3月11日の出来事を私たちが記憶し、心に刻みつけなければならないことは津波の惨事だけではない。福島原発の事故をどう受け止め、考え、決断するのか。そのことが今の私たちの責任として問われている。教会は、キリスト者はこの課題をどのように考えたらよいのか。

 もうこれはイデオロギーの問題ではない。未来への責任ある態度を私たちがどうとるのか。キリスト者としてこの問題は極めて信仰的な事柄である。このブログに何度も告白していきたように私自身、これまで原発の問題にまったく無関心であった者の一人だ。私の周りには何人も原発の危険性を訴える人たちがいたにもかかわらず・・・・・・。だから「悔い改め」の証として、関心も寄せ、学び、考えることから始めたいと思っている。
 
 今回、いのちのことば社から時宜にかなった素晴らしい本が出版された。

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キリスト者として“原発”をどう考えるか (3.11ブックレット) 』

 著者は先日講演会で話を聞いた内藤新吾牧師(参照:「証に耳を傾ける」)。講演会で聞いた内容が見事に一冊にまとめられている。

 「原発の問題はキリスト者にとっても重要な問題であるが、複雑でわかりにくいから自分の態度も決めにくい、と思う方はぜひこの一冊を手にとって読んでいただきたい。」(推薦の言葉より)

 内藤牧師は、神の創造の摂理から原発の問題を考え始める。内藤牧師は地球の歴史を24時間に置き換えると、人類が過ごしている時間はわずか2分であることを指摘し、神から「他の生き物たちをお世話するように神から命じられていたのに、その真反対のことをして、地球をひどく汚染してしまったのである」と記す。原発の問題はまさに神に託された「管理の務め」を果たすどころから、処理することのできない「死の灰」を生み出し続けるものなのだ。その灰を日本政府は貧しい国に押し付けようとさえしているのだ。それをキリスト者としてどう考えるのか? 「神に託された使命に具体的に応えていける群れでありたいと願う」と著者は記す。

 そこから著者は、名古屋での被ばく労働者との出会いや浜岡原発への関わりなどに触れながら「本当にこのままでいいのか」と問いかける。そこから原子力の必要性がそもそもあるのかを問い、原発にまつわる問題を歴史的な側面や政治的な側面などにも言及して幅広く扱っている。著者が多くの時間をかけてこの問題と向き合って来られたかがよく伝わってくる。そして最後に、原発なしでも十分に電力が足りていることをデーターから指摘し、「とにかく、今までの形を改めるという決断をすれば、知恵はいくらでも出てくるものである。むしろ、現状を何とか維持しようとすれば、どうしても無理が生じ、そしていつかは破局を迎えるかもしれないという不安を払拭することはできない。日本は地震の平穏期に原発建設が進められたが、地震が活動期に入ったことを考えれば、思いきった転換を図ることが、未来の人々からの感謝も得ることになるだろう」と結ぶ。

 原発を巡っては経済界から大きな圧力がかかっているとも聞く。いかに原発が無ければ電力が足りないとか、燃料費が高くなると言われている。しかし、今日の朝日新聞の社説で触れられていたが、燃料原価を下げる余地は十分に残っている。それなのにまだ原発にこだわるとは、よほどの「マモン」(富)がそこにあるのだろう。しかし、「神と富に仕えることはできない」(マタイ6:24)。

 信仰者として責任と決断が問われている。値段的にも手に取りやすいので、一読を強くお勧めする!

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