2021年3月14日礼拝説教の要約「最も小さな者の一人に」マタイ25:31-46

 「はっきり言っておく。わたしの兄弟であるこの最も小さな者の一人にしたのは、わたしにしてくれたことなのである」(40節)。イエス様は飢えている人。渇いている人。泊るところがなく彷徨っている旅人、服がない人、病気で苦しむ人、人権を無視され投獄されている人・・・・・・いうなればこの社会の中で圧倒的に弱い立場に追いやられている「小さい者」、この世で無価値とされている者、それゆえに後回しにされている人こそがご自分の兄弟であり、その最も小さな者にしたことは「わたしにしてくれたことなのだ」とはっきりとお語りになっている。これがマタイ福音書における主イエスの最後の説教の言葉だ。

 東日本大震災から10年を数えた。巨大地震、津波、そして原発事故によって突然住むところを追われ、着の身着のまま旅人にならざるを得なかった多くの人がいることを思う。あの時、福島ナンバーの車に対する嫌がらせや、学校などでもいじめがあった。私も何度かボランティア活動に参加した仙台にある「被災者支援センターエマオ」の記念礼拝にオンラインで参加した。説教の中で震災直後に、教会も様々な対応が迫られたことが語られた。教会を広く開く教会があった。しかしまた閉じる教会もあった。その時々の現場の判断の是非ではなく、私は自分だったらどうしただろうか? 自らの問いとしてその話を聞いた。できることもあれば、できないこともある。そういう限界を私たちは抱えるものだ。想いはあってもできないこともある。

 今日の箇所を読むたびには、神学校を卒業して一年目に、教会に泊めて欲しいと助けを求めに来た親子三人の一家を拒んだ経験を思い出す。未熟児で生まれた娘が退院したばかりで対応する余裕がなかった。今だったらもう少し違う対応ができたかもしれないとも思う。忘れられない出来事である。いまどこでどうしているのか知ることはできないが、私にとってはいつまでも忘れることのできない「聖家族」との出会いであると思っている。

 私たちは今日の話を読み、山羊であることを否定することができない。キリストとの出会いに気がつかないで過ごしてしまうようなものである。愛の業に生きることのできない自分を知るのである。しかし、それも律法主義的な発想であり、裏を返せば、自分の実践によって自分は「羊」だと誇ることにもなる危険があることを覚えよう。大事なことは祝福を受けた者たちは、王に会ったとは知らないし、王のお世話をしていると思いもしていなかったことだ。キリストにしているかどうか? そんなことさえ気にしていないということだ。私たちがこれはキリストにしていること、キリストにしなかったと考えることは、実はもうこの羊たちとずれてしまっている。

 私たちは、自分は裁かれるのかどうか? 羊なのか山羊なのか。そのことは分からない。ただキリストは、どうしようもない私たちたちのために十字架におかかりになり、私たちの罪を赦し、私たちを愛すると復活の命を与えてくださった。私たちは羊のようでありたいと思いつつ、山羊でもある。しかし、今日、主は私たちを祝福し、それぞれのところへとまた送り出してくださる。私たちのその主の愛と、主の派遣に応えて、小さな働きに生きるものでありたいと願う。私たちの誰もがマザー・テレサのような働きはできるわけではない。それでも、私たちはそれぞれの歩みの中で与えられる「最も小さな者」との出会いを大事にしたい。10人、100人との出会いではなく、「1人」にしたこと言われていることを大事にしよう。その出会いは永遠と関係する出会いなのだ。

【説教動画】


【説教録音】



↓一日一回応援よろしくお願いします(^^)
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村