2021年1月3日礼拝説教の要約「これはわたしの愛する子」マタイ3:13−17

 イエス様は洗礼者ヨハネから洗礼をお受けになった。それはヨハネにとっても予想外の出来事であった。「わたしこそ、あなたから洗礼を受けるべきなのに」(14節)とヨハネは言うが、イエス様は「今は、止めないでほしい。正しいことを行うことは、我々にふさわしいことです」(15節)と洗礼を願われた。そしてイエス様はヨハネから洗礼をお受けになった。イエス様はヨハネから洗礼をうけることを「正しいことを行う」ことといっている。それは、つまり神の御心にかなうこと、だれもが謙虚に受け入れるべきことだとイエス様は受け止められているということだ。

 主イエスが多くの人々と共に、ヨハネから洗礼をお受けになったのは、主イエスが、悔い改め(方向転換)を必要とするわたしたちの側に来てくださって、罪人であるわたしたちと連帯し、そして先頭立ってヨルダン川にくだり、洗礼からその公の生涯を始めてくださったということだ。

 イエス様が洗礼者ヨハネから洗礼を受け、神とつながる道をつながる道をひらいてくださったゆえに、わたしたちが受ける洗礼にも、これと同じめぐみが注がれることになったということだ。クリスマスにKさんが洗礼をお受けになった。あの時、信仰の目を通して見る時、信仰の耳を通して聴く時、洗礼式が行われる時、天が開かれて、「これはわたしの愛する子、わたしの心の適う者」との神の御声をかけられたのだ。

 「これはわたしの愛する子」。これこそ洗礼を受けた者たちの生涯変わることもなく、取り消されることもない究極のIDである。洗礼を受けた者は、もう自分が何者であるかを悩む必要はないのだ。「あなたは何者か?」その問いに、「わたしは神に愛されている者です」と答えることができるのだ。

 私たちの信仰はうつろいやすい。神様との関係を「感情」のレベルで考えるのは非常に危うい。昔はもっと神様を身近に感じていたのに、いまはそう思えない。前はもっと感動していたのに、いまはそうでもない。なんだか自分の信仰が弱くなっているのでは……。それは自分を中心とした信仰だ。しかし、大事なことは私たちの感情の高ぶりなどではない。むしろあなたに授けられた洗礼を覚え続けよ! 何があってもどんなときでも、「あなたはわたしの愛する子」という宣言を受けた存在であることを信じることが信仰なのだ。

 わたしたちはいつでも自分が神の子であるように感じるわけではない。人から見て、神の子のように見えるわけでもない。また実際に、いつでも神の子らしく行動しているわけではないことを、神は知っておられる。にもかかわらず、私たちは神の子なのだ。神が私たちを選び、そして神のものとしてくださった。洗礼は、その消えることのない「しるし」である。私たちは神の愛の内に生きることができる。そして、この恵みを告げるようにと招かれているのだ。

 主イエスは洗礼をお授けにはならなかったが「彼らに父と子と聖霊の名によって洗礼を授け、あなたがたに命じたことをすべて守るように教えなさい」(マタイ28:18)と弟子たちに命じられた。洗礼を授けるとは「あなたは神に愛されている子である」という宣言をせよということだ。洗礼を受けた時、私たちは按手を受けた。キリストの働きを担うようにと召し出されたのだ。キリストの愛を宣言する。それが私たち教会の使命である。







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