2021年2月14日主日礼拝説教要約「のぞみを失わず」競灰螢鵐4:7-15

「為ん方つくれども希望(のぞみ)を失わず」。文語訳聖書のこの聖句は国立のぞみ教会に集う者たちの魂に刻み込まれていると言ってもよい。万策尽きようとも、途方に暮れようとも、「のぞみを失わず」である。

  私たちはコロナ禍にある。コロナそのものは、ワクチンが開発されるなど「万策尽きた」ということではない。この感染症もいずれは終息するであろう。しかし、コロナの影響により「途方に暮れる」人が多くいる。「万策尽き」店を閉じ、生活に苦心する人がいる。愛する人を失った方もいる。その中で私たちの原点、私たちの教会の命名の聖句を改めて刻み直したく、今年の主題に掲げた。

  改めて読み直して大事であると思わされたことは、「途方に暮れても」の「ても」である。パウロは、神を信じる者たちは、「途方に暮れない」とは言っていないのだ。原文に即せば「私たちはいま途方に暮れている。しかし、失望しない」である。現実は、途方に暮れているのだ。しかし、にもかかわらず「失望しない」とパウロは告白的に語っているのだ。

  実際、パウロは四方から苦しめられ、途方に暮れ、虐げられ、打ち倒されるような現実にあった。同じ手紙の中でパウロは、「わたしたちは耐えられないほどひどく圧迫されて、生きる望みさえ失ってしまいました。わたしたちとしては死の宣告を受けた思いでした」(1:8-9)と書いている。また「マケドニア州に着いたとき、わたしたちの身には全く安らぎがなく、ことごとに苦しんでいました。外には戦い、内には恐れがあったのです」(7:5)と率直に告白している。パウロたちは、生きるのぞみを失い、全く安らぎがなく、ことごとく苦しんでいた。にもかかわらず「のぞみを失わない」と言う。

  パウロが「失望しない」と言い得たのは、彼が人一倍忍耐強かったからではない。パウロ自身は、弱い、土に器にすぎない。生きるのぞみを失う。恐れに取りつかれる。パウロの忍耐力とか、気力とか、根性とか、そういうものには限界があった。

  しかし、その土の器に「宝」が納められている(7節)。この宝が「並外れて偉大な力」を持つのである。それは神の力である。「暗闇から光が輝き出よ」と命じると光が生じる神の言葉の力である。死を打ち破り、命を与える神の偉大な力である。「主イエスを復活させた神が、イエスと共にわたしたちをも復活させ、あなたがたと一緒に御前に立たせてくださると、わたしたちは知っています」(14節)。

  「わたしは信じた。それで、わたしも語った」(13節)。詩編116編の引用である。信仰の詩人は、激しい苦しみに襲われる中で、神に救われた経験を賛美する。私たちも詩編を読みながら、自分の祈りの言葉を見出すことがある。パウロもそのような経験をしたのだ。「詩編は本当の意味で、イエス・キリストの祈祷書である」(ボンヘッファー)と言われるが、パウロはこの詩編を読みながら、キリストの祈りに出合ったのだと思う。パウロが「並外れて偉大な力」をもっていたのではなくて、その絶望を支え、生かした神の言葉との出合いがあったのだ。だからこそ、ただ絶望の淵で、神にのみ頼るようになった! それまで自分の力で生きてきたそれを頼りにすることをやめて、神に頼るようなった。「わたしは信じた。それで、わたしは語った」。わたしたちもまた同じ霊を持つものだ。だから信じ、語る。だから信じ、告白する。「為ん方つくれども希望(のぞみ)を失わず」と。

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