それってやっぱりスバラシイww

善徳女王の真実
善徳女王の真実
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普段こむずかしい本にかじりついて脳みそふりしぼって読んでる身としては、まことに有り難い本です。いつもは参考図書の中身を探り出し抜き出し、て作業がつきものなので。

つまり古代についての本だったら「新羅」を抜き出し、その中から「統一新羅でない三国時代の新羅」を抜き出し、さらには善徳女王の時代以前を拾い読み、てなことをやってますと、この本が(ミシルにまるまる割かれてる章もあるとはいえ)最初から最後まで善徳女王について、しかもその業績を見直すという目的をもって書かれているってなんて素敵なんだ・・・!!と思わずにいられません(笑)。

そして寺の建立と、その付近に市場を設置することで経済効果をあげた、てとこは面白かったですね〜!もし女王時代にもうちょっと話数がとれて、善徳女王がどんな治世を行ったかが描かれれば、このへんを基にして、また生き生きとソロバンをはじく商魂トンマンを見ることが出来たのではないかと。


以下、管理人割と吠えております。しかもしつこく。 万事和やかにいこうじゃないか、という方はここまででリターンをおすすめしますw

 



が、しかし。しかしですよ。

・訳者のあとがきはやはりどうかと思うw

以下の部分、mukugeさんも引用されているのでダブりますが、抜粋。訳された権妍秀(クォンヨンス)女史が書いたドラマの善徳女王についての部分。まず一つ目。

(善徳女王は)「素性を隠し郎徒となり庾信(ユシン)と毗曇(ピダム)という二人の男性の間で揺れ動く女性として描かれる。」

これだとトンマンの郎徒時代が成均館○キャンダルみたいなもののように思われやしないかと。「気になるアイツに女だってバレちゃった!?そしてまさか、コイツも私のことを・・・?なハラハラ☆ドキドキ」なんての、ドラマ善徳には皆無なんですけど。

仮に、郎徒となり、で一旦文章きって、その後の時代に二人の間で揺れ動いてた女性だったという文意で書いているのだとしましょう。それっていつの時代の話なんでしょうか?ユシンが相手役だった時代は郎徒時代、それもその終わりのほんの短い間で、ピダムも出てきてはいたものの、その頃トンマンとの間に恋愛色はありませんでした。

一方トンマンがピダムに女としての目を意識的に向けたのは女王時代で、それもまず「王としての結婚」、あくまで国の利益込みの話でした。そして王となってからはユシンとの恋愛色はありませんでした。想いの残滓のようなものはあっても。つまり時代がかぶってないので、トンマンが二人の間で揺れ動いた女性だったのって、いつの事を指しているのか分かりません。

で、二つ目。

「美室が自決をもって退くまで、ドラマはまさに「美室物語」の様相を呈していた。ドラマの中の善徳女王は、芯の強さはあっても王としての威厳に欠け、その存在感は始終美室に圧倒されていた。」 

トンマンが王であった時代、ミシルは死んじゃってもういない訳ですが、「王としての威厳に欠けミシルに終始圧倒されていた。」て、どう解釈すればいいのやら。ミシルと対峙した王女時代にトンマンがミシルにやられっぱなしだったとおっしゃりたいのだとすると、まず王女の身分を取り戻すのに、ミシルをもだましきった日食事件は訳者の中でどう扱われているのでしょうか。そしてその後、敵対するそのミシルからも貪欲に学びつつ、じわじわとミシルに追いついていく、その過程を一体どう捉えていらっしゃるのか・・・。

ミシルと対峙していた王女時代からトンマンがミシルを圧倒していたら、その方が変です。王宮で育ってもいない女性が、自分の生まれを知り王になる決意をしたとたん、いきなりカリスマを発し、これまでの時代の主、王宮を仕切ってきた老獪な政治家、ミシルを押さえつけるほどの存在感をみせ常にミシルを上回り、打ち勝つ。・・・て一体どんなご都合主義ドラマですかw

王になってからのトンマンをミシルと比較してカリスマが不足していたというなら、それは見る人それぞれですが、私はドラマについて、最近ではこう思ってます。ミシルは己の欲するままに生き、その延長で玉座を目指した訳ですから、死ぬその日まで(周囲への自己演出も含め)やりたいようにやった人。トンマンは王としての責任と義務を第一にし私情を一切封印してしまった人であり、また敵対勢力をも懐におさめようとした「受け容れる人」で、同じ女性リーダーとはいえミシルとは異なるタイプ。自分からガンガンカリスマを発してる王だと、ドラマが描いたトンマンのキャラとは齟齬が生じるのではないか、と。


さて訳者の略歴を参照するとFM福岡で仕事されていた事もあるそうで。多数の人に情報を発するメディアに身を置いた事もある方に、ドラマそのものや、ドラマのトンマンに魅力を感じた上でこの本を手にとった人がいて、このあとがきを読んでどう思うかを想像する事や配慮する事を要求するのはさて、行き過ぎなのでしょうか。この本が今この時期に日本で出版されることで、ドラマ善徳女王を見た人が読む事を、訳者が想定していなかったはずはないですし。


むしろ引用部分では、ドラマを見た人へのメッセージとして、為政者として善徳女王を再評価しようとの意志をもってこの本を書いた作者の立場に身を置き、歴史上も、現代における学者からも善徳女王は正当な評価をされていない上に、さらにはドラマでさえも真実の善徳女王は置き去りで、ドラマのトンマンを「真の主人公にはなれなかった」と判定しているのではないかと。この部分はドラマ批評ですよね?「善徳女王をちゃんと主人公として書いていない」という。

が、その判定は、固定観念に縛られたまま主流の評価と同じ判断を下す、つぶさに見もしないで表面的な評価を下すという点で、女性であるからと歴史上の善徳女王を軽んじた後世の人々の判断とどこが違うのか?と問いたくなります。

何もドラマ視聴者がドラマに描かれるものを全て「当時はこうだったんだ」と鵜呑みにしている訳もないですし、ドラマがきっかけで善徳女王や新羅にも興味を持ったというなら、この本はその人々を歴史上の善徳女王への関心をいざなう受け皿の役目を担うはず。が、このあとがきはドラマのトンマンが好きだという人をガッカリさせます。

ドラマに対し愛情がないなら、個人的なネガティブ評価は避けてほしい。それがドラマに愛着、愛情を持つ人への配慮なのでは。どうしても自分のドラマ感想を言いたければ、ブログとかツィッターで言えばいいと思います。お金を払ってこの本を手にとる人に個人的な感想を聞かせること、ないじゃないですか。ま、私は払わずに読みましたがv(というか、この本を買うことは、イコールこのあとがきをも手元に置くことにもなるので避けたい、というのも買わない理由の一つです)

この方が時間と労力を費やして訳してくれたおかげで、この本を手に取り読むことが出来る訳ですから、出来る事なら訳した方の物言いに反感を抱きたくはなかったです。それならいっそ、ドラマについて思うところがあっても触れないでいてくれたらなーと、思わずにいられませんでした。


・年表つけてほしい。

という訳で、まるまる善徳女王なこの本の(私の)読後感を台無しにしてくれる訳者あとがきは1Pですませるかいっそなくして、日本版は「この本にもとづいたトンマンの生涯」年表をつけてほしいですw

花郎世記をもとにトンマンが王になるまで、そして王となり生涯を終えるまで、のエピソードを追っていますので、その部分は日本の読者にとって貴重な資料です。が、この本では時系列がはっきりしなかったり話が前後したり、同じ話が繰り返されたりで一貫した流れが見えにくい。韓国の方は興味があれば自分で「花郎世記」を参照すればいいですが「完訳 花郎世記」なんて本が日本で出版されない以上、日本の読者はこれしか頼るべき素材がない。なのでぜひ、この本の説に基づく年表をつけてほしかったですね〜。


・いまいち、著者の検証に説得力が・・・

著者の善徳女王の業績を見直そう、という心意気には心の底から共感いたします。が、どうもこの方霊媒体質というか(善徳女王の墳墓の前で何やら霊気を感じたとかいうような事を書いていた気がする)、善徳女王は正当に評価されてない!私がそれをなんとかしなければ!との使命感に駆られるあまりなのか、その主張の根拠となるデータの扱いにおいて、客観性や視点の幅にやや欠ける・・・気がするんですけど。あと注釈がないので、どこまでが文献に記載の表現で、どこからが著者の解釈なのかが時々判別つきません・・・。


以上、ねちっこいいちゃもんにお付き合い戴き有難うございましたv次回(次回!?)、著者の主張の根拠っていったい・・・な個人的ないちゃもんが続きますv う〜む我ながらしつこいw