神様は私たちに思いもよらないプレゼントを時々くださる。今日の聖書会は神様からのプレゼントをいただいたような時間だった。

 一人の女性が電車を乗り継ぎ、わざわざ聖書会に足を運んで下さった。事前の連絡もなく、突然こられたその女性から話を聞くと、今から50年以上前に1年間だけお友達とのぞみ教会の教会学校に通っておられたというのだ。

 断捨離を進める中で教会学校の先生から受け取った手紙が出てきて、それがきっかけで半世紀ぶりに教会を訪ねてきて下さったのだ。

 手紙の送り主はのぞみ教会で長老も務められたNさん。体調を崩されて今は教会には来られていない。確かに筆まめなNさんだった。わたしがのぞみ教会で牧会を始めた頃はよくお手紙をくださった。同じ字で認められた手紙は、小学校6年生の彼女にイースターの礼拝をお知らせするものだった。小学校6年生に宛てた手紙にしては少々硬い文章だけど、イースター礼拝に来てほしいという願いと祈りがよく伝わる便箋一枚の手紙である。封筒の消印には昭和41年とあった。切手は10円。よくこの手紙をとっておられたと思う。

 このイースターの礼拝に彼女が出席したのか、しなかったのか、そのことを確認することはしなかったが、彼女はその後、20歳を過ぎた頃に他の教会で洗礼を受けられたという。きっかけはのぞみ教会で通った時にもらった聖書を読んだことだったそうだ。

 「神様の時がある」と私たちはよくいう。本当にそうなのだ。

 教会の働きとは、神の見えざる御手の中にあるのだ。教会の伝道はこれをやればうまくいくということではなく、神の見えざる手が確かに働くことを信じて、誠実に伝え続けることだ。一通の手紙を通しても、主はわたしたちを用いてくださるのだ。

 いまのぞみ教会に多くの子どもたちが来てくれている。その子どもたちが全員のぞみ教会につながり続けるわけでもないだろう。引っ越しをしたり、この地を離れていく子どもたちだってこれまでもいたし、これからもそうだ。その子どもたちの一生のすべてを私たちは知ることは当然できない。徒労に思えてしまうことだって少なくはない。それでも「しかし、お言葉ですから」と沖に漕ぎ出したペトロのように、私たちも沖に漕ぎ出していくものでありたい。

 いま出会いを与えられている子どもたちに、いや子どもたちだけではなく、出会う一人一人に主にある喜びを伝えていきたい。神様が与えてくださった今日の出会いが本当に嬉しかった。

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