スティーヴ・ポポヴィッチはCBSレコーズのクリーブランドで倉庫管理担当から出世し、当時の社長、クライブ・デイビスのヒキで最年少でコロムビア・レコードのプロモーション担当VP(副社長)に抜擢され後にA&R部門にも在籍。
そして、EPICレーベルのA&Rの責任者、そして1977年にはEPIC内に彼のレーベル、クリーブランド・インターナショナル・レコードを設立。こういうキャリアですから、コロムビアレーベルやEPICのほとんどのアーティストに携わっており、EPICではA&Rのトップですから、アーティストを契約するとか、しないとか、レコーディング制作予算をいくらにするなど、最終的な決定権を持っていたのです。ちなみに彼は残念ながら2011年に69歳で亡くなってます。
私達CBSソニー洋楽部隊のUS窓口としてCBS RECORDS INTERNATIONAL(CRI)という、北米以外の国々に対して、情報サービスを行う組織が絶対的ものとして存在していました。
NY出張の際、CBSビル内では、このCRIにしか足踏み入れる事できず、この組織以外の部署を訪ねる事はご法度、というアホみたいな不文律があったので、私もポポヴィッチさんの名前は耳にしたことはありましたが、名刺交換することも話する事も全くなかったです。
こちらとしては、アメリカ国内でのヒット作りに汗流している当事者達と会って色々話してみたい、というのが長年の夢だったのですが、これはSONYがCBSレコーズを買収して新しい体制が動き出す90年代に入るまで、完全にお預けでした。
彼の立身出世物語はアメリカ音楽業界でも有名なストーリィです。
因みに、彼が興したこのクリーブランドINT'Lレーベルの最大ヒットは1977年ミートローフの"/BAT OUT OF HELL/地獄のロックライダー”です。このアルバムは累計で4000万枚近く売れており、アメリカ音楽産業歴代のベストセリング・アルバムの上位に位置しています。
日本では発売すらしてなかったらしく、NYからのプレッシャーで後追いで、イヤイヤ発売しています。結果、当然ですが、かすりもしなかったですね。
そして、彼はスプリングスティーンの盟友でありジャージーショアの仲間達である、スティーブ・ヴァンザントとサウス・サイドジョニー&アズベリー・ジュークス、そしてロニー・スペクターに大きく関わっているのです。そういうヒトとヒトの繋がりで出来上がった企画のお話です。ビリーとスプリングスティーンの番外編で二人のスティーヴ物語を数回アップ予定です。
サウスサイド・ジョニーとアズベリージュークスの由来は、ちょっとややこしいので簡単に。ジャージーショア仲間のサウスサイド・ジョニーとスティーブ・ヴァンザントが中心となって地元ミュージシャン集めて、ジュークスとしてストーンポニーのハウスバンドであったり、そもそもメンバーも幾つかのバンドを掛け持ちしたりとごちゃごちゃやっていました。
なにせ誰かがはいっては誰かがやめるなどで、離合集散を繰り返しているうちに、結果、スティーヴはスプリングスティーンのEストリートバンドにはいる事になったものの、彼は引き続きジュークスのジョニーと共に共同プロデユーサーでありマネージャーでもあったので、彼等とは色濃く変わらない関係が続いてました。
ヴァンザンドが旧知のCBSレコーズのスティーブ・ポポヴィチにアズベリー・ジュークスを売りこみ、EPICの予算でNYレコード・プラントでデモ録音する機会をつくってくれました。そうです。スプリングスティーンが”明日なき暴走”レコーディングにあたり、ジョン・ランダウのアドバイスもあり移ってきたスタジオです。
エンジニアはジミー・アイオヴィンという若者でしたが、”明日暴”制作を通じてスティーヴとは知り合いになってます。彼は後に業界の大物プロデユーサー、レーベル・オーナー(インタースコープ)と大出世していくのですが、キャリアの最初はスタジオのアシスタント・エンジニアでした。彼もまた、この物語でちょくちょく顔出すキーパーソンの一人です。
そしてデモ録音を気に入りポポヴィッチはジュークスと契約。1976年1月から3月にかけてレコーディングしていますが、スタジオはもちろん、そのままレコード・プラントでエンジニアはジミー・アイオヴィン。
これはEPICからアルバムタイトル、”I DON'T WANT TO GO HOME”で1976年6月発売。(当時は日本未発売。日本デビューは2ndアルバムです)ジャージー仲間のデビューですからスプリングスティーンも、そのお祝いとして楽曲"THE FEVER"と"YOU MEAN SO MUCH TO ME"の2曲提供しています。
スティーヴ・ヴァントは楽曲提供もしているし、なによりアルバムのプロデユーサーであり、バンドの共同リーダーです。調べてみました。
時系列の整合性とれてます。スプリングスティーンのBORN TO RUNファースト・レグが終了したのが、1975年12月末。そして次のCHIKEN SCRATCH TOURが始まったのが1976年3月25日。この間、Eストリートバンドはお休みですが、ヴァンザントは、大忙しです。
そして、このレコーディング中に、一つの出来事が起きたのです。
そして、EPICレーベルのA&Rの責任者、そして1977年にはEPIC内に彼のレーベル、クリーブランド・インターナショナル・レコードを設立。こういうキャリアですから、コロムビアレーベルやEPICのほとんどのアーティストに携わっており、EPICではA&Rのトップですから、アーティストを契約するとか、しないとか、レコーディング制作予算をいくらにするなど、最終的な決定権を持っていたのです。ちなみに彼は残念ながら2011年に69歳で亡くなってます。
私達CBSソニー洋楽部隊のUS窓口としてCBS RECORDS INTERNATIONAL(CRI)という、北米以外の国々に対して、情報サービスを行う組織が絶対的ものとして存在していました。
NY出張の際、CBSビル内では、このCRIにしか足踏み入れる事できず、この組織以外の部署を訪ねる事はご法度、というアホみたいな不文律があったので、私もポポヴィッチさんの名前は耳にしたことはありましたが、名刺交換することも話する事も全くなかったです。
こちらとしては、アメリカ国内でのヒット作りに汗流している当事者達と会って色々話してみたい、というのが長年の夢だったのですが、これはSONYがCBSレコーズを買収して新しい体制が動き出す90年代に入るまで、完全にお預けでした。
彼の立身出世物語はアメリカ音楽業界でも有名なストーリィです。
因みに、彼が興したこのクリーブランドINT'Lレーベルの最大ヒットは1977年ミートローフの"/BAT OUT OF HELL/地獄のロックライダー”です。このアルバムは累計で4000万枚近く売れており、アメリカ音楽産業歴代のベストセリング・アルバムの上位に位置しています。
日本では発売すらしてなかったらしく、NYからのプレッシャーで後追いで、イヤイヤ発売しています。結果、当然ですが、かすりもしなかったですね。
そして、彼はスプリングスティーンの盟友でありジャージーショアの仲間達である、スティーブ・ヴァンザントとサウス・サイドジョニー&アズベリー・ジュークス、そしてロニー・スペクターに大きく関わっているのです。そういうヒトとヒトの繋がりで出来上がった企画のお話です。ビリーとスプリングスティーンの番外編で二人のスティーヴ物語を数回アップ予定です。
サウスサイド・ジョニーとアズベリージュークスの由来は、ちょっとややこしいので簡単に。ジャージーショア仲間のサウスサイド・ジョニーとスティーブ・ヴァンザントが中心となって地元ミュージシャン集めて、ジュークスとしてストーンポニーのハウスバンドであったり、そもそもメンバーも幾つかのバンドを掛け持ちしたりとごちゃごちゃやっていました。
なにせ誰かがはいっては誰かがやめるなどで、離合集散を繰り返しているうちに、結果、スティーヴはスプリングスティーンのEストリートバンドにはいる事になったものの、彼は引き続きジュークスのジョニーと共に共同プロデユーサーでありマネージャーでもあったので、彼等とは色濃く変わらない関係が続いてました。
ヴァンザンドが旧知のCBSレコーズのスティーブ・ポポヴィチにアズベリー・ジュークスを売りこみ、EPICの予算でNYレコード・プラントでデモ録音する機会をつくってくれました。そうです。スプリングスティーンが”明日なき暴走”レコーディングにあたり、ジョン・ランダウのアドバイスもあり移ってきたスタジオです。
エンジニアはジミー・アイオヴィンという若者でしたが、”明日暴”制作を通じてスティーヴとは知り合いになってます。彼は後に業界の大物プロデユーサー、レーベル・オーナー(インタースコープ)と大出世していくのですが、キャリアの最初はスタジオのアシスタント・エンジニアでした。彼もまた、この物語でちょくちょく顔出すキーパーソンの一人です。
そしてデモ録音を気に入りポポヴィッチはジュークスと契約。1976年1月から3月にかけてレコーディングしていますが、スタジオはもちろん、そのままレコード・プラントでエンジニアはジミー・アイオヴィン。
これはEPICからアルバムタイトル、”I DON'T WANT TO GO HOME”で1976年6月発売。(当時は日本未発売。日本デビューは2ndアルバムです)ジャージー仲間のデビューですからスプリングスティーンも、そのお祝いとして楽曲"THE FEVER"と"YOU MEAN SO MUCH TO ME"の2曲提供しています。
スティーヴ・ヴァントは楽曲提供もしているし、なによりアルバムのプロデユーサーであり、バンドの共同リーダーです。調べてみました。
時系列の整合性とれてます。スプリングスティーンのBORN TO RUNファースト・レグが終了したのが、1975年12月末。そして次のCHIKEN SCRATCH TOURが始まったのが1976年3月25日。この間、Eストリートバンドはお休みですが、ヴァンザントは、大忙しです。
そして、このレコーディング中に、一つの出来事が起きたのです。