2021年3月21日礼拝説教要約「祈りの路作り」マタイ26:36−46

「わたしは死ぬばかりに悲しい」。イエス様は弟子たちの前で悲しみもだえ始め、そのように祈られた。弟子たちにとって決して忘れられない祈りの記憶であろう。「父よ、できることなら、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(39節)。自らに差し出されている苦難の杯、十字架の死という杯からできることなら過ぎ去らせて欲しい。そうイエス様は願われたのだ。イエス様はエルサレムに行き、必ず殺されることを弟子たちに繰り返し予告されていた。しかしその直前でイエス様が迷っておられる。悲しみもだえておられる。主イエスはプログラムをインプットされたロボットのように十字架へ向かわれたのでは決してない。「しかし、わたしの願いどおりでななく、御心のままに」。御自分の思いと神の御心とがぶつかり合う。ここに主の祈りがあった。いや祈りという行為の本質がここにある。

 イエス様の必死の祈りに神様からの明確な答えは一切記されていない。天が開けて声が聞こえるとか、天使が現れるといった奇跡もない。そのようなことがあればペトロたちも興奮して眠らなかったかもしれないが……。

 イエス様の祈りは「わずか一時」と言われているが、これは2時間を示すと言われる。その祈りの中でイエス様の祈りに変化がある。二回目の祈りは「父よ、わたしが飲まないかぎりこの杯が過ぎ去らないのでしたら、あなたの御心が行われますように」である。杯を引き受けることへ一歩進み出る祈りだ。そして、かつて弟子たちに教えられたあの主の祈り、私たちも祈り続ける「主の祈り」の言葉そのものをここで主は祈られる「あなたの御心が行われますように」。

 私たちはゲツセマネにおける主イエスの「2時間」もの祈りのすべてを知ることは当然できない。神の語りかけも記されているわけでもない。それでもやはりイエス様は祈りの中で父なる神との対話を重ねられたに違いない。その中で一歩、また一歩、神の意志へ自らの思いを向けていく。そのような祈りの路を歩まれたのだと思う。これはわたしの想像だが、ゲツセマネに来る直前に「一同は賛美の歌を歌ってからオリーブ、オリーブ山へ出かけた」(30節)とある。ここでは詩編114−118編が歌われたようだ。特に詩編116編は「死」を前に嘆き、「激しい苦しみに襲われている」者が神への信頼を歌い上げる詩編だ。その言葉を主イエスが祈りの中で思い起こしていたとしても不思議ではない。ここには啓示的な神の言葉はない。しかし主イエスは詩編の言葉、聖書の言葉を通して神との対話を、祈りを深められたのではないか。わたしは今回そのように想像した。

 主イエスはこのゲツセマネの祈りに弟子たちを招いた。「共に」と繰り返しおられる。しかし、弟子は眠ってしまう。「心は燃えても、肉体は弱い」。これは「神の霊は前進するが、人間は弱い」という意味だ。主イエスはなお進みゆかれる……。「共に」とその路に主イエスは私たちを繰り返し招いておられる。私たちは弱い。しかし、私たちには「主の祈り」の言葉が授けられている。主イエスがつけてくださった祈りの道筋がある。私たちは今日もいつもの場所で「主の祈り」を今日も祈る! 「御心がなりますように」これはまさに戦いの祈りだ。私たちはその祈りを祈り続けている。前進するイエスに私たちも共に従っていくように今日、招かれているのだ。

【説教動画】

【説教録音】



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