映画に、二種類のものがあると仮定しよう。
ひとつは芸術的なもの。もうひとつはエンターテイメント的なもの。極端に芸術的な映画、というものは、数多くある。物語が希薄で、テーマ性がきちんと探究されており、難解で、哲学的で――要するに、ひととことで言ってしまえば退屈な映画というもの。そういう映画は数多くある。なにが芸術でなにがエンターテイメントか、という定義は一旦おいておき、とにかくこうした退屈な映画をひとまずは、芸術的なものとする。(しかし、こうした映画が芸術的でないとすれば、いったいなぜそんな映画を撮る必要があるのか、目的がわからない)
芸術的な映画がある一方で、極端にエンターテイメント的なものというものも数多くある。内容がわかりやすく、物語の起伏に富み、観客の感情を煽るのが上手で、――要するに、ひとことで言ってしまえば、よく売れる映画のこと。こういう映画も常に、膨大にある。こちらを仮に、エンターテイメント的な映画ということにしておく。
フィリップ・ガレルのような人がいる。彼の映画は、映像が美しく、難解でテーマ性に富み、物語が希薄で――要するに退屈だ。つまり、上で言う芸術的な映画のひとつと言って良い。
上のものはガレルが1971年に公開した『内なる傷跡』という映画で、 ふたりの人物が、ひたすら歩いているだけと言って良い映画だ。物語はほとんど無いに等しい。(ちなみに、ここに出演するNicoという女性は、Velvet Undergroundの初期のアルバム『Velvet Underground&Nico』の、まさにNicoである) こうした映画を消費出来るひとは少ない。映画館でわざわざ観ようとする人はさらに少ないだろう。ひとつには、その理由は彼らがこの映画を「理解できない」からだ。現代人は極めて限られた時間のなかでプライベートを楽しんでいるので、そうした個人的な時間を、わざわざ理解できないものに割こうとはしない。もっとずっと、無難なものを選ぼうとする。必ず理解出来るもの、楽しめるもの、仕事の疲れをいくらか癒してくれるもの、日常を忘れさせてくれるもの、そうしたものを選ぼうとする。要するに、彼らは“スカッ”としたいのだ。
人々のそうした欲求を満たす映画というものがある。例えば、スピルバーグの撮る映画がそうだ。彼の映画には大した悩みや、主題など無い。あるように見えるなら、それは彼が産んだ幻を観ているに過ぎない。(強く反発したい人がいるのなら、それはそれで構わない。例を変えれば良い。そうした監督は紛れも無くどこかにいるのだから)つまり、スピルバーグのような人が撮る映画と、ガレルのような人が撮る映画という、両極端の映画がこの世界にはあり、そのどちらもが同様に映画と呼ばれている。しかし、この違いは大きい。
こうした両極端にある映画というのはそれぞれ、その質が画面に良く現れる。ガレルの映画の画面は極めて美しい。ガレルの撮る映像がなぜ美しいか――これを説明することは難しい。というのも、ガレルの撮る“映像そのもの”が、そもそも難解だからだ。画面の質を難解であるとか、あるいは明快であるとかと形容するのは、一見、奇妙なことに思えるかも知れない。しかし、映画とは静止画の集合である。静止画とは、写真である。写真には明快さと難解さがある。普通、写真家の写真集、例えばアルフレッド・スティーグリッツのような人の写真集は売れない。難解だからだ。けれど人は、容易に街角のポスターのようなものは受容する。明快だからだ。ポスターというのは基本的に明快に作られており、画面の質そのものが極めてわかりやすい。誰だって一度は、街角に貼られた映画ポスターや広告の類を観て、あの明快さに視覚的な快感を憶えたことがあるはずだ。あれは構図の明快さから来る、心地よさにほかならない。しかし、同様の理由を求めて、ひとが芸術的な、例えばアルフレッド・スティーグリッツや、メイプルソープのような写真家の写真集を買うことは極めてレアである。画面そのものが難解だからだ。映画の画面にも全く同じことが言える。このように、映画(という内容も含めた場合の映像)だけでなく、画面単体そのものにも「難解さ」と「明快さ」というある種の差が存在する。
静止画、ということからは離れるが、例えば、「巨大な竜巻に膨大な家屋や車が巻き込まれる」迫力ある映像がなぜ心地よいかを説明するのに、言葉はそれほど必要ない。むしろ、なにも言わないで良いくらいだ。ただ見せさえすれば良い。一方で、ガレルの撮った「砂漠でただふたりが歩く」映像がなぜ美しいのかを説明するのには、膨大な説明が必要になる。おまけに、話したところで誰がそれを理解してくれるかは、ほとんど絶望的と言って良い。うんざりされるのが関の山だ。ガレルの映像は極めて難解なのである
つまり、芸術的な映画(というものがあるとして)と、エンターテイメント的な映画(というものがあるとして)の持つ画面の質というのは、基本的には別の世界に属している。両者の映像のあいだには溝があり、それぞれ別方向を向いていると言って良い。どちらの映画にせよ、映画中のある一瞬を静止させ、その静止画を眺めただけで、その映画がどちらの側に属するかはすぐにわかる。それほどに、それぞれの映画は別の世界に属している。
ところが、映画が面白いのは、こうした両者の垣根を常に無視する人がいるということだ。両方の画面の質をあえてシャッフルする人がいるということだ。ゴダールがまずそうであり、タランティーノがそうであり、コーエンがそうで、…いまや、そうした人は膨大にいる。だから映画は面白い。極端に芸術の側にいると一見感じられる人が、その映像のなかに限りなくエンターテイメントに近しい誰かの映像を模倣していたりする。芸術性とエンターテイメント性の両方をいったりきたりしつつ、映画自体がエンターテイメントととも芸術とも言えないどこかへ向かうことがある。この“揺れ”を体感出来る。だから映画は面白い。
『続 網走番外地』の予告編を観よう。一見、極めてエンターテイメント側の映画に思える。そうした質感を持った映像に見える。しかし、明らかにタランティーノはここ(もしくはこのあたり)から影響を受けているのがわかる。つまり、「これはエンターテイメント的な映画だ、だから退けよう」とは、この映画に関しては、簡単には言えない。というのも、タランティーノの映画をそうした理由から退けられないのだから。
エンターテイメントも観なければ、映画はわからない。少なくとも、現代の映画は。こうしたエンターテイメントと芸術の、境界の曖昧さこそが、映画の面白さのひとつだ。
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