(旧)牧師のひとり言

東京都国立市にある国立のぞみ教会の旧「牧師のひとり言」です。 2021年11月より新しいブログになりました。

当ブログは新しいサイトへ移行しました
https://pastorkenta.com/

【国立のぞみ教会 Address】
牧師 唐澤健太
〒186-0002
東京都国立市東3-15-9
TEL&FAX 042-572-7616
ホームページ http://kunitachinozomi.com/
Facebook https://www.facebook.com/kunitachinozomi
郵便振替 00190-7-48385 国立のぞみ教会

主日礼拝ライブ(通常の記事はこの下から)

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以下のURLで主日礼拝のライブ中継を行っています。

https://www.facebook.com/kunitachinozomi/


※時間を過ぎても自動的にライブが始まらない場合はアクセスし直して下さい。
※音声が出ない場合はライブ中継画面の右下のスピーカーボリュームを上げて下さい。

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新しいブログへ

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17年間livedoorのブログを更新してきまいたが、思うところもあり、新しいブログを作りました。

これからはそちらで「牧師のひとり言」を更新していきます。

https://pastorkenta.com/

これからもよろしくお願いいたします。


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国立市内教会合同祈祷会

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 今日は年に一度の国立市内教会の合同祈祷会が行われた。10年くらい前から毎年アドベントに入る直前の金曜日に市内の教会の持ち回りで行っている。今年ははじめて東京メトロチャーチを会場に祈祷会が行われた。2019年のキャロリングの時に林牧師とお会いして、昨年からこの祈祷会にも参加してくださるようになった。
 
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 国立市内にある諸教会の会堂は伝統的なスタイルが多い中、メトロチャーチはコンテンポラリーな賛美を礼拝の中心にしている教会ということもあり、楽器や機材がとても充実していた! 音響も素晴らしい上に、何より賛美リードをしてくださったのが、林先生の二人の娘さん夫婦! 娘さん二人も伝道者になられ、それぞれの連れ合いも伝道者。そんなことがあるんですね。いや〜、なんて素晴らしい!

 林先生は先生の召命の証からメトロチャーチの歴史を語ってくださり、生ける神の恵みを力強く証してくださいまました。

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 賛美先生は、超教派の国内宣教師の働きをされているというので、今度お連れ合いの開先生と一緒にぜひのぞみ教会の中高生や青年たちのために賛美リードをしてほしいとお願いしてきました😊

 国立市という小さな町でそれぞれ特徴のある教会が宣教に奮闘しています。なかなか教派を超えての「共同」というのはできていない現実がある中で、ますます少子高齢化が進み、どの教派も難しい状況に陥っている。その中で国立市にある教会が違いを超えて、協力できるところで「共同の働き」「ジョイントミッション」を展開することができたらよい証になる。林牧師もメッセージで力強くそのように語っておられた。少しでもそのことが実現できたらと願う。

 昨年はコロナで中止にした「合同キャロリング」ですが、感染が少し落ちつていることもあるので、今年は実施することにしました。12月12日午後4時30分から大学通りの多摩信用金庫前でクリスマスの讃美歌を歌います。

 日曜日からアドベント。主を待ち望む時を意義深く過ごしましょう。

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説教の要約「主を待ち望め」詩編131:1−3

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2021年11月14日礼拝説教要約「主を待ち望め」詩編131:1-3

 詩編131編はわずか3節のとても短い詩編だが、とてもシンプルに神への信頼をまっすぐに歌う美しい詩編だ。「主よ、わたしの心は驕っていません。わたしの目は高くを見ていません。大き過ぎることをわたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」(1節)。私たちは「高くを見る」ことを肯定的にとらえる。就職試験などで「わたしの目は高くを見ていません」などと発言したら、「志が低い」と言われてしまうかもしれない。しかし、この「目は高くを見る」とは、偶像礼拝に走っているイスラエルの人々を戒めるために預言者たちが使った慣用句的表現なのだそうだ。

 そういえばバアルの礼拝祭儀が行われた場所は「聖なる高台」と言われた。また創世記11章に出てくる「バベルの塔」の物語も高い塔を建設して「有名になろう」という企てであった。「目は高くを見る」ことは、主なる神を礼拝することではなく、偶像を礼拝すること、自己顕示欲と結びつく表現なのだ。

 詩人は「大き過ぎることをわたしの及ばぬ驚くべきことを、追い求めません」と続ける。「大きすぎること」、「驚くべきこと」もまた預言者がよく使う言葉であったようだ。とくに「大きすぎること」というのは、権力者が自分たちの力を誇示するように、尊大なことを語ることを預言者が戒める時に使われた(ダニエル書、黙示録など)。「神なしの自己実現は人間を化け物にする」という言葉をどこかで読んだことがあるが世の大国、帝国と言われる権力者たちが自分たちの力こそ、世界を牛耳るかのような発言、振る舞い。それが「大きすぎること」「おどろくべき」ことであり、それをこの信仰者は「追い求めない」、その道を歩まないというのだ。

 イスラエルが実際に歩んだ歴史は、心おごり、偶像礼拝に走ったものだった。イスラエルは誇りを回復するために領土拡大、軍備拡大を追い求めた。人々の間の格差は広がり、貧しい人は安い労働力で安く買い叩かれ、富んでいる人はますます豊かな生活を享受する社会になった。秤はごまかされ、搾取が横行し、裁判も賄賂によってまともには行われなかった。

 イザヤ、エレミヤ、アモス、ホセアなど多くの預言者が、警告をし、神に立ち帰るように求めたが、北イスラエルも、南ユダも、その声に聞くことなく、北イスラエルはアッシリアによって、南ユダはバビロンによって滅ぼされた……。

 そのような経験をするのかで、イスラエルの民はこの詩編を「都に上る歌」としてこの歌を歌ったのだ。破れの経験する中で神の民は、大いなる悔い改めをもってこの歌を歌ったに違いない。単純に高い目標をかかげることがいけないとか、大きなことを目指してはいけないってことではなくて、神の民が歴史の経験に基づいた歌ということだ。

 高く、大きくなることを目指す中に潜むおごりへの誘惑がある。先週、瀬戸内寂聴さんがなくなったニュースがあったが、彼女は戦時中、中国の北京で暮らす中で、現地での日本人の行動をつぶさにみた。「中国の人が引く人力車にふんぞり返って乗って、頭を蹴っ飛ばして行き先を伝えるのよ。本当にひどかったわね」と語られていた。

 まもなくアドベント迎える。主イエスはどのようなお方として私たちのところへ来られたか? 私たちは馬小屋にお生まれになった主イエスを私たちの主として待ち望もう。

説教の要約「あなたの定めこそ」詩編119:129-136

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2021年11月7日説教要約「あなたの定めこそ」詩編119:129-136

 詩編119編はいわゆる「いろは歌」である。ヘブライ語のアルファベット順に巧みに作られた176節にもなる壮大な詩である。詩編119編は読むと分かるが、繰り返し同じ言葉が出てくる。特に「律法」という言葉が多く出てくる。とても長い詩だが、中心は「律法」について教えている詩である。

 「あなたの御言葉は、わたしの道の光、 わたしの歩みを照らす灯」(119:105)。おそらく詩編119編の中でもっともよく知られている聖句だと思うが、この聖句が詩編119編の告げたいメッセージを要約している。神の言葉、戒め、律法こそ、私の道だ! 逆を言えば、神の言葉、神の律法がなければ、私たちは闇の中で、道を見失い、どうやって歩んでいいのか、生きていいのか、迷ってしまうのだ。

 聖書学者たちによれば詩編119編がこのようないろは歌の形でつくられたのは、バビロン捕囚を経験する中、もしくはその後と言われている。つまり、イスラエルという国が滅びを経験する中でどう歩んでいったらよいのか、暗闇の中で迷うような時に、この詩編は神の言葉、神の律法こそ、「光」であると明確に告げているのである。

 私たちはイスラエルの民のような捕囚を経験しているわけではない。しかし、「コロナ捕囚」という言葉が使われるように、自宅から出ることができず、礼拝もオンラインを余儀なくされるような時を経験した。これからどうやって歩んでいったらいいのか、迷いの中に私たちもいる。

 「あなたの定めは驚くべきものです。わたしの魂はそれを守ります」(129節)。今日の御言葉はそのように始まる。「驚くべきもの」とのは、写本によっては「はちみつの流れ」となっている。その方が131節の「大きく口を開き、渇望している」というのとつながりがいいようにも思う。

 あなたの定め、あなたの御言葉、あなたの戒めは「はみちつの流れ」のようだと詩人はいう。律法とか、定め、戒めと聞くと、戒律というか、なんだか私たちを縛り付け、不自由にするような、なにか堅苦しいもののように感じるかもしれない。しかし、神様の定めというのは、おどろくべきものであり、「はちみつの流れ」のように口に甘いのだ。
 バビロン捕囚時代に活躍した預言者エゼキエルの幻を思い出す。「『人の子よ、わたしが与えるこの巻物を胃袋に入れ、腹を満たせ。』わたしがそれを食べると、それは蜜のように口に甘かった」(エゼキエル3:3)。神の言葉はエゼキエルによって「蜜のように甘かった」。それが国が滅亡して、どのように歩んでよいのか迷っていた捕囚の民の預言者として召されたエゼキエルが経験したことだった。130節には「御言葉が開かれると光が差し出でて、無知なものにも理解を与えます」とあるが、まさにエゼキエルが経験したことはそのようなことだったのではないか。

 神の言葉が語られる時、光が差し込む! 主イエスこそ、この神の言葉の光である。私たちが来年の主題として「重要なこと見分ける」知恵は、主イエスによって与えられる。「汝らキリスト・イエスの心を心とせよ」(文語訳:フィリピ2:5)。「道であり、真理であり、命である」(ヨハネ14:6)主イエスを迎えよう。今日は聖餐に与る。「口を大きく開き」主イエスをいただこう。

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