしない。もしかして、そうだったら、いいな。そう思ったから打ち込んだくせに。何気なく打ったら開いたんだけどさ、とかいうな。ニヤニヤすんな。


山手の全体像が見たいのに次の駅名ばかり出てくる

 電車の扉の上にある映像機器のことだろう。山手線の全体像を見て、どのへんで、どの時刻あたりで降りるのを気をつければいいか知りたいのだ。ところが、次は○○駅、ばかり出て全体像を出してくれない。あんなに最新なのに。山手が山手線を指す岡本さんは都会人だ。


味以外、完全再現! 目と鼻と耳が騙されているステーキ

 君ははたしてそれを「ステーキじゃない」と言い切ることができるだろうか。見た目も匂いも焼ける音も、ステーキなのだ。おでんの味がする。うまい。ステーキってもうこういう食い物だった気がしてきたぞ。


君の夢だと分かったら好き勝手やるシンバルも投げるし笑う

「君」に対して遠慮がない。
 そこがどこであれ、シンバルを投げたらシンバルに悪いし、音はたくさんの人に対して迷惑だ。ところが夢なら、夢を見ている当人以外には迷惑がかからない。君になら、君だけになら好き勝手やらせてもらうよという信頼。
 シンバルを投げることと笑うことが並べてうたわれている。岡本さんは夢の外でも笑うだろうが、夢の中ほど「好き勝手に」笑えてはいないのかもしれない。君の夢は解放の場所だ。

nu_koさんの短歌で、私が好きなものを十五首とりあげて感想を書きました。






スーパーで斜めのままになっていたカゴをなおして今日が終わった

 スーパーで斜めになっていたカゴを直すと、その次の人が直さなくてすむ。えらい。偉さでいうとちょっとだが確かに偉い。善意三割、斜めになってると気になる七割くらいの気もするが、偉くないわけではない。ぬこさんの偉さは私とあまりかわらないので褒めやすい。


うちあげが叙々苑だって知ってたらベビーカステラなんか食うかよ

 言ってることそのままである。食べたベビーカステラはひとつではないであろう。小さいけれどなんとなく手がのびるので、それほどほしくなくてもつい食べてしまうのである。「なんだよ……なんだよ……」とつぶやいて、他の誰かに責任を押し付けるわけにもいかないぬこさんだ。


世の中のボーダーシャツの横縞の総延長は月に届くか

 フェルミ推定! ができなさそうな計算だ。ボーダーシャツの横縞は、一枚あたりだとどうにか予想できる気もするが、どのくらいの人がボーダーシャツを好んで着るかがよくわからない。だいたい、月に届いたらどうだというのだ。かっこいいけど。


ねえさんが偽物みたいにやさしくて大きい方のケーキをくれる

 これはまちがいない。偽物だ。やさしい姉など都市伝説である。大きい方のケーキをくれるときはあるが、それは自分がダイエット中だからで、そのくせ恩着せがましい。


待ってたら地下鉄じゃないものが来た そういう種類の驚き方だ

 地下鉄じゃないものが来たということは、地下鉄を待っていたのだ。地下鉄を待っている場所といえば地下鉄のプラットホームしかない。そこに来たものはなんだろうか。そして、それと同等の驚きをしめす事柄とは。


トンネルを歩いて通るあいだだけ息をとめたらけっこう長い

 トンネルを歩いて通るあいだだけ息止めてようって決めたんである。自分で決めたルールであって、誰かに強制されたわけではない。だからこそ守らねばならないルールなのだ。ところがけっこう長いじゃん。どうするどうする? まだ止められる。でも出口はすぐじゃなさそうだ。
 この歌は、ルールを決めて止めはじめた時点とそのあとのけっこう長いと気づく時点とを、ともに現在形で結んで、うかつさと困惑をひとりの人物に閉じ込めている。


たわむれに鳩をつかまえようとして 本当につかまえてしまった

 本当につかまえてしまった、が、下の句の七七をまたぐ句またがりである。手の中の鳩が問題であって、句切れを忘れていたのだ。
 どうしたもんか。食えるのか。いや食わないだろう。鳩もあばれて逃げてくれればいいのに、身を任せてくるのである。


タウリンがなにに効くのかわからない 俺が疲れているのはわかる

 タウリーン! 効いてくれ! 本当はカフェインが効いているような気もするが、タウリンもどこかで効いてくれているんじゃないかとほのかに期待している。1000ミリグラムって1グラムだろ。


職安でサインだけして帰る道 かかわりのないすみれがきれい

 職安というのは、ハローワークの昔の呼び名である。年齢がいってからハロワに通うと、不安でもあるが人生そんなものだという達観もある。かかわりのないところですみれがきれいだ。こいつらは働かなくても水と日光で花を咲かせる。けれど嫉妬しない程度には現実的だぞこっちも。


どこまでがひとかたまりかわからずにサンドイッチを壊してしまう

 もしかしてぬこさんは、ものを食べるのが下手なのではないか。サンドイッチをパックで買うと、何枚目と何枚目のパンが境目なのかよくわからないのである。ちょっとずつはがして確かめればいいのだが、どうにかなるだろうと分けてみたら、案の定、具がビニールに残ってしまった。手で食べて、手を洗う。


図鑑ではぶどうのかたちの肺胞につめたい夜を吸い込むあくび

 肺胞について覚えているのはそれだけだ。あとはほら、呼吸だから、酸素を吸って二酸化炭素吐くんだろう。このへんは推測だ。どっちにしろ実感できないかたちで、それが自分の体の一部だという不思議さ。あくびをすると冷たい空気が体内に入る。冷たいけれどそこが肺胞だろうか。よくはわからない。


助手席のなにかわからんスイッチを押すとどこかがウィーンガシャという

「わからない」でなく「わからん」なのがすでに、やけな感じをともなっている。どうせうまくいかないだろうとスイッチを押すと、ウィーンガシャと言ってうまくいってない。どこが動いたんだよ。


悪趣味な本を探して2時間後マクドナルドで見せあいをする

 ぬこさんは、こういうことを女の人としたいなと思っている。問題は、悪趣味勝負でぬこさんは勝ってしまうことだ。うわあ……。


ゆっくりと飛行機雲が割った空、右半分はきみにあげます

 そこで、ロマンチックなことも言ってみる。「東半分」のように方角で言わず「右半分」なのは、第三者視点ではなく自分の視界であることの強調となっているが、それは同時に「きみ」と視界を共有していることも示せている。だからこの短歌のふたりはもう両思いなのだ。


何年も細木数子の占いの自分と違うやつを買ってた

 細木数子の「六星占術」は、毎年何冊も同時に出版される。人によって買うべき本が違うのだ。
 細木数子の占いという言い回しは、六星占術というよりも曖昧である。ぬこさんはよく覚えていないのだ。思い入れも中途半端だから、自分と違うやつを買って、ふんふんなるほどなどとうなずいたのである。しかしそれは間違った本だった。まったく関係ない占いを参考にしていた数年間に呆然としつつも、思い入れが少ないので「そっかあ……」ぐらいですんでいる。

ポエトリーカフェ吉原幸子篇の感想を書いていたんですが書き終えて保存しようとした瞬間、プログラムの終了とか出て全部消えました(涙) 全部書き直すのはきついので、ごくあっさり書きます。

 吉原幸子の詩は、一行一行を見れば極論平板なほどありふれた比喩が使われている。「木の葉が散るように 愛が散り」など、叱られそうなくらい普通だ。ところがそれを積み重ねて語られる詩の展開は豊かで、アイデアに満ちている。

 アイデアに満ちた詩だが頭のいい人がしっかり推敲して語るからすっと飲み込める。

 ポエカフェ途中の笑いどころとして、教科書に吉原幸子がのると、○○知恵袋などに「解釈を教えてください」という質問が上がるという話があり、その流れで、「死ぬ母 ――さらばアフリカ」という作品にふれたときに「これをのせればいいのに」といってみんな笑った。

 それはいいのだが、教科書にのせる判断としてはやはり編纂者のものが正しいのではないかと感じた。

「死ぬ母 ――さらばアフリカ」は、作者の思想がそのままあらわれたような作品だが、時代の流行の考えを超える広がりを感じない。同じ詩集からでも、「傘」は、環境問題の話として読めるがそれを超えた「大人の怠惰」の普遍性を感じた。

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