目がでかい

詩人・中本速のブログです。





1.現状

 ツイッターで歌会について色々意見が出た。

 発端は、ある実際の歌会での対立がもとだが、それが少し前からツイッターで話題になっていた「歌会怖い」という話と関連付けされるかたちで燃え広がったようだ。

 このあたりは手つきを慎重にする必要がある。というのは、まず、実際の対立のきっかけとなった状況がどういうものか明確でないことがある。さらに、歌会の当事者たちは対立後に当事者たちのみが見られるサイトでやり取りをしている。
 そのあたり、主催者・参加者の個人的な感情もあるであろうから、聞き出すのは避けたいと思う。

 そして、本当はそこでやり取りされたことも含めて問題なのだろう。

 当事者の一方である灼風氏が語るところによれば(https://note.mu/shakufu/n/n8c6f68bffa12)
、歌会の対立は次のような会話がきっかけだ。

「巧いとは思うけど好きじゃないので採らない。好きな歌を採る」
「それは不誠実だ」

 ここから歌会は批評の場である(べきだ)という論が展開されている。この文章の投稿をきっかけに、さまざまな意見が飛び交い、さらに、それに対する反論・反感が巻き起こった。特に、えりうに氏の「寿司とハンバーガー」(https://blogs.yahoo.co.jp/eriuni_tanka/64858686.html)、およびその修正文章である「6月21日追加ペーパー」(https://blogs.yahoo.co.jp/eriuni_tanka/64860569.html)は、賛同・反論の声を多数巻き起こした。


 以上が、私の把握している顛末である。



2.前置き

 歌会が批評であるべきかどうかをめぐって短歌クラスタが二つに割れたような状況だが、さてこの文章を書いている私はどうかというと、微妙である。微妙というと、両方にいい顔をしようとしているかのようであるが(社交としてはそうしたいのだが)、事態はもっと私にとって厳しいもので、実は私が思っているようなことを述べている人が見当たらないのである。

 だから、書くことで孤立してしまうかもしれないのだが(そこまでには至らないだろうとたかをくくってもいるが)、それはそれで仕方がないとも思っている。
 なぜこのような前置きをしたかというと、「さてこの人はどちらの陣営なのか」と思いながら読まれると、どっちでもないので期待はずれだしわかりにくい内容だからだ。では始める。




3.主催した歌会

 私は歌会に参加したことが、はっきりとしないが七回程度ある。そのうち二度司会をし、一度は主催している。参加者の協力により楽しい歌会にできた。

 その際に、参加者向けに次のように私は書いた。

――――
楽しい歌会にします。初心者ばかりかもしれません。
――――

――――
さて、歌会の方式ですが、寄せられた短歌作品はこのコメント欄で無記名にて公開しますので、目を通して歌会にお越しください。当日プリントでもお配りしますので、各自でのプリントアウトは必要ありません。

中本を司会として、それぞれの歌について挙手や指名で感想を述べてもらいますが、うっかり(?)短歌の作者に聞いてしまうこともあるでしょう。しれっとした顔で、他人の歌のように思うところを述べてください。

ところで、16首を3時間弱でやると、結構な早足です。なので、特に歌会初めての方は、キーワードだけでも良いので思うところをメモしてくることをおすすめします。自分の歌がどう言われるか緊張していると、時間は早く過ぎます。

今回のモットーは「みとめて伸ばす」でよろしくお願いします。

・その短歌のよいところを見つける
・(欠点があっても頭ごなしにけなさず)どうしたらもっとよくなるかみなで考える
――――



4.怖さと批評の関係

 これだけ読むと、初心者向けのゆるい歌会をやっていると感じられるであろう。そのとおりである。そして、おそらくこの人は「歌会は好き嫌いもOK派」なんだな、と思われると思うのだが、そこが先程述べた「微妙」である。

 歌会が批評であるべきかどうかという論は、怖い怖くないという話と関連付けられ、なんとなく次の表のような認識が共有されているように思う。


批評のみ 好き嫌いもOK
成長 楽しむ
怖い 怖くない


 けれどこの組み合わせは先入観による錯覚だと思っている。さきほど引用した私の歌会連絡は、この組み合わせを「変える」ことで成り立っている。

・その短歌のよいところを見つける
・(欠点があっても頭ごなしにけなさず)どうしたらもっとよくなるかみなで考える

「よいところ」「欠点」「よくなるか」。実は、この初心者向け歌会は、「良し悪し」「好き嫌い」でいうと、「良し悪し」を軸とするように、参加者に要求している。どちらかといえば「批評」の歌会なのだ。

 実際には「この歌のここが好きです」といって「それは良し悪しではない」と否定されるかというとそんなことはないし、上記の引用からそう感じる人もあまりいないと思う。ただし、「よいところを見つける」「頭ごなしにけなさず」によって、「嫌い」とだけを言うことはできないように誘導している。

 これも表にすると(するのか)、

良し 好き
悪し 嫌い

 このうち、「良し」はOK、「悪し」は改善案つきでOK、「好き」もOK、「嫌い」はなし。
 四つのうち三つを許容する仕組みになっている。

「嫌い」がなければ、歌会の「短歌を評される場面」で人はそれほど傷つかないのではないかと思っている。もちろん改善点をばしばし言われれば痛みはあるだろうが、怖くない歌会を希望する人もその部分をおそれていることは少ないのではないか。
 批評の歌会も怖くなく出来るのである。

 逆に言えば傷つくのは「嫌い」と言われた場合である。
 なぜ「嫌い」は傷つくのか?
 それは、表現の巧拙ではなく表現行為そのものの否定だからだ。
 この「傷つく」を「怖い」と言い表すならば、次のような言い回しも可能になる。

 批評じゃない歌会は怖い。批評じゃない歌会は自分を否定されるかもしれない。
 トリッキーに聞こえたかもしれないが、まっすぐ語っているつもりである。



5.現実に役割をよく果たすのは?

 そして、歌会でお互いのためになるという観点から言うと、「良し悪し」「好き嫌い」の綺麗な対立関係は、現実的には若干あやしいと思う。
 というのは、特に「好き」「嫌い」において、「好き」の評は「嫌い」の評に比べ、価値のある役割を果たしやすいからである。

 なぜか。短歌のような表現は食べ物ではなく、役に立たないので、腹に入ればうれしいということがない。私達が表現に感動するのは、あくまで何かが伝わってきたときだけだ。そして、作者の意図や技術と関係なく感動するということはほとんどないのである。
 一方で、作者の意図や技術がわからなくて嫌いになるということはある。というか、何がいいのかわからないといった場合、しばしばそういう理由である。

 だから「好き」の話は、作者の意図や技術に関連しやすいが、「嫌い」の話は関連しにくい。批評そのものではないが、「好き」は批評に似た役割を果たしやすいのである。「嫌い」は果たしにくい。

 また、「悪し」については、

・その短歌のよいところを見つける
・(欠点があっても頭ごなしにけなさず)どうしたらもっとよくなるかみなで考える

 としたのは、実際には作者の意図に寄り添えていない「悪し」は、作者を成長させる役割を果たしにくいからである。まず作者の意図をはかるところから始めることで、欠点の指摘は相手の「ためになる」のだ。

 以上のような理由から、私は「嫌い」が出てきにくいように歌会を主催した。(実際には「歌会は『嫌い』が出てきにくいほうがいいな」と思って主催して、あとからその理由を分析しているのだが。)



6.個人的な感想(願望含む)

 ここからは今回の騒動についての個人的な感想だが、私は騒動のどちら側の当事者とも(誰が当事者なのか完全にわかっているわけではないがおそらく)歌会をしたことがあり、その限りでは、そんなにいやな人たちじゃなかろうと思っている。(歌会以外でどうかは知らないが。)
 そのため、性善説にすぎるかもしれないが、隠れた対立要因として、思いやりをめぐるすれちがいが双方にあるのではないかと思っている。

・突然「好き嫌い」を語ることを全否定される人を守りたい
・歌会で自分の短歌が「嫌い」で全否定される人を守りたい

 こういう思いやりや正義感が、かえって過熱したひとつの要因ではないか。

尼崎武『新しい猫背の星』(書肆侃侃房)

僕にただひとつのものが正直なたましいならばいいなと思う

 まずこの冒頭の一首から無防備である。
 全然、具体的な何かがなくて、しかも最後が「いいなと思う」で、凄みなんか全然ない。
 これを冒頭に持ってくる信念に拍手を送りたい。
 歌集を「正直なたましい」で書くぞという宣言に見えた。

 この歌集には人を驚かせてやろうというけれんが乏しい。
 実際、この一首を引けば尼崎武の凄さがわかる、みたいな一首は選びにくい。
 ただ、読んでいると著者の正直さにふれて、安らいでいく感じがある。
 引きながら感想を述べていってみよう。


その顔はいつも笑顔でいるための練習をしているような顔

 いつも笑顔でいるための練習をしているのだから、笑顔に近い顔だとは思うのだが、しかし本当の笑顔ではないからこそ、練習をしているような顔とわかられてしまうのだろう。
 いつも笑顔でいようとするのは人のためであり自分のためであろうが、しかし練習をしてなる笑顔はかなしい。


俺いつも笑っているし知らぬ間に誰かを救えているんじゃないか

 考えてみると、笑っている人に救われるということはよくある。しかし、自分が笑っているからといって誰かを救っているということにはなかなか思い至らない。そして、誰かを救っているという想像はそれ自体が自分の救いになる。


まっさらな乙女心はヘッヘッヘッ練れば練るほど色が変わって

 尼崎武、ときにはいやらしい。練れば練るほど色が変わるのは駄菓子のねるねるねるねであろう。楽しんでいる比喩がこどもなのである。童心に帰って乙女心を楽しむ。こういうところが「子供みたい」と言われるゆえんである。言われているかどうかは知らない。


しあわせとあなたは言った 聞こえないふりでその場をしのいでみせた
しあわせになると心に決めること それから、それを実行すること
苦しみを認めてもいい しあわせの中でもわりとあることだから
だれだって淋しい それはしあわせをおいしく感じられるようにだ

「はしれ、しあわせもの」と題された連作から。
 しあわせという手垢のついた、しかし誰もが本当は向かい合うべき題材に、冒頭で宣言したとおり正直なたましいで立ち向かっている。
「それから、それを実行すること」。耳が痛い。


廃墟って検索したら5件目にうちの近所のマンションが出る

 近所のマンションが廃墟として取り沙汰されるのは妙な気持ちだが、考えてみると自分自身がその検索をして廃墟を知ろうとしているわけで、自業自得な感じもある。


ゴミ箱に使い終わった赤ちゃんがおなかにいますバッジを捨てる

 第二子が生まれる際の連作である。当たり前のことをしていて、しかもおめでたい場面だが、こういうシーンをキャッチする目が尼崎の一面だ。


殴られたような気がして振り向くと花火が見える ビルのすきまから

 オーソドックスな技法で作られたよい一首と思う。作者がとらえたとおりの順番で言葉がならび、それが読者に追体験をうながすのだ。

「最近は『本当に自分はそう思っているのかなあ』と思いながら推敲している。そんな話を今日会った人と少ししました。

 短歌というのは短くてたくさん作れて作る人自体も多くいます。それで、偶然の思いつきでいい短歌ができることもあると思います。

 僕はこの言い方で、偶然の傑作をけなすつもりはありません。むしろ、それは短歌を豊かにしてくれることだと思っています。連作という観点を抜きにするなら、まぐれを集めたアンソロジーに勝てるものはなかなかないでしょう。

 ただ、作る、という観点から言うと、だったら僕が短歌の世界に「良い短歌」で貢献しなくてもいいな、と思うのです。僕が頑張らなくても勝手にどんどん秀歌は増えてゆくでしょう。

 じゃあどんな短歌なら作る甲斐があるかな、と考えたときに、僕は「僕の短歌」をやっぱり作るべきなんだろうなと思います。それは必ずしも、プライベートを反映した短歌という意味ではありません。思いつきでも、エスエフでも、それが「僕の」短歌だなと思えればよいと思うのですが、このあたりさほど考えが固まっているわけではありません。

 ここまで読んでなるほどと思ってくれた人も多少いると思うのですが、この考え方はやや危うい側面があります。まぐれ短歌は作る甲斐がないという思いは、しばしば勧められる「多作多捨」という実践的方法と相性が悪いからです。

 たくさん詠みたいとか秀歌を詠みたいという思いがどうも僕には乏しいようです。僕の場合はだんだん作る数が減ってしまっても、詩という表現を別にキープしてあるのですが、短歌専門の人は作れなくて苦しくなってしまう考え方かもしれません。

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