業界のカタスミで細々と~涙のサンダーロード

大事なものは家庭とゴルフ。出身地福岡LOVEが強い団塊世代の日記です。世田谷区在。”誰も相談に来ない”音楽コンサルタント。個人事業主屋号はTHUNDER ROAD。音楽業界50年。特にレコード会社若き現場時代は洋楽黄金の80年代。洋楽以外も、音楽出版。名古屋営業所長。国内新人発掘育成。国内アーティストマネージメントなど経験。業界の片隅で今だ細々と粘っているオッサンのボケ防止を兼ねた音楽業界人生の整理と復習ブログ。想い出は美しく記憶は嘘つき。基本テーマは仕事で関わった洋楽昔話ネタとたまにゴルフ話と日常案件。好きなものはブルース・スプリングスティーン。幕末と明治維新。ジョン万次郎と坂本龍馬。忠臣蔵。秀吉信長の時代。スターウォーズとマーヴェルコミック。キャプテンアメリカ&アヴェンジャーズ大好き。特にブラック・ウィドウがお気に入り。    

2020年07月

ダウンロード - 2020-07-21T104753.283私が洋楽の制作マンになったのは31歳。当然ですが関わったアーティストは新人でない限り、後任として担当するわけですから、引っ越して来たらまず壁紙を張り替えるように、リセットしたくなります。前任者の仕事がイイとか悪いとかのことではなく、一日でも早く自分のアーティストとして愛情を感じられるようになりたいのです。とは言え、そうなるまでには、なにかと最低でもアルバム2枚ぐらいは出さないと、そういう気持ちになりません。

大ブレイクした後を受けて担当するのは、結構辛いものありますが、逆に後から担当した時に、最高のアルバム、つまり売れ線ということになりますが、を出してくれる事もあります、これはディレクターとしてはラッキーと思うしかありません。

ダウンロード - 2020-07-21T104842.041私のケースでは、JOURNEYの"ESCAPE"(1981)や”フロンティアーズ”(1983)がそれにあたります。70年代最後に”ストレンジャー””NY52番街”と連続の大ヒットアルバムで社会現象化したBILLY JOELの場合は稀なケースで、80年代にはいってから自らが変化し、新しい世代に向けて、この時代を代表する”ナイロン・カーテン”(1982)や"イノセントマン"(1983)を出してくれました。


ダウンロード - 2020-07-21T104819.925そして自分にとって最大のものはBRUCE SPRINGSTEENです。スーパー・セリング・アルバムとなった"BORN IN THE USA"(1984)を担当出来た事は、自分の洋楽制作キャリアの中でもダントツに誇り高きものです。

たまたまタイミングいい時期に制作担当であったラッキーというだけですが、有名系大物アーティストを担当する事によって、日常の仕事の中では、ほとんど会う事ができない方に会える機会ができたり、とか、この作品を通じて知り合った人たちと今だにお付き合いがあるのは、アーティスト様・様状態の恩恵ですね。で、今回はこのネガティブ版で”後任はつらいよ”です。

images - 2020-07-12T184836.865制作担当になったばかりの時、担当アーティスト・ロースターにエアロスミスもはいっていました。前任者Mりしたさんが、シフト変更で制作から離れ、彼がやっていたジャーニーともどもロックものが私の担当になりました。

この頃のエアロは低空飛行中。飛べないエアロでした。ストーンズのミックとキースの関係のアメリカ版って感じですが、スティーブン・タイラーとジョー・ペリーの仲も最悪。ジョーはバンドを脱退。自分のソロとしてジョー・ペリー・プロジェクトをスタートさせていました。

ダウンロード (92)主力のメンバー脱退で新譜に困ったエアロは1980年”グレイテストヒッツ”を発売。これで時間稼ぎしつつギタリストを探していました。このベストアルバムと同じ年に発売されたジョーの最初のアルバムLET THE MUSIC DO THE TALKING”.意味的には音楽に語らせろですかね。そして邦題は”熱く語れ!”。

まぁ、そういう事ですね。カネボウの口紅TVCM曲、渡辺真知子の”唇よ、君を熱く語れ”は1980年。この翌年のアルバムで、堂々とこれをつけれるのは、Mりしたクン、すごい。私にはできません。このアルバムまで彼が担当して私にバトンタッチでした。

ダウンロード (95)で、私のプロダクトとして1981年にジョー・ペリー・プロジェクトとしては2枚目”I'VE GOT ROCK'N’ROLL AGAIN"が発売されたのです。はっきし言って、私、全く気がはいってなかったですね。この年はジャーニーESCAPEの年。全社プライオリティのジャーニーに心持っていかれていました。エアロ・ファンのみなさん、ごめんね。

でね、同じタイミングでエアロを脱退した、ブラッド・ウィットフォードもセント・ホルムズとプロジェクトを立ち上げ、名前のまんまの”ウィットフォード/ホルムズ”というアルバムを発売していました。どちらが先だったのか忘れましたが、ほぼ同じタイミングでエアロ脱退組のアルバムを、やる気がないまま私、担当したのです。

images - 2020-07-12T185938.649ま、どちらも出すだけてな感じでしたね。ロック系の音楽誌のプロモーションだけはやりますが、それ以上には何も。シングルをカットとするわけもなく、ただひたすら商品つくるという製作業務と最低限の評論家&専門誌プロモだけ。

前後しましたが、このジョー・ペリー・プロジェクトの2枚目タイトル、オリジナルでは、”やっぱりロックンロールが一番だ”とか”本当のロックンロールが分かったぜい”ぐらいの意味だと思いますが、私が付けた邦題は”忘れじのロックンロール”。エアロのファンから”ジジィみたいなタイトルつけやがって”とクレームもらいました。全くだよね。一度引退したロッカーが、久しぶりに発表したアルバムみたいです。渋すぎますね。若さもなければやる気もない。ひどい仕事です。

ダウンロード - 2020-07-21T104959.274翌年、エアロはジョーペリーに代わるギタリスト、ジミー・クレスポをいれて新譜”rock in a hard placeを発売するのですが、邦題はこれが凄い。”美獣乱舞”。

英タイトル全く関係無しに、そういうタイトル付けるぞって決めていた感じです。このアルバムでは、私もう担当離れており、後任の後輩Sげまつ君がこのタイトルを付けています。私わずか1年しかエアロ担当してないってことですね。バンドのオリジナルは一枚も発売してないのです。
制作のシフトが目まぐるしく変わっていた時代だったのだ、と思い出しました。






images (1)人的インフラと言う意味では本づくりのプロたちにジョインしてもらう必要がありました。これは実に明確に覚えています。この辺りの時系列は記憶も曖昧ですが、一応ネット情報が正しいとするとこれは1976年の事です。

私も個人的に大好きな雑誌で、日常的にプロモーションで訪問していた、YAMAHAの音楽誌ライト・ミュージックの事は、前回エリック・クラプトンのギター奏法の本ネタの時に書いてますが、この雑誌が1976年突然廃刊になりました。時の将軍川上源一さんのツルの一声です。理由は分かりません。

1976年ですから、この時点で自力で始めたソングブックも2年近く経ってるので、それなりに点数も増えていたはずです。私の上司はすぐ上がAおきさん。そしてその上がNらづか部長。エイプリルの定例会議で、私が言いました”ライトミュージックが廃刊になったので、そこの編集部ひっぱってきたら、簡単に本出せますよ”って。

Nらづかさんの答え。”じゃ、きくちゃん、誘ってきてよ。様子訊いてきて”とまぁ、飲み会の誘いじゃあるまいし簡単な事。Nらづかさんは、出版物が好きな方なので、ソングブックをスタートさせる時も、全く反対もなかったです。その代わり、レコード営業部は巻き込まないので自力でやれと。だけ。お陰様で色々と好き勝手にやれて面白い経験できたというわけです。

images - 2020-07-09T161618.699で、私、編集長のTるみさんにアポとって、恵比寿の編集部に会いに行ったのですよ。会社入って間もない小僧がベテラン編集長に向かって軽く”Tるみさん、うちに来ませんか”って。”いいねいいね、いきますよ”ってなるわけもなく、思えば乱暴な誘いでした。

ま、あたりだけつけて後は会社まかせです。私のイメージは編集部まるまる雇い入れれば、あの自分が好きな雑誌が自分の会社から発売できる、という事業としてのヴィジョンも計画も何もない、本能的なエキサイティングな気持ちだけでした。

当時のCBSソニー大賀社長がYAMAHA(財団ヤマハ音楽振興会)の現役理事という事もあり、Nらづかさんも財団に席を置いた事もある方。さすがに複数以上のスタッフを一度に転職させるというのは刺激が強すぎます。という事で、まずはTるみさんだけ中途入社し、数か月後にTかもとさんTけのさんがジョインしてくれました。ここで初めてトウシロ・インディーズ的自主出版活動からの脱却です。新規事業として会社の気合にターボが入り、後のエイプリル出版からCBSソニー出版、ソニーマガジンズへの道が開かれたというわけです。

ダウンロード (78)出版物プロジェクトは彼らにまかせ、ソングブック路線は徐々に控えめになり、単行本やムックなど出版し始めています。私も今までほどにはインボルブされることなく、本職の著作権ビジネスに戻っています。何故だか、単行本の第一弾”オレンジ色を聴いたかい”は内容はともかくもタイトルはよぉく覚えています。もちろんネットでも発見しました。1977年5月の発売です。Tるみさんがジョインして極めて初期に作った本でした。法人名は変わらずエイプリル・ミュージックでしたが、本の発行名としては、このあたりからエイプリル出版と表示されています。

ダウンロード (80)まさに、この頃はエイプリル・ミュージックも大型の会社になっており、原盤制作部門やマネージメント部門は六本木にそのまま残り、私がいた著作権や出版部門は1977年に六本木から市ヶ谷にオフィスを移しています。このタイミングからエイプリル出版と呼んでいたのではないかと思います。

後には”猫のヤーコプ”か始まる絵本シリーズやサーフィンの写真集など単行本中心に出版活動行っています。ちなみに私は1978年5月に洋楽に異動しますが、この市ヶ谷駅そばの千代田区側の焼肉屋や雀荘があったビルから黒ビルに移りました。

ダウンロードダウンロード (86)私が洋楽に異動になった後、エイプリル出版はその後CBSソニー出版(1979年頃)に社名を変えています。記憶はやや怪しいものありますが、エイプリル出版時代に、Tかもとさんが作ったギター系のムックがその後のCBSソニー出版雑誌第一号?の月刊誌”ギターブック”となり、後に”GB”と進化して、80年代には音楽誌として最大の発行部数を誇る立派なヒットマガジンに仕上げていました。

ダウンロード (87)後にGBでは収まり切れないJ-POP音楽の変化の中で、Aごうさんがつくった”PATI PATI”や、80年代後半にはFM誌FMステーションを成功させたHせさんも会社にジョインし、彼が創刊した”WHAT'S IN”など洋楽邦楽のマーケットに影響力をもつ音楽雑誌3本を発行する総合出版社になっています。

自慢じゃありませんが、サンタナ、ポルナレフから始まったソングブックがあったからこそ今に至る、のではなく、YAMAHAのライトミュージックが廃刊になった時に、”編集部から人誘ってきましょうよ”と私が部長に提案したからこそ、だと一人で心の中で自分を褒めています。これでTるみさんとTかもとさんがジョインし、人的インフラが整い始め、いよいよ本格的な出版事業にターボが入ったという事です。

もっとも、その前に、川上源一さんが、あまり根拠なく私が好きだった雑誌を廃刊にしてくれたからこそ、CBSソニー出版が生まれた、ともいえるわけです。ゲンちゃんに感謝。





i-img700x560-1588650011cgekmg670416永ちゃんの想い出です。初めてのソロ、I LOVE YOU OKに合わせてソングブック発売する事決めました。1975年ですね。シングルが9月発売なので、こちらは秋頃だと思います。写真集的な要素は絶対必要なので、当時永ちゃんを撮りまくっていたカメラマン井出情児さんにコンタクトし、彼の作品を借りる事になりました。

もちろん掲載する写真は永ちゃんの許諾が必要ですし、当然アルバム全曲を採譜した譜面やコード等も確認も必要です。(左が表紙、一番下が裏表紙。中古品サイトで発見。中身も少しアップされてました。素材はそこから借用)

当時、事務所だったか音楽出版だったかは忘れましたが、乃木坂と六本木の中間にあったマンションを訪ねました。マネージャーは後に業界でも有名になるMらたSきじさん。2回目の打ち合わせでは永ちゃんもいてくれてしばし雑談。とは言え、何話していいか分かりません。

実は、この4年前私は大学クラブのバンド時代に永ちゃんバンドと共演していました。キャロルの前の、まだバンドYAMATOの時代。今はキャンパスを移していますが駒沢女子短大がまだ駒沢にあった頃に学園祭に呼ばれて、1971年11月30日に演奏しています。大学時代のバンド日記に日時が残ってました。

ダウンロード (86)対バン形式で最初がバンドYAMATO。トリがうちのカントリーバンド。ごめんね永ちゃん、前座にしちゃって。彼らの事よぉく覚えていました。音楽は60年代ポップスやロカビリー。全員革ジャンに身を包んで当然リーゼント。格好よかったし、自前のヴォーカルアンプ(当時はPAの概念ありません)の性能もよく、音が立派でした。バンド名もインパクトあったし、永ちゃんの顔もよく覚えていました。この翌年、永ちゃんはキャロルでデビュー。”ルイジアンナ”をラジオで聞いた時、サウンドや歌い方に"まさか、あのバンド?"と思ったらキャリア紹介で元バンドYAMATOだと、”やっぱり”と。それくらい学園祭もインパクトありました。

i-img700x527-1588650011ff8x6e9764学園祭で彼らの出番終わって楽器片付けだったのか、全て終わって搬出だったのか記憶ありませんが、たまたま私永ちゃんと眼があったのですね。リーゼントの兄ちゃんがしかめっ面で寄ってくるのです。なにかイチャモンでもつけられるのかとビビったのですが、”すゅみません、どぁい3京浜まではどぉうやっていけばいいすか?”と私に質問。

私、ホッとして”そこが学校でて左曲がったらデカい通りが246なんで、そこを右に二子玉方面にいくと環八にぶつかります。そこを左折。5~6分走ったら第3京浜入口です”って会話というか、道順を教えたのです。これから4年後、学園祭でのライブの事を永ちゃんに訊くと、あのあたりでライブやった事ないからと、やったことはよく覚えていました。

i-img700x525-15886500110pgzxl677584どっすか、学生時代のバンドで永ちゃんバンドを前座にした。そして永ちゃんに道順教えてあげた。証明するものは全くありませんが、私の中だけの自慢です。ちなみに確認で持ち込んだ譜面やコードのチェックは相沢行夫(I LOVE YOU OK作詞他)さんがやってくれました。そしてこれはWIKIで初めて知ったのですが、後に彼とNOBODYを組む木原敏雄さんはバンドYAMATOに在籍してたんですって。この学園祭にいたって事ですね。

i-img700x525-1588650011s3ww6k670420で写真選びです。カメラマン情児さんとふたりで格好いい写真を粗選びし、永ちゃんの元に。その中から本で使用する十数点ほど彼がOKを出します。写真はモノクロがメインですが情児さんも気合を入れてA4サイズで焼いてます。カメラマン的にはそうですよね。彼の作品が印刷物になるわけですから、当然です。被写体の永ちゃんの格好良さもさることながら、写真集にしたいくらいのハイ・クオリティな写真でした。

ダウンロード (89)紙焼き一枚一枚にトレーシングペイパーをかけています。これは当然な事で、選ばれた写真をそのまま、印刷に回すわけですから、表面に傷がつかないようにと言う保護目的もありますが、デザインする時の指示を書き込んだり、何かしらコメント入れる場合などのために紙焼き写真にはカバーするものです。


i-img700x595-1588650011dbohow699078事務所から連絡きて受け取りにいったのですが、なんと驚き。永ちゃんが選んでくれた写真全面に大きな赤字でOKが描かれていました。

トレーシングぺ-パーをワザワザめくって、紙焼きに直に書かれていたのです。トレぺーの上とか写真裏面でなく表面にです。男らしいすね、ではありません。

情児さん、愕然。落胆。がっくし。しょんぼり。
写真家としては自分の作品ですから、元から気合入れて焼くものです。しかも本になった時にクオリティがキープできるようにA4サイズで焼いていました。また焼かねばなりません。印画紙も安いものではありません。トホホ。
(写真は裏表紙)

ダウンロード (59)ソングブックをブログにアップし始めて色々とググって見ました。そして46年前に自分が作った本を見つけ、我慢できずにオークションで購入しました。”エリック・クラプトンのすべて第1集”当時と同じ1000円でした。懐かしいですね、これ。で、奥付見ると、1974年12月10日発行。しっかりと発売日を入れてましたので記憶グシャグシャの折、何かと時系列整理の指標になります。

本の末尾にソングブックのカタログがならんでいます。サンタナ、ギルバート・オサリバン、ジェイムス・テイラー、ミッシェル・ポルナレフは1・2集。道志郎さんによる”エレクトーンで弾くポルナレフ”も既に発売されてます。

IMG_3560国内ものはたくろう&猫、フォーリーブス、南沙織、山口百恵、西城秀樹が既発。近日発売予定に、1975年1月にフィラデルフィア・サウンド・ヒット曲集、2月に桜田淳子、春にはクラプトン第2集、フィンガーファイブまで情報がアップされていました。

洋楽物は自社管理楽曲を中心にスタートしてますが、クラプトンのみ異質ですね。著作権一切関係なかったのに企画するって、どれだけ自分が欲しいものを作ろうとしたのか、よく分かります。世の中になかったものを提供したいというところですね。

imagesこのクラプトンの奏法もの作るにあたって、私が大好きだったヤマハ発行の音楽誌”ライトミュージック”をたっぷり参考にさせてもらいました。つまり個人的にも欲しかった実戦的なギタープレイ情報はこの雑誌にしかなかったというわけです。そういうわけで、この企画用に採譜&解説に起用するミュージシャン(ネム音楽院の先生、TかはしNぶひろさん)も、LM編集部に紹介してもらっています。

これから2年近くたって、この雑誌が当時のヤマハのトップ川上源一さんの一言で突然と廃刊となりました。実はこの出来事が、このソングブックビジネスに大きな影響を与える事になったのです。これはまたの機会に。

unnamed (61)unnamedこの本、有名曲のイントロや間奏など、美味しいとこだけピックアップした、まさに夢の様なアンチョコものでしたし、アマチュアのギタリストを意識した実戦本でしたので、アンプのセッティングやアタッチメント(当時はエフェクターとは呼んでなかった)、弦の紹介などものっけて、楽譜集と言う概念よりは、ギタリストのためムック本みたいな作り方でした。


IMG_3545no title広告も入れました。本の体裁として、フェンダーやギブソン、他楽器屋さんの広告が入っていると格好いいし、説得力がでると勝手に思っていました。とは言え広告料金としてはほとんど格安でタダ同然の設定にしていました。
レコード会社ポリドールの当時のクラプトン関連の制作担当者Sおださんのインタビューもありますし、74年クラプトン初来日のライブ写真も掲載していました。

IMG_3548IMG_3552またQ&Aコーナーなどもありが、誰の質問や?ってつっこみたくなりますが、全て私の疑問をベースにしてます。大音量の為にアンプをどうつなげるか、とかエフェクターを複数つなげるのは、とかギター・プレイに関する質問など、自分がこういう本があれば嬉しいな、と思う要素を詰め込んでいました。それにしても、あるページのタイトルはそのまんま。”下手でもうまく聴かせる方”で各種アタッチメントの使い方。本能で作った気楽な本ですね。(下写真参考)


IMG_3553自分でつくっておきながら、あらためて一番感動したのがこれ。クラプトンの人脈マップです。(写真下左)自分で描いてますね。大人になっての変わらない私のクセ字です。汚い字で読みづらいものありますが、一生懸命クラプトンのバンド遍歴をマップにしています。

この人脈ツリーは後にジャーナリストでシカゴ命の伊藤英世君の得意技になりますが、これ洋楽へ異動してからジャーニーの資料作成で彼に頼んだ事をきっかけになったはずです。もっとも、これとて海外のオリジナルがあるのですが、それをそのまま掲載する訳にいかないので、多少アレンジしてうまくパクったやつですね。マップの主役を一番右端において、上から揃えていくという描き方には、妙に感動したものでした。

実は、著作権を管理する仕事なのに、このギターフレーズだけを掲載した時には、著作権使用の申請をJARACにしてないのです。これ見て思い出しました。コピーライト表示が入ってるのもあれば、全くナシにモノも混じってました。

イントロだけとか、間奏のおいしところだけなどは、楽曲としてどうなのか、という定義が曖昧でしたし、今の時代でも同じ状況かもしれませんね。歌に絡んでいる箇所や長めの掲載はもちろん申請して使用料を払っていますが、すごく短いフレーズやオカズ的な4小節ぐらいのものは全くシカトでした。そういう仕事してるのにね、ひどいものです。

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IMG_3557IMG_3556(1)エイプリル・ミュージックは新入社員から5年間(1973~1978年)在籍しました。そのうち、4年近くはこのSONGBOOKに大きくインボルブされています。きっかけは前回書いたように、自社で出版管理していたサンタナとポルナレフの楽譜集をサブパブ契約上優位になるために、自力で出版した、という事から始まっています。

新規事業として立ち上げたわけでなく、たまたまやってしまったら、取次相手に一回だけで終わらせることもできず、言ってみれば、やむをえずに事業をスタートさせたという感じだったと思います。ちょっとそのあたりを。

ダウンロード音楽出版社の基本情報に戻ります。当時の音楽出版社は、そのネーミング(music publishingの和訳)からも分かりますが、まさに音楽を出版していました。これは歴史的な背景に由来していますが、その昔モーツアルトでもベートーベンでも新曲を発表することは、もちろんオーケストラで演奏してお披露目という事もありますが、同時にその譜面を発売するということでもありました。

作家が本を出版すると同じで、作曲家は譜面を出版するわけです。浮世絵版画ビジネスでもそうですが、歌麿のエージェントが、それをプリントして販売する、というわけです。レコード誕生以前のメディアとしては楽譜しかありません。これを使って、音楽をパブリッシュしたのです。

また、私の音楽出版社時代の70年代前半は、いわゆるシート・ミュージック(と言います)ビジネスも盛んで譜面集(ピース)や楽譜集も沢山発売されていました。というのも海外楽曲のサブ・パブリッシングを扱う音楽出版社としては、その管理している楽曲の楽譜・譜面を出版する義務があったし、実行するとカバーの成立と同じで、サブパブ(日本の出版社)の努力に対して、ご褒美としてその楽曲に関しては日本側の取り分を多め(印税分配率が良くなる)にしてくれるという事です。

images (45)自社で出版した場合と他社でやらせた場合では、印税率が違っていたかもしれません。自社で出版できない会社がほとんどですが、そういう場合には、全音楽譜出版や日本楽譜出版などの専門の会社を訪問し、楽曲の譜面掲載をお願いするとか、作家の譜面集をつくってもらうとか、そういう動きもやってました。

実際、当時は譜面をのせる音楽雑誌(ヤングギター、ガッツ、新譜ジャーナルetc)も沢山ありましたし、月刊明星や平凡の付録の歌本もプロモーション対象でした。この二つの芸能誌は発行部数が多いので、掲載されると結構な使用料印税がはいってきたのです。

ちなみにシンコーミュージックさんは著作権も管理していれば自社で出版物ビジネスもやっていました。初期の社名、新興楽譜出版社がそれをあらわしています。本屋としてのパブリケイション・ビジネスもさることながら、海外楽曲のサブ・パブリッシャーとしてシンコーさんが管理していた膨大な洋楽曲の楽譜集など積極的に発売していました。

images (100)オーナーの草野さんが自ら漣健児として訳詞をやられた沢山のカバー作品もあります。60年代日本で流行ったポップス日本語盤の大半はシンコーMさんの楽曲で彼の訳詞だったというわけです。さすが音楽出版社の草分け。なんでもやっちゃっていますし、日本洋楽の始祖でもあります。

フォークソングが流行ってPPMやブラフォーにあこがれギターをもったものの、コードはよく分からない。となると新興楽譜のアメリカンフォークソング集的なものを買ったり、エレキ時代には全音のヴェンチャーズのスコア譜など探してました。

そういうサブパブの事情もありサンタナとポルナレフを自力で発行したのです。初期に契約していたのが山野楽器や楽器卸の池袋の原楽器。後に出張で大阪長谷川楽器や三木楽器、名古屋の共和商会さんなどと取引開始です。

IMG_3555このあたりは時系列が曖昧ですが、自分の車にソングブック積んで、休みの週末に城南地区から湘南までレコード屋&楽器屋見つければ飛び込みで営業かけていました。名刺はCBSソニーなので、NOアポでもちゃんと相手してくれました。私もエネルギー満タンでした。

私有車を仕事に使った場合の申請の仕方も分からず、ガソリン代を会社に請求する事もしないで、ただひたすら自分が作ったソングブックを売りたい一心でした。初めて作った”たくろう&猫”とか、クラプトン譜面集を見本に持ち込んでいました。

笑顔が優しい女性店員さんがいた自由が丘の山響楽器や横浜桜木町のなんとかいうお店など数件取引取り付けしましたが、素人が勢いだけでやっていたわけで、直接営業したものの倉庫がないので物流システムはありません。笑っちゃうのが、注文が来ると小包で送ったり、全くの手作りもいいところで、週末ギリギリだったので池袋までタクシーで納品した事もあります。利益でないすね。自由が丘の場合はこの優しい女性店員さんに会いたくて会社の帰りに自分で持参したり、と、作るのも売るのも全てがハンドメイド状態でした。

このビジネスをやるにあたって、HったガクフにいたNらおかさんに転職してもらったり、HリプロにいたKうどうさんに入ってもらったりと、徐々に頭数は増えましたが、会社のインフラ的にはまだ未熟。本社からKうのさんなど投入され、やっと事業としてスタートです。

m326723076.1今回のジャニス事で色々とググっていたら、いやはや懐かしいJANIS IAN SONGBOOKの中古の出品見つけました。発行エイプリル・ミュージックです。つまりこれ私が47年前新卒で配属されたCBSソニー出版部(後に法人化)です。そこで自分たちで始めた出版ビジネス黎明期の作品で、しかも自分で作った楽譜集ですから、そりゃ驚きますよね。ネットってすごい!

感動しました。73年4月入社した時には既に、先輩のKとうさんがサンタナとミッシェル・ポルナレフの楽譜集を制作しており、ちょうど納品された頃でした。この2作品が正真正銘最初の出版物です。後にはギルバート・オサリバンやジェイムス・テイラーなどサプパブ契約上の事もあり、自社管理楽曲作家達の楽譜集を出版していました。

JANIS IANもこの自社管理楽曲の流れの中で発売されましたが、まだ大ブレイクの前ですね。TVドラマで大当たりの後でしたら、その楽曲をメインにLP”愛の余韻”のジャケットを表紙にするはずです。”愛の回想録”がグラミー受賞後、アルバムに貼付した金色ステッカーを本社からもらって、こちらにも貼ってますね。

ダウンロード (59)自社管理楽曲だけの企画では飽き足らず、自社に著作権あろうがなかろうが、パブリケイション(出版物)ビジネスとして、洋楽で覚えているのはスージー・クアトロ、スリーディグリーズで大当たりしたフィラデルフィアサウンドものや、ギタリストものとして、ジミ・ヘンドリックスやEクラプトン楽譜集も作りました。ジミー・ペイジも出したような出してないような。

これはギター奏法ものではありますが、有名曲のイントロや間奏のおいしいところだけのサワリ集でした。言ってみれば、まさにいい加減な譜面集ですね。極めて個人的な理由ですが、自分が欲しかったフレーズ集を自分がつくったというだけです。

m82443863295_1これも同じような理由ですが、YAMAHAの音楽雑誌LIGHT MUSICが大好きだったので、ギタリストものには、これを真似してアンプのセッティングやエフェクターの種類なども紹介していました。クラプトンはさすがに人気者でしたし、このテのあんちょこ的なものは、この時代まだ世の中に少なかったので大好評でよく売れました。調子にのって第二集まで発行したのはクラプトンだけです。

左上の写真(1・2集)そして、ジミヘン(左下)もネットの中古販売サイトで発見しました。こちらはCBSソニー同期入社のデザイナーNAOJI君が描いたイラストで、えらく格好いい表紙でした。

ダウンロード (61)譜面は音符の浄書でなく手書きで処理していました。スピードそしてコストの為ですが、このギタリスト・シリーズほとんどが、当時ヤマハ・ネム音楽院のギターの先生、TかはしNぶひろさんに写譜と解説をお願いしていた事もあり、彼の書体でそのまま版下に回してました。ギタリストのNぶひろ君、今どこでどうしてるのかな、元気にしていればいいですが、、。

国内ものは”拓郎&猫”や”フォーリーブス”も作りましたし、矢沢の永ちゃんもソロ”I LOVE YOU OK"発売にあわせて制作しました。永ちゃんものは面白いエピソードありますよ。

ダウンロード (65)時系列的には前後していますがアイドルシリーズとして、郷ひろみ、西城秀樹、山口百恵、桜田淳子、林寛子、南沙織、キャンディーズ etc"なども出版しています。商品名として、”ソングブック”と呼んでいましたが、単なる譜面集ではなく、冒頭にカラーグラビアもつけた、やや写真集的な要素もはいってました。

コンサートの即売でも取り扱うほどで、楽譜集とは言っても写真もついてる、立派なマーチャンダイジングです。もちろん、それぞれの芸能事務所から許諾をもらってますがJASRAC以外に何らかの許諾料や金銭を支払った記憶ありません。いい時代です。いまなら立派なグッズです。いまから考えると事務所含めて、よくぞ制作にOKくれたものです。

i-img1200x1200-1585413976fmqkcp1464305実は、アイドルシリーズではオマケに朗読のソノシート(写真は山口百恵オマケ)を付けていました。私、完璧に忘れてました。中古サイトで紹介されても、思い出せないくらい忘却の彼方でした。でも、この左の写真で納得です。色々喋ってもらってます。

サンタナとポルナレフ楽譜集をきっかけに始まった出版ビジネスですが、この時は流通先も一か所ぐらいのもの。基本的にレコード屋ルートはつかわず楽器屋ルート専門でしたし、完成した本持って、大阪や名古屋に出張しては卸を訪問したくらい、のんびりした、というかいい加減なカタチで始まっていました。

なにしろ、最初の2作品は、これから新しい事業を始めるぞという理念や意気込みなどは1ミリも関係なく、サブパブの契約に基づいて管理楽曲の譜面集を出版した、というだけ。よって以降積極的に出版し始めて、やっと会社の新規事業としてのインフラ整備などは走りながら手当していったという感じです。

後のエイプリル出版~CBSソニー出版~ソニーマガジンズに続いていくわけですが、私がNらおかさんやKうどうさん達と一緒にやっていた時代は、まさに夜明け前の黎明期。人的インフラも整い始めて、やっと専門の人員も集まり自分の手から離れるまで、色々な濃い思い出ばかり。当時のエピソードを何回かアップしてみます。





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