2020年10月18日主日礼拝説教要約「三つよりの糸」コヘレト4:1-12

 コヘレトは自らが生きる世界の「虐げをすべて見た」。「見よ、虐げられる人の涙。彼らを慰める者はない」(1節)。力ある者たちに踏みつけられ、痛めつけられている人がいること告発的に語りかけている。「彼らを慰める者はない」。絶望的な、やりきれない響きがある。ここにもコヘレトの世界の「空しさ(ヘベル)」を見る思いがする。

 この背景にどのようなできごとが具体的にあったのかを知ることはできないが、今の私たちの世界と無関係とは思えない。16日は「世界食料デー」としていま教会でも献金を集めている。私が自分の目で見た貧困の現実は神学生時代に訪れたフィリピンの貧しい漁村や農村であった。「一日三食食べられるようになるのが私たちの夢だ」。その言葉は今でも心に刻まれている。彼らの周りには豊かな食物がいっぱいあった。バナナやマンゴーといったフルーツや海の幸も豊かであった。しかし、収穫する彼らはそれを食べることができない。資本を持つ外国企業がそれを手に、収穫する彼らの腹が満たされることはない。

 「既に死んだ人を、幸いだと言おう。更に生きて行かなければならない人よりは幸いだ。いや、その両者よりも幸福なのは、生まれて来なかった者だ。太陽の下に起こる悪い業を見ていないのだから」(2−3節)。絶望的な世界がコヘレトの目の前に広がっていたのだ。しかし、だからと言ってコヘレトは生きることは無意味であるとは言わない。むしろ「涙」に満ちる世界において、「どう生きるのか」を問いかけるように言葉を続けるのだ。

 4節以下では働くことについて語る。働くことは生きることである。いかに働くか。「人間が才知を尽くして労苦するのは、仲間に対して競争心を燃やしているからだということも分かった。これまた空しく、風を追うようなことだ」(4節)。コヘレトの社会も「競争社会」だったようだ。競争のすべてが悪ということではないだろう。しかし行き過ぎた競争は私たちを蝕む。私の娘が小学生の頃、クラスだよりのタイトルが“Better than Best”(ベストより良く)であった。ベストを尽くしてもまだ上を目指すことに価値があるということか。ではどこまで頑張ればいいのか? どこまでやれば合格なのか? 子どもの頃からBetter than Bestと言われ続けは底なし沼でもがき続けるような、ゴールなきマラソン大会のようではないか。それは「風を追うようなこと」になりはしないか。

 コヘレトは競争し、もっと上へ、もっと豊かにという生き方に対して否を唱える。「片手を満たして憩いを得るのは/両手を満たして、なお労苦する良い」(6節)。そして共に生きることの強さを語る(9節以下)。私たちのいまの社会は「助けて」と言えない社会が助長されている。「私には自信がある。『絶対に独りでは生きていけない』という自信だ」(奥田知志牧師)。コロナ禍にあって、人と人が距離を取ることが必要とされる社会にあって、共に生きるあり方を考える。密になれない中で、共に生きる道を見出していく。そこに私たちの使命がある。

 私たちが礼拝に与るということは、「わたしは独りではない」ということを知ることだ。「神は我々と共におられる」(マタイ2:23)。主イエスは、律法主義社会という競争社会において涙を流し、擦り切れ、人間性を失った社会に「慰め主」として来てくださった。コヘレトは「慰める人はいない」と言ったが主イエスが慰め主として私たちのところに来てくださった。友として私たちのところへ来てくださった。この主と共に、そして隣人と共に生きる。それが私たちの「三つよりの糸」である。

【説教動画】最初の数分ボリュームが低いです。


【説教録音】



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