目がでかい

詩人・中本速のブログです。

短歌と韻律の話。昨日、太田青磁さんと帰りの電車でその話をしたのだが、考えるところがあった。実は、この話題、私と太田さんは以前対立している。対立していても、対立したまま穏やかに話ができるのは、太田さんの人徳と言っていいであろう。

どういう対立があったのかというと、うろ覚えなのだが、私がむかし「サ行音が重なって~みたいな評はしたくないぜ! 韻律の評はゴミ」みたいな暴言を吐いたところ(誇張があります)、太田さんはやはり詩歌なので韻律は大切なのではないかと考えられ、やがてツイッターでもいろいろな短歌の韻律を検討するようになった。

しかし昨日会話をした結果として、音の性質で感じ方が変わるブーバ・キキ効果のようなものと、音数の問題とを分けて考えると、「何が対立しているのか」がわかりやすくなるかもしれないと思った。

 まず、「サ行音」の話についていうと、もちろんそれが一切の効果を生じないなどということはない。だから、あとはそれが「重要か重要でないか」である。作者にもよるし読者にもよる、という当たり前のことも言える。

 一方で、音数の問題になると、短歌に対する姿勢の違いが明確になる。音数の問題はおおむね破調の問題につながる。このとき、破調を「定型との差」で考えるかどうかに、太田さんと私の違いはあらわれる。

 たとえば、太田さんの文フリ発行物『青磁の器 第一号』においては、五島諭の「タイヤが外したくてふるえる」という下の句について、「ヘミオラ」という説明をしている。ヘミオラとは、音楽用語で、2小節をまとめてそれを3つの拍に分けることだそうだ。

 しかし私などは「2小節をまとめて」に「本当か?」と思ってしまうのである。それはあくまで短歌を五七五七七で無理やり読もうとしたときにのみ生じる効果であって、実際には「タイヤが・外したくて・ふるえる」の4・6・4のリズムは、単純に3つの拍なのではないか。

 この見方について、太田さんを支持する人が、短歌クラスタ内には多いであろうことは承知している。なぜなら、短歌クラスタの人は短歌が好きなので、五七五七七で読むことに慣れており、それとの「差」を察知して読むことに長けているからである。

 けれど、自分がもし短歌を読み慣れていなかったら、きっと「タイヤが外したくてふるえる」を一首独立で差し出されたら、音数に関しては「七七じゃないけど短歌なんだ、へえ」という感想になるだろう。仮に「いい言葉だね」と思ったとして、それは「3つの拍」ではあるが、「2小節をまとめて」の要素は入らないはずだ。

 私は、多くの人が日用品として使いこなす「言葉」で詩歌を作るとき、詩歌を知らない人にも届けることをこころざしとする。実際の読者の大半が詩歌の作者であったとしても、創作の理想として、そうする。だから、破調を「定型との差」で考えるのが嫌なのである。

 一方で、ミュージシャンズ・ミュージシャンであろうとする歌人もあるだろう。そういう道を志す人も、もちろんいていいのだが、短歌を詠んでいると「だんだんみなそうなりがち」な気がして、反発心を抱くのである。


(2018/5/13追記 この文章の内容に関してですが、書いた私自身が少し迷いを感じています。削除はしませんが、現在「自分の意見がよくわからなくなっている」とコメントしておきます)

 本多真弓『猫は踏まずに』は、本が物理的に妙な感じになっていて、カバーだと思って外そうとすると外れない。一首そこに書いてある。おまけというより、宣言のような一首だ。

 平明なことばはつばさ おほぞらを翔けてみしらぬきみのまなこへ


 パトラッシュが百匹いたら百匹につかれたよつていひたい気分

 百回も言ったらそっちのほうが大変じゃないかとも思うが、作者にとってはそういう問題ではないのである。疲れるとはただ体力を使うということだけではないのだ。

 わたくしが働かなくていいところ宇宙のどこかにないかなあ ない

 ない。困ったことに、宇宙の何処かに逃げたとしても、「そこで」働かなくてはならないだろう。それがわかっているからこそ、いまここで働いている。

 はじまりに光があってさよならはいつもちひさく照らされてゐた

 いつも照らされていたから、さよならはずっとそこにあったのだ。小さくとも。
 そのことが、さよならのときにわかるから、「ゐた」と過去形なのである。

 あいてゐるグラスはおさげいたします からのこころはからつぽのまま

 グラスは空っぽになれば持ち去ってくれるが、からっぽのこころは空っぽと気づかれず、置かれっぱなしで、自分でどうにかしなくてはならないのだ。

 明滅をしない螢になりました気づかずにゆきすぎてください

 蛍と言えば、光るもの。私たちはそう思い込んでいるから、光らない蛍のことには気付かない。こういう、気づかれないものとしての自分へのまなざしが、この歌集にはある。

 文庫本を電車で読んでゐる僕は近過去からのタイムトラベラー

 これもまた、気づかれない人だ。遠い未来からのタイムトラベラーに人はわくわくする。近未来からならば、質問する。古代人には本当の歴史を教えてもらい、いまを相対化してもらうだろう。
 だが近過去からのタイムトラベラーには用がない。時間旅行者は、普通の人のように文庫本を電車で読んでいるのである。スマホを見ていないのは、まだスマホがない時代からやってきたのかもしれない。

 ほんたうのことを教へてあげようかわたしの穴はもう閉じている

 閉経であろうか。この歌集には「産まない」というモチーフもあらわれる。いよいよそれが永続化するときがくる。

 「カップルかファミリー以外この橋をわたるべからず」泳いでゆくよ

 カップルとファミリーにのみゆるされた橋を、それをくつがえして渡ろうとするのではなく、だが取り残されることをよしとせず、泳いでゆくというのである。
 それは橋を渡るより大変かもしれず、しかし力強い。

 石井僚一とは歌会で二度かな? 会ったことがあり、以前こう書いたことがある。

「短歌は短歌なんだからできるだけ破調はしたくない」という僕に「まったくそうです、正しい」と同意してくれる石井僚一さんですが、同意しておいて破調してくる、そういう歌人です


 歌集『死ぬほど好きだから死なねーよ』も破調がてんこ盛りで読むのが大変だった。あと、難しかった。

 難しかったが、好きなところもあって、そういう短歌をひろっていくと、石井僚一のある特徴が見えてくる。

 ふつうの歌集だと、「自分」に重きが置かれているのが、「相手」に重きをおいているように思えた。これは、「他人」ということでもあるが、あらかじめ強く誰かを思っていて、そのことが短歌に現れているようなきがするので「相手」とやはり言いたい。

 誰かのことを描いて自分がそれに持った感想を描くのでなく、もっとストレートに誰かに向けて書かれているそんな感じがする短歌たちだ。
 短歌の世界には「作中主体」という用語があるが、作中客体とでもいおうか、それくらい「相手」に存在感がある。

  手を振ればお別れだからめっちゃ振る 死ぬほど好きだから死なねえよ

 手を振るとお別れだからという悲しい流れから「めっちゃ振る」ということの相手への伝えたさが強い。その逆さまの理屈が、「死ぬほど好きだから死なねえよ」を活かすのだ。

  生きているだけで三万五千ポイント!!!!!!!!!笑うと倍!!!!!!!!!!

 この短歌はポイントをもらう側じゃなくてくれる側の短歌だ。生きさせて、しかも笑わせようとしてくる。

  今すぐにきみに会いたいそしてそのインフルエンザをぼくにください
  鍋を食うきみはとってもかわいいな鍋を食って鍋よりもかわいい

 「きみ」に対するその愛情がまぶしいのだが、そのまぶしさは石井の心にあるのではなく「相手」とそれを観る石井の視線に属している感じがする。

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