2020年10月18日召天者記念礼拝説教要約「永遠を思う心を与える神」コヘレト3:1-17

 召天者記念礼拝に「コヘレトの言葉」の有名な3章が与えられた。「何事にも時があり天の下の出来事にはすべて定められた時がある」(1節)。「生まれる時、死ぬ時」から始まり、「戦いの時、平和の時」とまで対となる「時」について14回繰り返して語っていく非常に印象深いところだ。コヘレトは、「神はすべてを時宜にかなうように造り、また、永遠を思う心を人に与えられる」(11節)という。口語訳では「神のなされることは皆その時にかなって美しい」、新しい聖書協会共同訳では「神はすべてを時に適って麗しく造り」と訳している。

 しかし、「すべての時」を「美しい」、「麗しい」と言えるだろうか。「殺す時」、「破壊する時」、「泣く時」、「憎む時」、「戦いの時」、そして何より「死ぬ時」……。コヘレトは、神は「すべて」時を麗しく造ると言うが、簡単に肯けない言葉でもある。新しくコヘレトの注解書を書かれた小友聡先生は、「何事にも時がある」とは、人生をつぶさに体験したコヘレトの実感なのだと言う。コヘレトは何か抽象的な「時」を語っているのではなく、実体験として「時がある」としか言いようがないと「時」をとらえているというのだ。

 「人が労苦したみたところで何になろう」(9節)。人間の無力さを思い知らされる言葉であろう。どんなにあがいても自分でこのトロールできない「時」がある。どんなに避けたいと思ってもさけられない「時」がある。まさにコヘレトが実感として得たことなのだ。しかし、だからといってコヘレトは、何をしても仕方がないと虚無的になるのではない。

 「それでもなお、神のなさる業を始めから終りまで見極めることは許されていない」。コヘレトは自分たちではどうすることもできない時を経験させられる中で、人間の人生の儚さ、空しさ、不条理、「ヘベル」をいやというほど味わっている。その中で、「この時」というのは、「人間の手中にあるものではない」ということを知り、受け止めたのだ。神は「永遠を思う心を人に与えられた」。

 「永遠」とは何か。辞書をひけば言葉の意味は理解できる。しかし、分かるようで分からない言葉だ。聖書が語る永遠とは単に時間的な長さではない。永遠とは神ご自身のことだ。「永遠を思う思い」というのは、「神を思う思い」と通じているのだ。空しさ、儚さ、不条理の中で神は人に永遠を思う心を与えられた。そのことで人は、人生に対して、投げやりではなく、神の時の中で謙遜にさせられるのだ。

 「わたしは知った人間にとって最も幸福なのは喜び楽しんで一生を送ることだ、と/人だれもが飲み食いし/その労苦によって満足するのは神の賜物だ、と」(12節)。不確かな時代の中で、「今日」、いまこの時に命を与えられている。私が生かされている。これが事実であり、現実であり、神の賜物なのだ! そのわたしが今をどう生きるか。コヘレトはそのことを私たちに問いかけているのだと思う。

 召天者記念礼拝は私たちの愛する者を思い起こす時であり、また愛する者たちの死を通して、私たちが「メメント・モリ」、あなたの死を覚えよ、私たちが死を覚える時でもある。死を覚えるということは、今を生きることをどう生きるかを問うことであり、生きることを考えることだ。私たちはなおも「神の定められた時」の中で、「神を畏れ敬うように定められた」のだ。「イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」(ヘブライ13:8)。キリストを思い、キリストに従い生きよう。

【説教動画】


【説教録音】




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