2021年3月28日礼拝説教要約「わが神、わが神、なぜわたしを」マタイ27:32-56

 「わたしたちは舌で父である主を賛美し、また、舌で、神にかたどって造られた人間を呪います。同じ口から賛美と呪いが出てくるのです」(ヤコブ3:9)。人々は、主イエスを「王」として歓喜の叫びを上げつつエルサレムの都に歓迎した。しかし、同じ週に人々は、イエスをののしって「神の子なら、自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」と叫ぶ。人はなんと身勝手で、自己中心的で、冷酷な者であろうか。十字架を前にする時に、私たちはそこに自分たちの姿を鏡に映し出されるようにして見ることになる。

 人の身勝手さがあらわになる中で、主イエスは十字架につけられた。マタイは淡々と、簡潔にそれを記している。しかし、「十字架につける」という言葉に、どれほどの痛みが、主イエスの悶絶する叫びがあったことを思う。手首に、くるぶしに太い釘が撃ち抜かれるのだ。身の毛がよだつ。その痛みの中で、主イエスは「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」と大声で叫ばれ、息を引き取られた。

 弟子に見捨てられ、人々にののしられ、神に見捨てられたと叫んで主イエスは死なれた。何という「死」だろうか。私たちはできる限り苦しまずに最期を迎えたいとよく話をする。「ピンピンコロリが理想よね」とよく話を聞く。その「理想的な死」に比べて主イエスの十字架の死は人間として最悪の死に方とさえ言える。

 なぜ神の子がこんな目に遭い、なぜ主イエスがこんなにも苦しまなければならなかったのか? それは「永遠の問い」(鈴木正久牧師)である。説教の準備でその言葉に出会い、その言葉がずっと心にあり続けた。私たちは主イエスの十字架について「答え」を持つ者たちだ。教理的な答えも持っている。たとえば16世紀に編纂された「ハイデルベルク信仰問答」には、「何故に、キリスト、死の苦しみを、受けねばならなかったのですか」との問いに対して「それは、神の義と真理のゆえに、神のみ子の死による以外には、われわれの罪の償われる道は、なかったからであります」と答えている。キリストの十字架の死は、私たちの罪の贖いのためだった。そのような答えを持つ。またあの主イエスが十字架で苦しまれたのは、私たちの誰にもわかってもらえない苦しみを知ってくださるためだ。主イエスの十字架の傷によって、私たちの傷が癒やされた。イザヤ53章に見いだされる「苦難の僕」も一つの答えである。またあのイエス様の叫びは詩編22編の冒頭であり、主イエスは最後まで神を信頼していたとも言われる。私もこれまでに十字架の箇所から何度も説教しているし、そのような「答え」を語ってきた。しかし、受難週に入るにあたり、私たちは主イエスの十字架の苦しみに対して、簡単に答えを出してしまうのではなく、「問う」ことが大事であると思わされる。そしてその答えが、本当にその通りです! 「アーメン」と告白しなければ、意味をなさないと思うのだ。

 「本当に、この人は神の子だった」。百人隊長とその部下たちは告白をした後に、数人の女性たち(イエスの弟子たち!)が十字架の出来事を「見守っていた」。彼女たちの中には簡単に出せる「答え」などなかった。「なぜ?」「どうして」「わたしは何をすべきだったのか」などの問いしか彼女たちの中にはなかったはずだ。その問いの中で、十字架を見続けた女性たちが、復活の主と最初に出会い、復活の証言者として派遣されたのは、何か偶然ではないように思う。「永遠の問い」を問いつつ、受難週を過ごそう。

【説教動画】


【説教録音】



↓一日一回応援よろしくお願いします(^^)
にほんブログ村 哲学・思想ブログ キリスト教へ
にほんブログ村

PVアクセスランキング にほんブログ村