2020年3月15日礼拝説教要約「わたしの愛にとどまれ」ヨハネ15:1−11

 「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである」(5節)。

 教会で愛される聖句の一つである。暗唱できる方も多いだろう。私も子どもの頃から何度も耳にしてきたし、ここから説教したことも何回かある。下手をするとあまりに聞きすぎて新鮮さを失ってしまう危険さえあるかもしれない。しかし、WHOが新型コロナウィルスの「パンデミック」を宣言するような事態の中で、これから私たちがどうやって生きていくべきなのかをこの聖句はシンプルに告げているように改めて教えられた。

 「わたしにつながっていなさい」。主イエスはまもなく十字架で処刑されるという極限状況の中で弟子たちに語りかけられた。愛する弟子の一人ユダはすでに主イエスを引き渡すために部屋を出ていってしまった。ペトロの離反も予告された。これから何が起こるのか? 弟子たちの間で緊張がこの上なく高まっている時だ。

 ヨハネ福音書を最初に読んだ弟子たちは厳しい迫害の中に置かれていた。会堂から追放され、命を奪われていた(16:1以下)。危機的な状況の中で弟子たちは主の御言葉を思い出していた(16:4)。「わたしにつながっていなさい」「わたしの愛にとどまっていなさい」。

 15章には厳しいと思われる言葉がある。「実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる」(2節)というのだ。私たちはこの言葉に前に、しばしば「わたしは実を結んでいないので、切り捨てられてしまう」と立ち尽くしてしまう。しかし、イエス様は弟子たちを脅すためにこれを言われているのではない。主イエスは「わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている」(3節)と言われている。これは換言すれば「あなたたちは、キリストの救いの業によって、既に手入れずみである」という意味である。「神は、その独り子をお与えるになるほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」(3:16)。それがここで語られる枝、弟子たちの前提なのだ。
だから主イエスは切り捨てられないように頑張って実を結べとは言われない。むしろはなれるなと命じられる。主イエスを離れては実を結ぶことができないからだ。

 ここで言われる「実」とは、私たちが時々自慢したり、誇ったりする何かの成果ではない。人より何か優れている結果でもない。ここで言われる実で大切なことは主イエスを離れては結ぶことのできない実なのである。それは愛である。主イエスにつながり、主イエスの愛にとどまるということは「わたしの掟を守る」ということだ。「互いに愛し合いなさい」という掟に生きることが、イエスにつながることである。だから「実」とは愛なのである。

 「信仰と希望と愛、この3つはいつまでも残る。その中で最も大いなるものは愛である。愛を追い求めなさい」(汽灰螢鵐13:13-14:1)とパウロは言う。わたしたちは、不確かな者であり、愛なきものだ。だからこそキリストの愛を離れては愛に生きることなどできない。キリストの愛にとどまる時、キリストの言葉を私たちの中にとどめるとき、私たちの内に愛の実りがキリストによって与えられるのだ。「わたしの愛にとどまれ」。

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