業界のカタスミで細々と~涙のサンダーロード

大事なものは家庭とゴルフ。出身地福岡LOVEが強い団塊世代の日記です。世田谷区在。”誰も相談に来ない”音楽コンサルタント。個人事業主屋号はTHUNDER ROAD。音楽業界50年。特にレコード会社若き現場時代は洋楽黄金の80年代。洋楽以外も、音楽出版。名古屋営業所長。国内新人発掘育成。国内アーティストマネージメントなど経験。業界の片隅で今だ細々と粘っているオッサンのボケ防止を兼ねた音楽業界人生の整理と復習ブログ。想い出は美しく記憶は嘘つき。基本テーマは仕事で関わった洋楽昔話ネタとたまにゴルフ話と日常案件。好きなものはブルース・スプリングスティーン。幕末と明治維新。ジョン万次郎と坂本龍馬。忠臣蔵。秀吉信長の時代。スターウォーズとマーヴェルコミック。キャプテンアメリカ&アヴェンジャーズ大好き。特にブラック・ウィドウがお気に入り。    

steveスティーヴ・ポポヴィッチはCBSレコーズのクリーブランドで倉庫管理担当から出世し、当時の社長、クライブ・デイビスのヒキで最年少でコロムビア・レコードのプロモーション担当VP(副社長)に抜擢され後にA&R部門にも在籍。

そして、EPICレーベルのA&Rの責任者、そして1977年にはEPIC内に彼のレーベル、クリーブランド・インターナショナル・レコードを設立。こういうキャリアですから、コロムビアレーベルやEPICのほとんどのアーティストに携わっており、EPICではA&Rのトップですから、アーティストを契約するとか、しないとか、レコーディング制作予算をいくらにするなど、最終的な決定権を持っていたのです。ちなみに彼は残念ながら2011年に69歳で亡くなってます。

私達CBSソニー洋楽部隊のUS窓口としてCBS RECORDS INTERNATIONAL(CRI)という、北米以外の国々に対して、情報サービスを行う組織が絶対的ものとして存在していました。

NY出張の際、CBSビル内では、このCRIにしか足踏み入れる事できず、この組織以外の部署を訪ねる事はご法度、というアホみたいな不文律があったので、私もポポヴィッチさんの名前は耳にしたことはありましたが、名刺交換することも話する事も全くなかったです。

こちらとしては、アメリカ国内でのヒット作りに汗流している当事者達と会って色々話してみたい、というのが長年の夢だったのですが、これはSONYがCBSレコーズを買収して新しい体制が動き出す90年代に入るまで、完全にお預けでした。

download彼の立身出世物語はアメリカ音楽業界でも有名なストーリィです。

因みに、彼が興したこのクリーブランドINT'Lレーベルの最大ヒットは1977年ミートローフの"/BAT OUT OF HELL/地獄のロックライダー”です。このアルバムは累計で4000万枚近く売れており、アメリカ音楽産業歴代のベストセリング・アルバムの上位に位置しています。
日本では発売すらしてなかったらしく、NYからのプレッシャーで後追いで、イヤイヤ発売しています。結果、当然ですが、かすりもしなかったですね。

そして、彼はスプリングスティーンの盟友でありジャージーショアの仲間達である、スティーブ・ヴァンザントとサウス・サイドジョニー&アズベリー・ジュークス、そしてロニー・スペクターに大きく関わっているのです。そういうヒトとヒトの繋がりで出来上がった企画のお話です。ビリーとスプリングスティーンの番外編で二人のスティーヴ物語を数回アップ予定です。

WMMS_Presents_Southside_Johnny_-_1976_print_adサウスサイド・ジョニーとアズベリージュークスの由来は、ちょっとややこしいので簡単に。ジャージーショア仲間のサウスサイド・ジョニーとスティーブ・ヴァンザントが中心となって地元ミュージシャン集めて、ジュークスとしてストーンポニーのハウスバンドであったり、そもそもメンバーも幾つかのバンドを掛け持ちしたりとごちゃごちゃやっていました。

なにせ誰かがはいっては誰かがやめるなどで、離合集散を繰り返しているうちに、結果、スティーヴはスプリングスティーンのEストリートバンドにはいる事になったものの、彼は引き続きジュークスのジョニーと共に共同プロデユーサーでありマネージャーでもあったので、彼等とは色濃く変わらない関係が続いてました。

ヴァンザンドが旧知のCBSレコーズのスティーブ・ポポヴィチにアズベリー・ジュークスを売りこみ、EPICの予算でNYレコード・プラントでデモ録音する機会をつくってくれました。そうです。スプリングスティーンが”明日なき暴走”レコーディングにあたり、ジョン・ランダウのアドバイスもあり移ってきたスタジオです。

エンジニアはジミー・アイオヴィンという若者でしたが、”明日暴”制作を通じてスティーヴとは知り合いになってます。彼は後に業界の大物プロデユーサー、レーベル・オーナー(インタースコープ)と大出世していくのですが、キャリアの最初はスタジオのアシスタント・エンジニアでした。彼もまた、この物語でちょくちょく顔出すキーパーソンの一人です。

2L-09569そしてデモ録音を気に入りポポヴィッチはジュークスと契約。1976年1月から3月にかけてレコーディングしていますが、スタジオはもちろん、そのままレコード・プラントでエンジニアはジミー・アイオヴィン。
これはEPICからアルバムタイトル、”I DON'T WANT TO GO HOME”で1976年6月発売。(当時は日本未発売。日本デビューは2ndアルバムです)ジャージー仲間のデビューですからスプリングスティーンも、そのお祝いとして楽曲"THE FEVER"と"YOU MEAN SO MUCH TO ME"の2曲提供しています。

スティーヴ・ヴァントは楽曲提供もしているし、なによりアルバムのプロデユーサーであり、バンドの共同リーダーです。調べてみました。
時系列の整合性とれてます。スプリングスティーンのBORN TO RUNファースト・レグが終了したのが、1975年12月末。そして次のCHIKEN SCRATCH TOURが始まったのが1976年3月25日。この間、Eストリートバンドはお休みですが、ヴァンザントは、大忙しです。

そして、このレコーディング中に、一つの出来事が起きたのです。









日本洋楽のマーケティングヒストリーを残したいという気持ちもあり、先輩達が元気でまだ記憶残っているうちに、ま、呆け始まる前にですが、(笑)当時の事を取材しておこう、と思い立ち、なによりまずはスプリングスティーンの初代担当の柳生さんに会ってきました。

私にとってはスプリングスティーンに興味をもたせてくれた、あの校正ミス”春青の叫び”の恩人でございます。柳生さんは1970年中途入社。創業1.5期という、ほぼ創業メンバー。1976年には日本コロムビアへ転職。ABCダンヒル・レーベル担当で同時に国内制作業務もやられています。私より三歳年長の優しい先輩です。16,17年振りぐらいにお会いしました。

downloaddownload当時はアルバムの編成マンとは別にシングル盤の編成権をもつシングル・ディレクター(SG)という職務がありました。柳生さんもキャリアの初期はその編成マンとしてサンタナ”ブラック・マジック・ウーマン”やポール・サイモン”母と子の絆”などのシングルに邦題を付けを発売していたとのこと。アルバムとシングルの編成マンの役割は結構ゴチャゴチャになってくるのですが、ここでは省略します。

imagesdownload柳生さんのスプリングスティーン以外の担当では、私的にも一番はロギンス&メッシーナですね。学生時代からPOCOのジム・メッシーナが好きで、その流れでロギメに入っていくのですが、毎アルバム買ってましたね。それから数年後に自分がスプリングスティーンだけでなく、ケニー・ロギンスも担当しているわけですから、柳生さんの案件に何かと縁ができてました。

で、スプリングスティーンに戻ります。1973年にアメリカからデビューのGREETINGS FROM ASBURY PARK,NJは届いていたものの、まずはアメリカでのヒットチャートも動きなし。シングル盤として発売できそうなものもない。柳生さん以外のロック系のディレクターがアルバム聴いて、これはいいから発売しよう、とすることはできたのですが、それもなし。ということでそのまま倉庫に埋没。

ダウンロード年明け,セカンドアルバムが(アメリカ発売後に)届きました。海外での評価情報もあり、柳生さんは、これは凄いぞ、とその才能に確信。1月の編成会議に上程し、1974年3月21日に発売決定。

これがあの”春青の叫び”の校正ミスものですが、発売直前のサンプル盤納品でミスが発覚。帯の差し替えで結局3月の発売が4月になったのか、2月だったものが3月になったのかは、不明です。品番はSOPL-239。そして当時の受注原稿にはこう書かれていました。

IMG_1156邦題はまだ未定っぽく、”驚異の天才、ブルース・スプリングスティーン”。”74年、とてつもない超大物の登場!未知のヴェールに包まれたディラン、ビートルズに続く驚異の天才スターと騒がれている、スーパー・ファンキー・ロックンローラー、ブルース・スプリングスティーンの壮絶アルバム。遂に発売。人呼んで音楽界のヴァレンス・ジャック。“と。

上の写真は発売時の宣伝資料です。ファンクラブのYさんにコピー頂きました。当時の貴重な資料です。1974年当時のものを入手されています。ありがとございます。

unnamedそして1974年7月夏休みを利用してアメリカに遊びに行き、いよいよ生のブルース・スプリングスティーンのライブ観戦です。LAサンタモニカ・シヴィック・オ―ディトリアムでDR.JOHNのオープニング(ダブル・ビリングでこの日は彼がオープニングをやったという記述もあります)を初体験。

プレイ時間は45分ほど。この頃既に一部のファンの中では熱狂的に受け入れられており、パーフォマンスのエキサイティングさは、ものすごいものがあった、と。選曲的には””青春の叫び”ツアーですから、ほとんどが、このアルバムから。実際、大盛り上がりで、彼のライブが終わったら、観客の大半が帰ったらしく、DR.JOHNがやる時には、前半分ぐらいしかオ―ディエンスが残ってなかったらしいです。これ、DR.JOHN辛いです。

imagesそして続けて、春青から三か月後の7月には、日本ではセカンドとして、本国よりずっと遅ればせながらデビュー・アルバムが発売されています。(1974年7月21日 SOPL-248)。

実はポイントはこの邦題です。私も、”アズベリー・パークからの挨拶状”だったのではないか、とずっと気になってました。絶対、挨拶状なのよ。名付けた柳生さん本人も、”最初は挨拶状だったんだけどね”と。実際、オマケにグリーティングカードが付いていたこともあり、挨拶状にした、と。

572506292.4そしてネットに転がっている中古アルバムの帯にバッチリ発見です。確認できました。後のアーティスト担当者が再発時に”状“をとっぱらったのか、うっかりミスでそうなったのか定かではありませんが、紛れもなく最初は”挨拶状“でした。
このテのミスはやってしまいそうです。いつからこうなったのか、こういう調べものは、やる気が出ます。今週、二代目担当者に会うので訊いておきます。覚えてるわけないでしょうが、、。こういうのも発見しました。当時の総合目録(商品カタログ)にもばっちり邦題が書かれています。”挨拶状”です。(左下)

unnamedこの目録(元原稿は受注用資料)のコメント欄にはこう書かれていました。”今や、全米で最大の注目を集めている恐るべきブルース・スプリングスティーン、遂に登場! このアルバムで、ディラン、ザ・バンド、ヴァン・モリソンへの借りを遠くへ一蹴してしまったのだ。”

借りは返したけど、取りに行けないくらいに、やたら遠くへ蹴飛ばして返したのですね。それって、、、。  

振り返ると1977年はビリー・ジョエルとブルース・スプリングスティーン、二人にとってある意味、再出発の年だったのかもしれません。

downloadスプリグスティーンの裁判は、もっと長引く様子を呈していましたが、1977年5月28日、突然に和解成立したのです。実はスプリングスティーンとしての、一番の目標だったことは、初期3枚の自分の楽曲の著作権の奪還でしたが、これに関しては、権利の一部はマイク側に残っていましたが、大半は取り戻す事ができたのです。

もっとも、その和解の代償としてマイクに対して示談金(為替ありラフですが、約1億円?CBSが肩代わりか、、)を支払っていますが、何と言っても、彼との契約を100%破棄できたことで、完全なる自由を手にしたのです。これは彼にとっては何よりのものだったはずです。

そして、この6年後の1983年、マイクは金策の為、楽曲の残りの権利を全てスプリングスティーンに売り渡しています。(こちらは約5000万円?)これによって、スプリングスティーンは自分の全楽曲の著作権を自分自身で所有するという稀有なアーティスト(作家)になっています。マイクも、もう1年待っていれば、モンスターアルバムが発表されて、旧譜もバカ売れ。億万長者になれたのに、ってか。

裁判闘争は経験しましたが、スプリングスティーンは今でもマイクの事を自分をメジャーに導いてくれた恩人であるということは忘れてはいません。私も1985年初来日の会食時に、そういうマイクへの思いを本人から直接聴きました。余計な詮索ですが、この裁判は、マイクVSジョン・ランダウの戦い、こちらが裏の本戦だったかもです。

因みに、マイクはメジャー各社にスプリングスティーンを売りこむ際に、こういう言葉を使ってました。これには大共感です。”売れるとか売れないとかではなく、彼は宗教なんだ!”。彼自身が信者第一号でしたし、私も、彼の音楽(教義?)で40年前の人々と今でも繋がってます。

オマケ話です。この裁判以降、アーティスト契約時には、通称ブルース・スプリングスティーン条項という特記事項ができています。彼の契約はマイクのマネージメント&制作会社ローレル・キャニオン(LC)とだけのもの。このLCとCBSとの契約でした。こういう制作会社とレーベルの契約下において、制作会社とアーティストがトラブッた場合に、レーベル側は(契約的にはアーティストは制作会社の向こう側にいるのでノータッチ状態だが)アーティストと話はできるし、状況によっては直接的に契約もできる、という事項です。

そして和解の数日後には、ジョン・ランダウとスタジオにはいり、ために貯めたストレスとエネルギーを爆発させています。(新譜として”闇に吠える街/DARKNESS ON THE EDGE OF TOWN”翌年6月に発売。)

ダウンロード (2)そして片やビリー・ジョエルですが、彼もTURNSTILES TOURツアーを1977年6月に終えて、やっと巡り合えたフィル・ラモーンをプロデューサーに迎え、7月にはNY52番街にある彼のA&Rスタジオでレコーディングにはいっています。

この4年後にビリー夫婦は離婚しましたが、妻エリザベスのマネージャーとしての最高の仕事と言われているのが、フィル・ラモーンをビリーに紹介した事、と揶揄されています。彼等は8月までのわずか3週間でアルバムを完成させ、アッと言う間に、傑作を生みだしていますが、いかにレコーディングがビリーにとって楽しくてエキサイティングなものだったか理解できます。

downloadこのアルバム”ストレンジャー”は1977年9月末にアメリカ発売。日本では1978年1月21日発売でしたが、なにせCBSソニー社内的にもビリーのそれまでの実績はほぼゼロ。とは言え、担当者は私の1年先輩のOのさんに替わっていた事もあり、しかもこの前にバーブラ・ストラザンドが”ニューヨークの想い”をカバーしていた事で、彼はビリーには注目。この後、アメリカから届いた”ストレンジャー”のサンプル盤聴いて、”これは売れる”と確信し、翌年1月発売を目指して11月の編成会議にかけた、という経緯がありました。

downloadビリーはUS発売同時に”ストレンジャー”ツアーに出発し9月末から12月中旬最終地の地元ナッソー・コロシアムまで、3か月間びっちりライブの連夜。ファースト・シングルのMOVIN OUTはTOP40にもはいらずでしたが、11月に発売されたセカンド・シングルの”素顔のままで/JUST THE WAY YOU ARE”で運命が変わりました。日本でアルバム発売の1月には、アメリカで右肩上がりで大ヒットに向かっていました。これが全てのスタートです。

このアルバムの大成功物語を、あらためて語るつもりはありませんが、結果1000万枚以上のセールスを記録し、それまでのコロムビア・レーベルのベスト・セリング・アルバムだったサイモン&ガーファンクルの”明日に架ける橋”を抜いて、レーベルの新記録となったのです。ビリー・ジョエル、おめでとう!

downloadこれには続きがあります。この”ストレンジャー”の記録を抜いたのが、なんと1984年スプリングスティーンのBORN IN THE USAです。アメリカで1800万枚とも2000万枚とも言われてます。

CBS同期2人の抜きつ抜かれつ競争とも言えますが、初期の契約トラブル、著作権問題、プロデユーサー問題、マネージャーに騙され訴訟。ビリーの大型裁判は90年代にはいってからですが、時期はそれぞれずれてますが二人とも同じようなトラブルに巻き込まれています。面白いですね。
ま、そういう色々あるアーティスト人生の中で、今日まで続いてきた切っ掛けになった再出発の年がこの1977年だったのではないかと思います。




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