14日(土)が誕生日だった。45歳になった。Facebookなどで送られてくるお祝いメッセージに「アラフィフ」という文字が目についた。50歳も視野に入る歳になったのか。


 超高齢化社会の先端をいくキリスト教界にいると45歳はまだまだ若手と見られる。説教者としての歩みも15年を数えたところ。いよいよここからっていう感じだが、本を読む時に無意識にメガネを外すことが増えた。白髪も増え、髪のコシも失われてきた。確実に歳は重ねている、、、。

 誕生日の朝、一通のお祝いメッセージがLINEに届いた。幼稚園時代の先生、Rieko先生からだった。先生は「幼稚園の教師が園児とこんなに長い間付き合うことが出来るなんて、私は幸せ者です」と言われていたが、45歳にもなって幼稚園の先生からお祝いのメッセージをいただけるなんて、私の方こそ幸せものだと心底思わされた。

 同世代でも病気をする人も増えてきた。昨年は同世代の方の葬儀も行った。私はいくつまで生きることが許されているのか分からないが、平均的に考えても人生の後半戦になってきたのは間違いない。

 多くの人の愛を受けて生かされてきたのだということ、何よりも神の愛を知ったこと。これにまさる人生の幸いはないと、Reeko先生のメッセージを繰り返し読みながら思わされた。

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(5節)。

 15日の礼拝に与えられたヨハネ15章の「ぶどうの木のたとえ」の御言葉が人生の後半をどう生きるか考える私にシンプルな答えとして与えられたと思っている。

 イエス様の教えを心のとめてながら、従いきれない弱いものだけど、イエス様を私の人生の主として、愛して、神と人を愛する歩みをする。つたなくてもそんな生き方をしていきたい と45歳の誕生日の朝、思わされた。


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