2020年10月4日礼拝説教要約「空しさの極みから」コヘレト1:1-18

 コヘレトは「空しい」を連発する。その他にも「太陽の下、人は労苦するが すべての労苦は何になろう」(3節)、「何もかも、もの憂い」(8節)、「わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」(14節)、「太陽のもと、労苦してきたことのすべてに、わたしの心は絶望していた」(2:20)といった重苦しい言葉が並ぶ。このまま「遺書」になってもおかしくはない言葉が連続する。だから「ヘベル」を繰り返すコヘレトは伝統的に虚無的、厭世的と者と評されてきた。

 しかし、NHKの「心の時代」でこの「コヘレトの言葉」が取り上げられているが(10月から放送再開予定)、講師の小友聡先生はコヘレトの言葉のテキストの副題に「それでも生きる」とつけられている。また小友先生の近著『コヘレトの言葉を読もう』の副題も「生きよと呼びかける書」となっていた。虚無主義者コヘレトとはまた違う印象が浮かび上がってくる。小友先生は、コヘレトは決して虚無的に、この世界で生きることをやめようとしているのではなく、むしろ、どうしようもない「空しさ」、「空」の中でなお「生きる」ということを語りかけているという指摘されている。

 「空しい」と約させるヘベルという言葉は、もともとは「息」「蒸気」という意味であり、そこから「空しい」「はかない」「無益」「無意味」「不条理」などを意味するようになった。その中でもヘベルは「時間的な短さ」、「儚さ」を意味する。コヘレトは、人生は短く、儚い。大地は永遠に続き、日は昇り、日は沈む。風は吹きめぐり、川の流れは繰り返される。その中で、人生は儚く、短い。だからこそ、どう生きるのかをコヘレトは問うているのだ。

 確かにへベルが繰り返されるこの書だが、コヘレトは決して生きることを諦めているとは思えない。彼は最後に「すべてに耳を傾けて得た結論。『神を畏れ、その戒めを守れ。』これこそ、人間のすべて」(12:13)と記しこの書を閉じる。コヘレトは神を畏れることなしに、神なしに生きることは空しいと語るのだ。  神を畏れ、神の戒めを守り生きる! 

 それはヘベルの中で神を礼拝しつつ生きるということだ。それこそ人間のすべてだ。私たちの「礼拝書指針」の前文には次のようにある。「私たちは人間として欠乏感に迫られて礼拝することをしっている。私たちは自分自身では満ち足りることができないのであり、造り主と出会い、礼拝することによって、完成と充足を経験するのである。礼拝するとは、人間が人間となることである」神を礼拝することなしに、人間は人間にはならないのだ。お前の創造主に心を留めることなく生きることは空しい。風を追うようなものだと語っているのだと思う。  

 私たちの中に「ヘベル」がある。コロナで目標を失った若者が「空しい」と語っていた。自殺者も急増していると報道されている。有名人の自殺も相次いでいる。子育て、介護、職場において私たちの中に「ヘベル」がある。
 
 私はキリストの十字架の出来事を思う。キリストの十字架こそ「へベルの中のヘベル」だと。しかし、神は十字架のキリストを復活させられた。愛に生き抜いたキリストの生涯は決して空しいものではない。主の復活はそのことの証しているのだ。キリストの弟子たちはヘベルを経験する中で、なお「生きよ」との御声を聞き、礼拝しつつキリストに従い生きるのだ。

【説教動画】



【説教録音】



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