業界のカタスミで細々と~涙のサンダーロード

大事なものは家庭とゴルフ。出身地福岡LOVEが強い団塊世代の日記です。世田谷区在。”誰も相談に来ない”音楽コンサルタント。個人事業主屋号はTHUNDER ROAD。音楽業界47年目。特にレコード会社若き現場時代は洋楽黄金の80年代。洋楽以外も、音楽出版。名古屋営業所長。国内新人発掘育成。国内アーティストマネージメントなど経験。業界の片隅で今だ細々と粘っているオッサンのボケ防止を兼ねた音楽業界人生の整理と復習ブログ。想い出は美しく記憶は嘘つき。基本テーマは仕事で関わった洋楽昔話ネタとたまにゴルフ話。好きなものはブルース・スプリングスティーン。幕末と明治維新。ジョン万次郎と坂本龍馬。忠臣蔵。秀吉信長の時代。スターウォーズとマーヴェルコミック。キャプテンアメリカ&アヴェンジャーズ大好き。    

1976年TBSドラマのタイップをうけたJANIS IANの大ブレイクは、先輩・元上司Nなかさんの洋楽ディレクター時代のサクセス・ストーリィです。とは言え、このプロジェクトに関係した音楽出版社の動きは、語られる事はありません。そういうわけで、ちょっとこっちサイドの立場でJANISブレイク事を書きたくなりました。

私は73年新卒で入社し、このヒットの時は、最初の配属先CBSソニー出版部エイプリル・ミュージックで3年前を迎えていました。ちなみに、この部門1974年には100%子会社の音楽出版社として独立しています。当時、権利使用者(レコード会社)と権利者(音楽出版社)は別法人でなければならない、と文部省からの行政指導があったからです。いまは、権利者も使用者も同一法人でOKです。なんでもアリの時代です。

images (7)また50年近く仕事やってると、結構業界キャリアがある人なのに、”あれ?出版権に関して余り理解してないな””と思う場面もあります。日本人DNA的に法律苦手ですし、特に出版権に関しては、いまだに正しく理解されてないようです。

そういうわけで、せめてこのブログの読者には、正しく理解してもらいたく出版社時代の事をアップする時には、なるべく音楽著作権を分かり易く文中に混じらせています。

ここを認識していれば間違いありません。レコード会社のCBSソニー洋楽部門はアメリカCBSの音源でビジネスしています。JANIS IANは米CBSレーべルのアーティストですが、シンガー・ソング&ライターという事で、作家でもあります。この作家であり創作された楽曲が音楽出版権(著作権)に係わる領域になります。もちろん、どちらも本籍はアメリカ。日本の会社はその権利代行しているだけです。

で、私の会社エイプリル・ミュージックがJANIS作品のサブ・パブリシャーでした。海外楽曲の場合はサブ・パブリシング・ライツと言います。彼女が歌った音源(CBSレコードの音源)と彼女が創った楽曲(作品)は、全く別の概念のものであり、それぞれ別の法律で守られています。

ダウンロード (20)ちなみに、今の時代も同じようなものですが、洋楽でヒット曲が出ると、表にでるのはアーティスト名だけですが、業界レベル①では所属するレーベル名。レベル②でプロデューサー名ぐらいまでが認識されますが、なかなか音楽出版社の名前があがる事はほとんどありません。

邦楽のヒットだと、事務所名やタイアップの種類。そしてレベルあがると、権利を分け合っている出版社の名前、そのいきさつや滑った転んだの人間模様までが共有されるものです。

そういう私も、ブログ上でレコード会社時代に自分が関わったアーティストやヒットに関してベラベラと語っていますが、(一緒に汗流したこともあるのに)その音楽出版社の事についてあまり語ってないですね。自分の前職がそうなのに、失礼しました。

414kNTyprHL._SL250_で、JANIS IANの大ブレイクを実現させたTBSドラマのお話です。まずは、彼女の事を軽くおさらい。74年”ジャニスの私小説 STARS"で米CBSデビュー。75年”愛の回想録BETWEEN THE LINES"で全米でブレイク。そして76年”愛の余韻 AFTER TONES”を発表しています。(日本では先に2枚目の回想録が発売され、後から1枚目が発売されました。)

2枚目の”愛の回想録””からのシングル”17歳の頃AT SEVEN TEEN”も全米3位までの大ヒット。アルバムは76年度のグラミー賞も受賞。日本でも、このアルバムとシングルは宣伝プライオリティでしたし、ドラマの前に既にヒットし洋楽ファンの中で彼女の知名度もあがっていました。

51C4JwIApRL._SL250_そういうJANISの状況下で、75年末か76年の初頭にTBSのプロデユーサー、HりかわさんからNなかさん宛てに一本の電話が入りました。Hりかわさん、TBSの演出部制作マンですが、この前後にも数々のヒット・ドラマを演出されており、後には芸術賞なども受賞されるほどその道では超高名な方です。そもそも洋楽愛好家で、当時JANIS IANが一番のお気に入りでした。

電話の内容は”番組全編彼女の音楽を使用したい。ついては諸々の権利関係をクリアにしたい”と。全曲JANIS IAN!これはレーベルサイドから見れば、ドラマのタイップ史上最高最大のものです。そういう前代未聞のオファーが届いたのです。

images (9)このドラマは1976年7月22日スタート(WIKI情報)。坂口良子さん主演の”グッバイ・ママ”。脚本は市川森一さん。ちなみに彼女、当時、私のお気に入りの女優さんでした。ってどうでもいいすね。

で、ドラマ内容ですが、事故死した愛人の子供を産んだ若い母親(坂口ね)が、自分自身も再生不良性貧血に侵されて余命1年。残された子供の為に父親捜しをする姿を描いているものです。
この番組企画の連絡をNなかさんより受けて、まずは私とNなかさんとでTBSのHりかわPの元に伺いました。ここからプロジェクトはスタートです。

この最初の打ち合わせが、いつだったのかは全く覚えていませんが、実際、76年発売の”愛の余韻”からの”恋は盲目(当時の邦題)LOVE IS BLIND”が主題曲に使用されたわけですので、撮影スタート時には、アルバム音源は到着していたのではないかと思います。

TV局側としては、JANIS IANの音楽を主題曲に使用したい、と。CBSソニー的にも願ってもないラッキーなオファーですし、使用に関しては、主題曲だろうが挿入曲だろうが原盤権及び音楽出版権に関して何ら特別な権利処理する必要もなく、全く問題ないはずですが、ただ、気になるのは、ひとつだけ。

番組全曲を一人の作家の作品でいきたい、というポイントです。なにか権利処理が必要な気がします。

00012-1559629505BOCのGODZILLAはシングルヒット曲にはならなかったのですが、話題だけは集めました。この時代にアメリカのバンドがこの題材をとりあげる事に、驚きと戸惑いと嬉しさがまじりあったものでした。

ゴジラの歴史調べてみた分かったのですが、オリジナル映画に少し手を加えたゴジラの海外版というのが1956年に全世界で公開されていたのですね。これでアメリカにも伝わっていたという事です。

ダウンロードそして1962年の映画”キングコング対ゴジラ” で、ツートップ夢の競演がありました。これはアメリカでも公開されヒットしたらしく、これをきっかけにアメリカでのゴジラ人気もあがり、選挙権は無理でも永住権はとったらしい、とテキトーナ事書いてます。戦後の日本映画の輸出という意味では、黒澤映画と双璧をなすものかもしれません。

脇道それます。WIKI情報ですが、ちなみに、キングコングのライセンス料5年間で8000万円($1:360円。約$22万)。これは当時の普通の東宝映画の3本分の制作費相当。でも、映画は大当たりで1000万人動員!で見事回収。当時国民数は1億弱。つまり10%以上が観たって事です。ほんまかいな。ついでに当時の初任給が17000円。2019年は約21万円。12倍。現在の貨幣価値で10億円クラスのライセンス料だったというわけです。

790507a790506aそして1979年5月初めての来日公演が決まりました。5月6中野サンプラザ7日新宿厚生年金8日大阪厚生年金9日名古屋市公会堂10日中野サンプラザ。全く休みなしの行程で11日には羽田出発し12日にハワイで公演行ってます。東海岸。ヘヴィメタル、オカルト、ダークサイドのバンドとハワイ、脳天気、青空白い砂。イメージが全く真逆。まさか、アロハ着てステージに上がってるとは思えませんが、バンドもツアーのオフモードってことですね。

この頃、来日すると我々はホテルで出迎えるのが常でした。今回は取材は(多分)音楽専門誌だけ、昼間あたりにやったはずですね。この時はMりしたさん担当。私は新聞やTV。担当メディアの取材なくとも、一応出迎えメンバーになってます。でね、この到着直後の打ち合わせで、上司のOおにし次長(まだ部長じゃなかったのかな)私に面倒くさいことが降られたのです。

87668332ステージの演出で、ゴジラが必要。明日ぬいぐるみを借りに円谷プロに行け、と。とはいえ、ステージの演出用なのでこういうのは、明らかに興行会社のマターです。何故にレコード会社が行くの?

ま、こういう流れでした。到着後のバンドとの打ち合わせで急にこの演出で盛り上がったものの、でも”誰が借りに行くんだ”となり、その場に居合わせた人柄優しい大西さんにふられたのです。また大西さん、アーティスト絡みのリクエストにはNEVER SAY NOの方でした。で、流れ的に”うちで人を出すよ”となり、そこにいた私に”明日行ってくれない?”となったのです。ま、私も頼まれやすいタイプです。しかめっ面してると人は頼んでこないものです。

ライブの前日に到着なら初日は翌日。職業別電話帳で電話番号見つけ円谷プロに連絡。”でもゴジラはない”と。時間もないので、”とりあえず似てる怪獣お貸りします”と。そりゃそうですよね。2020年の今、これを書き直しながら愕然としたのですが、ゴジラの権利は東宝のもの。円谷プロじゃねーし。41年前連絡するところが違っていたのですね。そりゃゴジラいないわ。成城学園の東宝の撮影所のどこかに置いてあったんだよね、きっと。

images当時の円谷プロは祖師ヶ谷大蔵。一人で行くのも納得できなかったので、ウドーの誰かを道連れにして翌日会社の車で向かったのです。
今でこそ、カーナビもあるしこの近くに住んでいるのでよく分かりますが、この辺りはタクシーの運ちゃんもいやがる迷路地獄。当時私も苦手にしているところでした。なにせ一方通行と狭い路地だらけ。地図見ながらやっとこさで到着。で選んだのが、こういうの。

ゴジラとは似ても似つかぬ怪獣です。ま、ないよりマシか。ちなみに現在は円谷プロはとっくにこの地から引っ越していますが、祖師ヶ谷大蔵商店街のシンボルマークはいまだにウルトラマンです。小田急の駅でもウルトラマンのテーマ曲が流れます。

images (1)そしてリハ時に無事到着。もちろん着ぐるみの中にはウドースタッフがはいります。当時いたプロダクションチームのM-ニーかタックか。はちまき巻いてる姿を覚えています。そしてライブ途中で警報が鳴り響き、エリック・ブルームの怪しい日本語が始まります。
”ゴジラがきます、避難してください”。

ゴジラもどきにスポットが当たり、客席から登場します。ま、この演出にファンは大盛り上がりしますが、ゴジラじゃないと分かるとやや微妙な雰囲気も。逆に”ゴジラじゃねーぞ”のつっこみに盛り上がったりしてね。この頃のファンは何でも受け入れてくれました。

images (2)ステージの想い出はやっぱりこれです。ライブ途中でエリックが右腕を宙に突き上げると、その指輪の先から一本のレーザー・ビームが飛んで会場中央につるしたミラーボールにあたり、グルグル回り始めます。この演出に感動しました。

70年代当時の演出として、レーザービームはまだまだ斬新なものでした。そして最後は竿物4人が並んで弾きまくる姿に圧巻されました。格好いいグループでした。ただ私が彼等のライブ観たのは後にも先にもこの時だけ。アップしながらYOU TUBEで昔の曲を懐かしく聴いてます。(BOC おしまい)


147185313BOCのディスコグラフィをちょっと溯ります。1972年にCBSからデビューアルバム発売していますが、日本では後年に発売されていたようです。(SOPO-72 74,75年あたり?)帯コピーに”デビューアルバム遂に発売”と記載されていました。邦題も”狂気への誘い”と名付けられ、後続アルバムが既に付ていたカルトっぽさや、ダークサイドのイメージをさらに強調しています。

デビュー盤が後から発売される事、70年代には良くありました。当時の洋楽情報に関してはレコードメーカーから発信されるものがほとんどでしたので、そういう意味で海外情報のコントロールが可能でした。極端な話、我々が発信しない限り、メディアもユーザーも知らない、という事です。あらためて思うに、レコード会社の洋楽部門は開闢以来70年代までは鎖国における出島みたいな役割でした。

輸入盤の心配もなかったので、アメリカでちょっとしたヒットだとしても、日本では売れないな、と判断すると、そのままお蔵入りになりました。その逆に、日本でこれは売れそう、と判断すると、アメリカ発売とは全く関係なしに日本独自のシングルをカットしてプロモーションする事も多々ありました。

ダウンロード (1)BOCは、その後、73年から見事なまでに、この”呪われた炎”まで毎年アルバムリリースしています。CBSソニー社内でのBOC担当も初代Iそださんだたような。Y-じさんかな?その後遍歴があるはずですが、1976年Nなかさん担当のアルバムA GENT OF FORTUNE邦題”タロットの呪い”で、アメリカ本国でも初めてのシングル・ヒットが生まれています。

当時私は音楽出版部門にいましたが、このアーティスト達のカタログ持っていましたが、このヒットで初めてアーティストと作家を知った、そんなレベルでした。

024a0dc1-s(don't fear)THE REAPER のシングルがそうですが、邦題は”死神”。この曲がビルボード・シングルチャートでTOP10に迫るヒットとなったことでアルバムも29位まで押し上げています。とはいえここはディレクターの判断ですが、前述の如く、日本では別曲”罪深き恋”をシングルA面にしています。

こちらのほうが、日本のラジオ向きだと判断したわけです。アメリカで当たっているシングル曲はおさえにB面にカップリングしていました。とはいえ、この日本独自カットの曲にしても大した話題になってなかったですね。振り返ってみると、結果”死神”の方が支持されていたのは間違いないですね。

ダウンロード何はともあれ、制作の仕事に置き換えると、この頃はディレクターの感性が生かせる時代でもあった、ということです。日本はこっちの方が当たる、思った楽曲をシングルとして発売したり、アメリカでは全く無名の作品でも、日本でだけ、でっち上げて売った例も沢山あります。

ただ私の場合は、アメリカCBSの大物クラスの担当案件が多かったので、こういうディレクター冥利の楽しい仕事は、数えるほどしかありません。この左のラリー・リー”ロンリーフリーウェイ”がその少ないうちの最大のものです。このキャンペーンは一生の想い出です。

時代の流れですが、私が宣伝から制作に転じた80年代初頭あたりから、そろそろ海外からの音楽情報も各メディアに直接はいってき始めたし、後に国内盤の脅威となる輸入盤もタワーレコードの上陸をきっかえに増え始め、レコード会社洋楽が自由にコントロールしていた海外情報操作もうまく回らくなくなってきました。

なによりアメリカでMTVが始まると、アメリカのほとんどのシングル曲にはMVがサプライされます。日本独自のシングルカットを選ぶと、この強力なツールがないというわけです。TVでの露出をあきらめてラジオだけで戦っていくのか、いつもこのジレンマがありました。こういう事でいやでも体をアメリカ本国に合わせざるをえない状況が出てきたのです。

images (90)ちなみに、このシングル”罪深き恋”のコピーに”炸裂するトリプルギター”と書かれています。そうなんです。後の来日公演を観て驚きましたが、このバンドやたら竿物が目立ちます。

フロントにギターが3人並んで弾きまくっているのです。まさにこれでした。ちなみに、米ヒット・チャートを騒がすヒット曲としては、この曲と、この5年後に私が担当したアルバム”呪われた炎”からのシングル、BURNNING FOR YOU”お前に焦がれて”、この2曲ぐらいですね。出版はバーニングではありません。

ダウンロード (2)そして翌年1977年のアルバムSPECTRESが発売されますが、ここに意外な楽曲が収録されていました。それがGODZILLA。まさにそのまんま、あのゴジラです。残念ながらヒット曲としては実績ありませんが、BOCファンにもならず、洋楽ファンの中では大きな話題になりました。

今でこそ、GODZILLAの知名度は地球規模だと我々も認識していますが、この時代に日本の怪獣映画を題名にした楽曲を、現役バリバリのUSロックバンドがやってくれている、という事がなんだか不思議な気持ちもあり、誇らしくもあり嬉しく思ってました。

7aba4249そもそも、外人が日本の事を知っていたり、日本語を少しでも喋ってくれると、我々日本人感動しやすいですしね。日本語ペラペラはジンガイは日本で仕事に困りません。70年代はなおさらです。ゴジラに喜び、曲間でのエリック・ブルームが喋る緊急放送"ゴジラがきています、避難してください"、っていう妙な日本語のコメントにも感動したものでした。

そして、1979年かな、初来日しました。もちろんこの時私はまだ宣伝マン。ただね、この来日直後の打ち合わせで面倒くさい仕事が、私に振られてたのですよ。

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